老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

曹洞宗の大本山

2009-11-15 19:17:00 | インポート
このたび、先年80歳で亡くなった母方の叔父のお骨をある事情から預かっていただいている東京の郊外のお寺で、甥たち4人が集まって、叔父のささやかな13回忌法要をしめやかに執り行った。
ご住職が体調を崩しておられるとのことで、永平寺で修行をして来られたという若い副住職が法要のお経をあげてくださった。そのあと、我々は副住職に続いて焼香して頭(こうべ)を垂れ、亡き叔父の菩提を弔った。
お寺の宗旨は、もちろん曹洞宗である。曹洞宗の大本山は永平寺が有名であるが、鶴見の総持寺も曹洞宗の大本山である。
ここで、手元にある『平成21年曹洞宗宝暦』や『広辞苑』によって、曹洞宗について振り返ってみたい。

曹洞宗は、仏教の開祖・釈迦牟尼をご本尊と定め、釈迦の教えを正しく伝えた道元禅師(高祖承陽大師・こうそじょうようだいし)、親しくお弘めになった瑩山禅師(けいざんぜんじ)(太祖常済大師・たいそじょうさいだいし)を両祖として、釈迦・高祖・太祖を「一仏両祖(曹洞宗三尊仏)」とお呼びし、人生の導師として礼拝するとともに敬慕申し上げている。
曹洞宗は、両祖が示された坐禅の実践を通してみ仏との絆を深め、身と心を調えて、報恩感謝の日送りを行じていくことを信仰の要としている。
曹洞宗の大本山は、福井の永平寺と鶴見の総持寺である。
大本山永平寺は、わが国に曹洞宗を伝えた道元禅師が寛元二年(1244年)に開いた寺で、約750年の伝統を誇る永平寺では、今も常に200余名の修行僧が日夜修行に励んでいる。
大本山総持寺(そうじじ)は、もと石川県にあって真言宗に属していたが、元亨元年(1321年)寺僧定賢が瑩山(けいざん)禅師に帰依して曹洞宗に転じた。明治31年の伽藍焼失を機に横浜市鶴見区に移転。交通の便がよく海の玄関といわれる横浜鶴見の地に位置するところから、国際的な禅の道場としての偉容を誇っている。

曹洞宗(そうとうしゅう)=禅宗の一派。中国で洞山良价(とうざんりょうかい)と
   弟子の曹山本寂によって開かれ、日本では、道元が入宋して如浄からこ
   れを伝え受けた。只管打坐(しかんたざ)を説く。永平寺・総持寺を大本山
   とする。 (『広辞苑』第6版による。)

道元(どうげん)=鎌倉初期の禅僧。日本曹洞(そうとう)宗の開祖。京都の人。
   内大臣源(土御門)通親の子か。号は希玄。比叡山で学び、のち栄西の
   法嗣に師事。1223年(貞応2)入宋、如浄より法を受け、27年(安貞1)
   帰国後、京都深草の興聖寺を開いて法を弘めた。44年(寛元2)越前に
   曹洞禅の専修道場永平寺を開く。著「正法眼蔵」「永平広録」など。諡号
   (しごう)は承陽大師。(1200-1253) (同上)

瑩山(けいざん)=鎌倉後期、曹洞宗中興の祖。諱(いみな)は紹瑾(じょうきん)。
   越前の人。懐奘(えじょう)・寂円らに師事。晩年総持寺を開いて後醍醐天
   皇の帰依を受け、永平寺とともに二大道場として曹洞宗発展の基礎を築く。
   著「語録」「伝光録」など。諡号(しごう)、常済大師。(1268-1325)
                                          (同上)

ところで、今年(平成21年)の7月に、石原裕次郎の23回忌法要が12万人を集めて行われた。それは国立競技場に、裕次郎が眠る鶴見の総持寺を20億円かけて再現したイベントだったそうである。

なお、曹洞宗については、『曹洞宗公式サイト──曹洞禅ネット』に詳しく出ていますので、ぜひご覧ください。