老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

信無ければ立たず(『論語』)

2008-07-09 08:59:00 | インポート
 『論語』を読んでみましょう。(いずれも「顔淵第12」から。)


○子貢問政。子曰。足食。足兵。民信之矣。子貢曰。必不得已而去。
  於斯三者何先。曰。去兵。必不得已而去。於斯ニ者何先。曰。去
  食。自古皆有死。民無信不立。


   子貢、政(まつりごと)を問ふ。子曰く、食を足らはし、兵を足らはし、
   民に之を信ぜしむ。子貢曰く、必ず已(や)むを得ずして去らば、  
   斯(こ)の三者に於て何(いづ)れを先にせん。曰く、兵を去らん。  
   子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、斯(こ)の二者に於て何(い
   づ)れを先にせん。曰く、食を去らん。古(いにしへ)より皆死有り。
   民、信無ければ立たず。

     注: 子貢……孔子の門人。
       民信之……「民に之を信ぜしむ」(人民に信用されることだ。
           宮崎市定著『論語の新研究』)と読んだが、「民、之を
           信にす」(人民はこれを導き教えて信義あらしめる。
           諸橋轍次著『掌中 論語の講義』)、「民、之を信ず」
            (人民が信頼の心をもつこと。吉川幸次郎著『論語・
           下』新訂中国古典選)という訓み方もある。
             
            


○季康子問政於孔子。孔子對曰。政者正也。子帥以正。孰敢不正。  

  季康子、政(まつりごと)を孔子に問ふ。孔子對(こた)へて曰く、
  政(せい)は正なり。子、帥(ひき)ゐるに正を以てすれば、孰(た
  れ)か敢て正しからざらん。

    注: 季康子……魯の国の政治家。


☆ 二つとも、政治にとって何が一番大切であるかを説いています。
  人の上に立って政治を担当する人たちには、しっかりとこのことを
  肝に銘じてもらわなければなりません。
  そしてそのことを確認した上で、ここで孔子が言おうとしていること
  は、単に政治の世界においてばかりでなく、われわれが世に生き
  ていく上での最も基本的な倫理である、ということを認識する必要
  があるでしょう。

  日本人が、いつから人を欺いてまで自己の利益をむさぼるように
  なったのか。それは教育の問題というより、人の上に立つ者の在
  り方、子どもに生き方を示す大人の在りかたに問題があるという
  べきではないでしょうか。

  孔子がこのことを取り上げてコメントしたということは、孔子の時代
  にも、このように注意する必要があったということです。人間は昔
  から、少なくとも人間的には、一向に進歩していないということな
  のでしょう。進歩したのは、果たして本当の意味で進歩といえる
  かどうかわからない自然科学の分野だけ、ということでしょうか。

  釈迦や孔子、キリストといった、聖人といわれる人たちがはるか
  昔の世に出て、その後一向に現れないことも、そして戦争が一
  向になくならないばかりか、一層残酷な殺戮兵器を開発して平
  然としている人たちが絶えないということなどを思いやってみて
  も、果たして人間が昔に比べて進歩しているのかどうか疑問を
  抱かざるを得ません。

  ということで、結局はタイトルどおり、年寄りの愚痴になってしま
  いましたが、漱石がいうように、だからといって人でなしの国に
  引っ越すわけにもいかないとすれば、少しずつでも住みよい世
  の中にするために、一人ひとりが努力していくしかないでしょう。
  
  >民、信無ければ立たず。

  >政(せい)は正なり。子、帥(ひき)ゐるに正を以てすれば、
    孰(たれ)か敢て正しからざらん。



  ※ 『論語』の本文・訓読文は、宮崎市定著『論語の新研究』(岩波
   書店、1974年発行)によりました。ただし、仮名づかいを変え、
   一部訓み方を変えたところがあります。
   「信無ければ立たず」が伝統的な訓みかと思いますが、文法的に
   言えば、「信無くば立たず」(信無くんば立たず)という訓みのほう   
   が正確であると思われます。「信無ければ立たず」は「無けれ」が
   已然形なので、「無けれ+ば」が確定条件になっていますが、ここ
   は「無く(未然形)+ば」の仮定条件がふさわしいと思われるからで
   す。