老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

2013年センター試験の国語問題

2013-05-23 12:09:00 | インポート

今年(2013年)1月に行われたセンター試験の国語の問題に、小林秀雄の文章が出題されて話題になっているようです。

先日、NHKラジオの「文化講演会」を聞いていたら、作家の高村薫氏が、講演『近代の終わりを生きる』の中で、このセンター試験の国語の問題に触れて次のように言っておられました。たいへんおもしろいので、次にその部分を紹介したいと思います。

氏はこの講演で、現代は近代の終わり、つまり繁栄の終わりの始まりの時代であり、この困難な時代を生きるためには、多数意見に流されないこと、問題を単体に捉えないこと、働き者になること、すぐに答えを出さないこと、の四つが大切であり、この四つを支えるものが言語能力であるが、ものを考え、まとめて道筋をつけていく言葉の力、この言語能力が、この20年の間に急速に衰えたことを小説家は誰よりも実感している、と言い、「これこそひょっとしたら、経済の衰退以上の、日本人の存在の危機かもしれません」と言われ、続いて次のように話しておられます。

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ちなみに、今年のセンター試験の国語では、長文読解の小林秀雄の文章が受験生に難しすぎて、平均点が下がった、ということでありました。あの「鍔」という文章をお読みになった方は、おられるでしょうか? あれは、同業者──と言うのもおこがましいですけれども、小説家の私から見ても、かなりどうでもいい文章であります。で、難解というよりかは、論理的な構成ができていないので読みにくいわけですが、こういう文章を出題する国語の専門家の言語能力からして相当危うい、というふうに感じました。あんな文章を読まされた受験生も気の毒ですけれども、この出題にどこからも異議が唱えられなかったということも含めて、センター試験のこの現状は、冷静に眺めれば、まさに日本人の言語能力の低下、もしくは混乱と言うべきものだと思います。今求められている言語能力というのは、複雑なものを論理的に整理して把握したり、提示したりする言葉の能力ですから、小林秀雄のあの文章は、その逆なのであります。

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批評の神様と言われる小林秀雄には、誰もが異論を唱えない。意味がよく読みとれないとしたら、それは自分の言語能力が低いせいだと引いてしまうところがある。それに対して、小林のこうした文章をセンター試験の問題として出題することは、標準テストとしての性格を持つセンター試験の問題としてはふさわしくない、という指摘はたいへん貴重なものだと私は思いました。
この講演は、2013年3月23日、NHK文化センター・京都教室のオムロン文化フォーラムで録音されたものだそうです。(2013年5月23日)

 【後記】『SNS産経ニュース』に、2013年2月18日付けで、「センター試験「国語」の最低平均点と小林秀雄の随筆」「意義を欠いた好みの押しつけ」という題の、早稲田大学教授・石原千秋氏の文章が出ていることに、今日になって気がつきました。
この文章の中で、石原氏は、「大学の入試問題には二つの意義があるはずだ。一つは、高校までの学習が身についているかを確かめること。もう一つは、大学に入学してから研究ができる能力があるかを確かめること。今回の問題は、いずれの観点からしても失格である」と、この問題文の出題に対して厳しい批判をしておられます。
高村氏は、講演をなさった時点で、まだこの石原氏の文章を読んでおられなかったのでしょう。(2013年5月24日)

この
「センター試験「国語」の最低平均点と小林秀雄の随筆」という石原千秋氏の文章は、現在は産経新聞の『THE SANKEI NEWS』というサイトに掲載されています。(2022年10月1日)
 → 「センター試験「国語」の最低平均点と小林秀雄の随筆」 





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