11月2日の記事「ウィーンフィル来日歴史秘話(読者投稿)」について、投稿者から更に次のような追加投稿を頂きました。
オーストリアに海軍?
オーストリアに海軍があった、というと「?」と思う方が多いでしょう。しかし、第一次世界大戦当時、北イタリアのトリエステとかアドリア海に沿ってクロアチアなどはオーストリア=ハンガリー領でしたから、立派に海軍がありました。
(1913年のオーストリア=ハンガリー帝国の領域)
そう言えば、おなじみ「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ大佐も海軍でしたね。子供らを海軍式に厳しくしつけているところに、ジュリー・アンドリュースが登場するわけでした(笑)。
「サウンド・オブ・ミュージック」予告編
日本に親善訪問していた「カイゼリン・エリーザベト」号
「カイゼリン・エリーザベト」という巡洋艦は、明治26年(1893)、皇帝フランツ・ヨーゼフの甥、フランツ・フェルディナント大公を乗せて日本に親善訪問にやってきます。明治天皇にも拝謁したその時の旅行記は翻訳で読むことが出来ます。
『オーストリア皇太子の日本日記』(フランツ・フェルディナント,安藤 勉):講談社学術文庫 製品詳細 講談社BOOK倶楽部
大公の持ち帰った数々の日本土産は、ウィーンの宮殿を彩りました。
オーストリア=ハンガリーではこれに先立つ明治22年、皇太子ルドルフが愛人と心中してしまうという事件(映画「うたかたの恋」(1936)で知られています)により、皇帝の甥フランツ・フェルディナント大公が皇位継承者となっていました。
(映画「うたかたの恋」)
第一次世界大戦勃発
大正3年(1914)夏、「カイゼリン・エリーザベト」号は何度目かの日本訪問に向けて、上海を出港します。ところがそこへ、フランツ・フェルディナント大公夫妻がサライェヴォの町で、セルビア人テロリストに暗殺されたという知らせが飛び込みます。怒ったオーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告すると、セルビアの同盟国ロシアが参戦する。ロシアが出てくればドイツがオーストリア側に参戦する。そうなるとイギリス、フランスはドイツに…と、世界は雪崩を打って大戦争に突入してしまいました。日本も、イギリスに味方をしてドイツと戦うことになります。
フェイク・ニュースで戦争にまきこまれた「カイゼリン・エリーザベト」号、艦長と将校は習志野収容所へ
ウィーンからの命令は、「カイゼリン・エリーザベト」は日本とドイツの戦争に巻き込まれぬよう、まず船をドイツの租借地・青島(チンタオ)に入れ、乗組員はそこから鉄道で天津に行けと命じてきました。実際、そのようにしたのですが、そこで事件が起こります。何とドイツ政府が「オーストリアの『カイゼリン・エリーザベト』号は我が軍と共に、日本と戦うことになった」というフェイク・ニュースを流してしまうのです。オーストリアは抗議しましたが、ドイツに押し切られてしまいます。その結果、「カイゼリン・エリーザベト」の乗組員はまた青島に戻り、日本軍と戦うことになってしまうのでした。
戦況は明らかでした。「カイゼリン・エリーザベト」は大砲を外して陸に上げ、青島港で自沈します。乗組員は美しい艦影が海に消えた後も、陸上の戦闘に参加しますが結局降伏し、ドイツ兵と共に日本国内の捕虜収容所に送られたのです。水兵と下士官は兵庫県の青野ヶ原収容所、そしてマコヴィッツ艦長と将校は習志野収容所で帰国の日を待つことになったのです。
大戦が終ってみればハプスブルク大帝国は崩壊してしまい、ハンガリーやチェコ、クロアチアなどが独立します。同盟国だったイタリアは途中で寝返り、北イタリアを回収したばかりか、南チロルを併合してしまいます。ドイツ人だけの小さな国になってしまったオーストリアに海軍はもはや必要ありませんでした。
こういう訳で
習志野は、オーストリアに海軍があったという忘れられた歴史を今に伝える町でもあるのです。
オーストリア=ハンガリーの軍艦旗
こちらはユリウス・フツィーク作曲の行進曲「提督の旗の下に」。オーストリアの軍艦マーチともいうべき、隠れた名曲です。
カイゼリン・エリーザベト号(模型)
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