(ブログ読者の方の投稿です)
今年はベートーヴェン生誕250年です。本来ならば数々の記念演奏会が芸術の秋を彩ったはずですが、コロナ禍で盛り上がらないのは致し方ないですね。そこで、ブログ上でベートーヴェンを偲んでみたいと思います。
ベートーヴェンが生まれた頃、「ドイツ」という国はまだなかった
ベートーヴェンは1770年12月にライン川に臨む町・ボンで生まれました。日本では杉田玄白が、「解体新書」の翻訳に取り組み始めた頃です。
当時はまだ統一された「ドイツ」などはなく、ウィーンにいる神聖ローマ皇帝ハプスブルク家の下に、公爵、伯爵といった大名の領地や教会の領地に分かれていました。江戸時代の日本は将軍家の下に三百諸侯いたといいますが、それと似たような姿です。ボンはケルン=ボン選帝侯という殿様の領地でした。今に残る教会の洗礼簿には、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンは12月17日に洗礼を受けた、と記録されていますから、誕生日はその前日か前々日だっただろうと見られます。
ボン、ベートーヴェンの生家の内部
肖像画の「怖い顔」は、まずいマカロニ・グラタンにキレたせい
息子を「第二のモーツァルト」に仕立て上げてひと儲けしようと考えた飲んだくれの親父に毎晩スパルタ教育を受けた話だの、首都ウィーンに出て活躍する内に耳が聞こえなくなってしまった話などは、「偉人伝」でさんざん読まされました。また、学校の音楽室の壁に怖い顔をした肖像画がかかっていたのもお馴染みですね。もっとも、あの怖い顔は、家政婦が彼の好物マカロニ・グラタンを失敗してしまい、ひと悶着やっているところに肖像画家がやって来たため、なのだそうです。
革命と戦乱の時代に生きたベートーヴェン
ところで「偉い音楽家ベートーヴェン」といった子供向けの偉人伝では端折られてしまうのが通例なのですが、彼が生きた時代は革命と戦乱の時代であったことは忘れてはいけません。1789年、19歳の時にフランスで革命が起こります。フランスに近いボンには、次々とニュースが入ってきました。王侯貴族の凋落と、ブルジョア階級の勃興が始まったのです。この時代の変化は、音楽家の生き方にも大きな変革をもたらします。
殿様に仕えたハイドン、殿様から自由になろうとしたモーツァルト、そして最初のフリーな音楽家ベートーヴェン
それまで音楽家は殿様や教会に仕え、殿様や司教様に命じられたとおりの曲を作らなければなりませんでした。その地位は料理人と同じでした。「明日はどこそこの殿様がこの館に遊びに来る。客人はこれこれが好物だからそのような料理を作れ」と命じられれば、料理人はそのような料理を作らなければなりません。同様に「客人は自らフルートを吹く人だから、食事の間には新作のフルートの曲を演奏しろ」と命じられれば、音楽家は自分の好みなど貫くことはできませんでした。ベートーヴェンの師匠であるハイドンなどは、そうやって長いものに巻かれながら人生を送ってきた人でした。モーツァルトは晩年(といっても20代ですが)になって殿様とケンカ別れし、フリーランスで生きようとしましたが、困窮の中で死んでしまいました。
そういう意味ではベートーヴェンこそ、最初のフリーな音楽家だったのです。自分の書きたい曲を書いて、それを演奏会場で入場料を取って聞かせる。あるいは楽譜を売る。ピアノを教えて指導料を取る。作品を献呈して謝礼をもらう…。そして、勃興してきたブルジョアが、入場料や楽譜の代金という形でそれを支える。もちろん、まだまだ王侯貴族のパトロンから支援してもらう必要がありましたが、それでも「自分が作りたい曲」を作って世に問い、生活する、ということが可能になった最初の人であったわけです。
自分でもそのことを強く意識していたようで、権力をかさに王侯貴族から「ああしろ」「こうしろ」と家臣のように命じられることには猛然と反発していたようです。
ウィーンはナポレオンのフランス軍に占領された
当時、フランス革命に干渉するドイツ諸侯とナポレオンの間で戦争が続いていました。フランス王家に嫁いだマリー・アントワネットを殺されてしまったハプスブルク家は反革命の旗頭だったのですが、1805年、ナポレオンに敗れ、ウィーンはフランス軍に占領されてしまいます。
「俺は下僕ではない」と殿様にキレて大雨の中に飛び出し、楽譜に大雨の染み
その翌年のことだと言います。ベートーヴェンはリヒノフスキー侯爵という殿様の邸に滞在していました。ところがそこへ、フランスの占領軍将校が数人やってきたそうです。侯爵はフランス軍のご機嫌を取るつもりだったのでしょう。「当家にちょうど、ベートーヴェンが滞在しております。今夜一曲演奏させましょう」と言ってしまった。ところがベートーヴェンは、「俺は下僕ではない」「そんなことは聞いていない」と怒り始めます。とうとう作曲していた楽譜を抱えて、ウィーンに帰ってきてしまいます。大雨の中を下宿に戻って、ピアノの上に飾ってあったリヒノフスキーの胸像を床に叩きつけると、やっと腹の虫が収まったといいます。そして、その時抱えていた名曲「熱情ソナタ」の草稿には、今でも大雨の染みがはっきりと残っているのです。
英雄ではなく、俗物だ!ナポレオンの皇帝即位にキレたベートーヴェン
また、ナポレオンへの反発は有名ですね。最初ベートーヴェンは、ナポレオンのことを「ヨーロッパを解放する英雄だ」と思っていました。長大な交響曲第3番をパリに送って、ナポレオンに献呈しようとしていたのです。ところがそこへ、ナポレオンがフランス皇帝に即位したというニュースが届きます。王政を倒したはずなのに、いつの間にか自分が新しいフランス皇帝になってしまった。ベートーヴェンは「ヤツも俗物だ!」と叫び、出来上がった交響曲の表紙に「ボナパルトに捧ぐ」と書かれていた箇所をペンで搔き消しています。
「ボナパルトに」と書かれた部分は、穴が開いてしまっています。ベートーヴェンの怒りの激しさがわかりますね。
殿様に仕える音楽家ではなく、社会や政治に初めて向き合った音楽家ベートーヴェン
このように、初めてフリーランスの音楽家となったベートーヴェンは、政治とも無縁ではありませんでした。「圧政からの解放」「自由・平等・博愛」といったフランス革命の主張は、ベートーヴェンの心を強く揺さぶりました。また、解放軍かと思ったナポレオンの兵隊の狼藉や戦争の悲惨さも、彼を怒らせることになります。如才なく殿様に仕えるだけの音楽家だったら、こうしたことを考える必要はなかったでしょう。しかし、ベートーヴェンはそうではなかった。社会とか政治というものに初めて向き合った音楽家でもあったのです。
ナポレオン軍やナチスからの解放。ベートーヴェン唯一のオペラ「フィデリオ」がたどった数奇な運命
ベートーヴェンは1曲だけオペラを残しています。しかしその内容は、それまでの、どちらかと言えばお気楽な見世物だったオペラには見られない、政治的なものでした。
舞台はスペイン。圧政を批判する政治家フロレスタンはある日、行方不明になってしまいます。政敵の刑務所長ピツァロによって、監獄の奥深く閉じ込められてしまったのです。それを知ったフロレスタンの妻レオノーレは男装し、フィデリオと男の名を名乗って監獄に潜入します。地下牢の中は、鎖につながれた政治犯で一杯でした。やっとやせ衰えたフロレスタンを見つけたところへ、ナイフを持ったピツァロが現われます。「私はフロレスタンの妻、レオノーレだ」と名乗る緊迫の場面、ピツァロが「二人とも地獄へ行け」と襲いかかろうとしたその瞬間、査察に来た大臣の到着を告げるラッパが鳴り響きます。かくしてピツァロは逮捕され、監獄からはフロレスタンをはじめ多くの政治犯が解放されて、歓喜の大合唱の内に幕、というオペラなのです。
ところが、このオペラの初演は1805年。ちょうどナポレオンがウィーンを占領し、オーストリアの貴族が逃げ出した後でした。客席はドイツ語がわからない占領軍のフランス人ばかりで、初演は早々に打ち切られてしまいます。しかし、それで諦めるベートーヴェンではありませんでした。初稿から、今日知られている形になるまで2回書き直し、1814年にやっと成功を収めたという、ベートーヴェンにとっては「執念のオペラ」になったのでした。
なお余談を言えば、1950年(昭和30年)、ナチス・ドイツの支配が終り、空襲で破壊されたウィーン国立歌劇場が再建成ってそのこけら落としが行われた際、上演されたのはこの「フィデリオ」でした(指揮はカール・ベーム)。圧政からの自由、戦争と恐怖からの解放、というベートーヴェンのメッセージが、これほど切実に歌い上げられたことはなかっただろうと言われています。
オペラ「フィデリオ」終幕 解放された人々の合唱
こちらの演出は、ベルリンの壁崩壊を彷彿とさせますね
(次回につづく)
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