住みたい習志野

市内の情報を中心に掲載します。伝わりにくい情報も提供して行きます。

コロナ感染急増、でも市長は「概数だけ知らせる」と秘密主義

2020-11-19 22:31:01 | 新型コロナ

19日、新型コロナウイルスの感染が全国で2300人を超え、千葉県でも106人、と初めて100人を突破しました。習志野市でも17日には8名の方たちが感染、ということで、大変な状況を迎えています。

(11月18日付東京新聞の記事)

このコロナの情報について、他市ではおおよその状況説明を行っています。

例えば、船橋市では、療養場所、重症度などさまざまな情報を提供しています。

市内で新型コロナウイルス感染症患者(11月18日:船橋市患者発生届834~847例目、船橋市居住患者831~845例目)が発生しました

ところが、習志野市の宮本市長は「プライバシーと実態に配慮して概数でお知らせして」いる、としています。


(市長の「概数発表」発言は2分54秒くらいから)

事実、市のホームページでも、ほとんどの情報が「秘密」にされています。

https://www.city.narashino.lg.jp/kenkofukushi/yobosesshu/hassei.html

「市長の後援会長は誰ですか?Kさんではないんですか?」と市議会で質問されても「政治活動はプライバシーにかかわることなので、回答は控える」と「秘密」にする宮本市長(他市の市長で後援会長の名前を秘密にしている、なんて人はいるのでしょうか?)、コロナの問題でも市民に対する「秘密主義」に徹しているようです。

 

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ベートーヴェン(その2)習志野収容所でも演奏されたベートーヴェン、秘密警察に監視されていた

2020-11-19 17:55:17 | 投稿

演奏会にも警察官。秘密警察の監視下におかれていたベートーヴェン。ただの変人ではなかった

 ところで、ベートーヴェンと言えば、その変人ぶりは有名です。下宿を転々と、ウィーン市内で79回も引っ越しをして回ったとか、レストランで出てきた料理が気に入らず、ウェーターの頭から皿をかぶせたなどという珍談は枚挙にいとまがありません。彼は五線紙と鉛筆をポケットに突っ込み、ウィーンの森を散策しながら思い付いたメロディーをスケッチするのが日課でしたが、1820年のある日、一軒の農家が夕食のテーブルを囲んでいると突然、窓の外にぬっと不審な男の顔が現われました。警察が駆け付け、この浮浪者を逮捕します。幸いすぐにベートーヴェンだと判明したようですが、作曲に夢中になっている内に道に迷い、夕食の匂いに誘われて農家を覗いたのだということです。

 こういった奇行は事実だったでしょう。しかし、それにしてもずいぶん細かく記録され、語り残されているとは思いませんか。実はベートーヴェンは監視されており、こうした変人ぶりは誇張され、執拗に世に流されていたのです。

 ナポレオンが失脚すると、ウィーン会議が開かれます。いわゆるウィーン反動体制を指導したのはオーストリアの宰相メッテルニヒでした。ヨーロッパフランス革命前戻そうと、秘密警察が暗躍し思想弾圧が始まります。このような中で、「メッテルニヒなんて馬鹿野郎だ」「俺も皇帝も同じ人間だ」などと公言してはばからないベートーヴェンは、実は厄介者だったのです。そこで、ベートーヴェンの変人ぶりを誇張し、こと細かに流布することで「あれは頭がおかしい、かわいそうななのだ」「ベートーヴェンの言うことなど真に受けてはいけない」と世間に思わせたのでした。

 1825年3月、交響曲第9番が完成します。初演の演奏会は大成功でした。完全に耳が聞こえなくなっていたベートーヴェンはステージ上で、指揮者の隣に椅子を置きオーケストラの方を向いて座っていたようですが、喝采に次ぐ喝采。人々は作曲者の耳が聞こえないことに気が付くと、ハンカチを振ってこの喝采を伝えたのだと言います。ところが伝記は、続いてこう書いています。「ステージには警察官が躍り出て、熱狂する喝采を止めた。皇帝に対する喝采も3度までと決められていたのに、それを越えそうになったからである」。さて、ここで問題は、なぜそんなところに警察官がいたのか、です。

 日本でも戦前は、劇場や演説会場に臨検席という、警察官が座る場所が用意されていました。反政府的な演説や芝居には、サーベルをガチャつかせて「弁士中止」「上演中止」と命ずることが出来た。ベートーヴェンの場合も、それだったのです。「よろこびの翼の下、王侯も乞食も、すべての人は兄弟となる」などと歌い上げる「第九」の発表会など、危険なイベントとして最初からマークされていたのでした。興奮した聴衆がベートーヴェンを先頭に、王宮までデモを始めたりするのではないか。だからこそ、警察官が飛び出してきたわけですね。

メッテルニヒの反動体制はベートーヴェンの死後も20年ほど続き、1848年の3月革命でやっと倒されます。その間、伝記作家は、なぜこんな所に警察官がいたのか、はっきり書くことが出来なかったのでした。

第九の詩はシラー作。最初は「自由の歌」だったけれど検閲を恐れて「歓喜の歌」に変えた

 その交響曲第番「合唱付き」、通称「第九」ですが、演奏に1時間以上かかる大曲である上に、第四楽章では独唱者4人と大合唱団が加わり「歓喜の歌」を歌いあげます。交響曲は言葉がない、オーケストラだけの楽曲、という既成概念を超えてしまったわけです。

 その「歓喜の歌」の詩は、まさにフランス革命の産物でした。書いたのはゲーテと並ぶ詩聖シラーです。1785年、革命勃発の4年前に発表され、変革を望む若者らに広まっていったといいます。「歓喜よ、なんじの翼の下、すべての人々は兄弟となる」「手を取り合おう、幾百万の人々よ」というわけですが、「歓喜」(Freude)というのは検閲を恐れて「自由」(Freiheit)を言い換えたものだとされています。また、フランス革命のニュースがドイツに伝わると、革命歌「ラ・マルセイエーズ」のメロディーにこの詩をつけて歌うのが流行ったのだと言います。ベートーヴェンは当時、ボン大学の聴講生でしたから、学生らが毎夜、酒場でビールを傾けてはこれを歌うのを聞いていたはずなのです。ボン大学では、シラーの友人フィッシェニヒ教授をしていましたが、彼からシラーの夫人に宛てた1793年の手紙は、ベートーヴェンという青年シラーの歓喜」に新しい曲を付けようとしている、と報じています。しかし、この構想が「第九」として実現するのは上に見たように1825年、実にそれから32年後のことでした。

 ベートーヴェンは老境にさしかかり、交響曲第7番・第8番の発表(1812年)からは10年以上が経過して「もはや才能が枯れてしまったのだ」と噂されていました。実際には弟が死に、その息子、つまりベートーヴェンにとっては甥に当るカールの親権をめぐって、弟の妻と裁判沙汰になるなど、生活のゴタゴタに巻き込まれて意気消沈していたのです。耳はいよいよ聞こえなくなり、新しい作品を発表しないので経済的にも苦しくなってきた。そんな孤独な日々の中、ベートーヴェンが当初、この9番目の交響曲のフィナーレと考えたのはこんな曲でした。

現在、弦楽四重奏曲第15の終楽章として知られている雄渾な曲ですが、最初はこれを新しい交響曲のフィナーレにしようとした。当時のベートーヴェンの孤独な現実が現われていますね。

苦悩を突き抜けて歓喜に至れ、暗い曲だったはずが歓喜(祈り)の曲に大変身

 ところがふと、シラーの「歓喜の歌」を思い出したのです。俺が「歓喜」に新しい曲を付けてやると豪語していた若き日のことを思い出したのです。こうして交響曲のフィナーレは、「歓喜の歌」の大合唱に差し替えられ、今日我々が耳にするような形になりました。「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ(Durch Leiden Freude!)」というベートーヴェンのモットーそのもののような曲となったのです。

 このように「歓喜の歌」と言っても、うれしいな、楽しいな、という浮かれた曲ではありません。むしろ、祈りの曲と言ってもいいでしょう。次の動画は2011年、東日本大震災の中で演奏された「第九」です。

多くの人が亡くなり大変な被害が出ている中で「歓喜の歌」とは? という人もいたでしょうが、指揮をしたズビン・メータ氏は、このような時だからこそ、苦悩を突き抜けて歓喜に、と叫んだベートーヴェンの精神を思い出して欲しい、と語っています。なおメータ氏は、3月11日の震災当日はフィレンツェ歌劇場来日公演の指揮者として東京にいました。公演はすべて中止され一行はイタリアに戻りましたが、「日本の友人たちのために何も演奏できず、去るのは悲しい」と語っていたメータ氏はその後、一人東京に戻りました。そして余震が続く中、NHK交響楽団を指揮してこの「祈りの第九」を演奏してくれたのでした。このことは、わが国の音楽史にきちんと伝えなければいけないことでしょう

最初に習志野で演奏されたベートーヴェンの曲は「自然における神の栄光」

 ところで、このブログは「住みたい習志野」ですから最後に習志野の地で最初に演奏されたベートーヴェンの曲は何だったかをご紹介しておくことにしたいと思います。大正6年(1917)10月31日習志野俘虜収容所のドイツ捕虜オーケストラと男声合唱団が、「自然における神の栄光」という曲を演奏しています。こんな曲です。



捕虜劇団の幕間(まくあい)の音楽にもベートーヴェンが使われた

また、大正8年(1919)10月に捕虜劇団がイプセン「社会の柱石」という演劇を上演した際、幕間の音楽としてベートーヴェンの交響曲第7番第二楽章演奏されたことがわかっています。

修了公演「社会の柱」

これらが当時の習志野の住民の耳にどう聞こえたのかは記録がありませんが、100年前、確かに習志野の空にベートーヴェンが響いていたのです。そのことをご紹介して、偉大な作曲家の生誕250年を迎えたささやかな祝賀にしたいと思います。(了)

 

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ベートーヴェン(その1)最初のフリーな音楽家

2020-11-19 17:51:50 | 投稿

(ブログ読者の方の投稿です)

今年はベートーヴェン生誕250年です。本来ならば数々の記念演奏会が芸術の秋を彩ったはずですが、コロナ禍で盛り上がらないのは致し方ないですね。そこで、ブログベートーヴェンを偲んでみたいと思います。

ベートーヴェンが生まれた頃、「ドイツ」という国はまだなかった

ベートーヴェンは1770年12月にライン川に臨む町・ボンで生まれました。日本では杉田玄白が、「解体新書」の翻訳に取り組み始めた頃です。

当時はまだ統一されたドイツなどなく、ウィーンにいる神聖ローマ皇帝ハプスブルク家の下に、公爵、伯爵といった大名の領地教会の領地に分かれていました。江戸時代の日本は将軍家の下に三百諸侯いたといいますが、それと似たような姿です。ボンはケルン=ボン選帝侯という殿様の領地でした。今に残る教会の洗礼簿には、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン12月17日に洗礼を受けた、と記録されていますから、誕生日はその前日か前々日だっただろうと見られます。

ボン、ベートーヴェンの生家の内部

肖像画の「怖い顔」は、まずいマカロニ・グラタンにキレたせい

息子を「第二のモーツァルト」に仕立て上げてひと儲けしようと考えた飲んだくれの親父に毎晩スパルタ教育を受けた話だの、首都ウィーンに出て活躍する内に耳が聞こえなくなってしまった話などは、「偉人」でさんざん読まされました。また、学校の音楽室の壁に怖い顔をした肖像画がかかっていたのもお馴染みですね。もっとも、あの怖い顔は、家政婦が彼の好物マカロニ・グラタンを失敗してしまい、ひと悶着やっているところに肖像画家がやって来たためなのだそうです。

革命と戦乱の時代に生きたベートーヴェン

ところで「偉い音楽家ベートーヴェン」といった子供向けの偉人伝では端折られてしまうのが通例なのですが、彼が生きた時代は革命と戦乱の時代であったことは忘れてはいけません。1789年、19歳の時にフランスで革命が起こります。フランスに近いボンには、次々とニュースが入ってきました。王侯貴族の凋落と、ブルジョア階級の勃興が始まったのです。この時代の変化は、音楽家の生き方にも大きな変革をもたらします。

殿様に仕えたハイドン、殿様から自由になろうとしたモーツァルト、そして最初のフリーな音楽家ベートーヴェン

それまで音楽家は殿様や教会に仕え、殿様や司教様に命じられたとおりの曲を作らなければなりませんでした。その地位は料理人と同じでした。「明日はどこそこの殿様がこの館に遊びに来る。客人はこれこれが好物だからそのような料理を作れ」と命じられれば、料理人はそのような料理を作らなければなりません同様に「客人は自らフルートを吹く人だから、食事の間には新作のフルートの曲を演奏しろ」と命じられれば、音楽家は自分の好みなど貫くことはできませんでした。ベートーヴェンの師匠であるハイドンなどは、そうやって長いものに巻かれながら人生を送ってきた人でした。モーツァルトは晩年(といっても20代ですが)になって殿様とケンカ別れし、フリーランスで生きようとしましたが、困窮の中で死んでしまいました。

そういう意味ではベートーヴェンこそ、最初のフリーな音楽家だったのです。自分の書きたい曲を書いて、それを演奏会場で入場料を取って聞かせる。あるいは楽譜を売る。ピアノを教えて指導料を取る。作品を献呈して謝礼をもらう…。そして、勃興してきたブルジョアが、入場料や楽譜の代金という形でそれを支る。もちろん、まだまだ王侯貴族のパトロンから支援してもらう必要がありましたが、それでも「自分が作りたい曲」を作って世に問生活する、ということが可能になった最初の人であったわけです。

 自分でもそのことを強く意識していたようで、権力をかさに王侯貴族から「ああしろ」「こうしろ」と家臣のように命じられることには猛然と反発していたようです。

ウィーンはナポレオンのフランス軍に占領された

当時、
フランス革命に干渉するドイツ諸侯とナポレオンの間で戦争が続いていました。フランス王家に嫁いだマリー・アントワネットを殺されてしまったハプスブルク家は反革命の旗頭だったのですが、1805年、ナポレオンに敗れ、ウィーンはフランス軍に占領されてしまいます。

「俺は下僕ではない」と殿様にキレて大雨の中に飛び出し、楽譜に大雨の染み

その翌年のことだと言います。ベートーヴェンはリヒノフスキー侯爵という殿様の邸に滞在していました。ところがそこへ、フランスの占領軍将校が数人やってきたそうです。侯爵はフランス軍の機嫌を取るつもりだったのでしょう。「当家にちょうど、ベートーヴェンが滞在しております。今夜一曲演奏させましょう」と言ってしまった。ところがベートーヴェンは、「俺は下僕ではない」「そんなことは聞いていない」と怒り始めます。とうとう作曲していた楽譜を抱えて、ウィーンに帰ってきてしまいます。大雨の中を下宿に戻って、ピアノの上に飾ってあったリヒノフスキーの胸像を床に叩きつけると、やっと腹の虫が収まったといいます。そして、その時抱えていた名曲「熱情ソナタ」の草稿には、今でも大雨の染みがはっきりと残っているのです。

英雄ではなく、俗物だ!ナポレオンの皇帝即位にキレたベートーヴェン

 また、ナポレオンへの反発は有名ですね。最初ベートーヴェンは、ナポレオンのことを「ヨーロッパを解放する英雄だ」と思っていました。長大な交響曲第3番をパリに送って、ナポレオンに献呈しようとしていたのです。ところがそこへ、ナポレオンがフランス皇帝に即位したというニュースが届きます。王政を倒したはずなのに、いつの間にか自分が新しいフランス皇帝になってしまった。ベートーヴェンは「ヤツも俗物だ!」と叫び、出来上がった交響曲の表紙に「ボナパルトに捧ぐ」と書かれていた箇所をペンで搔き消しています。

 「ボナパルトに」と書かれた部分は、穴が開いてしまっています。ベートーヴェンの怒りの激しさがわかりますね。

殿様に仕える音楽家ではなく、社会や政治に初めて向き合った音楽家ベートーヴェン

 このように、初めてフリーランスの音楽家となったベートーヴェンは、政治とも無縁ではありませんでした。「圧政からの解放」「自由・平等・博愛」といったフランス革命の主張は、ベートーヴェンの心を強く揺さぶりました。また、解放軍かと思ったナポレオンの兵隊の狼藉や戦争の悲惨さも、彼を怒らせることになります。如才なく殿様に仕えるだけの音楽家だったら、こうしたことを考える必要はなかったでしょう。しかし、ベートーヴェンはそうではなかった。社会とか政治というものに初めて向き合った音楽家でもあったのです。

ナポレオン軍やナチスからの解放。ベートーヴェン唯一のオペラ「フィデリオ」がたどった数奇な運命

 ベートーヴェンは1曲だけオペラを残しています。しかしその内容は、それまでの、どちらかと言えばお気楽な見世物だったオペラには見られない、政治的なものでした。

舞台はスペイン。圧政を批判する政治家フロレスタンはある日、行方不明になってしまいます。政敵の刑務所長ピツァロによって、監獄の奥深く閉じ込められてしまったのです。それを知ったフロレスタンの妻レオノーレは男装し、フィデリオと男の名を名乗って監獄に潜入します。地下牢の中は、鎖につながれた政治犯で一杯でした。やっとせ衰えたフロレスタンを見つけたところへ、ナイフを持ったピツァロが現われます。「私はフロレスタンの妻、レオノーレだ」と名乗る緊迫の場面、ピツァロが「二人とも地獄へ行け」と襲いかかろうとしたその瞬間、査察に来た大臣の到着を告げるラッパが鳴り響きます。かくしてピツァロは逮捕され、監獄からはフロレスタンをはじめ多くの政治犯が解放されて、歓喜の大合唱の内に幕、というオペラなのです

 ところが、このオペラ初演は1805年。ちょうどナポレオンがウィーンを占領し、オーストリアの貴族が逃げ出した後でした。客席はドイツ語がわからない占領軍のフランス人ばかりで、初演は早々に打ち切られてしまいましかし、それで諦めるベートーヴェンではありませんでした。初稿から、今日知られている形にるまで2回書き直し、1814年にやっと成功を収めたという、ベートーヴェンにとっては「執念のオペラ」になったのでした。

 なお余談を言えば、1950年(昭和30年)、ナチス・ドイツの支配が終り、空襲で破壊されたウィーン国立歌劇場が再建成ってそのこけら落としが行われた際、上演されたのはこの「フィデリオ」でした(指揮はカール・ベーム)。圧政からの自由戦争と恐怖からの解放、というベートーヴェンのメッセージが、これほど切実に歌い上げられたことはなかっただろうと言われています。

オペラ「フィデリオ」終幕 解放された人々の合唱

こちらの演出は、ベルリンの壁崩壊を彷彿とさせますね
(次回につづく)

 

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中村哲医師1周忌のつどい(プラッツ習志野)のお知らせ

2020-11-19 15:30:17 | 催しなど

中村哲医師1周忌のつどい
命の水 共にあり     

日時 12月5日(土) 12:30 開場 13:30 開演

開場    プラッツ習志野 市民ホール
(京成「大久保」駅 徒歩1分)

入場料 1000円

会場のプラッツ大久保(京成「大久保」駅から徒歩1分)

朝日新聞「首都圏マリオン」にもお知らせが載りました。

当日報告される藤田千代子さん(ペシャワール会PMS支援室室長)のご紹介

(写真の一番右が中村哲さん、一番左が藤田千代子さんです)

藤田さんは30年あまりも中村哲先生の傍で看護師として活動をし、中村先生の相談相手でもあり、片腕であった、先生にとっては最も信頼できる同志といえる人です。

パキスタンでのハンセン病コントロール活動にあっては、医師の中村先生でさえなかなか難しい女性患者へのケアを果たす重要な役割を担ってきました。

しかも、現地の言葉であるウルドゥー語を独学で習得し、堪能な語学力で現地の人々とのコミュニケーションを円滑に図ることにより、現地の女性から慕われる存在となりました。

そしてその堪能な語学を生かし、現地スタッフの人材育成にも献身的な努力をされてきました。

2002年のアフガン空爆時にはカブールへの緊急食糧援助と持続的な人材育成など、治安が悪化するペシャワールに踏みとどまり中村医師の代理として現地病院の管理と地域住民のケアを全うされました。

さらに活動の場所がアフガニスタン東部に移ってからは、中村医師の現地活動を日本側から支援する支柱的役割を果たし、その役割は中村先生亡き後も全く変わりません。

 (ペシャワール会 服部亮市)

 

※当日会場にお出でになれない方は、you tube の中継でご覧になることもできます。

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