習志野から消される?ドイツ人捕虜収容所の歴史
以前、このブログで「習志野ソーセージ」のルーツは東習志野にあったドイツ人捕虜収容所だった、という記事が載りました。
しかし、「習志野ソーセージの話は聞くけど、ドイツ人捕虜収容所のことについては知らないな。」という市民の方が多いのではないでしょうか?
習志野市役所が歴史保存に不熱心(他市にはある郷土資料館がない!)という記事もありました。
習志野歴史散歩(番外編):習志野市に郷土資料館はないけれど… - 住みたい習志野
そこで今回は、「習志野から消される?ドイツ人捕虜収容所の歴史」の問題を考えてみたいと思います。
モリシア前に「放ったらかされる」日独交流記念の菩提樹
モリシア前の菩提樹(日独交流150周年を記念してノルトライン=ヴェストファーレン州から贈られ、在日ドイツ大使館が植樹したもの)が「放置されている」問題について、千葉県日独協会通信会報の4ページに記事が載っています。(1ページには「カウル日記」の記事)
http://jdg-chiba.com/bulletin/pdf/127.pdf
芝園のメルセデス・ベンツにも植えたはず、と思ったのですが、これを見ると結局、全部モリシア前に放置されているようです。
モリシア広場でドイツ・フェアをやる際にも、この菩提樹は完全に無視して、放ったらかされています。植樹したドイツ大使館もがっかりですね。
市役所に消された?聞き書き民話「小すずめのバラード」
「習志野市制施行60周年記念 習志野の民話」(習志野市制施行60周年記念事業実行委員会・平成26年)という本があります。中に「小すずめのバラード」という一篇が入っているものと入っていないもの、2つのバージョンがあります。編集に当たった「習志野民話の会」が60周年記念事業の補助金を申請したところ、役所の事務局が「これはカットしろ」と命じたようです。その結果、「小すずめのバラード」が入っていないものが印刷・配布された。しかし、民話の会の中で「補助金をくれないのなら、我々のお金で『小すずめ~』が入っているものも作ろう」ということになり、そのお陰でわずかな部数ながら『小すずめ~』が入っているものも存在する、というわけです。(「小すずめのバラード」、ドイツ人捕虜オーケストラのお話です。以下、「習志野の民話」より)
西郷寅太郎、私財を投げ打ってドイツ人を救った?
(習志野ドイツ人捕虜収容所長だった西郷寅太郎は、西郷隆盛の長男)
千葉県日独協会ホームページに「ドイツ兵士の見たニッポン」の執筆者による講演録があります。
http://jdg-chiba.com/about/hoshi_kouenn_shiryou.html
その中の「不都合な歴史」という講演の中に以下のような記述があります。
西郷家破綻の原因はノブ夫人の浪費癖であったとされているのですが、果して原因はそればかりであったろうか。私は疑問に思います。それというのも、捕虜収容所に関する新聞記事を眺めていると、不思議な事件があるのです。
日独開戦後も営業を続けていた独亜(ドイツ・アジア)銀行横浜支店が、大正5年9月に営業停止を命じられた全国の各収容所の4000人が「俺の預金はどうなるんだ」と思っている中で、習志野で騒いだ18名分540円だけは解除された。
ここからは、まるで根拠のない、大胆な想像になりますが、この540円は、西郷所長が個人の財布から出たのではなかろうか。そしてこのようなことが度々あって、結局それが西郷家の台所を傾けるようになったのではないだろうか…?
外国では「ノーブレス・オブリージュ」と言います。高貴さは義務を強制する、という意味ですが、まだ日本が野蛮国扱いをされていた時代、戦時国際法を嫌でも遵守して見せなければならなかった時代に、一等国入りを目指して収容所長は身を削ってでも、日本を背負って見せなければならなかったのではないか…。
警察犬の起源も習志野収容所
習志野収容所は警察犬の起源にも関係があります。青島(チンタオ)でドイツ軍が使っていたシェパードを連れてきて、この時、初めて警視庁で「探偵犬」の養成をやります。その際、エミール・スクリーバ(下の画像は「ドイツ兵士の見たニッポン」より)が、習志野から中野の訓練所まで、指導に行ったようです。
そもそもエミールの父、ユリウス・スクリーバ博士(内科のベルツ、外科のスクリーバといって、東京大学医学部の基礎を作った人)が日本に初めてジャーマン・シェパードを持ち込んだのだとか。
日本で警察犬とか軍用犬というともっぱらシェパードを使ったのも、この青島から来た戦利品が始まりだったからだそうです。今でも血統書を調べれば、何代前の祖父さんは青島のドイツ軍の軍用犬だった、という犬がいるはずだといいます。
基本文献「ドイツ人兵士の見たニッポン」を習志野市のホームページから「追放」?
この習志野市ドイツ人捕虜収容所問題を知るための基本文献が、2001年に出版された「ドイツ兵士の見たニッポン」(習志野市教育委員会編)です。
ドイツ語訳も出版されています(執筆者Hさんの同意は得ていないそうですが…)
内海愛子(恵泉女学園大学名誉教授)さんが書いた「日本軍の捕虜政策」という大著にも、「ドイツ兵士の見たニッポン」出版を記念してつくられた資料集が参考文献に掲げられています。
その他、さまざまな方に紹介、引用され、この本が、習志野市ドイツ人捕虜収容所問題の基本文献になっています。
大東文化大学川村教授が本を紹介
https://www.daito.ac.jp/file/block_44932_01.pdf
アジア歴史資料センター研究員 中野良さんが、
「第九」日本初演とドイツ兵収容所 -「第九」日本初演100年に寄せて-
の中で「参考文献」として紹介
https://www.jacar.go.jp/newsletter/newsletter_026j/newsletter_026j.html
土屋敦さんという料理研究家が
『ドイツ兵士の見たニッポン―習志野俘虜収容所1915~1920』という最高に面白い本
と紹介
日本を愛したスパイ『ドクター・ハック 日本の運命を二度にぎった男』 - HONZ
習志野市民が企画した講演会の新聞記事
https://www.asahi.com/articles/ASL233197L23UDCB001.html
「ドイツ兵士の見たニッポン」についてふれたネット記事
https://sites.google.com/site/huajianchuanliuyuccc/home/30-xi-zhi-ye-shi-jiao-yu-wei-yuan-hui-bian-doitsu-bingno-jiantanippon-shao-jie
https://hanamigawa2011.blogspot.com/2014/03/3.html
日独協会で「ドイツ兵士の見たニッポン」を読み合わせ
http://jdg-chiba.com/about/bs-active.html
「歴史に関する基本的資料」一覧からこの本をはずした習志野市
ところが、習志野市ホームページの図書館の中の「習志野市の歴史に関する基本的資料」には、「基本的資料」であるはずのこの本が、一覧からはずされてしまっています。
https://www.narashino-lib.jp/TOSHOW/html/kyoudo_gyousei.html#kg01
しかし、2011年1月1日号の「広報習志野」には、この本のことがまだ載っていました。「歴史を残すさまざまな取組み」として、「平成12年にはこれらの成果を集めた特別資料展を開催、 また「ドイツ兵士の見たニッポン」という本(習志野市教育委員会編・2001年 丸善刊、現在は絶版)として出版し、好評 を博しました。」と書かれていたのです。
https://www.city.narashino.lg.jp/joho/koho/koho/H22.files/230101.ko230101.pdf
他市にはある「郷土資料館」をつくろうとせず、モリシアの菩提樹や民話「小すずめのバラード」、「ドイツ兵士の見たニッポン」など、習志野市の大事な歴史のひとこまである「ドイツ人捕虜収容所」のことを消し去ろうとする、今の習志野市の姿勢、大いに疑問を感じます。西郷寅太郎のことなども、もっと多くの市民に知ってもらいたいです。
ソーセージばかりではない、習志野ドイツ人捕虜収容所の歴史、消されないようにしたいですね。
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