「ジュリスト」という法律専門誌の75年4月増刊号(45年前)に、広報課長や菊田公民館長を務めた中村克子さんの「自治体の広報活動と住民参加」という論文が掲載されていました。
秋津・香澄地区の埋め立ては、千葉県案では工業開発一辺倒だった
その中に「大型プロジェクト京葉港問題とそのとりくみ」という項目があり、こう書かれています。
昭和41年、東京湾第二次埋立事業計画が具体化し、習志野市にも、袖ヶ浦地区に約518ヘクタールにわたって、埋立が行われることになった。土地利用について、千葉県案が明らかにされたのであるが、工業開発一辺倒。住民の福祉を没却した、としかいいようのないしろものであった。市は、あくまでも、埋立を住民福祉につながるものとするため、懸案の第一次案の変更をせまり、
ア 京葉工業地帯における工業開発優先政策から、きりはなし、住民福祉優先の埋立事業とする。
イ 首都圏化における本市の都市構造から過密化緩和をはかる。
ウ 文教住宅都市憲章に基づく、公害のない平和で健康な都市づくり。
を前提として、
➀ 石油コンビナートは、いっさい誘致しない。
➁ 国鉄線操車場は、習志野地域から、はずすこと。
➂ 進出企業の選択は、地元市長と知事が協議の上、決定すること。
➃ 市の財政事情を悪化させる土地利用をいっさいしないこと。
(中略)
市としては、当然、このことのために機構改革を行ない、京葉港対策室を設け、対峙姿勢をとった。
(以上、「ジュリスト」1975年4月増刊号の記事より)
この時習志野市が騒がなかったら、今頃埋立地区は二俣新町とか市川塩浜あたりと同様、倉庫や工場が並ぶ殺伐とした街になっていたことでしょう。
反対運動の背景として、当時は「水俣病」など、工場が排出する有害物質による公害問題が大問題になっていた、ということがあります。
湾岸道路を少しでも住宅地から離せ、という”闘争”をやった習志野市
習志野市役所に公害センターという部署もなくなってしまった現在では想像できないのかも知れませんが、当時はとにかく公害問題が国民的重大課題でした。14号線と京葉道路を抱えているのに、さらに交通量が増えるのかという中で、習志野区間は少しでも住宅地から離せ、という“闘争”をやったわけですね。そうでなければ赤い点線のように、現在の南消防署から七中グランド南側に向けて湾岸道路が走っていたことになります。
湾岸道路を修正させた、といったあたりに、国や県が何者ぞ、という抵抗精神が感じられます。
谷津干潟は埋め立てる計画だった
干潟については市も最初から、埋め立ててしまうものと考えていたようです。当初ルートどおりなら、さっさと埋め立ててしまったのではないでしょうか。なかなか埋め立てが出来なかったのは船溜り(ふなだまり)の漁業補償があったから、といった話も聞いたことがあります。そうこうしている間に、公害よりも環境だ、自然を守れ、という話になってきた。湾岸道路問題が「官製住民運動」だったのに対して、本当の市民運動が起ったんですね。
袖ヶ浦団地の各戸のベランダには「干潟の埋立をストップさせよう」という看板が掲げられました。
今の市役所旧庁舎跡地と同じで、県企業庁は埋め立てた干潟跡地を金にするつもりだった。それをやめさせて、自然環境を後世に残した、というわけですね。
最初にお話しした「ジュリスト」の45年前の記事、今日的な内容ではないし、「文教住宅都市憲章推進の会」も自然消滅し、今は「地域担当制度」も形骸化してしまいました。ただ、当時の雰囲気を感じることはできると思いますので、最後にご紹介したいと思います。ご興味のある方はご一瞥(いちべつ)ください。
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