絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

画家のエピソード4

2009-09-10 | 美術
写実主義についても触れてなかったですね。

1、写実主義と言えば、クールベです。
  画家のアトリエという絵が有名です。
  クールベは、プロの画家というのは、自分以外にはいないと言いました。
  他の画家はみんな私に比べたら素人だと。すごい自信ですね。しかし、言うだけのことはやりましたね。すごい絵を描きました。

2、バルビゾン派のミレーは、落ち穂拾いを描きましたが、生活が苦しくて、いつ一家心中するか心配だと思うほど、貧乏だったそうです。あの落ち穂拾いは他人事ではなかったのですね。

3、コローは、いい人で、困っている人を放っておけない人でした。そのため貧乏な画家たちを助けるために、その人たちが描いた絵に、自分のサインを描いてやったと言われています。そうすれば、絵が売れるからです。
 しかし、そのことで、コローの絵はサインがあっても実際にコローの絵かどうか心配な絵があるということですよね。それは、困りますね。
コローは、ミレーにはお金を送って生活を助けたそうですよ。

4、ゴヤは、晩年耳が聞こえなくなりました。その頃から、絵が急に変わりました。それまでは、宮廷画家として、貴族の華やかな生活を描いていたのですが、黒い絵のシリーズと呼ばれる絵を描きだします。このシリーズを描かなければ、ゴヤは有名にはなりませんでした。ゴヤが近代絵画の父と言われるのは、この黒い絵のシリーズがあるからです。

5、モネは、晩年目がかすんで見えなくなってしまいました。白内障でしょうか。
ジベルニーに日本の庭のようなものを作って、そこで制作をしました。オランジュリーにある睡蓮の絵は、そのように目が不自由になってからの絵だと言われています。

6、モネのジベルニーのアトリエは、電気の光ではなく、外の太陽光線が入るようなガラス張りの天井だったそうです。私の絵は、電気の光ではなく外の自然光で見てほしいと言い、制作もその外の光で描こうとしたのです。

7、パリのコンコルド広場に隣接するオランジュリーにモネの睡蓮の大作がありますが、その建物は、オレンジの温室でした。そのため、天井がガラス張りで、自然光で絵が見えたので、モネは喜んでそこに展示することを承諾しました。
しかし、現在は、その建物が二階建になり、モネの絵は蛍光灯で見せています。
モネが知ったら、怒るでしょうね。

  

8、レンブラントは、夜景の絵を描きました。あれは、描かれている人たちがみんな注文主なので、その人たちがお金を出しています。
しかし、あの描き方では、目立つ人と目立たない人に差がありすぎて、値段が同じでは納得がいかないと文句を言われました。
中には、前の人の後ろに隠れて、顔が半分しか見えないというような人までいます。これでは、怒るのもわかりますよね。
しかし、注文主を平等に扱っていたら、あの絵は、こんなに良い絵にはなりませんでした。だから、絵としてはこの方が良かったのです。


9、レオナルドは、人間の解剖をしましたが、その解剖をしながら、人間の中がどうなっているかを克明にデッサンしました。写真のない時代ですから、そのデッサンは、医学に役立ちました。

10、レオナルドの解剖で、一番苦労したのが、眼の構造を捕まえようとした時でした。目にナイフを入れると、中が崩れて構造が分からないのだそうです。
そのため、どうしたかというと、眼を卵の白身と一緒にフライパンで焼いたそうです。そうしたら、中がゆで卵のようになって、ナイフを入れても崩れずに構造がつかめたそうです。


 (授業では、これがほんとの目玉焼きと言って、生徒を笑わせました。
しかし、笑ってくれない生徒もたくさんいました。気持ち悪いというのが先に来てしまうからでしょうか。)

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