絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

抽象画

2009-09-07 | 美術
抽象画というと、わからないという人が多いでしょう。

しかし、専門家から言わせると、抽象の分からない人には、絵がわからないのと同じだというかもしれません。なぜなら、絵の良し悪しは抽象的に見て判断するからです。

抽象的に見るとは、具体的に言えば、バランス、ハーモニー、リズム、アクセントなどの造形要素で見るという意味です。風景画であれ、静物画であれ、空想画であれ、それは同じです。ただ、具象画の場合は、これに主役脇役の組み立てが入ります。抽象の場合には、それを目立つ順番と言うことで、私は説明しています。
絵を見たときに、どこに一番引きつけられるか、二番手はどれか、三番手はという具合です。その目立つ順番が気持ちよく配置されているときに、バランスがいいとか、リズムがいいとかいうのだと思います。

私の指導の中でも、背景を汚して深さを出そうなどというのは、抽象的な問題ですよね。風景画で、空気を感じさせてみましょうというのも、絵の構図やテーマはいじらずに、ハーモニーを作って、世界を一つの世界にまとめ上げるという観点ですから、抽象的な問題です。

何が描いてあるか、上手か下手かという問題ではなく、絵の質が高いかどうかということです。

これは、なかなか言葉では説明し難いのですが、そういう観点を持つと、絵のレベルということがわかってくると思います。

本当にわかるには、自分で描いて人と比べてやっていくと、嫌でも思い知らされるのですが、ただ、鑑賞しているだけでわかるようになるでしょうか。嫌というほど良い作品を見ている人には、わかるかもしれません。

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抽象画と具象画の違いや、抽象画が出て来た背景を書こうと思っていましたが、少し違う話になってしまいました。
この後、やってみます。

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歴史的な流れで考えると、印象派が出てきて、サロンの黒い絵は嘘だと反発しました。そして、もっと見える通り本当の自然を描こうと試みました。
しかし、やればやるほど、見える通りに描けない現実に出くわしました。
また、写真の発明によって、見える通りに描くという意味がなくなってきました。そこで、絵画は絵画としての在り方が問われ、後期印象派がその答えを出しました。そのうち、絵画はもっと自由で良いという観点から、ピカソのキュービズムが現れて、形が解放されました。またマチスがフォービズムをやって色を解放しました。
開放とは、言い換えると自由です。

その流れを見てくると、抽象画が現れるには十分な条件が整いました。

しかし抽象画が出て来たのは、その流れとは関係ないところから現れました。それが不思議です。

私は、ピカソのキュービズムを発展させていくと、自然に抽象画になると思うのですが、ピカソはその流れで、抽象を描いたと思いますが、世界で最初の抽象画は、カンディンスキーが描いたと言われています。

カンディンスキーとは、ロシアの画家です。

ある日、風景画の写生から帰ると、自分のアトリエに見たことがない絵がおいてありました。なかなかいい絵だなと思ってしばらく眺めていましたが、ふと気がつくと、それは自分が描いた絵でした。

普通なら横にして見るべき絵が、立ててあったので気がつかなかったのです。
90度回転しているだけで、自分の絵であることに気付かなかったのです。

そして、自分の絵であることがわかって、きちんと横にしてみたら、あまり良い絵だと思えませんでした。それは、不思議な体験でした。要するにきちんと見ると、一つ一つのものが何が描いてあるかがわかるのです。言い換えると、意味で見てしまうのです。立ててあったときは、何が描いてあるかわからずに、ただ色と形だけで見ていました。意味を見ずに純粋に色と形だけで見たら面白かった。しかし、意味がわかってしまうと、どうもつまらないと感じたのですね。

それが、抽象を描くきっかけになったそうです。絵の中から、意味を取り払うという作業をしました。純粋に色と形だけで描くということです。

これが、カンディンスキーが抽象画を描き始めたきっかけだと言われています。


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意味で見るとつまらない。という感覚はどういうことでしょうか。
要するに、自由な想像ではなく、意味が付くと限定されるということです。
何だかわからないけど、美しいねえという場合があります。
緑の風景の中に、オレンジ色の何かがあったりすると、それが、郵便ポストだか、物置の屋根だか、何だかわからないけど、それがいいねえと思えることがあります。それが何でも構わないのです。この絵の中で、その色と面積が丁度良く感じられて、絵を魅力的にしているという場合があるのです。

それが、なんだか、分かってしまったとき、何だつまらないねということもあるのです。そんな感じでしょうか。色と形で見たときには、わかないからこそいろいろ想像して面白いのであって、分かっちゃったときにつまらないということです。

なかなか上手く言えませんが、わからない面白さとわかってしまうつまらなさの違い。そんなことをカンディンスキーは感じたのですね。それで、分からない絵を描きだしたということなのです。

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もう一人、モンドリアンという人がいます。
私も若い時に抽象画を描いていましたが、その抽象への入り方は、モンドリアンと同じでした。
モンドリアンは、木を描いていました。木の枝を描いていたのですが、木そのものよりも、木を取り巻く空間を意識して描いていました。その過程で、木の形を追いかけながら、木を描くには、木の形よりも、取り巻く空間が大切だと考えだすと、その枝を包んでいる空間を描こうとします。そうすると、木の輪郭線よりも、周りの空気のようなものを捕まえようとして、円柱のような線が入って行きます。
また、それを表すには、この枝はない方が良いとか、ここには枝があった方が良いとか、という問題が出て来ます。私は、要不要で足し算引き算と言っていますが、そういうことが画面の中で展開されました。そうするうちに、木の形はどんどん消えていき、後には、線と空気だけが残るようなものになりました。必然的に意味を表す木の輪郭がなくなってしまったのです。だから、何が描いてあるかわからないという状態になったのです。
私の場合は、人物を描いていて、そのようになりました。モンドリアンは木でしたが、私は人間でした。しかし、やっていることは同じでした。空間を問題にしていたら、具体的な形が意味を表すものではなくなったということなのです。


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カンディンスキーとモンドリアンは抽象に入る入り方は違いましたが、区分け的には、どちらも何が描いてあるか分からない点では、一緒ですから、どちらも抽象画と言われる絵になりました。

これが、抽象画が出て来た経過説明です。

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この二人が、ピカソのキュービズムを知っていたのかどうかは、私は掴んでいません。知っていたから、そのように絵を考えることができたのか、知らないでもこのことは自然な流れだったのか、ちょっと興味がありますね。

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百匹目の猿現象だったら、より面白いかもしれません。

少し、付け足します。

ピカソは、変な絵を描くということから、抽象画を描く人だと思われがちですが、一般には、何が描いてあるか分からない絵を抽象画というので、厳密にはピカソは具象画家です。子供みたいな描き方であっても、何が描いてあるかがわかるものがほとんどなので、それは具象画に入ります。

ただ、とことん壊したキュービズムの絵は、意味が分からなくなっているものもありますので、抽象画と言ってもいいでしょう。また、はっきりとピカソも抽象画だと言っている絵もあります。

とにかく、何が描いてあるかが意味でわかるものなら具象画、意味が分からないなら抽象画と思っていて良いと思います。

ただし、半抽象などという言い方もあるので、普通に描く具象と比べて、ピカソ的に歪めたり、壊したり、別の要素を加えたり、という操作をしている絵をそのように呼ぶことがあります。
















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