森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

Bon courage! MIYATAYA

2008年02月16日 17時17分54秒 | 過去ログ

 

はりまや橋から空港バスに乗ろうと思い、進んでいると、

そういや、そろそろopenだと思い、

スポーツショップ、プロエース前のBEAMSビルへ。

coming soonだったけど、もう息吹が存在していた。

新たな船出だけど、

 

Bon courage! MIYATAYA!

MIYATAでお食事!

 


セルフコピー

2008年02月16日 08時50分31秒 | 過去ログ
ものすごい長文ブログをタイプしたが、消えてしまった。
学習していない。

その怖さから、最近は、ワードに打ってコピーしたりしていたが、
最近、また、そのままうっていたため、そうなった。

学習していない。
つまり、人間が効率性にすぐ負けてしまう。

もう同じ文章はかけない。
その時々の脳内にめぐることばをただタイプしていたため、
コピーはできない。
なにを書いたかは覚えているが、
それを一字一句再現できない。

ライブ演奏みたいなものである。
セルフコピーはできるが、
そのものは再現できない。

人間は創造的だが、ことばの意味を考えると、
時に、おろかで、みにくいものとなる。

人の意識とは、その場を共有することで意味を持つ。

それは身体を介したものである。

高知に講演に来たが、
体調が最悪であり、
懇親会ではあまりしゃべれなかった。

主催してくれた榎先生ありがとう。

会場が大学院入試が行われた棟だったので懐かしかった。
いきなり、入試の説明が英語で始まり、
度肝を抜かれた記憶がよみがえった。
そのとき、しゃべっていた先生は、
由利教授だったと覚えている。

場に入り、記憶がよみがえる。
そういうエピソードが、今後も積み重ねるよう、
自らを経験させていきたい。

歯磨きとブログ

2008年02月14日 18時24分02秒 | 過去ログ
ここ数年、この月日は、書き物を一気に仕上げてた時期だ。
1日で原稿用紙80枚なんてこともあった。

しかし、今年は、雑務の多さで参っている。
大学院を花火のように打ち上げたが、
一教員が、院生の研究費や、科研費など、
すべてを統括し、書類を書いているので、
とてもじゃないが、研究どころではない。
国立大学のようには回らない。

しかし、会議などの合間に、
とりあえず、paper1本を調整した。

昨日のタイトルは、心身二元論的にとらえられるかもしれないが、
そんなに複雑には考えないでほしい。
両方とも一心同体であるという視点だ。
目に見える骨格体と、目に見えない身体(身体性)をわかってもらう意味でも
簡単に書いただけ。

それと感情かな。
私の身内(who?)の卒業式に、自らの大学(担任)の卒業式がブッキングしたという感情が、そのような言葉を生み出したのだ。

この数年、土日がほとんどふさがっており、
それはそれは楽しみにしていたが、
ここまで仕事に邪魔されるとは、
もう飽きれてものが言えぬ。
そういう感情が論理に打ち勝つ。

実に面白い。

ことばとは、難しいもので、
特にブログなんかは考えてかいておらず、
2~3分の出来事なので、あとでみかえすと、
ひどい思考だとよく思う。
これも、多いときは4000字ぐらいになっているので、
それを数分だから、ひどい場合もある。

考えて書くんだったらブログではもったいない。
とっくに出版ルートにのせている。

これは歯磨きみたいなものだ。


ときにめんどくさく、よっぱらってたら、そのまま寝る、
そんな感じだ。


さて、今日も院生をまとう。

それにしても、認知運動療法のメンツたちは、
どうして科学論文にも難しい表現を使うのだろう。

それをメタ認知で使い分けてほしい。

投稿する先を考え、単語を、表現を巧みに使い分ける。

原著は、その道でなくてもわかるように表現しないといけない。




地域の小学校の広報新聞に渡した読み物

2008年02月14日 18時11分35秒 | 過去ログ
人間らしい脳(こころ)を育むために


「相手の気持ちになってみなさい!」と叱られたことが懐かしいと感じられる親御さんも多いのではないでしょうか。

私たちの脳には、相手の表情やしぐさに共感する場所があります。例えば、映画を観ていると、ハラハラドキドキと主人公の気持ちが乗り移ったり、感動するテレビを観ると、所かまわず泣いてしまったりと、あたかも自分が経験しているように感じるこの脳の働きは、その名もミラーニューロン(鏡のようなニューロン)と呼ばれ、相手に共感する時に働く神経細胞と考えられています。重い荷物を持って歩いている人に「手伝いましょうか?」と言葉をかけることができるのも、あたかもその荷物を自分が持っているように実は感じているからです。

この脳の機能は高度な霊長類しか持っていないのですが、それを使わないと育まれません。それを育むために最も効果的な手段がコミュニケーションです。それも対話です。一方的に情報を相手に送りつけるといったメール等の伝達では育まれないと考えられています。コミュニケーションは情報伝達といった一方向なものを指さず、相手の気持ちを表情やしぐさから読み取り、その時々の状況に応じて、その後の言葉や抑揚等を使い分けるといった一連の過程を指します。昨今、メールの普及によって絵文字を使い、今の気持ちを相手に伝えるという手段がとられていますが、これは記号ですし、刻々と変化する表情を捉えた現在進行形なコミュニケーションではありません。メールは即効的な情報伝達には大変意味がありますが、完全にメールに依存してしまえば、本来、人間が持っているはずの共感する心の育成を妨げる可能性があります。

 他方、機械が普及したことによって失われつつあるもう一つの脳の機能が創造性です。最近、ゲーム等にバーチャルな世界が多く取り入れられ、子どももそれを好んでいる傾向がありますが、遊具のリアルさから、道具(おもちゃ)を何か他の物に見立てて遊ぶことが少なくなってきました。遊具が少なかったころは、一つの物を何通りにでも改良・工夫して遊んでいたこの過程が創造力(生き抜く力)を育んできました。例えば、ブロックがあれば、車に見立てたり、家に見立てたりして遊ぶ過程です。リアルを追及してしまえば、何かに見立てるという創造性は育まれません。子どもの時の創造力の育成は大人になったときの問題解決能力に関与します。

人間らしさとは何かと問われると、真っ先に出てくるのが、コミュニケーション(言葉)と創造力です。我々の祖先は種を保存するために、他人に共感し、そして、石を刃物に見立てるといった創意工夫をしてきました。それによって脳を発達させてきたのならば、それを育むための社会環境が今こそ見直される時期に来ているのではないでしょうか。


脳と身体は父と娘or父と息子

2008年02月13日 17時22分24秒 | 過去ログ
やっと回復してきた。
風邪をひくと、身体と脳の関係がよくわかる。
思考だけ分離もできず、身体だけ分離もできない。

機械工学がいくら進んでも、その結合は解けない。
と思う。
そこにチャレンジする意味は人間を科学する意味で重要であるが。

人間とは何か?
それを知る手続きが、発達、学習、可塑、なんだろう。

スぺクタルな、なんとも魅力的な結合が、個人個人で起こる。
そしてそれは空間的にも時間的にも違うし、
同じことを求めても不可能だ。

生きている1分1秒は、実に魅惑的だ。
法則なき、法則。
そういう感じか。
その複雑性は、脳と身体がまさに人間関係のような絆だ。

それは干渉しあわない、いや時にしてしまい、
とりかえしがつかないような、「父と娘」「あるいは「父と息子」のようなものか・・・

身体が父かもしれない。

身体から脳は教えを被る。

脳は身体がなければ、ただの機械なんだ。

身体があるからこそ、機械から人間になりうるんだ。

だから、いくら刺激を外からしてもだめなんだ。

自らか感じ取ろうとしない限りは。


そんなことを昨日考えていたが、
時期は年度末、鹿児島県理学療法士会、
山口県理学療法士会の2つの県士会から同じ日に講演依頼を受けた。

どこも次年度の予算決めなんだろう。


そういう流れも、意識みたいなものだ。

水面の波紋が広がるように、脳の重要性がこの世界にもひろがっている。


僕の方は、脳というよりは、人間、関係性、そして身体(脳)への興味にうつっているが。
つまり目に見える身体でなく、見えない身体そのものが脳であるという視点。
こうなれば、父も娘もない。
目に見えない身体を指すとそうなる。


大学院生の原稿を直していたら、いらいらして、ブログを打ってしまった。
なんとも大人げない行為。そしてそれを書くなんて。

難しことを誰もがわかるように書く。
それが論文には求められる。
言い回し、日本語、すべてに注意を払い、気をつける。
そう自らに心がけてほしい。

言語は思考の訓練室。


言語化の作業を通じて、自らの脳を賢くしてください。
身体はその経験をまた脳に伝えています。

長く書いても、すらすら読める。
長く書くトレーニングをしてください。
抄録ばかり書くと、・・になっちゃうよ。


時はバレンタイン。

前倒しでくれる人々が巷には増加している。

自らの身体の情報から、自らの身体に、自らの脳が効率を求めたのだろう。


さてさて、
この仕事をしていると、身内の・・式にも出れない。

なぜなら、それが重なるからである。
このときばかりはいやな仕事であると思う。


「~ように」を想像する

2008年02月12日 11時54分56秒 | 過去ログ

ブログを滞らせるつもりはなかったが、
結果的にそうなってしまった。
高熱、それも高校以来の40度越えをしてしまい、
動けなかったのである。


アムステルダムより帰り、
変な病気はもらったわけでないが、
2日ほど奈良にいて、
そのまま富士へ。

日本理学療法士協会の現職者講習会。
伊豆から富士に変更されて何年が経過したことか。
目の前に壮大で寛大な富士山をみると、
なんて自分は浅はかで小さいのかと、
心理的に感じる。

富士での講演は1講義目、
スライドを使わず、身体は何のためにあるのか、
という視点で感じることの重要性、
そして、その主体的に感じることから生まれる
脳の可塑性、運動学習についてのべた。

視点の変化を求める。
そのあとの懇親会では目からウロコであると言っていただいた。
動けることに主眼が置かれるリハビリ、
人間にとって幸福なのは、自ら感じ取れることである。
感じられない世界、それを想像してみたら容易だろう。
感じることの意味について、もう一度問いたい。

心が痛い、身体が痛い、痛みとは何か?
感じるとは何か?
セラピストの脳の柔軟さが問われる。
機械論を信じると、柔軟さが失われ、
自らの脳もサイボーグ化してしまう。

懇親会後、うどんを食べに、午前様。
初日の夜は元気だった。

翌日、実技を中心に行う。
これが功を奏し、今回はいい講習会だった。
久しぶりに、それを感じた。
みんなの顔をみればわかる。
わからないながらも、学習の喜びを感じ取っている。

概念化されていない若いセラピストは特にそれを感じた。
自分の身体も知らないのに、
どうして患者に運動・動作を教えることができるのか。

それに気づいてもらえればよいと思う。
両恩師は相も変わらず、講義がうまい。

その夜、スタッフと懇親会があったが、
どうも調子が悪い。
午前様にならない23時半といった早々の時間に引き上げ、
寝たが、翌日の講義をなんとかしないといけない。
そして、急きょ、プログラムの変更。
受講生の学習の手続きを考えた上での変更である。
つまり、講習会とは流れであり、
それは神経の流れとも似ており、
局在が別々に発火しても意味がないのである。
神経の興奮でなく、組織化、
流れが大事である。
連合野での処理がないまま、興奮を求めれば、
かい離が生じる。
受講生とのかい離が生じる。

反射と一緒である。
脳をシステムとして考えるとそれは妥当であり、
社会を同じくシステムとして考えても妥当である。

実習は大変だ!!!と連呼して、
学生に恐怖を与えている教育者も、
実は心の反射回路を刺激しているのにすぎないことに気づいてほしい。
いまだに、そういう思考回路が続いているのが悲しい。
時代が変われば、思考も変わる。
昔話ばかりのナルシストにはなりたくないものだ。

最終講義では、認知神経リハビリテーションの構造を
脳の機能から説明し、脳を知るとは自らの脳を知る手続き、
セラピストの脳が変わらなければ、患者の脳も変わらぬ。
そういう視点を脳科学からの述べた。


そして、「ロマンティックリハビリテーション」


学校で習ったことをすべて忘れる。
アインシュタインの言葉が染みる。


質問タイムでは、「過去」「現在」「未来」が取り上げられたが、
ささやかでも良いから、
「~ように」生きたいを想像することかな。
人生はバイアスだらけである。
それが間主観性である。
バイアスのない世界を想像してみると、
それは無機質な地球である。
有機体として地球に存在している以上、
バイアスはかかって当然である。
何もおそれることはない、
しかし、物事はそんなに単純なものでない。
側面、裏面、あらゆる角度(空)、そして時間から、
物事をとらえる科学的態度が必要である。
人生はバイアスがあるからすばらしいものいになるが、
そのバイアスに胡坐をかいていれば、
世の中は停滞してしまう。


脳が解明されていれば、とっくに脳卒中は治っている。
人間の思考よりも、
脳の構造と機能が恐るべき深さと広がりを持っているからである。
人間は自らの脳に負けている。
自らの脳の数パーセントしかまだ発揮できていない。


もうすぐ2010年、この10年を振り返らず、
つぎの10年を想像して、
自らの仕事を夢あるものにしようじゃないか。
同士たち。


やっと、このようなブログを打つことができるまで回復してきたが、
37度代から下がらず、腹部は激痛である。

ブログが少しの安らぎと思って書いた。

採点に戻ります。




現実に突き戻される、その時間はスピーディー

2008年02月07日 23時59分54秒 | 過去ログ
アムステルダムからの帰国便は、とってもすいており、
シート3席どころか、下手すれば、前後も含め6席ぐらいを占拠できた。
おかげで、横になって寝ることもでき、
楽なフライトだった。

いつもなら、カウンターで、
非常口か、一番前をリクエストするのだが、
今回は、カウンターでのチェックインでなかったため、
それがリクエストできなかった。
時代は電子化である。
こうなれば、ビジネスクラスに変更させていただきました!
なんてことはもうないのかも。
そのときのうれしさは相当なんだが。
けれども、今回ばかりは一番前にしなくてもよかった。

帰国後、少し眠り、
採点に追われ、大学院の研究費の管理に追われ、
そして会議に追われ、と怒涛の現実化の時間経過であり、
それはそれは、アムステルダムの自由とは大違いな意識となった。
こんな日本の会議づめが好きな人もいるような感じだが。
権力を好む人たちはそうなのかもしれない。
こっちは1分1秒争うが、その時々の感情の起伏があるため、
研究室にひっきりなしに来る学生たちには、
愛想のいいときと、悪いときの、運があり、
かわいそうな感じもする。
学生は見ていないようで観ている。

彼らの脳も前頭葉と辺縁系が双方向に葛藤しあっているのだろう。

今日は、再来週から始まる3回生の評価実習の挨拶電話をした。

good study, good jobを祈る。

結局、あすからの現職者講習会の講演準備はできず、
明日の新幹線となるか、
そのままホワイトボードにぶっつけ本番か、
後者のほうが情報を絞り、ライブ感あってよいのかもしれない。

講習会は学会単独講演とは違い、チームアプローチなので、
自らの欠点を誰かが補う、というシステム機能が創発するので、
逆に情報を絞ることが大事なのかもしれない。

昔の僕は、情報を圧倒していた。

今は、そういう肩の力は抜けてきた。

いい意味で大人になったのか、
悪い意味でアグレッシブが欠如してきたのか、

それは、他人が評価することである。

わかることは、かわること。

かわることは、成長すること。

それこそ、神経可塑性である。

さて、少し眠り、早朝に「新富士」に向けて出ることにするか。

ラクにいこうぜ! と「ゆず」が耳元で歌っている。

3回生のみんなも、ラクにいこうぜ!

悲壮感なんか捨てて。

4回生のみんなは、まだラクには行かないでください・・・・・願。


社団法人日本理学療法士協会現職者講習会

2008年02月07日 10時37分48秒 | 過去ログ

日本理学療法士協会現職者講習会

日 時:平成20年2月8日(金)~10日(日)

講 師:宮本省三(高知医療学院 理学療法士)  

          沖田一彦(県立広島大学 理学療法士)  

     内田成男(富士リハビリテーション専門学校 理学療法士)  

     森岡 周(畿央大学 理学療法士)  

     中里瑠美子(都立大塚病院 作業療法士)  

     原  修(JAリハビリテーション中伊豆温泉病院 理学療法士)  

     寺林大史(慶應義塾大学月が瀬リハビリテーションセンター 理学療法士)

会 場:富士リハビリテーション専門学校    

     〒417-0061 静岡県富士市伝法2527-1

講義内容:「リハビリテーションのための脳・神経科学」

       「リハビリテーションのための認知神経科学」を講義予定