森岡 周のブログ

脳の講座や講演スケジュールなど・・・

いまだに続く機械論

2010年02月18日 12時01分46秒 | 過去ログ
一昨日,人間発達学の再試験をした.
その数時間前,再試験受験者の学生と外で出会った.

その際,「先生,どのように書いてよいかわかりません」
と.
この気持ち,わからないでもないが,1時間前にそのようなことをいうこと,
そして,それ自体は学生でも,卒業してもよくある問いである.
たとえば,何から勉強してよいかわかりません.
も,その一つである.

これは暗黙の文脈で,道順を教えてほしい,との願望が存在している.
たとえば,講習会でも,認知症の人にはどのように介入すべきか?
あるいは失語,感覚障害など・・・このたぐいの質問も道順を教えてもらいたいとの意見が内在している.
その気持ちは,わらにでもすがる思いで,わからないでもない.
しかし,それは問題解決能力を奪ってしまう.

道順を教わっても,それは己で歩いた道ではない.
新たな問題は,いくなんどき,すぐさま現れる.
その際,また同じように,道順を尋ねる.
そのたずね方に問題がある.

ある程度,自分で歩き,そのあと,複数の道があるが,今までの経過から考えて,どのように選択すべきか,その道を共同注意できていれば,援助することができるが,まったくもって,自らの足で歩いていこうという姿勢がないものに対して,道順を教えれば,必ず,またもや壁にぶち当たる.

「わからないです」ではなく,「わかろうとする姿勢」から人生は始まる.
もちろん,複雑極まりない人間を理解するというのも,姿勢・態度である.

人間は自然の一部であり,自然現象なのである.
先日,院生の論文の査読に「自然治癒」か「訓練効果」が厳密に区別できないとの意見があり,2年間修正を加えた論文がリジェクトになった.
理学療法では一番有名なものである.
これは症例研究である.
RCTでもなんでもない.
人間の回復は,人間の手でも行われるが,そのほかの環境すべてが関わる.
なぜなら,人間は環境そのものなんだから.
だから,いろんな効果があらわれ,相乗効果をつくる.
それには,本人の意思,家族の思いももちろん加わる.
人間の神経細胞は1000億,そしてそのシナプス結合は,宇宙に匹敵する.
人間の脳は 10の11乗のニューロンと, 10 の15乗のその結合(シナプス)からなり,そのシナプスの多様性は10 の10乗の6乗という超天文学的数字になる.

だとすれば,理学療法の効果だけで実証するなんていうのは,
一部であろうともいえない(どのように手続きが優れていても可能性である).
ある現象を運動学分析で行ったとしても,
その背景となる要因をすべて捨て去ることはできない.
なぜなら,その間も生きているのだから.

精神と行為を分離してはならない.
もし人間が機械であれば,そういう実証作業もテクニカルに作ることができるかもしれないが,心と体は分離できない.

患者さんは理学療法の効果を望んでいるわけはない.
理学療法でもなんでも,私自身を取り戻せるのであれば,よいのである.
自然治癒も環境によってつくられるものである.

行為だけでも,環境だけでも,遺伝子だけでも,言葉だけでも,認知だけでも,発達には不十分である.
すべてが相乗的に機能することで,人間を創っていくのである.
創発とはそういうものである.


peerレビューの名の下,やられているようだが,
批判的吟味は時代がつくるものである.
一査読の個人的意見がつくるものもではない.
コペルニクスの垢を煎じて飲ませたい.


一症例を大事にしない機械論者は,本当の意味のリハビリテーションを理解していないと思う.
科学という言葉の使い方が間違っているようにも思う.

だから,誰も読まない学術誌を作ってしまうのだ.
先日,ある専門学校の教員の先輩は,その学術誌を封も切らずに捨てるという,ことを聞いた.
それでは良くないと思いつつ,もうそういう時代になったのかと思い,
さびしくなった.

もちろん,私も科学者のはしくれだから,実験研究においては,
それ相応の統制を加え,いらない要因を排除し,実証に近づける.
しかし,一症例では,その統制は無理だし,
ましてや患者さん自体がそんなことを望んでいない.

症例報告のない臨床雑誌が存在する.
理学療法は臨床である.
数値だけですべてが語ることができるのか,という問いと同時に,
数値だけのエビデンスを求めれば,ものいわない,分子を相手にするしかない.
しかし,その分子も生命の一部である.


いろんな意味でことばが一人歩きしている.

私の講演もその一つなのかもしれない.