ここ数日間、ブログをUPできなかった。
まるっきり時間がなかったわけではないが、
深夜あるいは朝にそれをすることはできなかったということになろうか。
「ムチ」を入れて書くこともないだろうという判断である。
しかし、その鮮明な記憶のうちに、
再度、一日を組織化するためのブログ打ちがないのはよくないと思った。
synergy後色んな人たちとも出会い、
もちろん、授業も行い、
そこには自己批評(反省)も行っていたが、
その意識をより鮮明に顕在化していく作業にブログは役立つ。
記憶とは本当に残りづらいもので、
そこに感情を注入するこの作業おいて、
今までの経験(内部モデル)から、それを自己組織化することに意味をもつ。
子どもの発達が単に教師なし、教師あり、強化という3層でわかれていなく、
それらがダイナミックに環境に応じながらモジュール同士が相互作用することで、
次のステージへ突然進む。
それは「言語化」していくことで、
脳のなかで組織化されていく。
昨週までに1章分を仕上げておこうと思ったが、
体と相談しながらそのフィニッシュは昨日になった。
もう1章分を今日からスタートした。
授業、会議と本業の傍ら、もちろん研究も本業なのだが、
それをして、
今は毎日来る大学院生のアジア理学療法学会の抄録の修正だ。
自分はエントリーしなかった。
M2のうち、7名が発表する。
まだ仕上がっていない抄録が2本ほどある。
明日だな。
自分はもう1999年のWCPT以来日本で行う国際学会にはエントリーしていない(しない)。
もちろん毎年国際学会にはエントリーはしているのだが、
日本で英語を使うのがどうも抵抗がある。
合理的でいいという人がいるが、
僕はその「合理的」にどうも親しめないのだろう。
外国に行って、からだに体験を植えつける。
その知覚‐行為の円環がやはり好きだ。
予測を若干超え続ける。
この知覚を常に作りたい。
そうすれば、自己成長に常につながる。
世の中の流れは、それを止め、
合理的な、どこに行っても「同じ」世界を作りたがる。
マトリョーシカ人形みたいな「県学会」
ファミレス的「地方学会」、ファミレス的「病院」
どこでも同じサービス。
それが安楽なのだが。
身体の安楽、思考の安楽は
必ず「こころ」の安楽をつくる。
そうすれば、「違う」意識に出会ったときに、
必ず、攻撃するかネグレクトする、あるいは、「枠組み」をつくる。
その枠組みは「相容れない」ものであり、
近年の日本のひずみ、世界のひずみを作ってしまう。
きれいな世界は目に見える世界ではない。
雑草があつまり「田舎」のきれいな風景をつくる。
都市部の屋上の作られた緑は、
一見整備された「きれいな」風景かもしれないが、
無機的で人工的なものである。
有機的で凸凹なこころを持った人間のオアシスにはなりえない。
凸凹を知らない世代は、
凸凹な意識に出会うと、とたん狂う。
学校で習ったことの無い凸凹、
学校の先生とは違う意識の凸凹、
そして、自分とは違う意識の凸凹、
それに出会って瞬間、
閉じた自分の心のなかでしか生きられなくなる。
人間のこころは違って当然。
脳の神経細胞は宇宙に匹敵する。
さらに空間のみならず、人の意識は時間で刻々に変化している。
同じときなんかはない。
違うことを知ること。
まずはそこから始まる。
そして、違ったことから、
自らの内部モデルを更新していく。
それが学習だし、成長だ。
内部モデルを更新できず、
ず~と同じ自己意識のままいると、
それは殻に閉じこもった「有機的」に活動できない身体となってしまう。
心が身体化される瞬間だ。
そうすれば、心的イメージが浮かばない。
ならば、帰ってくるフィードバックに一喜一憂し、
それが痛みにかわる(心も体も)。
まさに、実習で苦労している人間たちは、
それに出会っている。
「違って当然」
その意識に出会うことによって、やっと心が成人になるのである。
それは天寿を全うするときかもしれないが、
それに近づこうとするのが人間なのかもしれない。
まだまだ、学生に「イラっ」ときたりする自分は、
そこに到達してはいない。
まるっきり時間がなかったわけではないが、
深夜あるいは朝にそれをすることはできなかったということになろうか。
「ムチ」を入れて書くこともないだろうという判断である。
しかし、その鮮明な記憶のうちに、
再度、一日を組織化するためのブログ打ちがないのはよくないと思った。
synergy後色んな人たちとも出会い、
もちろん、授業も行い、
そこには自己批評(反省)も行っていたが、
その意識をより鮮明に顕在化していく作業にブログは役立つ。
記憶とは本当に残りづらいもので、
そこに感情を注入するこの作業おいて、
今までの経験(内部モデル)から、それを自己組織化することに意味をもつ。
子どもの発達が単に教師なし、教師あり、強化という3層でわかれていなく、
それらがダイナミックに環境に応じながらモジュール同士が相互作用することで、
次のステージへ突然進む。
それは「言語化」していくことで、
脳のなかで組織化されていく。
昨週までに1章分を仕上げておこうと思ったが、
体と相談しながらそのフィニッシュは昨日になった。
もう1章分を今日からスタートした。
授業、会議と本業の傍ら、もちろん研究も本業なのだが、
それをして、
今は毎日来る大学院生のアジア理学療法学会の抄録の修正だ。
自分はエントリーしなかった。
M2のうち、7名が発表する。
まだ仕上がっていない抄録が2本ほどある。
明日だな。
自分はもう1999年のWCPT以来日本で行う国際学会にはエントリーしていない(しない)。
もちろん毎年国際学会にはエントリーはしているのだが、
日本で英語を使うのがどうも抵抗がある。
合理的でいいという人がいるが、
僕はその「合理的」にどうも親しめないのだろう。
外国に行って、からだに体験を植えつける。
その知覚‐行為の円環がやはり好きだ。
予測を若干超え続ける。
この知覚を常に作りたい。
そうすれば、自己成長に常につながる。
世の中の流れは、それを止め、
合理的な、どこに行っても「同じ」世界を作りたがる。
マトリョーシカ人形みたいな「県学会」
ファミレス的「地方学会」、ファミレス的「病院」
どこでも同じサービス。
それが安楽なのだが。
身体の安楽、思考の安楽は
必ず「こころ」の安楽をつくる。
そうすれば、「違う」意識に出会ったときに、
必ず、攻撃するかネグレクトする、あるいは、「枠組み」をつくる。
その枠組みは「相容れない」ものであり、
近年の日本のひずみ、世界のひずみを作ってしまう。
きれいな世界は目に見える世界ではない。
雑草があつまり「田舎」のきれいな風景をつくる。
都市部の屋上の作られた緑は、
一見整備された「きれいな」風景かもしれないが、
無機的で人工的なものである。
有機的で凸凹なこころを持った人間のオアシスにはなりえない。
凸凹を知らない世代は、
凸凹な意識に出会うと、とたん狂う。
学校で習ったことの無い凸凹、
学校の先生とは違う意識の凸凹、
そして、自分とは違う意識の凸凹、
それに出会って瞬間、
閉じた自分の心のなかでしか生きられなくなる。
人間のこころは違って当然。
脳の神経細胞は宇宙に匹敵する。
さらに空間のみならず、人の意識は時間で刻々に変化している。
同じときなんかはない。
違うことを知ること。
まずはそこから始まる。
そして、違ったことから、
自らの内部モデルを更新していく。
それが学習だし、成長だ。
内部モデルを更新できず、
ず~と同じ自己意識のままいると、
それは殻に閉じこもった「有機的」に活動できない身体となってしまう。
心が身体化される瞬間だ。
そうすれば、心的イメージが浮かばない。
ならば、帰ってくるフィードバックに一喜一憂し、
それが痛みにかわる(心も体も)。
まさに、実習で苦労している人間たちは、
それに出会っている。
「違って当然」
その意識に出会うことによって、やっと心が成人になるのである。
それは天寿を全うするときかもしれないが、
それに近づこうとするのが人間なのかもしれない。
まだまだ、学生に「イラっ」ときたりする自分は、
そこに到達してはいない。