日本の演説――超然、共和演説Japanese Speech--Chouzen, Kyouwa speech
平成辛卯廿三年葉月十三日
年代順だと超然演説(内閣総理大臣・黒田清隆)1889年となりますが、
超然主義は、第2代内閣総理大臣の黒田清隆が大日本帝国憲法公布の翌日である1889年(明治22年)2月12日、鹿鳴館で催された午餐会(昼食会)の席上、地方官を前にして行った、以下の演説(いわゆる「超然主義演説」)において表明された。
---…憲法は敢(あえ)て臣民の一辞(いちじ、ひとこと)を容(い)るる所に非(あらざ)るは勿論なり。唯た(ただ?)施政上の意見は人々其所説(しょせつ、主張)を異にし、其合同する者相投して(あいとうじて)団結をなし、所謂(いわゆる)政党なる者の社會に存立するは亦(また)情勢の免(まぬが)れさる所なり。
---然れとも政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正(しこうしせい、この上なく公平で正しい)の道に居らさる可らす(おらざるべからず)。各員(かくいん)宜(よろし)く意を此に留め、不偏不党の心を以て人民に臨み、撫馭(ぶぎょ)宜きを得、以て国家隆盛の治を助けんことを勉むへきなり(つとむべきなり?)…
*あまり聞きなれませんが、他の動きには関知せず、自分独自の立場から事を行う主義とのことで、翌日、大日本帝国憲法起草を主導した伊藤博文も同様の主張を表明する演説を行った。 第1回衆議院選挙が行なわれたのが明治23年(1890年)の7月1日だそうです。この年の11月29日に最初の議会が開かれたらしい。帝国議会の始まりは個性の強い集まりであったろう。批判勢力がおり、選挙干渉事件などが、却って議会の審議を停滞させたばかりでなく、一般国民の反発を買った。結局、伊藤博文は超然主義を取って議会との対立を続けるよりも自らが目指す近代国家の方向性を実現させるための政党結成に乗り出す事を考え、1900年に立憲政友会を旗揚げして政府の内側から超然主義を否定する動きに出たのである。 他方、山県有朋は、政党から超然とする超然主義を主張しています。
念のために、内閣総理大臣黒田清隆は薩摩出身です。伊藤、山県は長州出身ですね。
1代から7代まで見事に長州、薩摩と交代で総理が選ばれています。①伊藤博文②黒田清隆③山県有朋④松方正義⑤伊藤⑥松方⑦伊藤 と、たらい回しですね。
共和演説(第1次大隈内閣文部大臣・尾崎行雄)1898年
共和演説(きょうわえんぜつ)は、第1次大隈内閣(隈板内閣)の文部大臣であった尾崎行雄が1898年8月21日に行った演説である。これがもとで隈板内閣瓦解の発端となった事件となる。Netで調べると、
尾崎は1898年8月21日に帝国教育会茶話会で行った演説の中で、
『世人は米国を拝金の本元のように思っているが、米国では金があるために大統領になったものは一人もいない。歴代の大統領は貧乏人の方が多い。日本では共和政治を行う気遣いはないが、仮に共和政治がありという夢を見たとしても、おそらく三井、三菱は大統領の候補者となるであろう。米国ではそんなことはできない。』と発言した。
この発言の趣旨は当時蔓延していた財閥中心の腐敗した金権政治の風潮を批判したものだった。
ところが、「共和政治となる」とは、「日本から天皇がいなくなる」という意味なのですね。これが大日本帝国憲法下の当時の日本では「不敬の言」であると曲解され、まず宮内省から批判の声が挙がり、初の政党内閣である隈板内閣に批判的な枢密院・貴族院に非難の声は広がり、さらに与党憲政党内旧自由党派の実力者星亨が、陸軍大臣桂太郎らと密かに連携して尾崎排除を計画、隈板内閣を嫌っていた伊藤博文の盟友伊東巳代治が社主を務める東京日日新聞も尾崎攻撃を開始した。尾崎は9月6日に参内して明治天皇に謝罪し、更に辞職をするなら一蓮托生と大隈重信首相に食いさがるが、同年10月22日明治天皇より不信任の意向が伝えられたことにより、10月24日に辞任を余儀なくされた。
その後任をめぐって旧進歩党・旧自由党両派の対立は深刻化し、妥協点を見出せないまま、大隈首相は独断で進歩派から犬養毅を後任に推した。これに対し3日後10月27日の就任式当日、内務大臣板垣退助が反対意見を上奏、翌日板垣ら旧自由党派三大臣が辞任、さらに与党憲政党も分裂し、隈板内閣は10月31日に崩壊した。まもなく憲政党は旧自由党派を中心とする憲政党と旧進歩党派を中心とする憲政本党に分裂した。
*尾崎行雄は、真の民主政治と世界平和の実現にその一生を捧げた政治家である。若くして自由民権運動に身を投じ、保安条例により東京退去を命じられ海外(米国・英国)に渡るが、国会開設(1890年)とともに衆議院議員に選ばれ、以来、議席にあること63年(連続当選25回)、世界議会史上の記録を打ち立てた。素志は藩閥軍閥の打破、民主政治の確立にあり、あらゆる権力の弾圧にも屈せず、常に民衆の側に立って闘った。その雄弁は天下に鳴り、憲政擁護運動が起こると人は彼を「憲政の神」と呼んだ。また、軍国主義が一世を支配するに及んでも平和の信念を曲げず、軍縮を説き単身全国遊説を始めるとともに、三たび辞世を懐にして議政壇上に立ち、国論に警告することをやめなかった。そして晩年は、廃藩置県ならぬ廃国置州という考えに基づく「世界連邦」の建設を提唱。議会政治の父と仰がれつつ一生の幕を閉じた(享年95歳)。 普通選挙に基づく民主政治の確立と、軍縮・世界平和の実現を目指した尾崎。民主主義と平和主義の精神を、国民一人一人が自らのものにすることの大切さを尾崎は終始説き続けた。
良き座右の銘がある。『人生の本舞台は常に将来にあり』
尾崎は東京市長時代(1903年~1912年)、日露戦争の際に米国が日本に対して好意的だったことに非常に感謝していた。1912年、桜の苗木3000本を送った。苗木は無事育ち、現在も見事な美しさでポトマック河畔の春を彩っている。(ブログ既出、桜の環、平22年4月)
ちなみに、大隈重信8代総理は肥前(佐賀)出身ですね。この後、長州が⑨山県⑩伊藤⑪桂太郎と続いていきました。(日本の演説 続く)
平成辛卯廿三年葉月十三日
年代順だと超然演説(内閣総理大臣・黒田清隆)1889年となりますが、
超然主義は、第2代内閣総理大臣の黒田清隆が大日本帝国憲法公布の翌日である1889年(明治22年)2月12日、鹿鳴館で催された午餐会(昼食会)の席上、地方官を前にして行った、以下の演説(いわゆる「超然主義演説」)において表明された。
---…憲法は敢(あえ)て臣民の一辞(いちじ、ひとこと)を容(い)るる所に非(あらざ)るは勿論なり。唯た(ただ?)施政上の意見は人々其所説(しょせつ、主張)を異にし、其合同する者相投して(あいとうじて)団結をなし、所謂(いわゆる)政党なる者の社會に存立するは亦(また)情勢の免(まぬが)れさる所なり。
---然れとも政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正(しこうしせい、この上なく公平で正しい)の道に居らさる可らす(おらざるべからず)。各員(かくいん)宜(よろし)く意を此に留め、不偏不党の心を以て人民に臨み、撫馭(ぶぎょ)宜きを得、以て国家隆盛の治を助けんことを勉むへきなり(つとむべきなり?)…
*あまり聞きなれませんが、他の動きには関知せず、自分独自の立場から事を行う主義とのことで、翌日、大日本帝国憲法起草を主導した伊藤博文も同様の主張を表明する演説を行った。 第1回衆議院選挙が行なわれたのが明治23年(1890年)の7月1日だそうです。この年の11月29日に最初の議会が開かれたらしい。帝国議会の始まりは個性の強い集まりであったろう。批判勢力がおり、選挙干渉事件などが、却って議会の審議を停滞させたばかりでなく、一般国民の反発を買った。結局、伊藤博文は超然主義を取って議会との対立を続けるよりも自らが目指す近代国家の方向性を実現させるための政党結成に乗り出す事を考え、1900年に立憲政友会を旗揚げして政府の内側から超然主義を否定する動きに出たのである。 他方、山県有朋は、政党から超然とする超然主義を主張しています。
念のために、内閣総理大臣黒田清隆は薩摩出身です。伊藤、山県は長州出身ですね。
1代から7代まで見事に長州、薩摩と交代で総理が選ばれています。①伊藤博文②黒田清隆③山県有朋④松方正義⑤伊藤⑥松方⑦伊藤 と、たらい回しですね。
共和演説(第1次大隈内閣文部大臣・尾崎行雄)1898年
共和演説(きょうわえんぜつ)は、第1次大隈内閣(隈板内閣)の文部大臣であった尾崎行雄が1898年8月21日に行った演説である。これがもとで隈板内閣瓦解の発端となった事件となる。Netで調べると、
尾崎は1898年8月21日に帝国教育会茶話会で行った演説の中で、
『世人は米国を拝金の本元のように思っているが、米国では金があるために大統領になったものは一人もいない。歴代の大統領は貧乏人の方が多い。日本では共和政治を行う気遣いはないが、仮に共和政治がありという夢を見たとしても、おそらく三井、三菱は大統領の候補者となるであろう。米国ではそんなことはできない。』と発言した。
この発言の趣旨は当時蔓延していた財閥中心の腐敗した金権政治の風潮を批判したものだった。
ところが、「共和政治となる」とは、「日本から天皇がいなくなる」という意味なのですね。これが大日本帝国憲法下の当時の日本では「不敬の言」であると曲解され、まず宮内省から批判の声が挙がり、初の政党内閣である隈板内閣に批判的な枢密院・貴族院に非難の声は広がり、さらに与党憲政党内旧自由党派の実力者星亨が、陸軍大臣桂太郎らと密かに連携して尾崎排除を計画、隈板内閣を嫌っていた伊藤博文の盟友伊東巳代治が社主を務める東京日日新聞も尾崎攻撃を開始した。尾崎は9月6日に参内して明治天皇に謝罪し、更に辞職をするなら一蓮托生と大隈重信首相に食いさがるが、同年10月22日明治天皇より不信任の意向が伝えられたことにより、10月24日に辞任を余儀なくされた。
その後任をめぐって旧進歩党・旧自由党両派の対立は深刻化し、妥協点を見出せないまま、大隈首相は独断で進歩派から犬養毅を後任に推した。これに対し3日後10月27日の就任式当日、内務大臣板垣退助が反対意見を上奏、翌日板垣ら旧自由党派三大臣が辞任、さらに与党憲政党も分裂し、隈板内閣は10月31日に崩壊した。まもなく憲政党は旧自由党派を中心とする憲政党と旧進歩党派を中心とする憲政本党に分裂した。
*尾崎行雄は、真の民主政治と世界平和の実現にその一生を捧げた政治家である。若くして自由民権運動に身を投じ、保安条例により東京退去を命じられ海外(米国・英国)に渡るが、国会開設(1890年)とともに衆議院議員に選ばれ、以来、議席にあること63年(連続当選25回)、世界議会史上の記録を打ち立てた。素志は藩閥軍閥の打破、民主政治の確立にあり、あらゆる権力の弾圧にも屈せず、常に民衆の側に立って闘った。その雄弁は天下に鳴り、憲政擁護運動が起こると人は彼を「憲政の神」と呼んだ。また、軍国主義が一世を支配するに及んでも平和の信念を曲げず、軍縮を説き単身全国遊説を始めるとともに、三たび辞世を懐にして議政壇上に立ち、国論に警告することをやめなかった。そして晩年は、廃藩置県ならぬ廃国置州という考えに基づく「世界連邦」の建設を提唱。議会政治の父と仰がれつつ一生の幕を閉じた(享年95歳)。 普通選挙に基づく民主政治の確立と、軍縮・世界平和の実現を目指した尾崎。民主主義と平和主義の精神を、国民一人一人が自らのものにすることの大切さを尾崎は終始説き続けた。
良き座右の銘がある。『人生の本舞台は常に将来にあり』
尾崎は東京市長時代(1903年~1912年)、日露戦争の際に米国が日本に対して好意的だったことに非常に感謝していた。1912年、桜の苗木3000本を送った。苗木は無事育ち、現在も見事な美しさでポトマック河畔の春を彩っている。(ブログ既出、桜の環、平22年4月)
ちなみに、大隈重信8代総理は肥前(佐賀)出身ですね。この後、長州が⑨山県⑩伊藤⑪桂太郎と続いていきました。(日本の演説 続く)