そもそも・・・Precisely・・・ 平成庚寅廿二年神無月十五日
平成も22年。世界は多極化し、対決から共生の時代へ大きく流れを変えようとしている。 これからを考えると、戦前は天皇制儒教が柱でした。戦後は何だろうと考えざるを得ない。 普天間問題を考えるにつけ「そもそも米国依存体質はどこから来たのだ?」となった。 答えは何と「昭和天皇」が決めたものだった。
『昭和天皇・マッカーサー会見』豊下楢彦(ならひこ)関西学院大学教授(岩波現代文庫)という素晴らしい研究と、それを補足するかのような『昭和史 戦後編』半藤一利(平凡社ライブラリー)を読んで、目から鱗が落ちる思いだった。
平成になって、昭和天皇の研究は進んだという。両者とも、「昭和天皇独白録」や元宮内庁長官の「富田メモ」や会談の通訳者・奥村勝蔵・寺崎英成・松井明氏の日記、メモ、文書、入江相政日記、当時の皇太子の家庭教師であったブァイニング夫人の日記など、膨大な未解明資料を解読し、どのような会談であったかと事実に近い推論を展開した。
この会談は昭和20年9月27日を第1回とし、26年4月15日まで11回行われた。
第1回目で「私は、国民が戦争遂行にあたって政治軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」と、天皇は述べ、マッカーサーを感動させた。
そして、天皇は「私としては決して戦争を望んでいなかったが、自分であれ(他のいかなる天皇であれ)開戦時に政界や世論の圧力に対して有効な抵抗をすることはできなかった」と答えた。 マッカーサーはこの発言に反駁する証拠が見つからなかった以上、結論として天皇は国家の意思決定において「形式的役割」を担っていたにすぎず、いわば「あやつり人形」に他ならなかったとした。
これを裏づけるように、ブァイニング夫人の日記に、「私は決して戦争を望んでいなかった。なぜならば、私は戦争で勝てるとは思わなかったからだ。私は軍部に不信感を持っていた。そして、私は戦争にならないようにできる限りのことをした。」と記されている。
天皇は東条大将に対して絶大な信頼を寄せていたのではあるが(側近日誌)、宣戦の詔書を東条大将が使用した如くに使用する意図はなかったと回答し、結局のところは「すべての責任を東条にしょっかぶせるしかないと思うのだ」(東久邇発言)という当時の”流れ”に乗った形になった。そして、極東委員会設置、人間宣言と続き、東京裁判となる。
昭和21年10月第3回目で、憲法9条をめぐって、天皇は「戦争放棄を決意実行する日本が危険にさらされる事のない様な世界の到来を1日も早く見られる様に念願せずには居れません」と表明。それに対して、理想主義のマッカーサーは「戦争を無くすには戦争を放棄する以外に方法はありません」と、第9条の意義を強調した。
昭和22年5月第4回目で、 天皇は「日本が完全に軍備を撤廃する以上、その安全保障は国連に期待せねばなりません」と切り出した上で、しかし、「国連が極東委員会の如きものであることは困ると思います」と国連に期待できない旨を強調した。
極東のスイス論者(リーダース・ダイジェスト)たるマッカーサーは、「軍を持たないこと自身が日本のためには最大の安全保障であって、これこそが日本の生きる唯一の道だ」と、天皇を説得したが、新憲法施行後、“象徴”であるはずの天皇が、国民の意見も聞かず、「日本ノ安全保障ヲ図ル為ニハ、アングロサクソンノ代表者デアル米国ガ其のイニシアチブヲ執ルコトヲ要スルノデアリマシテ、此ノ為元帥ノ御支援ヲ期待シテ居リマス」と、米軍による防衛の保障を求めた。豊下氏は、1年9カ月前までは、アジア・太平洋諸国を「危険にさらしていた」国の「象徴」がその償いも何ら果たしていない段階で、しかも、戦争放棄の第9条がなぜ求められることになったのかという歴史的経緯もほとんど認識されていないかのように、ひたすら自らの国が「危険にさらされる」ことのみを考え、アジアや世界に眼を向けることもなく、もっぱら占領者のアメリカに「安全保障」を求めるという発想方法には、ただ驚かされるばかりであると、述べている。 天皇家は政治には一切口出しをしないと決められているわけで、考えようによってはこれは憲法違反なんですよね」と半藤氏も述べている。
昭和22年11月第5回目では、話が進んで、アメリカ軍が日本を守るために、基地を設けて駐留するという話が日本政府に伝わる。片山・芦田の連立内閣で外務大臣の芦田均さんが、「日本のどこでもよろしい」と言ったらしいが、このことが耳に入った天皇は「それはまずい」と寺崎通訳を介してGHQに「沖縄メッセ―ジ」として文書を届けた。
天皇の意向とは日本本土はまずい、沖縄がよろしい、沖縄をお貸しする、「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」のもとで米軍に沖縄占領の継続を認めるという内容で、それをアメリカ軍のシーボルトという方を通じてGHQに届けました。これは「寺崎日記」にはっきり出てきているという。
ここの会談記録は外務省にはあるが公開されていませんね。
事実とすれば、これは明白な「政治的行為」であり、憲法の規定に基づく本来の外交主体の“頭越し”になされた典型的な“二重外交”そのものであろう。(豊下氏)
昭和24年11月25日第9回目になると、世界情勢が変化してくる。
ソ連が原爆の保有。中国の共産政権の樹立からの脅威。翌年は朝鮮戦争はじまります。
講和条約にあたり、今までの理想主義からマッカーサーは変更し、日本への侵略が米国との全面戦争を意味することをソ連に明確にさせる目的のために、講和後も、日本に海空軍基地を保持するという考えをとるに至った。
昭和26年4月15日第11回目で、マッカーサーは去るに当たっても、アメリカが日本を守るという政策は不変と保証した。
天皇は「戦争裁判に対して、貴司令官がとられた態度について、この機会に私は謝意を表したいと思います」と述べた。
東京裁判が何とはなしに、天皇を訴追しない、起訴しない、免訴するという形において実行された。それについて天皇は感謝したのである。 それにしても、全会見記録の公開に踏み切ることを切望する。
アメリカのマッカーサーが厚木飛行場に降りたってから、日本は占領され、次の国家をどうすべきかを考えないで、そのままずるずると引っ張ってきてしまった。つまり、占領時代をそのままに受け継いできてしまったというのが事実である。
会見内容が事実だとしたら、ある意味ではもうすでに出来上がってしまっていたことになる。密室でなりふりかまわず決められ、すでに60年以上経ってしまった。
現菅首相は4年前「昭和天皇は退位すべきだった」としていた。私のブログ平成18年8月22日「曖昧さからの脱却」として書きました。
戦前は天皇制儒教であったが、戦後は?という問いに半藤氏より天皇制・軽武装・経済第一でしょうね。天皇制は明治より変わらず、大嘗祭という神との共寝共食の秘儀と三種の神器を懸命に守っていかれるでしょう。天皇は戦後から人間宣言となり、国家神道は天皇家一宗教となったはず。だが、戦前に戻った感じである。平成天皇即位のときには、大嘗祭で、公私混同の”象徴“として振る舞われた。法に規定のないいかにも曖昧で、国民とは乖離している。
豊下氏は、語る。:敗戦直後からの戦犯訴追の危機を「すべての責任を東条にしょっかぶせるがよい」という基本路線に立って、”日米合作”で東京裁判を切り抜け、その後の共産主義の脅威に対しては、沖縄の米軍支配と安保条約による日本の防衛という体制を築きあげるために、昭和天皇は全力を傾注したのである。
こうした天皇にとっては東京裁判と安保体制は「三種の神器」に象徴される天皇制を防衛とするという歴史的な使命を果たす上で、不可分離の関係に立つものであったと。
「昭和天皇独白録」で「敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下はいり、神器の移動の余裕がなくなる。これでは国体護持は難しい」と述べている。
「国体護持」とは「三種の神器」の確保にほかならず、基地はどこでもよいでなく、沖縄となったのであろう。また「あの戦争については「反対」であった。自らの「意に反した」戦争であった」と述懐している。先日取り上げた「カウラ脱走」で犠牲となった戦没者達はいかなる意味で「英霊」なのであろうか。
東条英機が陸軍大臣であった1941年1月に発した戦陣訓では「皇軍軍紀の神髄は畏(かしこ)くも、大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神に存す。上下斉しく統帥の尊厳なる所以を感銘し、上は大意意の承行を謹厳にし、下は謹んで服従の至誠を致すべし」 「命令一下欣然として死地に投じ、黙々として献身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり」と謳われていた。「天皇の意を体した戦争」に殉じたはずの「英霊」達は今や、実はあの戦争は「天皇の意に反した戦争であった」と宣告されているのである。これ程の欺瞞と悲劇性があるだろうか。
戦後の日本は根本的な“ねじれ”の問題を正面から問い詰めることなく、60年以上もの年月を過ごしてきた。 それは、戦争のシンボルであった昭和天皇が、平和と民主主義のシンボルとして、天皇の地位を維持し、戦前と戦後の“継続性”が確保されたところからきているのではないか。 かくして昭和天皇が退位することなく、その地位を引き続き維持したことによって、時代を画する“けじめ”がうしなわれる事になった。
メディアも大きなタブーであったがために、報道も控えられた。 4年前ブログ(昭和18年8月22日)に書きましたが、平成18年7月31日ご存知「TVタックル」の席上、浜田幸一氏が避けて通れない事を言いたいとして次のように述べた。
「太平洋戦争の遂行について、時の内閣は避けようと思ったが、どうしても避けることが出来なくなりましたとして、戦争のご裁可を天皇に求めた。 天皇は開戦を詔勅した。そして天皇の命令で日本国民280万人が死んでいった。自分の兄、従弟が死んでいった。(これは恐ろしく悲しいことだ) だから天皇のお参りに行かなくなった理由は明確でなければならない。 東京裁判では命令を下した人間が裁かれないで、軍事行動をした人間が裁かれた。 なぜここを避けているのだ!皆(マスコミ)は議論しないのだ!」と。
TVは、重く受け止めなかった。主要新聞も戦争責任問題について「東条一派」とそれに連なる一部の軍閥、財閥に全ての責任を被せる一方で、戦争を煽り世論を動員した自らの責任を何一つ問い詰めることはなかった。
では今後の日本をどうするかという問題ですね。
半藤一利氏は、ひたすら世界平和のために献身する国際協調的な非軍事国家でいくか、いやいやそれはもう時代遅れも甚だしい、これからは平和主義の不決断と惰弱を清算して、責任ある主体たれ、世界的に名誉ある役割を果たせる「普通の国」にならなければならない。 この2つですと若い者にバトンを渡している。
豊下楢彦氏は、平成明仁天皇は良い方向だとみております。昭和天皇の遺産をこのまま守っていけばよいのだから。
私は、これらの研究を踏まえて、まだまだ、責任のとらない日本が続くと見ておりますから、これからの沖縄問題、日米同盟の責任を考えていかねばならないと思っております。
お読み下され、感謝致します。
P.S. 写真の花は10月の薔薇と狂い咲き月下美人(8月と2回目)