隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

ノーベル受賞者の言葉Nobel laureates’ words

2010-10-25 07:05:45 | Weblog

ノーベル受賞者の言葉Nobel laureates’words  平成庚寅廿二年神無月二十五日

2人の日本人科学者と1人のアメリカ人科学者が、今年のノーベル化学賞を共同受賞することになりました。
ご受賞を心からお祝い申し上げます。長年の努力と忍耐が報われましたね。
受賞の理由は、複雑な化合物を作れる可能性を高める化学的な手法を開発したことです。
3人の科学者が開発した化学的な手法は、「有機合成におけるパラジウム触媒を用いたクロスカップリング」と呼ばれています。
先日、NHKサイエンスZeroで化学賞受賞の鈴木章氏と根岸英一氏のインタビューを放送していた。
鈴木、根岸両氏とも、ノーベル受賞者ブラウン教授との出会いが大きかったと述べていた。

鈴木氏は、大学の時、ブラウン教授の赤と黒の表紙・有機合成の本と出会って、300ページ足らずの本を一晩で読み終え、ブラウン教授のもとへ弟子入りする。成功する裏には必ず出会いがありますね。
「全く入ってない箱に新しいものを入れる研究をしなさい。そのためには逆転の発想がいる。Cross-couplingsという方式はあらゆる試行錯誤のほんの一部だ。
いい応用研究するためにはいい基礎研究がないとできない。」と言ってみえた。

 根岸氏も、31歳でブラウン教授の門下生となる。彼は「何と言ってもトップレベルのActivityはどういうものか知りたかった。」と言ってみえた。
そのブラウン教授が伝え続けた言葉があるという。
本棚に残された置時計があり、次の言葉が刻んであった。
『Tall Oaks Grow From Little Acorns』「大きな樫の木も小さなどんぐりから」
彼はブラウン教授から100回は聞いたよと言ってみえた。
成功するためにはコツコツと小さなことを続けるべきだと番組は解説していた。
彼は今もパデュー大学で教壇にたっている。

<参考までに>去年平和賞を受賞したオバマ大統領は先月(9月) 厳しい民主党候補応援で
(Barack Obama / U.S. President)
"I'm going to keep fighting every single day, every single hour, every single minute to turn this economy around and put people back to work, and renew the American dream, not just for your family, not just for all our families, but for future generations."
「私は、毎日闘い続けます。1日も、1時間も、1分たりとも惜しむことなく闘い続けることで、アメリカ経済を好転させ、国民が再び仕事につけるようにします。アメリカンドリームを取り戻すのです。これは、あなたの家族、私たち全員の家族のためだけではありません。未来の世代のためなのです」
経済再生がうまくいかないようです。

お読み下され、感謝致します。
P.S. 写真の花は秋明菊です。

無心absorbedness (英訳)

2010-10-24 10:26:04 | Weblog

無心Absorbedness  Sep.27,2010の抄訳です。 平成庚寅廿二年神無月二十四日

 I went to Daikouji temple the other day and listened to a sermon or lecture of Mr. Genyuu Soukyu given “Akutagawa Prize”.
He(a writer) said, “Here is a Ninomiya Sontoku二宮尊徳(金次郎)’s song. “
“Though I don’t know it’s rainy or stormy in this fall, I weed a rice-field as my today’s duty.” 「この秋は雨か嵐か知らねども,今日の勤めに田草取るなり」
As we don’t know what happens in the future, let’s be absorbed !
We are relieved that we made and raised a dream, a goal, and a plan.
He said “Happiness doesn’t always come after planning. It comes suddenly.”
Human beings are part of nature.
We must take care of nature.
Mr. Genyuu said “ Tonsure(剃髪),that is to say having my head shaved is different from getting a close crop(五分刈). I must be done within 2 days. I feel it troublesome like weeding.”
He told about his memory:
When he was a child, he told his father that cleaning the garden was troublesome and leaves fell down again. At this night when he had a dinner, his father said to him, “ Do you want to have dinner? Really?” He answered, “Yes, I do.”
His father said to him ,” You will be hungry again, won’t you? ”
We must have three meals.
I was taught that it takes a lot of time and troubles to live.
He was teaching how to live.
Absorbedness is important to live in symbiosis(共生)with nature.
These words are very difficult for me to practice.

今日でおかげさまで、平成17年(2005年)雪の遺書より5年間書き綴ってこれました。
有難いことです。陸軍中尉の父の亡くなった歳になって、改めて「若い者ともや、なにをいうてもな、隻手の声をきかねば、みなたわごとの皮だぞよ」と父の書いた短冊を見ております。
急性肺炎であっという間に亡くなってしまったから、今綴っていることを彼岸の地でどう思ってるのだろうか
? いろいろ聞いてみたい気がしております。
今、「老いてますます楽し」山崎光夫著を読みかけていますが、貝原益軒という”楽しみの達人”の話です。
楽しみの晩年術を磨きたいものです。

お読み下され、感謝致します。
P.S.写真は、庭の木ですが、どこからか?実から育ちました。
名は不明。



ノーベル賞の評価Evaluation of the Nobel Prize 

2010-10-20 16:43:45 | Weblog
ノーベル賞の評価Evaluation of the Nobel Prize 平成庚寅廿二年神無月二十日
 
 今年のノーベル平和賞に中国の民主化運動活動家pro-democracy activist劉Liu(りゅう)暁波Xiaobo(ぎょうは)氏が受賞した。彼は今、遼寧省の刑務所に服役中だ。彼は奥さん劉霞(か)Xiaに「賞を1989年の天安門事件での犠牲者に捧げる」と言っている。服役中での受賞はアウン・サン・スチーさんほか3人目だという。
中国政府は授与式に出席させるのであろうか? 
 しかも、訳のわからない中国での反日デモがエスカレートしている。進出している企業は、深刻であろう。 上海万博の終盤に来て、この先、イベントがないし、人民元の切り上げで、先が読めない不安が中国人民の中にくすぶってきているのではないだろうか。
デモの起こっている都市が内陸ばかりだ。格差がひどいのであろうか。
一党独裁をいつまで維持できるか心配はつきません。
尚、平和賞は、ノーベルの遺言からと、その時スエーデンとノルウェーはまだ同君連合を組んでいたということと、ノルウェー国会が軍縮・調停を行うという新しい「平和」という概念を追求していたことにより、ノルウェー側が担当することになったという。

 同じノーベル賞で揉めているのがある。イギリスのガーディアン紙の記事から、
ローマ教皇庁Vatican officialsは、体外受精In-Vitro Fertilizationの草分けpioneerに対するロバート・エドワード博士Dr. Robert Edwards(85歳)のノーベル医学Medicine賞受賞を非難hit outした。ローマ教皇庁は英国の研究者に受賞は完全に不適当completely out of placeといって、すべてのキリスト教(クリスチャン)の出産procreationの教えに反していると言っている。スポークスマンはアジア通信社ANSAに対して体外受精は「賃貸しでfor hire、祖母や母親から生まれてくる子供のような理解できないincomprehensible立場へ」導くものだと述べた。
彼は「最高の状態で子宮に移されるのを待っているか、たぶん最後には見捨てられるか死に至るend up世界中の大多数の冷凍した胎芽frozen embryos」に恐怖horrorを表した。
現ローマ教皇Pope Benedict XVIベネディクト16世は、体外受精は道徳的に悪い、なぜならそれが夫婦間の自然の結合に取って代わるものだから。
 
 体外受精IVFは子宮外の精子spermによる受精過程である。 それは、1978年世界で初めての「試験管ベービーtest-tube baby」を造りだした。そして400万のべービーを生み出してきた。 体外受精は子供を持つことができない何百万という夫婦の生き方を変えてきた。 ノーベル委員会(ストックホルムのカロリンスカ研究所)はエドワード教授の先駆的仕事が世界中の不妊infertileの人たちに喜びをもたらしてきたといっている。そして、付け加えて、彼の業績は、不妊や世界中の夫婦10%以上を含む、おおきな人間たるつり合いに苦しむ医学の問題の処理を可能にしてきた。
 体外受精で生まれた最初の赤ちゃんLouise Brownルイス・ブラウン32歳は、受賞は素晴らしいfantastic ニュースですと言った。彼女は取材者に「体外受精の草分けの人がノーベル賞にdeserve値すると認められたのでとてもうれしかった」と述べた。  エドワード氏は1000万スウェーデン・クローナ(約1億2000万円)を受け取る。

 なんでもどこでも、揉めますね。お読み下され感謝致します。
P.S.写真は2回目咲きの駿河蘭40歳になります。


そもそも・・・Precisely・・・

2010-10-15 07:49:55 | Weblog
そもそも・・・Precisely・・・   平成庚寅廿二年神無月十五日

 平成も22年。世界は多極化し、対決から共生の時代へ大きく流れを変えようとしている。 これからを考えると、戦前は天皇制儒教が柱でした。戦後は何だろうと考えざるを得ない。 普天間問題を考えるにつけ「そもそも米国依存体質はどこから来たのだ?」となった。 答えは何と「昭和天皇」が決めたものだった。
『昭和天皇・マッカーサー会見』豊下楢彦(ならひこ)関西学院大学教授(岩波現代文庫)という素晴らしい研究と、それを補足するかのような『昭和史 戦後編』半藤一利(平凡社ライブラリー)を読んで、目から鱗が落ちる思いだった。
 平成になって、昭和天皇の研究は進んだという。両者とも、「昭和天皇独白録」や元宮内庁長官の「富田メモ」や会談の通訳者・奥村勝蔵・寺崎英成・松井明氏の日記、メモ、文書、入江相政日記、当時の皇太子の家庭教師であったブァイニング夫人の日記など、膨大な未解明資料を解読し、どのような会談であったかと事実に近い推論を展開した。
 
 この会談は昭和20年9月27日を第1回とし、26年4月15日まで11回行われた。
第1回目で「私は、国民が戦争遂行にあたって政治軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」と、天皇は述べ、マッカーサーを感動させた。
 そして、天皇は「私としては決して戦争を望んでいなかったが、自分であれ(他のいかなる天皇であれ)開戦時に政界や世論の圧力に対して有効な抵抗をすることはできなかった」と答えた。 マッカーサーはこの発言に反駁する証拠が見つからなかった以上、結論として天皇は国家の意思決定において「形式的役割」を担っていたにすぎず、いわば「あやつり人形」に他ならなかったとした。
 これを裏づけるように、ブァイニング夫人の日記に、「私は決して戦争を望んでいなかった。なぜならば、私は戦争で勝てるとは思わなかったからだ。私は軍部に不信感を持っていた。そして、私は戦争にならないようにできる限りのことをした。」と記されている。
 天皇は東条大将に対して絶大な信頼を寄せていたのではあるが(側近日誌)、宣戦の詔書を東条大将が使用した如くに使用する意図はなかったと回答し、結局のところは「すべての責任を東条にしょっかぶせるしかないと思うのだ」(東久邇発言)という当時の”流れ”に乗った形になった。そして、極東委員会設置、人間宣言と続き、東京裁判となる。

 昭和21年10月第3回目で、憲法9条をめぐって、天皇は「戦争放棄を決意実行する日本が危険にさらされる事のない様な世界の到来を1日も早く見られる様に念願せずには居れません」と表明。それに対して、理想主義のマッカーサーは「戦争を無くすには戦争を放棄する以外に方法はありません」と、第9条の意義を強調した。

 昭和22年5月第4回目で、 天皇は「日本が完全に軍備を撤廃する以上、その安全保障は国連に期待せねばなりません」と切り出した上で、しかし、「国連が極東委員会の如きものであることは困ると思います」と国連に期待できない旨を強調した。
極東のスイス論者(リーダース・ダイジェスト)たるマッカーサーは、「軍を持たないこと自身が日本のためには最大の安全保障であって、これこそが日本の生きる唯一の道だ」と、天皇を説得したが、新憲法施行後、“象徴”であるはずの天皇が、国民の意見も聞かず、「日本ノ安全保障ヲ図ル為ニハ、アングロサクソンノ代表者デアル米国ガ其のイニシアチブヲ執ルコトヲ要スルノデアリマシテ、此ノ為元帥ノ御支援ヲ期待シテ居リマス」と、米軍による防衛の保障を求めた。豊下氏は、1年9カ月前までは、アジア・太平洋諸国を「危険にさらしていた」国の「象徴」がその償いも何ら果たしていない段階で、しかも、戦争放棄の第9条がなぜ求められることになったのかという歴史的経緯もほとんど認識されていないかのように、ひたすら自らの国が「危険にさらされる」ことのみを考え、アジアや世界に眼を向けることもなく、もっぱら占領者のアメリカに「安全保障」を求めるという発想方法には、ただ驚かされるばかりであると、述べている。 天皇家は政治には一切口出しをしないと決められているわけで、考えようによってはこれは憲法違反なんですよね」と半藤氏も述べている。

 昭和22年11月第5回目では、話が進んで、アメリカ軍が日本を守るために、基地を設けて駐留するという話が日本政府に伝わる。片山・芦田の連立内閣で外務大臣の芦田均さんが、「日本のどこでもよろしい」と言ったらしいが、このことが耳に入った天皇は「それはまずい」と寺崎通訳を介してGHQに「沖縄メッセ―ジ」として文書を届けた。
 天皇の意向とは日本本土はまずい、沖縄がよろしい、沖縄をお貸しする、「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」のもとで米軍に沖縄占領の継続を認めるという内容で、それをアメリカ軍のシーボルトという方を通じてGHQに届けました。これは「寺崎日記」にはっきり出てきているという。
ここの会談記録は外務省にはあるが公開されていませんね。
 事実とすれば、これは明白な「政治的行為」であり、憲法の規定に基づく本来の外交主体の“頭越し”になされた典型的な“二重外交”そのものであろう。(豊下氏)

昭和24年11月25日第9回目になると、世界情勢が変化してくる。
ソ連が原爆の保有。中国の共産政権の樹立からの脅威。翌年は朝鮮戦争はじまります。
講和条約にあたり、今までの理想主義からマッカーサーは変更し、日本への侵略が米国との全面戦争を意味することをソ連に明確にさせる目的のために、講和後も、日本に海空軍基地を保持するという考えをとるに至った。

 昭和26年4月15日第11回目で、マッカーサーは去るに当たっても、アメリカが日本を守るという政策は不変と保証した。
 天皇は「戦争裁判に対して、貴司令官がとられた態度について、この機会に私は謝意を表したいと思います」と述べた。
東京裁判が何とはなしに、天皇を訴追しない、起訴しない、免訴するという形において実行された。それについて天皇は感謝したのである。 それにしても、全会見記録の公開に踏み切ることを切望する。

アメリカのマッカーサーが厚木飛行場に降りたってから、日本は占領され、次の国家をどうすべきかを考えないで、そのままずるずると引っ張ってきてしまった。つまり、占領時代をそのままに受け継いできてしまったというのが事実である。
 会見内容が事実だとしたら、ある意味ではもうすでに出来上がってしまっていたことになる。密室でなりふりかまわず決められ、すでに60年以上経ってしまった。

現菅首相は4年前「昭和天皇は退位すべきだった」としていた。私のブログ平成18年8月22日「曖昧さからの脱却」として書きました。
戦前は天皇制儒教であったが、戦後は?という問いに半藤氏より天皇制・軽武装・経済第一でしょうね。天皇制は明治より変わらず、大嘗祭という神との共寝共食の秘儀と三種の神器を懸命に守っていかれるでしょう。天皇は戦後から人間宣言となり、国家神道は天皇家一宗教となったはず。だが、戦前に戻った感じである。平成天皇即位のときには、大嘗祭で、公私混同の”象徴“として振る舞われた。法に規定のないいかにも曖昧で、国民とは乖離している。
 
豊下氏は、語る。:敗戦直後からの戦犯訴追の危機を「すべての責任を東条にしょっかぶせるがよい」という基本路線に立って、”日米合作”で東京裁判を切り抜け、その後の共産主義の脅威に対しては、沖縄の米軍支配と安保条約による日本の防衛という体制を築きあげるために、昭和天皇は全力を傾注したのである。
 こうした天皇にとっては東京裁判と安保体制は「三種の神器」に象徴される天皇制を防衛とするという歴史的な使命を果たす上で、不可分離の関係に立つものであったと。
 
「昭和天皇独白録」で「敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下はいり、神器の移動の余裕がなくなる。これでは国体護持は難しい」と述べている。
「国体護持」とは「三種の神器」の確保にほかならず、基地はどこでもよいでなく、沖縄となったのであろう。また「あの戦争については「反対」であった。自らの「意に反した」戦争であった」と述懐している。先日取り上げた「カウラ脱走」で犠牲となった戦没者達はいかなる意味で「英霊」なのであろうか。
 東条英機が陸軍大臣であった1941年1月に発した戦陣訓では「皇軍軍紀の神髄は畏(かしこ)くも、大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神に存す。上下斉しく統帥の尊厳なる所以を感銘し、上は大意意の承行を謹厳にし、下は謹んで服従の至誠を致すべし」 「命令一下欣然として死地に投じ、黙々として献身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり」と謳われていた。「天皇の意を体した戦争」に殉じたはずの「英霊」達は今や、実はあの戦争は「天皇の意に反した戦争であった」と宣告されているのである。これ程の欺瞞と悲劇性があるだろうか。

 戦後の日本は根本的な“ねじれ”の問題を正面から問い詰めることなく、60年以上もの年月を過ごしてきた。 それは、戦争のシンボルであった昭和天皇が、平和と民主主義のシンボルとして、天皇の地位を維持し、戦前と戦後の“継続性”が確保されたところからきているのではないか。 かくして昭和天皇が退位することなく、その地位を引き続き維持したことによって、時代を画する“けじめ”がうしなわれる事になった。
 メディアも大きなタブーであったがために、報道も控えられた。 4年前ブログ(昭和18年8月22日)に書きましたが、平成18年7月31日ご存知「TVタックル」の席上、浜田幸一氏が避けて通れない事を言いたいとして次のように述べた。
 「太平洋戦争の遂行について、時の内閣は避けようと思ったが、どうしても避けることが出来なくなりましたとして、戦争のご裁可を天皇に求めた。 天皇は開戦を詔勅した。そして天皇の命令で日本国民280万人が死んでいった。自分の兄、従弟が死んでいった。(これは恐ろしく悲しいことだ) だから天皇のお参りに行かなくなった理由は明確でなければならない。 東京裁判では命令を下した人間が裁かれないで、軍事行動をした人間が裁かれた。 なぜここを避けているのだ!皆(マスコミ)は議論しないのだ!」と。
TVは、重く受け止めなかった。主要新聞も戦争責任問題について「東条一派」とそれに連なる一部の軍閥、財閥に全ての責任を被せる一方で、戦争を煽り世論を動員した自らの責任を何一つ問い詰めることはなかった。

 では今後の日本をどうするかという問題ですね。
半藤一利氏は、ひたすら世界平和のために献身する国際協調的な非軍事国家でいくか、いやいやそれはもう時代遅れも甚だしい、これからは平和主義の不決断と惰弱を清算して、責任ある主体たれ、世界的に名誉ある役割を果たせる「普通の国」にならなければならない。  この2つですと若い者にバトンを渡している。
豊下楢彦氏は、平成明仁天皇は良い方向だとみております。昭和天皇の遺産をこのまま守っていけばよいのだから。 
私は、これらの研究を踏まえて、まだまだ、責任のとらない日本が続くと見ておりますから、これからの沖縄問題、日米同盟の責任を考えていかねばならないと思っております。

お読み下され、感謝致します。 
P.S. 写真の花は10月の薔薇と狂い咲き月下美人(8月と2回目)

Cowra Breakout カウラ脱走 (In English)

2010-10-03 07:14:26 | Weblog
Cowra Breakoutオーストラリア(4)日本との戦争の英訳(9/20,09)    October, 3 ,2010

Last year I watched the movie” Breakout of POW at Cowra―――On that day our lives were lighter than toilet tissues.”.
It was an impressive movie.
Japanese army was at war with the Allied Forces at New Britain island.
Running out of food and losing their mates, two defeated soldiers (Kanou Gocho:Corporal, Asakura Heicho:Airmen First Class) were at last captured and became war prisoners.
Two prisoners of war were transported separately, but met again at Cowra accidently.
There were 1,104 Japanese war prisoners at Cowra POW camp. Under the Geneva Convention the Australian government gave a consideration setting up some recreation facilities: baseball, mah-jongg and entertainments, or adding some fish to their side dish. They were staying like human lives. But Japanese society considered it as a dishonor to be the war prisoner and there were many incidents that the family committed suicide during social ostracism.
In August 1944, Japanese prisoners had the notorious 『Senjin kun 戦陣訓 』Lessons at the Front “Never submit to war prisoner but a death in war” which a General Tojyo Hideki wrote.
A writer Yamamoto Hichihei said in “A Japanese army in mine”, that he hadn’t read
『Senjin Kun ; Lessons at the Front』and wasn’t forced to read it.
There might be such a troop, but there were the same bloody, awful, tremendous battles.
Their battle field had no idea of ‘Victory’ or ‘Defeat’. There were only three senses, ‘Alive’, ‘Dead’, ‘Wound’.
When I confirmed ‘Alive’, ‘Saved’, ‘All of us Safe’ by myself, none could stop flowing of joy.
Yamamoto’s senior might be a good officer. However, these two war prisoners changed their lives by a cruel sergeant who ordered them not to live as war prisoners, but to die magnificently following 『Senjin Kun』.
Though it was a breakout, it was in a vast reach of Australia.
One soldier asked “Are there any views after breakout?” There was no answer.
This was just a mass escape and mass suicide as soldiers of Great Japanese Empire.
It was a breakout to the last men.
The Cowra breakout was decided by votes of all war prisoners.
All 1100 Japanese war prisoners took part in breakout, and 234 war prisoners were killed by machine-gun fire. More than 500 war prisoners were injured. There was no winner.
Kanou Jiro Gocho:Corporal who crossed out the toilet tissue took part in firing and escaping.
Asakura Kenichi Heichou: Airmen First Class hero who circled on the toilet tissue survived after heavy wounds.


As 80% of Japanese prisoners used false names, those names were written just as they used on their gravestones.
It is viewed as a mysterious incident of Japanese caused by their mass hysteria characteristic.
In the words of historian Gavin Long, the following night: At about 2 a.m. a Japanese ran to the camp gates and shouted what seemed to be a warning to the sentries. Then a Japanese bugle sounded. A sentry fired a warning shot. More sentries fired as three mobs of prisoners, shouting "Banzai", began breaking through the wire, one mob on the northern side, one on the western and one on the southern. They flung themselves across the wire with the help of blankets. They were armed with knives, baseball bats, clubs studded with nails and hooks, wire stilettos and garotting cords.
After World War Ⅱ, the aged hero Kenichi left alive against machine-gun fire came to Cowra again. He found the plate of his friend, Jirou’s grave and wailed as he couldn’t tell his wife that he became a prison of war. This scene made me sad and disconsolate.
In a marvelous Australian ground, there was the tragedy which the war made their lives mad. In Japan this incident isn’t known at all and run in the textbook. We have to keep telling it.
A writer Mrs. Shiono Nanami told about Japanese army.(from a book “The corner of Roman street”) It was troops that did reverse things to ancient Roman troops. For example, when a Japanese army’s commander sent more than 500 thousand soldiers to the Philippines, he told them to procure in the local field as he couldn’t assure to fit out with all needed supplies. I don’t know what happened. It is certain that this thing makes enemies: people who stand for Japanese army. The state that neglects supplies is not eligible as a leader of mutual prosperity. And ancient Roman troops had nothing with a strategy of preferring honorable death to surrender. A breakout was a tragedy. At the last we are heard the idea of emotional strength is different. An uncertain emotional strength should come after other certain factor, but in Japanese army it becomes at first. It was the tragedy due to unreasonable continuations. Residents at Cowra buried Japanese war prisoners with all due respect and later “The Bell of Peace” was given by the U.N.

Thank you for reading. 
P.S. This picture is Captain Cook's Cottage & Fitzroy Gardens.

Down Under baseball dream 野球を夢みて (In English)

2010-10-02 06:54:39 | Weblog
Down Under baseball dream 野球を夢みて (In English)  October 2, 2010

Revised from the Yomiuri Shimbun(July,23)
A Japanese teenager’s own “Field of Dreams” is taking shape in rural Australia, with local residents, a social networking Web site and the Yomiuri Giants getting into the act.
Wataru Kotaka, 14, moved to Cowra, a city about 200 kilometers west of Sydney, Chiba Prefecture in August 2009. Since then, he has been staying at the home of Hiroyasu Horibe, 67 ,the maneger at a local farm.
In Japan, Kataka played baseball until his second year of middle school, and hoped to keep playing in Australia. However, his school didn’t have a team and there was none in the area. The city didn7t have a baseball diamond. Feeling lonely with no Japanese friends to talk to, Kotaka started saying he wanted to go back to Japan after about six months.
Horibe suggested one day, “ If you want to play baseball , why don’t you make a diamond and find some people to play with? ” He also told the boy about how Japanese prisoners of war interred in the city during World WarⅡplayed baseball during their free time.

I’d like to tell you about Japanese prisoners of war at Cowra.
Last year I watched the movie “ Breakout of Prison Of War at Cowra-----On that day our lives were lighter than toilet tissues.” It was a very impressive movie for me.
 Japan was at war with Australia.
There were 1,104 Japanese war prisoners at Cowra POW camp.
Under the Geneva Convention the Australian government gave a consideration setting up some recreation facilities, baseball , mah-jongg and entertainments or adding some fish to their side dish. They were staying like human lives.
But Japanese society considered it as a dishonor to be the war prisoner and there were many incidents that the family in Japan committed suicide during social ostracism(discrimination). The notorious ”Senjin kun” (lessons at the front) “ Never submit to war prisoner but a death in war” was written by General Tojou Hideki.

 In August 1944, Japanese prisoners attempted a mass escape and mass suicide finally.
The Cowra breakout was decided by votes of all war prisoners.
All 1100 Japanese war prisoners took part in breakout, and 234 war prisoners were killed by machine-gun fire. More than 500 war prisoners were injured. There was no winner.
Kanou Jiro Gocho:Corporal who crossed out the toilet tissue took part in firing and escaping.
Asakura Kenichi Heichou: Airmen First Class hero who circled on the toilet tissue survived after heavy wounds.
In the words of historian Gavin Long, the following night :
At about 2 a.m. a Japanese ran to the camp gates and shouted what seemed to be a warning to the sentries. Then a Japanese bugle sounded. A sentry fired a warning shot. More sentries fired as three mobs of prisoners, shouting "Banzai", began breaking through the wire, one mob on the northern side, one on the western and one on the southern. They flung themselves across the wire with the help of blankets. They were armed with knives, baseballbats , clubs studded with nails and hooks, wire stilettos and garotting cords.
All 1,100 war prisoners took part in breakout. 234 war prisoners were killed and more than 500war prisoners were injured.
They used false names for fear that their families in Japan would be persecuted.
After World War Ⅱ, the aged hero Kenichi left alive against machine-gun fire came to Cowra again.
He found the plate of his friend Kanou’s grave and wailed as he couldn’t tell his wife that he became a prison of war. This scene made me sad and disconsolate.

Getting back to the newspaper, Kotaka stopped complaining and took Horibe’s advice, after hearing this story. He started building a diamond by cutting down about 30 pear trees and learning how to drive a tractor to level the ground.
When Horibe mentioned Kotaka’s efforts on the social-networking Web site Kozo SNS Mura, the response was enthusiastic, with members comparing the story to the movie “Field of Dreams.” The manager of the site, Kozo Hiramatu, suggested members donate baseball equipment to the ambitious teen.
Former Yomiuri Giants batting-practice pitcher Joji Tago,47, learned about Kotaka via Kozo and plans to visit him in Australia to present him with 20 gloves.
The field’s infield is now completed, and eight Cowra residents aged from 10 to 50 have responded to Kotaka’s call for players. They get together to play regularly, and have named themselves the Cowra Eagles. 
Even though some of his teammates don’t know much about the rules of baseball, Kotaka doesn’t mind. “ The people who helped me play baseball taught me about the importance of relationships.”
“I hope a lot of kids do what Kotaka has done, jumping out into the world and becoming an adult,” said Hiramatsu.
On Friday, in response to a request from Tago, the Yomiuri Giants donated used balls and gloves to Kotaka’s mother Yoko. Infielder Hayato Sakamoto presented the donation and called Kotaka in Australia on the spot, wishing him well in practicing ball and building his team. “I’m thrilled. I’ll do my best,” replied Kotaka.

 Now I heard that Japanese boys don’t have dreams to go abroad, but Kotaka is taking shape his dream. If baseball games are played in Cowra, how glad war prisoners in their grave will be ! As Australians especially love trips, they will become enthusiastic with such a story. Hang in there !! Mr. Kotaka !!

Thank you for reading.
P.S. This picture is suburbs of Melbourne.

Down Under baseball dream 野球を夢みて “カウラ再び”

2010-10-01 06:08:45 | Weblog
Down Under baseball dream 野球を夢みて “カウラ再び”平成庚寅廿二年神無月一日

英会話のJ先生より頂いた読売英字新聞(7月23日)からの記事ですが、再びカウラが出てきました。

14歳の日本人少年が野球場を造り、夢がかなう。

日本の10代による「夢の広場Field of Dreams」が、オーストラリアの田舎で住民とネット仲間と参加する読売ジャイアンツと共に、実現する。
 ワタル コタカ君14才は、2009年8月千葉県からシドニーの西200kmのカウラCowra市へ移ってきた。それから、彼は農場主堀部ヒロヤスさん67才の家に滞在してきた。 日本では、コタカ君は中学2年まで野球をした。そして、オーストラリアでやり続けようと望んだ。 しかしながら、彼の学校には、チームがなく、そこには誰もいなかった。 市にでさえ、野球場がなかった。 話しかける日本の友人もなく、さみしかったので、コタカ君は、約6ヶ月後、日本に戻りたいといいはじめた.
ある日、堀部さんは「もし、あなたが野球をしたいならば、ダイヤモンドを造り、仲間を見つけたらどうですか?」と提案した。彼は少年に『第二次世界大戦中、カウラ市の収容所に入れられた日本軍の捕虜たちが、どのようにして休み時間に野球をしたか』を話した。

『あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった。―――カウラ捕虜収容所からの大脱走』DVDは、去年09年9月見た感動的な映画だ。
私のブログ「オーストラリア(4)」から抜粋します。
日本はオーストラリアと戦ったのである。
豪州軍はジュネーブ条約という捕虜の取り扱いに関する条約を遵守していたため、捕虜の日本兵はカウラ捕虜収容所のなかで、野球、マージャン、演芸会と人間らしい暮らしを謳歌していた。しかし、当時、日本軍には捕虜になることは“戦死”つまり“死”として家族にも伝えられていた。あの東條英機が考案したという、悪名高い「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず。死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」という『戦陣訓』の教えがあり、捕虜になることは許されないという考え方があった。
もう二度と日本には帰れない。自分たちが名誉の戦死しない限り、日本にいる家族が「非国民」とされないで済む・・・・という意識が、捕虜兵士たちの1000名を越える大脱走という「カウラ大脱走」を駆り立てた。
脱走といっても、広いオーストラリアの地だ。ある兵士が「脱走した後のビジョンは?」と聞いても、「ない」であった。まさに大日本帝国の軍人として死ぬことを目的とした大脱走、玉砕脱走だ。トイレット・ペーパーによる○×の投票で決定され、1,100人の全日本兵が参加し、234人が死亡、500余人が負傷した。
 終戦後、機銃掃射から生き残った主人公・年老いた憲一兵長は、再びオーストラリアの大地カウラにある嘉納二郎伍長の墓(プレート)を見つけ、捕虜となったことを伝えることができなかって、慟哭する。このシーンには、遣る瀬無い気持で一杯になった。

今のコタカ君の話に戻しますと、農場主堀部さんは、どうしてカウラに移民?してみえたか分かりませんが、コタカ君は、日本の捕虜兵士たちの野球の話を聞いた後、不満を言うのをやめ、堀部さんの助言を取り入れた。彼は、約30本の西洋ナシの木を切り倒し、グランドを平らにならすためトラクターの運転の仕方を学び始めた。堀部さんがコタカ君の努力をネット上Kozo SNS Muraに載せたところ、反響は、映画”Field of Dreams"に匹敵する仲間とともに熱狂的であった。ネットサイトの管理人平松コウゾウさんは仲間に野球装備を大望ある若者へ贈るようすすめた。 前読売ジャイアンツのバッティングピッチャー、ジョ―ジ・タゴさん47才は、コウゾウさんよりコタカ君について学んで、20グラブを彼にプレゼントするためにオーストラリアへ行く計画をしている。タゴさんは鳥取西高校のため高校野球大会の甲子園に出場し、今はないロッテ・オリオンズの投手になったが、今は、野球を勧めるべくオーストラリアへ移民という夢を持っている。
「コタカ君が野球が好きなのはあきらかだ。―――彼はダイアモンドを造り始めた。彼とキャッチボールがしたい。」とタゴさんは言った。
広場の内野は今整備され、8カウラ住民たち10才~50才はコタカ君の呼びかけに選手になるよう応えた。彼らは決まった日に集まり、練習し、自分たちを「カウラ・イーグルス」と名付けた。 彼の仲間の中には野球のルールさえよく知らない人もいるけれど、コタカ君は心配していない。
「私に野球をするよう手伝ってくれた人々は結びつきの重要性について教えてくれた。」
「私は、多くの子供たちが、コタカ君がやってきたことをし、世の中に出て、成人になることを願っている。」と平松さんは言った。
 
 金曜日、タゴさんからの要求に応えて、読売ジャイアンツは中古ボールとグラブをコタカ君の母ヨーコさんへ寄贈した。 内野手の坂本さんは寄付をし、オーストラリアのコタカ君に、練習をよくして、彼のチームを立ち上げてくれるよう望んでいると呼びかけた。
 コタカ君は「興奮している。努力します。」と答えた。

今、日本の若者は海外へ出てゆく夢を持てないでいると報道されていたように思いますが、
コタカ君は夢に繋げ、実現していく。
カウラで野球が行われれば、墓にいる捕虜兵士たちはどんなにか喜ぶことだろう。
オーストラリア人は、特に旅が好きだから、こういった話には熱狂的になりますね。
がんばれ!コタカ君!

お読み下され、感謝致します。
写真はメルボルン郊外のカンガルーです。