
酔芙蓉
生き方雑記帳 Notebook of how to live 平成癸巳廿五年霜月十八日
昨日、日曜日だからやはり午前中は犬山城ガイドであった。
予約要請ではあったが、タイランドよりM機械の研修生をご案内。
昼は、白帝文庫主催の講演会「生き方雑記帖」と題して、直木賞作家山本一力氏の講演であった。
先人の生きるヒントは大事である。
旅の在り方ですら変わって来ている。時間を潰し、知らなかったものに触れるのが旅である。
今はTVなどで行ったつもりになってしまっている。今は時の流れが速すぎる。心が落ち着かない。
そして、年長者への敬いが失われ、人生経験を勉強出来ない。ましてやスマホやネットで情報を得れば、
経験者が周りにいる有難さが分からない。
山本氏は近畿日本ツーリストの添乗員時代、肉声で、小突かれて教えられたという。
知恵の授けられた頃だろう。「耳に入ったことは覚えている」。聞こえているが、体に残っているという。
こういうことは、60代になって分かるらしい。今の世は短気になっているから、そこまで持続しないのだろう。
山本氏は、朝8時に東京の自宅を出て、今昼1時には犬山へ来て講演をしている。終わったら高知、それから長崎の出島だそうだ。直木賞作家らしく、旅の在り方が凄い。 いわば取材旅行ですね。
「時間を遡る旅」らしい。 ボストンから北へ車で30分ほどの海沿いに『セイラムSalem』という市がある。
たぶん魔女狩りの取材だったのであろう。 そこで何とびっくりな物を発見したという。
セイラムをNetで調べると
セイラム(Salem)はアメリカ合衆国、マサチューセッツ州エセックス郡に位置する都市である。2000年現在の国勢調査で、この都市は総人口40,407人である。セーラムとも表記する。
「魔女狩り」で有名ですが、古くから貿易港として栄えた。大航海時代の波止場が歴史地区として保存されている。 ここセイラムには、エドワード・S・モースが館長を務めた、「ピーボディ・エセックス博物館」がある。モースは、日本では大森貝塚の発見者として知られている。
この博物館を訪れた山本氏は日本コーナーがあり、お姫様の乗っていたであろう大名駕籠がデーンと展示してあったそうな。将に<知らなかったものに触れるのが旅である。>このことがそうである。
なぜここに? 時間を遡りますね。
このピーボディ・エセックス博物館の歴史をみると、「1799年に船長や船荷監督人たちよって東インド海員協会として設立された。その協会の会員は憲章によって喜望峰やホーン岬より先の地域で「天然および人工物の珍品」の収集を行うことが義務付けられた。1992年、ピーボディ博物館はエセックス研究所と合併してピーボディ・エセックス博物館となった。」とある。 でも、なぜ日本の美術品が収集されたのか? 日本は江戸時代である。鎖国をしており、長崎の出島を窓口として オランダ、清のみと交易をしたことになっている。
流石、山本氏である。「日本にはYesとNoの間に、グレーゾーンがある。」このことが外国の方から
「卑怯な日本人だ」と言われてきた日本的な考え方なのである。
<年長者の知恵>で、<法と人>の融通が、<分かっていても知らないことで>通って行く。
そこで、オランダの国旗をつけて、黒塗りのアメリカは交易をした訳である。
更に調べると、<日本との繋がり>
1797年(寛政9年)にバタヴィアでオランダ東インド会社と傭船契約を結んだアメリカの船は、セイラムから日本に向けて出航した。そして、1799年にオランダ東インド会社が解散してもなお、1808年(文化6年)まで、セイラムを出航したアメリカ船との日米貿易は続いた。ただし、その日米貿易は日本とオランダ商館との関係に配慮した特殊なもので、米国船が長崎に入港する際、1795年に滅亡したオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の国旗を掲げてオランダ船を装うよう、すでに雇い主を失っていたオランダ商館から要請された。
この博物館では、セイラムを出航し、長崎で貿易を行った米国船籍に関する資料を所蔵している。その貿易は、 オランダがフランス革命軍に占領されたために日蘭貿易が途絶え、その間1797年(寛政9年)から1809年(文化6年)まで、数隻の米国船がオランダ国旗を掲げて長崎の出島で行ったもの。
セイラムから日本に向けられたアメリカ船は次の通り。(詳しくは黒船来航を参照)
1. 1797年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のイライザ号。
2. 1798年、同上。
3. 1799年、ジェームズ・デブロー船長のフランクリン号。
4. 1800年、ウィリアム・V・ハッチングス船長のマサチューセッツ号。
5. 1800年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のエンペラー・オブ・ジャパン号。
6. 1801年、ミッシェル・ガードナー・ダービー船長のマーガレット号。
7. 1802年、ジョージ・スティルス船長のサミュエル・スミス。
8. 1803年、ジェームズ・マクニール船長のレベッカ号。
9. 1803年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のナガサキ号。
10. 1806年、ヘンリー・リーラー船長のアメリカ号。
11. 1807年、ジョセフ・オカイン船長のエクリブス号。
12. 1807年、ジョン・デビッドソン船長のマウント・バーノン号。
13. 1809年、ジェームズ・マクニール船長のアメリカレベッカ号。
長崎の出島では、面白い発見に出会うことだろう。

山茶花
国際交流が生まれている。 1984年から、東京都大田区と姉妹都市として交流を行っている。毎年、区内の各中学校からセイラム市に生徒が派遣されるなど、2009年現在においても、非常に両都市の交流は盛んである。
姉妹都市関係となる前から、大田区立郷土博物館とピーボディ・エセックス博物館との交流が盛んであった。
池波正太郎氏は「死に向かって歩いている」と言ったそうですが、今の生きている幸せを年長者の話から
聞かねばならない。
自分の立ち位置を「3人称、多視点」=「神の目線」で、相手の心に入ってみることだと言われた。
お読み下され、感謝致します。