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隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

城主のおもてなし  Lord's hospitality

2013-11-22 23:00:37 | Weblog

城主のおもてなしLord's hospitality  平成癸巳廿五年霜月廿二日

今日は公益財団法人犬山城白帝文庫ならではの行事の日であった。

江戸時代天保14年(1844)11月22日
尾張藩12代藩主徳川斉荘(なりたか)公は、犬山城へ訪問した。
犬山城は尾張藩のものであり、付家老成瀬正住(まさずみ)は城の管理を任されているわけだから、
尾張藩主の訪問は「御成り」と言って、かなりな接待をしなければならなかったのであろう。
有難いことに、白帝文庫には当時の成瀬家の御献立が保存されている。
 そこで、白帝文庫ではその当時の献立に出来るだけ合わせ、料理を作ってもらうことになった。
犬山ホテルが、担当することになった。

理事長挨拶尾張徳川家当主 
    総勢80名の犬山御成茶会

 
御献立
向付<写真右下>= 鯛昆布〆 坂本菊 穂紫蘇 防風 加減酢
八寸<写真右上>= 鯛定家焼 しめじ菊菜白和え 合鴨燻製炙り
    玉子焼  焼目栗 百合根 はじかみ 酢蓮根
                                 
煮物<写真左上>= 子持ち鮎煮浸し 南瓜 六方芋 黒胡麻麩 海老
    椎茸  紅葉麩 白魚紅葉煮 湯葉巻 黒豆串打ち   

飯 <写真左下>= 丸型白飯 しめじ 赤蕪                  
                                 
椀物= 銀杏つみれ みつ葉 柚子 霙(みぞれ)仕立て 祝粉


隣の呈茶席でお菓子とお茶を頂く。
菓子は、両口屋是清が、天保14年の御成茶会において出された菓子を復元した「梅の雪」であった。


お茶は、静岡 本山製で、「駿河路」 であった。
 お手前は、石州流の男性が和服・袴で接待された。
お茶碗は丸にかたばみ紋の犬山焼です。

お土産
「心ばかり」という両口屋是清製のお菓子
 愛染川ーーー延享4年 尾張徳川宗勝公(8代)犬山御成の際に出された菓子(復元)
 朧(おぼろ)饅頭ーーー享保2年 尾張徳川継友公(6代)犬山御成の際に出された菓子(復元)
   江戸時代「御蒸菓子御見本」から再現とのこと。

*こうした料理といい、お土産はそう頂けるものではない。
 おいしいものばかりであった。特に「子持ち鮎煮浸し」は絶品であった。
*ガイドまでやらせてもらえて、こういったひとときは格別でした。

感謝ですね。

  
P.S.
念のため、天保14年の時の御献立を記します。
尾張藩12代藩主徳川斉荘(なりたか)公  犬山御成茶会  御献立

向    あらい鯉  防風(中国原産でセリ科の多年草) 新せうが(新生姜)
汁    おろし蕪  青豆 黒豆

御椀盛  たいらけ
御焼物  定家焼鯛蒸立  〆治  生のり  かけ塩
御八寸  御付焼  白魚  竹の子
御吸物  海(み)松(る) いはひの粉
御くわし 雪の梅  水栗  皮茸  紅最中ノ月
御惣菓子 青松葉  孤蓮落雁
御茶   詰主尾崎坊   銘 初むかし

以上

お読み下され、感謝です。






生き方雑記帳Notebook of how to live

2013-11-18 20:39:12 | Weblog
酔芙蓉
生き方雑記帳 Notebook of how to live 平成癸巳廿五年霜月十八日

 昨日、日曜日だからやはり午前中は犬山城ガイドであった。
予約要請ではあったが、タイランドよりM機械の研修生をご案内。
昼は、白帝文庫主催の講演会「生き方雑記帖」と題して、直木賞作家山本一力氏の講演であった。

先人の生きるヒントは大事である。
旅の在り方ですら変わって来ている。時間を潰し、知らなかったものに触れるのが旅である。
今はTVなどで行ったつもりになってしまっている。今は時の流れが速すぎる。心が落ち着かない。
そして、年長者への敬いが失われ、人生経験を勉強出来ない。ましてやスマホやネットで情報を得れば、
経験者が周りにいる有難さが分からない。
 山本氏は近畿日本ツーリストの添乗員時代、肉声で、小突かれて教えられたという。
知恵の授けられた頃だろう。「耳に入ったことは覚えている」。聞こえているが、体に残っているという。
こういうことは、60代になって分かるらしい。今の世は短気になっているから、そこまで持続しないのだろう。
 
 山本氏は、朝8時に東京の自宅を出て、今昼1時には犬山へ来て講演をしている。終わったら高知、それから長崎の出島だそうだ。直木賞作家らしく、旅の在り方が凄い。 いわば取材旅行ですね。
「時間を遡る旅」らしい。 ボストンから北へ車で30分ほどの海沿いに『セイラムSalem』という市がある。
たぶん魔女狩りの取材だったのであろう。 そこで何とびっくりな物を発見したという。
 セイラムをNetで調べると
セイラム(Salem)はアメリカ合衆国、マサチューセッツ州エセックス郡に位置する都市である。2000年現在の国勢調査で、この都市は総人口40,407人である。セーラムとも表記する。
「魔女狩り」で有名ですが、古くから貿易港として栄えた。大航海時代の波止場が歴史地区として保存されている。 ここセイラムには、エドワード・S・モースが館長を務めた、「ピーボディ・エセックス博物館」がある。モースは、日本では大森貝塚の発見者として知られている。
 この博物館を訪れた山本氏は日本コーナーがあり、お姫様の乗っていたであろう大名駕籠がデーンと展示してあったそうな。将に<知らなかったものに触れるのが旅である。>このことがそうである。
 なぜここに? 時間を遡りますね。
このピーボディ・エセックス博物館の歴史をみると、「1799年に船長や船荷監督人たちよって東インド海員協会として設立された。その協会の会員は憲章によって喜望峰やホーン岬より先の地域で「天然および人工物の珍品」の収集を行うことが義務付けられた。1992年、ピーボディ博物館はエセックス研究所と合併してピーボディ・エセックス博物館となった。」とある。 でも、なぜ日本の美術品が収集されたのか?   日本は江戸時代である。鎖国をしており、長崎の出島を窓口として オランダ、清のみと交易をしたことになっている。
 流石、山本氏である。「日本にはYesとNoの間に、グレーゾーンがある。」このことが外国の方から
「卑怯な日本人だ」と言われてきた日本的な考え方なのである。
 <年長者の知恵>で、<法と人>の融通が、<分かっていても知らないことで>通って行く。
 そこで、オランダの国旗をつけて、黒塗りのアメリカは交易をした訳である。
更に調べると、<日本との繋がり>
1797年(寛政9年)にバタヴィアでオランダ東インド会社と傭船契約を結んだアメリカの船は、セイラムから日本に向けて出航した。そして、1799年にオランダ東インド会社が解散してもなお、1808年(文化6年)まで、セイラムを出航したアメリカ船との日米貿易は続いた。ただし、その日米貿易は日本とオランダ商館との関係に配慮した特殊なもので、米国船が長崎に入港する際、1795年に滅亡したオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の国旗を掲げてオランダ船を装うよう、すでに雇い主を失っていたオランダ商館から要請された。
この博物館では、セイラムを出航し、長崎で貿易を行った米国船籍に関する資料を所蔵している。その貿易は、 オランダがフランス革命軍に占領されたために日蘭貿易が途絶え、その間1797年(寛政9年)から1809年(文化6年)まで、数隻の米国船がオランダ国旗を掲げて長崎の出島で行ったもの。                  
セイラムから日本に向けられたアメリカ船は次の通り。(詳しくは黒船来航を参照)
1. 1797年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のイライザ号。
2. 1798年、同上。
3. 1799年、ジェームズ・デブロー船長のフランクリン号。
4. 1800年、ウィリアム・V・ハッチングス船長のマサチューセッツ号。
5. 1800年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のエンペラー・オブ・ジャパン号。
6. 1801年、ミッシェル・ガードナー・ダービー船長のマーガレット号。
7. 1802年、ジョージ・スティルス船長のサミュエル・スミス。
8. 1803年、ジェームズ・マクニール船長のレベッカ号。
9. 1803年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のナガサキ号。
10. 1806年、ヘンリー・リーラー船長のアメリカ号。
11. 1807年、ジョセフ・オカイン船長のエクリブス号。
12. 1807年、ジョン・デビッドソン船長のマウント・バーノン号。
13. 1809年、ジェームズ・マクニール船長のアメリカレベッカ号。
長崎の出島では、面白い発見に出会うことだろう。
山茶花
国際交流が生まれている。                                      1984年から、東京都大田区と姉妹都市として交流を行っている。毎年、区内の各中学校からセイラム市に生徒が派遣されるなど、2009年現在においても、非常に両都市の交流は盛んである。
姉妹都市関係となる前から、大田区立郷土博物館とピーボディ・エセックス博物館との交流が盛んであった。
 池波正太郎氏は「死に向かって歩いている」と言ったそうですが、今の生きている幸せを年長者の話から
聞かねばならない。
自分の立ち位置を「3人称、多視点」=「神の目線」で、相手の心に入ってみることだと言われた。

お読み下され、感謝致します。

紅葉の高遠Takatou with autumn leaves

2013-11-11 21:39:28 | Weblog
紅葉の高遠 Takatou with autumn leaves   平成癸巳廿五年霜月十一日

昨日は、研修で「タカトウコヒガンザクラ」で有名な高遠へ行ってきた。
生憎の雨ではあったが、小雨でしっとりとしたもみじが風情を出していた。
皆さんも期待半分だったが、意外や意外。なかなか良いではないか。

場所は高遠城跡で、国指定史跡で、日本城郭協会選定の「日本100名城」の一つとなっている。高遠城は戦国時代、武田信玄の家臣であった山本勘助が改修した堅城で、別名兜山城(かぶとやまじょう)とも言われる。1547年(天文16年)に築かれたとされる。
江戸時代に大規模な改修がなされているため、当初の城の姿は分かっていませんが、各曲輪(くるわ)を隔てるためにめぐらされた深い空堀や城内に残る土塁から、地形を巧みに利用した戦闘的な城の姿をうかがい知ることができる。 
   空堀
城内には礎石はないらしい。江戸時代に入ると、高遠藩の藩庁が置かれ、徳川家譜代の京極氏、保科氏、鳥居氏が藩主として入城した後、1691年(元禄4)内藤清枚が3万3000石で入城し、以後明治維新まで内藤氏8代が城主を務めた。廃藩置県後、城跡は高遠城址公園として整備され、二の丸跡から本丸跡に至る楼雲橋と問屋門は高遠城跡のシンボルとなっている。
楼雲橋 問屋門
 内藤家の先祖を祀った藤原神社
搦め手にあって時を知らせた太鼓櫓

高遠といえば何といっても「絵島生島事件」ですね。
大奥での絵島は7代家継が将軍となると六百石加増され大年寄となった。
時に32歳で、1000人からいる女中を取り締まる年寄頭で数人の一人になった。正徳4年(1714)
絵島34歳の正月、月光院の代参として増上寺に将軍慰霊の法要の帰途、山村座で芝居見物をし、
たまたま門限に遅れたことが口実となり、処罰を受けたのである。1500人に及んだ。
歌舞伎役者生島新五郎は三宅島に遠流。絵島も高遠に遠流。その流刑生活を送った屋敷が当時の見取り図をもとに復元された。絵島囲み屋敷で、格子や忍び返しで厳重に囲まれた質素な屋敷である。
絵島自身は8畳間の格子戸の部屋に、1週間に1度の行水が許された。
  高遠町歴史博物館にて
信州の山 
絵島を詠んだ和歌が句碑にされていた。

物語まぼろしなりし わが絵島  墓よやかたよ 今うつつの里  有島生馬

追記
*)江戸時代、保科正之氏は将軍家光の実弟(秀忠とお志津の子)であることを知る。
寛永13年高遠3万石から最上(山形)20万石に移封され、寛永20年会津若松(23万石)の城主となった。 平成12年、高遠町(現伊那市)と会津若松市は親善交流の締結をした。
「八重の桜」の 故郷ですね。
**) 絵島は33歳の時、遠流され、毎日の生活は一汁一菜で、深く日蓮宗を信仰し精進の生活を続けたが、寛保元年(1741)4月10日遂に囲屋敷で逝く春と共に没した。
高遠に在ること28年、時に61歳であった。
***)  住宅も結構並んでいた。その中で、一際目立っていたのは「どうだん・つつじ」である。  

お読み下され、感謝致します。

カウラの風The breeze of COWRA 

2013-11-03 20:04:41 | Weblog
カウラの風The breeze of COWRA  平成癸巳廿五年霜月三日

 わん丸君
先日は、10月13日、わん丸君の誕生日でした。ちょうど10歳になるそうで、ここ犬山城のお庭で、みんなに愛嬌を振りまいていた。
 ぶらり城下町スタンプラリーというキャンペーンを盛り上げようと頑張ってくれている。
どうやら交替要員がいなくて、一人らしい。世話をする人が2名でお客とのやり取りをスムーズにいくよう働いてくれている。大事なのは、わん丸君をかぶってやっている人の健康である。世話する人がタイマーでもって、あと30分とか、次のスケジュールを大声でわん丸君に叫んでいた。中は、蒸し風呂状態なんでしょう。頑張ってもらいたい。これから紅葉の季節だ。ベストは11月20日過ぎである。城前で今咲いているのは、小原村から移植された四季桜。外国の方はめずらしく写真に収めてくれている。10年近く前私は小原村へ行き、柿の木に実のなった柿を、咲いた桜を背景に写真を撮ったのを思い出す。
四季といっても咲くのは4月と10月だが、狂い咲きが普通だからやかましくは言わない。
 こうして待っていると要請の連絡が入った。
オーストラリアからの女性一人と日本人2名であった。
オーストラリアは広い。どこからですかと聞いたら、ダボと言われたが、分からずにいると
隣のHさんが、シドニーから北西約400kmと言ってくれた。調べると「赤い土」という
アボリジニーの言葉からきている。こちらは戦国時代のお城を分かってもらわねばならない。
日常会話より、外国人には理解の出来ない専門語を駆使して説明するが、中には逆に質問したり、ジョークを飛ばしたりして、土台石垣2階天主4階建へと説明する。
私のテーマは「如何にお城は守られてきたか?」です。屋根にある6つの桃でまず守られています。それと「鴟尾しび」いわゆる「鯱」が火災から守っております。
石垣は5m天主19mですから、高覧の間からの眺めは下の歩く人がはっきりと見える高さで、下に声を掛ければ見上げてくれるそんな親しみのあるお城です。
 正面から見上げると目、鼻、口と若者の顔が浮かび上がる。
高覧の間とお城をバックに写真を撮り、別れた。
写真を送ると、
『美濃加茂のHと申します。
お礼が遅くなりましたが、先日は犬山城ガイドをしていただき、
またお写真も頂戴し有り難うございました!

美濃加茂の姉妹都市、オーストラリア・ダボ市からの彼女も、
日本訪問中に時間を作って立ち寄ってくれました。
昨日次の訪問先へ向かいましたが、いただいた写真も渡すことができ、
大変喜んでおりました。

今後もお世話になることもあろうかと思います。
また次回もお目にかかれることを楽しみにしております。
この度は、誠にありがとうございました。』 有難いメールです。

Hさんへ
『メール有難うございました。
ダボ市とは、珍しい市ですね。近くかどうか分かりませんが、「カウラ」なら知っております。収容所脱走事件で旧日本軍人が犠牲になりました。詳しくは私のブログ「隻手の声」に載せてあります。』
ご一緒したTさんからも有難いメールを頂いた。
『国際交流のほうにもメールが入りましたので、コメントさせていただきます。Tです。
ダボ市はカウラから車で3時間くらいです。
「カウラの風」という本を書かれた土屋氏がこちらのメンバーで昨年も御一緒にカウラやシドニーハーバーに行って参りました。
派遣生にも戦争の歴史を学ばせるために、ここ2年前からカウラ経由して姉妹都市に入るようにしていますよ。』

またまたびっくりな縁ですね。
ちょうど4年前、オーストラリア旅行後に観たDVD「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった。―――カウラ捕虜収容所からの大脱走」を思い出した。
機銃掃射から生き残った主人公が、再びオーストラリアのカウラの大地にある伍長の墓を見つけ、彼の妻に捕虜となったことを伝えることが出来なかって、慟哭するシーンは涙で一杯になりました。

今、土屋氏が、このカウラから生き残った兵士を一人一人尋ね歩き、復員後の人生を辿って
「カウラの風」という本を上梓された。インタビュアーが本人へ乗り移って話されている
状況にたびたびなった。よく纏めて下さったと思います。感謝です。
びっくりなのは土屋氏が岐阜新聞報道部部長といい、生き残った兵士に関市小屋名出の古川さんがいると書かれていると、自分の住まいが近くというだけでも違うのだなあと思う。
 そして美濃加茂の国際交流も、シドニーからいきなりダボ市でなく「カウラ経由で」という交流は本物になったと感じました。
 4年前、スイス人マイケルさんという英会話の先生が亡くなられ、正眼寺住職山川宗玄老師は、喪主を務められて導師をされ、有難かったのであるが、また、ここに正眼短大カウラ慰霊法要団を組織され、平和と友好の使者となるよう、活動されていることを知ったのである。合掌!

 犬山城には、世界中の40カ国から尋ねて来てくれていますが、今回のような縁は有難い。
やはり「憎しみからは何も生まれない。互いに赦しあうこと。そのことが平和を生み出す。」
というキーワードが大切である。(映画監督 千葉茂樹氏の言葉)
この事件は風化させてはならない。土屋氏は『日本人の典型的な思考、行動パターンが投票に現れた。8割が賛成○してしまった。周囲の目を気にするあまり、いざというときになって、はっきりものを言わず、他人まかせになりがちである。それに加えて、収容所の捕虜たちは孤独で精神的には「地獄だった」という。「なんであの時、×を記さなかったのか。」』
 普段の生活でも迫ってくるテーマと思います。繰り返してはならない時に、生かさなければと思いました。 

 ちょうど3年前に英会話のJ先生より頂いた読売新聞の記事に出ていたコタカ君は今どうしているのだろうか。(野球を夢みて”カウラ再び”2010,10,1ブログ)
野球場ができて、カウラの人たちとチームを作って活躍していることだろう。
親善の輪がひろがっているのを期待し、祈っております。

お読み下され、感謝致します。

「カウラの風」土屋康夫著 KTC中央出版