隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

日本的生活Japanese life

2012-06-18 14:06:12 | Weblog

日本的生活Japanese life          平成壬辰廿四年水無月十八日

 17日、郡上市美並町の日本まん真ん中センターで「こころの好縁会」があった。
美並町が日本の人口重心点だという。 円空さんと盲導犬サーブで有名である。
会場に500名集まった。
基調講演に玄侑宗久先生が、朝5時から福島県三春町の物産を積んで、駆けつけた。

3.11以降、無常という言葉で日本人の行動パターンをみてきたが、今、説明できない状況だという。日本語の「寒い」に主語がない。「おれはカツ丼、お前は天丼」という言い方からして、大事なことは省く生き方がある。
挨拶の「こんにちは」というのはどういう成り立ちであろうか。「こんにちは新しい日です。」という意味かわからぬが、新たに生まれ変わる。一旦白紙にするという意味からではないか。 日本ほどおじぎをする国もない。

昔の人は、名前を変えた。与謝蕪村は12個名前あった。 葛飾北斎は32個だそうな。
「多様」で一途が良い。日本を東と西に分けて見る見方がある。「おととい」というのは東、「おとつい」は西。「褌」は西、「袴」は東。「かまど」は西、「いろり」は東。など。岐阜は餅でも丸、四角と別れる、エスカレーターでも右、左となりまん真ん中なのだ。

混在という「多様」は、まなーー漢字とかなーー仮名、雅と鄙び、本音と建て前などから
洒落を生み、通の生き方で粋となった。これは東・江戸で西では花柳界のこと。  

多様性でいえば「七福神巡り」が、日本的あり方である。
室町時代、臨済宗妙心寺が発祥だという。大黒天、恵比須、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋さんと布袋さんが最後にきているから。
 正座は日本独特である。11Cごろからで、「あなたのために待機しています」という姿だという。けど、すっと立って歩けませんね。
 原発は全部アメリカ製だ。ボタンを押すだけで、日本風にアレンジしてないものは受け入れないほうが良い。
あと、技術の伝承で伊勢遷宮、五重塔の話(日本に47基)など話された。

古田岐阜県知事、小出中日新聞社長、玄侑宗久先生による鼎談では、
小出氏は「多様」について、ダニエル・カールさんの「カリフォルニアは日本と同じ面積だけど料理の味がハンバーグだけ、どこへいっても同じ。日本は違う。」という言葉を挙げた。自販機や自動ドアを動かすのに小型原発一基分だ。何でも便利は見直そう。

古田知事は、岐阜にしかないものは「清流」。  再稼働問題では、政府が思いつきで、判断ルールもなく、事を進めている。全国の知事にどこかいませんかとアンケートをとるみたいことでは困る。リーダーの決断がない、根回しなしの政権だ。国はエネルギー政策ないのに再稼働を進める。手順、プロセスを考慮に入れず、一気に変えようとしている。
批判的だ。
玄侑先生は、福島復興について、今はグチャ・グチャである。放射線量に関して各省庁の考えが違う。おいしい水は放射線量が高い。自然放射線量の数値が曖昧だ。と話された。
2時間半の好縁会でした。
大興寺(揖斐川町)と中日新聞の主催でした。
お読み下され、感謝します。

参考資料
東京浅草名所七福神はO先輩の年賀状より教えてもらいました。ここで披露いたします。
東京浅草名所七福神
浅草寺(大)・浅草神社(恵)・待乳山聖天(毘)・今戸神社(福)・橋場不動尊(布)・石浜神社(寿)・吉原神社(弁)・鷲神社(寿)・矢先神社(福)

ぎふ七福神
恵比寿 智照院 岐阜県岐阜市岩田西3-476 058-243-1473
大黒天 瑞巖寺 岐阜県各務原市那加北洞町1-325 058-383-3715
毘沙門天 龍雲寺 岐阜県岐阜市芥見大船1-151 058-243-2054
弁財天 吉祥寺 岐阜県岐阜市太郎丸2120 058-229-1602
布袋尊 林陽寺 岐阜県岐阜市岩田西3-402 058-243-1380
寿老人 大覚寺 岐阜県岐阜市長良西2550 058-232-6352
福禄寿 大覚寺 岐阜県岐阜市長良西2550 058-232-6352

美濃七福神
恵比須神 甘南美寺 岐阜県山県市長滝27-11 0581-36-3805
大黒天 真禅院 岐阜県不破郡垂井町宮代2006 0584-22-2212
毘沙門天 新長谷寺 岐阜県関市長谷寺町1 0575-22-3464
弁財天 円鏡寺 岐阜県本巣郡北方町北方1345-1 058-323-0021
布袋尊 護国之寺 岐阜県岐阜市長良雄総194-1 058-231-3539
寿老尊 新長谷寺 岐阜県関市長谷寺町1 0575-22-3464
福禄寿尊 大竜寺 岐阜県岐阜市粟野2339 058-237-3837

犬山七福めぐり
成田山 大聖寺 交通安全 愛知県犬山市犬山北白山5 0568-61-2583
寂光院 厄除招福 愛知県犬山市継鹿尾杉ノ段12 0568-61-0035
桃太郎神社 子供の守神  愛知県犬山市栗栖大平853 0568-61-1586
龍済寺 智恵授け 愛知県犬山市犬山瑞泉寺29 0568-61-3004
瑞泉寺 仏法僧 愛知県犬山市犬山瑞泉寺7 0568-61-0243
針綱神社 八方除け 愛知県犬山市犬山北古券65-1 0568-61-0180
三光稲荷神社 金運招福 愛知県犬山市犬山北古券41-1 0568-61-0702
注) 寂光院は、一寺で寂光院七福坂を祀っています。


二条城と知恩院Nijyo Castle&Chion-in

2012-06-09 16:11:25 | Weblog
二条城二の丸御殿(遠侍・車寄)    

二条城と知恩院 Nijyo Castle&Chion-in 平成壬辰廿四年水無月九日

 先日は、白帝文庫研修として二条城と知恩院を訪れた。

ユネスコの世界文化遺産にも認定されているだけあって、観光客は多かった。
この二条城は、慶長8年(1603)征夷大将軍に任官した徳川家康が、京都における居館として建設した。
 再度、田中剛氏の「道順・その光背」に戻ると、
『家康は1616年に亡くなるが、和子(まさこ)の父たる第2代将軍秀忠がりっぱに1620年和子入内(じゅだい)の行列をなしとげた。大事な朝廷並びに京わらべ全般への示威行動と全国大名諸候への幕府ならではの勢威の誇示が出来た訳である。ここの舞台は京都御所であった。
元和9年(1623)秀忠は息子・家光に将軍職をゆずり、大御所となった。
そして、女御和子はめでたく皇女一ノ宮を出産。寛永2年(1625)には女二ノ宮を出産。
予想を上回る徳川政権の安定と繁栄ぶりに、大御所秀忠と新将軍家光の次に目標とするものは何か。
二条城に後水尾天皇の行幸を仰ぎ、公卿百官と全国諸大名を一堂にあつめ、相ともに祝意を内外に示すことである。今なお京の都から払拭されきっていない豊臣色を、雲散霧消させて徳川一色の世を現出したいというのが本音であろう。  家光は寛永3年(1626)二条城を大拡張した。 秀吉の聚楽第の向うを張ることが、当面の第一目的ではあるが、実はもう一つある。秀吉の関白の上を、徳川は行けるということを、百官と諸侯の前に見せることである。9月6日に後水尾天皇二条城行幸。』
 「歩いて楽しむ 京都の歴史」山田邦和著によると、二条城の正門である東大手門に注目している。 
天皇が臣下の権力者の邸宅を訪れるというのは、名誉の極みであるとともに権力の正統性の保証とされてきた。家康時代の東大手門は重曹(二階建て)の櫓門(やぐらもん)であった。しかし、寛永の二条城行幸を描くサントリー美術館本、国立歴史民俗博物館C本の『洛中洛外図屏風』では、東大手門は切り妻屋根の単層の高麗門になっているが、現在の東大手門は重曹の櫓門である。
 したがって、二条城東大手門は重曹→単層→重曹という変遷をたどったことになる。
これは、東大手門が重曹のままである場合、行幸する天皇を上から見下ろすことになり、これは不敬の極みであるとされたからだと考えられている。二の丸御殿も建物が大増築されておったが、行幸が終了後には増築部分は撤去されている。
 天皇の二条城行幸は、たった5日間にしかすぎないが、この短時間のイベントの舞台装置を整えるためには金に糸目をつけなかったのである。徳川の覇権が定まったことを満天下に示す一世一代の盛儀でなくてはならなかった執念の産物だったのである。
    車寄せ(国宝)
                       欄間彫刻は絢爛豪華な造りで見事である。
   


二の丸御殿の障壁画や襖絵は狩野派である。 大広間(国宝)一の間は1867年15代慶喜が大政奉還を発表した歴史的な部屋である。残念ながら写真は撮れない。天井が凄い。四方が丸く折りあがった「折り上げ格天井」の中が、もう一段折り上がった「二重折上格天井」になっている。長押の飾り金具は銅に金張りという。桃山文化が見られる。
三の間には厚さ35cmの檜の一枚板を透かし彫りした「桐と牡丹と双鸞(そうらん)」「松と牡丹と鳳凰」の両面彫りがあり、極彩色である。
 
  本丸御殿は天明(1788)の大火で焼失。現在のは京都御所にあった旧桂宮邸を明治26年移築したもの。

昼は「たん熊北店」
鱧(はも)とごま料理の御馳走であった。 
 
次は知恩院でした。やはり国宝の三門ですね。
 徳川秀忠公によって建てられ、高さ24m幅50m、木造の門としては世界最大。楼上にはお釈迦様や羅漢様がずらりとお祀りしてあった。

 大鐘楼が有名ですね。12月27日と31日に2時間かけて108鳴らす。重さ70tである。
知恩院は全国に7千の寺院と600万人の檀信徒を擁する浄土宗の総本山である。
浄土宗は、1175年法然上人によって開かれ、「南無阿弥陀仏」と唱えることによってすべての人が救われる専修念仏の道である。
平成の御影堂瓦の葺き替え修理工事中であった。
久しぶりのバス旅行でした。
お読み下され、感謝致します。

木曽川の筏流送 Ikada Nagashi Okuri in Kiso River

2012-06-01 06:10:34 | Weblog
「木曽川の筏流送」Ikada Nagashi Okuri in Kiso River 平成壬辰廿四年水無月一日

先日、福祉会館で「木曽川の筏流送」の講演があり、各務賢司氏により「木曽川上流から王滝白河山などの材木をどのようにして切り出して、どこで筏に組んでどうやって流したか」を、NHK昭和3年放送の録画を通して、解説された。
室町時代に遡ります。
 貞和元年(1345)伊勢神宮外宮の遷宮用材を王滝白河山より出材した。式年遷宮を遡るとこの頃より切り出され、御料林として『御用材』という印の旗が掛けられた。
詳しくは記録がないらしい。最初の記録は、応永28年(1421)鎌倉の円覚寺が焼け、翌年からその再建用材が木曽川を下り、桑名から鎌倉へ海送されたということから。

管流(くだながし)といって、高い山から切り出した材木を一本一本谷へ落とす、材木はジグザグのルートで本流まで一気に落ちて行く。滑降スキーなみに見事という他ない。
材木は皆50年ものだという。直径約30cm長さ約9m  本流から綱場(つなば)というところに(木曽川では八百津町錦織綱場)集められ、藤づるで筏(丸太で約20~30本)が、固く結びつけられる。
筏流し送 ここから犬山まで21.6kmを「乗り手」と称する筏回漕ぎ人夫2人が従事。
錦織から5時間、岩また岩の難所を乗り切る訳だ。今では日本ライン下りが一部を下るが、筏ではない。
筏一乗2人は、下った後は、陸路中山道を、梶(かじ)19kgを肩に担いで錦織へ帰って1日を終えたという。 夏は洪水のためお休みという。秋の彼岸から翌年の八十八夜の7か月、冬季の農閑期の仕事でもあったというが、雪の降る日もあったろう。大変な仕事であり、講演会にはその子孫も来てみえた。

秀吉が木曽山と木曽・飛騨川を直轄領とし、何と犬山城主石川光吉を木曽代官に任じ、山川一元支配を確立。1590年のことだ。
犬山という場所は川幅が狭く、川を渡るのによいところだったらしい。今では利水のダムのため水位が上がって、川岸が見えなくなってしまっている。ガイド泣かせですね。
そういえば、あの小牧・長久手の戦いで秀吉軍(池田恒興)は12万人を各務原から鵜沼あたりが川を渡るのに最適として、渡り攻めた。そして犬山城を落としたと旭堂南海講談師(平23、11月ブログ)さんが言っていましたね。
各舟ごと、各筏に通行料を取りやすい場所であったのだ。
慶長5年1600年家康は木曽を直轄領とし、山村道祐を代官として、秀吉の山川一元支配を踏襲する。
寛文5年(1665)木曽山の管理と木曽・飛騨川の運材支配を山村氏から尾張藩の直営とし、上松と錦織に材木奉行をおき、木曽山に「留山とめやま」制をしいた。木材伐採と住民の立ち入りを禁止したわけである。
山が丸裸になる位、切り出された時期は秀吉の前、戦いで寺が焼かれた時だという。
武士は遠征につぐ遠征で寝泊まりはお寺であったという。お寺が半分戦場となった。
そのお寺の再興に木材が切り出された訳だ。
 その次は太平洋戦争後、再興に切り出された。

近代に入って、大正2年1913 中央線上松駅から王滝川に沿って森林鉄道が敷かれる。
大正15年1926  錦織綱場廃止

犬山在住の先輩曰く「昔私が子供の頃(伊勢湾台風の前)はダムがまだなくて、犬山遊園があり、名鉄ホテルもなくホテルから木曽川に通じる所は、石ころだらけの川原が広がっていました。地元の子はみんな泳いでいたとのことです。」
「昔は木曽川で皆泳いだものだ」とミツワ写真の会長さんも言われた。
よくもフイルムが残されていたと感動ものでした。犬山だけでなく木曽川近辺の小・中学生に見てもらいたいと思いました。川と共に生き、生業として賃金を目的としたとはいえ、激流に筏を操り寒風の中で編筏をした人々の意気と活力には感動させられる。当時の足袋、草鞋や弁当箱も展示された。
 
 御嵩町文化財保護審議会委員長  各務 賢司氏の講演でした。

***調べました。
木曽川は長さ229km,日本で6番目に長い川である。

木曽福島と山村家 
中世の木曾一円は木曾義仲の子孫を名乗る木曾家村が足利尊氏から支配を任されていたが、天正18年(1590)木曾義昌は豊臣秀吉によって下総へ移封され、尾張犬山城の石川光吉が木曾代官に任命された。石川光吉は福島・岩郷などの代官に山村道祐を任命している。
江戸時代のはじめは、木曾檜の良材を産する木曾を幕府領とし、関ヶ原の戦いで功のあった、山村道祐を代官に命じた。元和元年(1615)から尾張藩領となったが、山村氏は幕府と尾張藩と両方に属することになり、福島に居館や役所を置いたため、福島は城下町のような様相を呈し、木曾の中心地となった。山村氏は以後、13代にわたって木曾を統治した。
当初は山村氏が全てを支配していたが、寛文5年(1665)から上松材木役所が設置され、山方は藩直轄、村方は山村氏の所管となった。福島関所は福島の町並の北はずれに置かれ、「出女・入鉄砲」と称して女と鉄砲が主として改められた。
***同じようですが、
山村家は、江戸時代に木曾代官を世襲した名族。中世末の木曾領主木曾義昌の重臣であった山村道祐(良候(たかとき))が,徳川家康の信任を得て木曾代官に挙用されるのは1600年(慶長5)の関ヶ原の戦直後である。02年道祐の死後父の遺跡を継いだ良勝がはじめて甚兵衛を名のり,幕末の山村良祺に至るまで甚兵衛を通称した。甚兵衛管地の木曾は1615年(元和1)に尾張の徳川義直に封与されたが,そのとき甚兵衛良勝は義直に転属したため,以後は事実上の木曾代官として最後まで福島の居館にとどまった。・・・

***
石川光吉は第12代犬山城主である。
関ヶ原の戦いにおいて西軍につき、居城の犬山城に稲葉貞通・典通父子、稲葉方通、加藤貞泰、関一政、竹中重門らと籠城した。しかし彼らは極秘に東軍の井伊直政に密書を送り、内応を約定して引き上げていったので、城を出て本戦に参加、宇喜多隊の右翼、口北野付近に陣した。敗戦後所領を没収されたが、犬山籠城中に東軍に加担した木曽郷士らの人質を解放したことが評価されたのと池田輝政の働きかけにより黄金千枚で助命され、剃髪して宗林と号し、京で隠棲し、茶人・商人(金融業)として余生を過ごした。また、慶長18年(1613年)、幕府に500石を給されて召抱えられたと『徳川除封録』にある。
寛永3年(1626年)に死去。子孫は商人となった。

お読み下され、感謝致します。