命もいらず、名もいらず(1) 平成庚寅廿二年文月廿九日
ここ二週間は、38度前後の暑さ。やはり、水泳に限ると、せっせとプールへ通った。仲間と泳ぎ、ジャグジーでリラックスして、世間話をして帰ってくる。
この暑い夏に良い本と出合った。S君の推薦してくれた「命もいらず、名もいらず」山本兼一著(上、下)NHK出版である。
「喝! 生ぬるい!」と、いわれているようだった。
山岡鉄舟の生涯を見事に活写している。
北辰一刀流の撃剣を描くだけでも、大変なのに、座禅修行と公案を描き、残された書まで読み解かねばならない。著者が「とんでもない男だ」と書いているだけに、よくぞ描けたなと思えた。
化け物ですね。6尺2寸(1m88cm)105kgの大男だ。
小野鉄舟は幼少(9-16)時を飛騨高山で過ごす。真影流から北辰一刀流千葉周作門下の井上清虎のもとへ移り、剣術を学ぶ。
父の遺言「自分のためになることが天下の役に立つ」を縦軸に、千葉周作の「こころが定まるとはいつでも死ぬ覚悟ができていること。これからその稽古に励むがよい」との教えを横軸に励んだ。 開国か攘夷の議論の最中、撃剣数稽古1日200面を7日間立ち切り行うという正気の沙汰でない稽古を行った。
立ったまま休むことなく、交代で、かかってくる相手に試合を1日200試合(面)、行う。7日で1400面だという。痣(あざ)は当たり前、爪も何枚か剥がれたという。 本物の侍たる所以だ。
人生には、その人間の一生を左右する出会いがある。こころを研ぎ澄まし、強く求めていればこそ、またとない出会いにもめぐまれる。近所にいた山岡静山に槍術を学び、その実弟の高橋泥舟(海舟とともに三舟と呼ばれる)に会い、養子(山岡姓)になり、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚することとなった。
世の中は幕末、外国船襲来による国家の危機に「講武所」が開かれ、勝海舟、中条金之助らと武術に励んだ。更に凄いのは、禅に参じて、願翁和尚より「趙州狗子」の公案をさずけられる。
清河八郎らと尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成。
またしても、浅利義明(又七郎)と試合するが、勝てずに弟子入りする。
「どうすれば、引き下がらず、押し返せるか?」-----『これまでの百倍死ぬ気になることだ。とことん本気になることだ。』と教えられる。
勝海舟と西郷隆盛の会談の前、清水次郎長のお陰で『徳川慶喜公の恭順』を鉄舟は名代として西郷吉之助に伝えた。納得した西郷は7つの条件を出し、江戸総攻撃中止すると交渉。
一、 慶喜謹慎恭順の廉を以て備前藩にお預け仰せつけられるべき事。
二、 江戸城を明け渡すべき事。
三、 軍艦残らず相渡すべき事。
四、 軍器一切渡すべき事。
五、 城内住居の家来、向島に移り慎みおるべき事。
六、 慶喜の妄挙を助けそうろう面々は、厳重に取り調べ、謝罪の道きっと立てしむべき事。
七、 もし、暴挙して手に余りたらん者は官軍を以て相慎むべき事。
鉄舟は「この慶喜公備前預けに関してだけ承服できぬ。朝命であれ、兵端が開かれ、むなしく数万の命が消える」と交渉。
アメリカの南北戦争では62万人、フランスのパリ・コミューン事件では約3万人の死者が出たという。
西郷:「徳川慶喜殿のことは必ず取り計らいもす。ご一任下されたい。」
鉄舟:「承知つかまつった。」
合意した。
鉄舟は、西郷に『命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困りもす』『そういう始末に困る人物でなければ、艱難を共にして、国家の大業は為せぬ。』と賞賛させた。
これで江戸城無血開城となった。
これから、徳川旧家臣の駿河へ約10万人もの大移住が大変である。
静岡といえばお茶で有名だが、牧の原台地の開墾を勧めたのが、鉄舟である。
この間でも、三島龍澤寺で星定和尚に参禅し、禅の境地が開いてきたという。
静岡藩権大参事だった鉄舟は西郷と海舟に薦められ、宮内省の侍従として明治天皇に仕える。単純なエピソードでない話が書いてある。
酒を9升呑んだことがあると陛下に申したがために、目の前で呑めといわれたが、「人の言をそのまままるごと信じることがまことの信だ」と拒否。
「ただ唯々諾々と従うだけが侍従の務めではありますまい。」人の道にかなわぬことを仰せになれば、それを撓(た)めるのが務め。
ある時、陛下とすわり相撲を取ることになった。陛下は座っている鉄舟に組みかかり、なんとか押し倒そうとするも、鉄舟はびくともしない。陛下がついに拳で鉄舟の目を突こうと狙ってきた。鉄舟が顔をかわすと、勢い付いた陛下は、前のめりに倒れてしまった。陛下は「朕を投げ飛ばすとは無礼この上ない奴だ」軽い傷を負いながら口惜しそうだった。別の侍従が謝罪を勧めるも、鉄舟は「もし陛下が御酔狂のあまり拳でもって臣下の目玉をお砕きになったとすれば、天下に、後世に、古今稀なる暴君と呼ばれます。もし、陛下が私の措置を否と仰せになるならば、わたしは慎んでこの席で自刃して謝罪する覚悟でござる」と家に帰らず、控えで待ち続けた。てこでも動かぬ。
陛下は、「朕が悪かったと山岡に伝えよ」とおっしゃったが、鉄舟は「ただ悪かったとの仰せのみにては、わたしはこの席を立ちかねまする。なにとぞ実のあるところをお示しくだされたくお願い申し上げる」と頷かない。
陛下は意を決して、「これから先、酒と相撲とを止める」と答えた。鉄舟は感激して涙を流し、「思し召しのほど、たしかに慎んで承り申し上げる」といい、退出した。しかし、鉄舟は出仕せず、ひと月後葡萄酒1ダースを陛下に献上したという。 鉄舟の武士たる”忠臣“の面目躍如たるエピソードですね。
陛下には「国を統(す)べる大君として学問をなさいませ」「大君の学問は、ひとえに仁をきわめるところにあると存じます」と鉄舟は進講している。
(続く)
お読み下され、感謝いたします。
ここ二週間は、38度前後の暑さ。やはり、水泳に限ると、せっせとプールへ通った。仲間と泳ぎ、ジャグジーでリラックスして、世間話をして帰ってくる。
この暑い夏に良い本と出合った。S君の推薦してくれた「命もいらず、名もいらず」山本兼一著(上、下)NHK出版である。
「喝! 生ぬるい!」と、いわれているようだった。
山岡鉄舟の生涯を見事に活写している。
北辰一刀流の撃剣を描くだけでも、大変なのに、座禅修行と公案を描き、残された書まで読み解かねばならない。著者が「とんでもない男だ」と書いているだけに、よくぞ描けたなと思えた。
化け物ですね。6尺2寸(1m88cm)105kgの大男だ。
小野鉄舟は幼少(9-16)時を飛騨高山で過ごす。真影流から北辰一刀流千葉周作門下の井上清虎のもとへ移り、剣術を学ぶ。
父の遺言「自分のためになることが天下の役に立つ」を縦軸に、千葉周作の「こころが定まるとはいつでも死ぬ覚悟ができていること。これからその稽古に励むがよい」との教えを横軸に励んだ。 開国か攘夷の議論の最中、撃剣数稽古1日200面を7日間立ち切り行うという正気の沙汰でない稽古を行った。
立ったまま休むことなく、交代で、かかってくる相手に試合を1日200試合(面)、行う。7日で1400面だという。痣(あざ)は当たり前、爪も何枚か剥がれたという。 本物の侍たる所以だ。
人生には、その人間の一生を左右する出会いがある。こころを研ぎ澄まし、強く求めていればこそ、またとない出会いにもめぐまれる。近所にいた山岡静山に槍術を学び、その実弟の高橋泥舟(海舟とともに三舟と呼ばれる)に会い、養子(山岡姓)になり、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚することとなった。
世の中は幕末、外国船襲来による国家の危機に「講武所」が開かれ、勝海舟、中条金之助らと武術に励んだ。更に凄いのは、禅に参じて、願翁和尚より「趙州狗子」の公案をさずけられる。
清河八郎らと尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成。
またしても、浅利義明(又七郎)と試合するが、勝てずに弟子入りする。
「どうすれば、引き下がらず、押し返せるか?」-----『これまでの百倍死ぬ気になることだ。とことん本気になることだ。』と教えられる。
勝海舟と西郷隆盛の会談の前、清水次郎長のお陰で『徳川慶喜公の恭順』を鉄舟は名代として西郷吉之助に伝えた。納得した西郷は7つの条件を出し、江戸総攻撃中止すると交渉。
一、 慶喜謹慎恭順の廉を以て備前藩にお預け仰せつけられるべき事。
二、 江戸城を明け渡すべき事。
三、 軍艦残らず相渡すべき事。
四、 軍器一切渡すべき事。
五、 城内住居の家来、向島に移り慎みおるべき事。
六、 慶喜の妄挙を助けそうろう面々は、厳重に取り調べ、謝罪の道きっと立てしむべき事。
七、 もし、暴挙して手に余りたらん者は官軍を以て相慎むべき事。
鉄舟は「この慶喜公備前預けに関してだけ承服できぬ。朝命であれ、兵端が開かれ、むなしく数万の命が消える」と交渉。
アメリカの南北戦争では62万人、フランスのパリ・コミューン事件では約3万人の死者が出たという。
西郷:「徳川慶喜殿のことは必ず取り計らいもす。ご一任下されたい。」
鉄舟:「承知つかまつった。」
合意した。
鉄舟は、西郷に『命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困りもす』『そういう始末に困る人物でなければ、艱難を共にして、国家の大業は為せぬ。』と賞賛させた。
これで江戸城無血開城となった。
これから、徳川旧家臣の駿河へ約10万人もの大移住が大変である。
静岡といえばお茶で有名だが、牧の原台地の開墾を勧めたのが、鉄舟である。
この間でも、三島龍澤寺で星定和尚に参禅し、禅の境地が開いてきたという。
静岡藩権大参事だった鉄舟は西郷と海舟に薦められ、宮内省の侍従として明治天皇に仕える。単純なエピソードでない話が書いてある。
酒を9升呑んだことがあると陛下に申したがために、目の前で呑めといわれたが、「人の言をそのまままるごと信じることがまことの信だ」と拒否。
「ただ唯々諾々と従うだけが侍従の務めではありますまい。」人の道にかなわぬことを仰せになれば、それを撓(た)めるのが務め。
ある時、陛下とすわり相撲を取ることになった。陛下は座っている鉄舟に組みかかり、なんとか押し倒そうとするも、鉄舟はびくともしない。陛下がついに拳で鉄舟の目を突こうと狙ってきた。鉄舟が顔をかわすと、勢い付いた陛下は、前のめりに倒れてしまった。陛下は「朕を投げ飛ばすとは無礼この上ない奴だ」軽い傷を負いながら口惜しそうだった。別の侍従が謝罪を勧めるも、鉄舟は「もし陛下が御酔狂のあまり拳でもって臣下の目玉をお砕きになったとすれば、天下に、後世に、古今稀なる暴君と呼ばれます。もし、陛下が私の措置を否と仰せになるならば、わたしは慎んでこの席で自刃して謝罪する覚悟でござる」と家に帰らず、控えで待ち続けた。てこでも動かぬ。
陛下は、「朕が悪かったと山岡に伝えよ」とおっしゃったが、鉄舟は「ただ悪かったとの仰せのみにては、わたしはこの席を立ちかねまする。なにとぞ実のあるところをお示しくだされたくお願い申し上げる」と頷かない。
陛下は意を決して、「これから先、酒と相撲とを止める」と答えた。鉄舟は感激して涙を流し、「思し召しのほど、たしかに慎んで承り申し上げる」といい、退出した。しかし、鉄舟は出仕せず、ひと月後葡萄酒1ダースを陛下に献上したという。 鉄舟の武士たる”忠臣“の面目躍如たるエピソードですね。
陛下には「国を統(す)べる大君として学問をなさいませ」「大君の学問は、ひとえに仁をきわめるところにあると存じます」と鉄舟は進講している。
(続く)
お読み下され、感謝いたします。