隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

道順・その光背 Doujyun ・His Halo

2011-10-24 15:47:51 | Weblog
道順・その光背 Doujyun ・His Halo 平成辛卯廿三年神無月廿四日

後陽成天皇107代―――第一皇子 覚深法親王―――――ー三男 道順
            第三皇子 後水尾天皇108代
    
新聞の書評に「江」外伝のような逸品として、あげられていたのが、「道順・その光背」である。早速取り寄せて読んだ。
 天下の実権を掌握した者にとって、目の上にあるのは朝廷だけである。それを思うままに操って甘い汁を吸うのは、それと姻を結ぶものだけである。
平清盛はそれを果たした。徳子を高倉天皇にお輿入れさせて、安徳天皇を産ませたが、後が続かなかった。源頼朝、足利義満、織田信長もしかり、しかし、秀吉は天下人となり、最後喉から手の出るほどほしかった関白の座を勝ち取るため、五摂家筆頭近衛家の息女を養女にしたのである。
 家康は関白のことが頭から拭い去れず、これに対抗することに万策を講じた。豊臣に追いつき追い越せである。豊臣氏のことで懲りた朝廷側は強い抵抗するも、後水尾天皇へ江の五女和子(まさこ、かずこ、わこ)の入内が内示された。(1614)
 家康は1616年に亡くなるが、和子の父たる第2代将軍秀忠がりっぱに1620年和子入内(じゅだい)の行列をなしとげた。大事な朝廷並びに京わらべ全般への示威行動と全国大名諸候への幕府ならではの勢威の誇示が出来た訳である。
この和子が、何と女一の宮から五人の宮を産み、高仁親王と若宮は不幸にも夭折する。
しかし、女一の宮が天皇になるのである。高御座(たかみくら)につかせられることになった。数え年8歳の女帝誕生。称徳天皇以来およそ860年ぶりの女帝が、日本歴史に記録されることになった。第3代家光ころ(1630)で、幕府は物心両面にわたり総力をあげて即位の大礼を行った。第109代興子(おきこ)内親王(後の明正天皇)の誕生である。母たる和子の兄が将軍家光なのである。金品の夥しい進呈は当たり前、徳川実紀に詳細に記録されているという。 尚、江は1626年享年54歳で世を去って、從一位を追贈されている。第108代後水尾天皇は第107代後陽成天皇の第3皇子であるが、第1皇子は覚親法親王(かくしんほっしんのう)となり、仁和寺第21世(後南御室とも)となられた方で、天皇家のしきたり、調度などの詳細が仁和寺資料に残されている。
 その親王の3男に道順がいた。
彼はまさに女一の宮、後の109代明正天皇の「いとこ」にあたるのだが、宮仕えの身で禁中こぞっての御室の山へのお花見の日に、忽然として世の無情を感じて、発心をし、翌日出家。そして、仏道修業のためにこの世に生まれてきたように、一切経をひもとき、そのなかに心身をうちこみ、行者として10数年を過ごす。 
西本願寺をはじめとし、永平寺、浄土寺の知恩院、そして、比叡山西塔黒谷の青龍寺へ。ここを究極の修行の地と定め、「無欲情浄専勤念仏」(よくのないきよらかなこころでひたすらねんぶつ) 称名1日6万課―――1日6万遍お念仏を称える。黒谷龍山行は5年に及んだという。魂の遍歴を重ねた道順が、最後にたどりつきすがったのは、先師真盛上人で、比叡山麓の西教寺にいた。西教寺に入って、法印という僧位の最高位を奉られ、更に生盛上人という尊称を謹呈されることになった。


 筆者は語る。 和子さま入内後、後水尾天皇の二条城行幸、 勅許紫衣事件、皇子二人も急死という、菊と葵の相克は、限りなく強く根が張り、抜きがたいものとなって、「血」の塊のようなものが、見えないところでとぐろを巻いている。命の殺(あや)めあいである。
 道順は「世のために何かをして返さねばならない」と思い、山を下りて、仁和寺御室を継ぐ身でありながら、進んで、伊勢国一志郡竹原村(現津市)の来福寺に入った。
いつ果てるとも知れぬほど疫病は、猛々しくつづき、このまま進めば、人々は死に絶え、村は亡びに至る。 道順は、ついに己が身命と引き換えての天地神明のお祐(タス)けを乞い奉られたという。入定である。
 五穀を断ち、口にするもの一切なし。携えるもの鈴(りん)ひとつ・・。土深く掘った穴に身を沈め、竹筒をとおし。上は軽く物で覆い、念仏を称え、ときに鈴を打つ・・。
いのち終わるまで怠ることあるまじーー(鈴の音ついに絶えれば土をかけたまわれ)・・7日の後、上人御遷化。時を同じうして病は消え村は蘇ったという。
1679年数え62歳。
 
女一の宮に語らせている。己が命を捨てて、人々の命を救い、村を護るーーーみ心のこころと一つになりきるまで、身を苛(サイナ)む修行に耐え抜いた人でない限り、そのようなわざはなし得るわけがございますまい。
女一の宮が、江の孫であるから、改めて江の凄さが分かってくるが、家康の悲願が達成される中、このようにひっそりと道順が、入定されると残念ながら、衝撃は少なかったでしょう。

2010年10月17日 チュニジアの一青年が、果物や野菜を販売し始めたところ、許可なしとして警官が商品と秤を没収。婦人警官に暴行され、返還を引き換えに賄賂を要求された。これに抗議して、県庁前で焼身自殺を図った。これをきっかけにして、いわゆるジャスミン革命が始まった。エジプト、シリア、リビアと飛び火し、先日のカダフィ大佐の死亡にまで発展してきている。失業率の高さと長期政権の腐敗がもとなのだが、いずれにしても、正確な情報と正しい判断が要求される時代になった。

筆者が道順に成り代わり、結んでいる。
御縁をたまわりましたる皆の衆、
これまでのお付き合い、お礼申し上げまする。
この世は一度きり、悔いなき一生をお過ごしあれ。

酔芙蓉

「道順・その光背」田中 剛著 葦工房
 自費出版につき 〒515-3201
         三重県津市美杉町竹原436
Tel 059-262-3010
          田中 剛様へお問い合わせ下さい。

犬山秋宵車山Inuyama Fall Yoiyama

2011-10-23 21:22:22 | Weblog
犬山秋宵車山Inuyama Fall Yoiyama 平成辛卯廿三年神無月廿三日

 7月22日夜6時小雨降る中、車山(やま)に一年分の提灯がつけられ、本物の蝋燭が灯された。三重の亀山蝋燭特注、4時間持つという。今年は12両が勢ぞろい。「浦島」の1両が「うるし」の塗り直しでお休み。
 城下町を手古たちによって、車山が動き出す。城下の辻に来ると方向転換である「車切り(しゃぎり)」をおこなう。力自慢の手古達が、前方の車輪を止めて、威勢よく車山を回転させる。その車山が30度傾き、提灯も揺れ、ぐらぐらとなる。何せ3トンと聞くから大変だ。中にいるお囃子の子供たちもびっくりだろう。

前後を回転させる時の「どんでん返し」から車切りを「どんでん」といっている。
これら車山が去っていくのを見送ると実に幻想的な感じがする。
「宵車山」を見終わらないと祭りが終わらない気がしたが、祭りの翌日は「車山崩」と呼ぶ、解体をする。そして、週末にはこどもたちと「車山下ろし」という名のご苦労さん会を開催して、犬山祭りがすべて終わるという。
お読み下され、感謝致します。

PS.今、特別展 城主の格式 と題して 岐阜市歴史博物館で 国宝犬山城の至宝の展示が開かれている。
11月27日まで。

小谷城跡見学Visit Ruins of Odani Castle

2011-10-15 07:35:58 | Weblog
小谷城跡見学Visit Ruins of Odani Castle   平成辛卯廿三年神無月十五日

先日、犬山城ガイドの仲間と小谷城跡を見学してきた。
小谷城は山城である。ご存知浅井氏の居城で、信長との激しい攻防戦が行われた城であるが、今は遺構のみである。
なにぶん跡見学ということでしたので、ここに大広間、本丸などがあったと言われても、
立て看板で確認ということで、ストーリーが湧かない。「江」の総集編がほしいところです。
 100メーター位の高さの小山ではあるが、御年70幾つのガイドが1日2回はきついとハーハーと喘ぎながら説明してくださった。
ブームが去ってしまうと賑わいが無くなってしまうから、今駆り出されてやっていますとのこと。遺構だからか、盛んに郭・曲輪という専門用語が出てきた。チョットしたハイキングでもあった。本丸跡東下に天正元年(1573)浅井長政が自刃した赤尾屋敷跡があるが、あぶないらしく行けなかった。 竹生島を中央に琵琶湖を一望でき、眼下に広がるパノラマは気分が爽快にな
る。今はないが、天守閣からだと、もっと下の国道あたりを軍隊が行く様を俯瞰できると思った。反対側つまり東南の方角には姉川の古戦場が広がっている。

下の戦国歴史資料館の他のガイドは体力がいらない分、相当なめらかに、しかも自分の研究した結果をもとに浅井三姉妹を説明してくれた。ただ、話を途中からだが、最後まで聞いておれないほど急かされた。時間が無かったのだ。しかし、「江」よりも「初」に光をあて、細かいエピソードなどをまじえ、御公家さんの強調をしていたことだけは頭に入れておいた。
やはり地元は違うと感じた。「江」の娘「和子まさこ」が天皇家へお輿入れのことがちゃんと書いてあった。
やはり、次回は田中剛著「道順・その光背」について書こうと思います。「江」の外伝といったすばらしい
本である。
お読み下され、感謝します。



白帝城Bai di cheng(city)

2011-10-04 18:22:01 | Weblog
白帝城Bai di cheng(city) 平成辛卯廿三年神無月四日

 Three weeks ago I went to China. I went down the Yangzi river長江 in a luxurious passenger ship : MV Century Sunセンチュリー・サン, the luxurious 5-star cruiser. From Chongqing重慶 to Wuhan武漢.
I saw three Gorges : Qutang Gorge 瞿塘峡, Wu Gorge巫峡 and Xiling Gorge西陵峡   , Three Gorges Dam ,and the White Emperor City白帝城.
The White Emperor City looks like Inuyama castle.

白帝城Bai di cheng(city) is located at the entrance of the Qutang Gorge—the first of the Three Gorges on the Yangtze River.

Because of its strategical position, it has been contested by militaries for thousands of years.

Shu蜀 crowned himself to be a new king at the end of the Western Han西漢dynasty王朝 in (25AD), and then 200 years later , the emperor of Shu蜀kingdom Liu劉Bei備entrusted his kingdom and his son to the prime minister’s care during the Three Kingdoms period三国時代, one of the more historical events in the China’s History. Baidi City is called as “City of poetry”. Tuo-Gu-Tang 托孤堂in the Baidi temple was recurrence再現of the scene which Liu劉Bei備trust with his son 劉禅to Zhuge Liang (諸葛亮)styled Kongming (孔明), before 1700 years.
Tuo-Gu-Tang the stone of monument清水の次郎長ではありませんが、削られた跡ですかね。
The King and Minister of Shu蜀kingdom began to be worshiped here in the middle of Ming明dynasty(1532).劉備 孔明

Lots of intellectuals知識人 and poets詩人 in history have been attracted by the profound深い cultural impact and unique landscape of Baidicheng白帝城 and created enormous amount of poems which enjoy great popularity in China.

LiBai李白’s famous poem has made Baidicheng白帝城 known far and wide, “ At dawn, I left the white emperor city.” 早発白帝城
早發白帝城 Leaving the Baidi Wall
朝辭白帝彩雲間 At purple dawn, I left the Wall cloudy on the peak.
千里江陵一日還 The torrent rushed my boat far away to Jiangling.
両岸猿聲啼不盡(住) Between dark precipices echoed monkeys' shriek.
輕舟己過萬重山 Mountain after mountain my light boat was going.

The last day was a tour of “ Red Cliff ”. I had a wonderful time.
I appreciate reading my journal.
A new expressway across the branch of the Yangzi river長江
 まだまだ奥へ発展する中国を垣間見た旅行でした。

P.S.
漢詩の一字、(盡)と(住)が 両方出ています。どれが、正解かわかりません。
調べ中です。