隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

Tea Serving dolls茶運び人形

2013-06-25 16:40:28 | Weblog

Tea Serving dolls茶運び人形   平成癸巳廿五年水無月廿五日

It is one of mechanical puppets. (座敷カラクリZashiki Karakuriの一つ)
The puppet moves with “baleen”: a hair-spring of a whale.
First of all, As the weight of a teacup makes the boy puppet move, he goes to a guest holding a tea tray.
The guest picks up a teacup.
He stops moving in front of the guest.
And then the guest drinks a tea and returns back a teacup to a tea try.
The boy puppet goes round clockwise(right-about-face) and gets back with a tea tray.

これらの人形はバリーン、クジラの髭で動きます。
まず始めに、お茶椀の重さが、人形をうごかしますので、お茶碗を載せたお盆を持って、お客のところに行きます。お客がお茶碗を取りますと人形は止まります。 そしてお客はお茶を飲み、お盆にお茶碗を戻します。人形は時計廻り(右回り)に廻り、お盆を持って戻っていきます。
ロボットの原点なんですが、9代目玉屋庄兵衛氏は、面白くて考えさせられることを語っている。
『からくり人形は、胴体のほとんどが木で出来ています。動きは糸などで制御します。動力はぜんまいや石などの重りです。使われる木は1種類ではなく、部位に応じて複数の木材を使い分ける。茶運び人形の場合、顔には細工もしやすく脂や変色も起こさない檜を用いる。胴は桜。歯車には堅さのある花梨。軸心には赤樫の木。調速機と呼ばれるスピードを調整する部分には、柘植、黒檀、竹を使います。動輪は黄楊の木。雁木車(がんぎくるま・長い歯を持つ歯車で原動力部と連動し、間欠的な往復運動などをつくりだす)には黒檀を使う。7種類も用途に合わせて選ぶ。そうして選び抜かれた素材で使われた人形は200年経っても動きます。特に檜は「樹齢200年の木を使えば、200年持つ」といわれるほど良い木で、顔は人形にとって大事な場所ですから、檜を使う。
 木には『精』があります。やはり200年も経つと、その精が抜けて木が疲れてしまう。
そこで、修復となるわけですが、この時には、材料も仕組みもすべて元と同じようにしなくてはいけないのです。顔が檜なら檜で、歯車が6枚だったらそのまま6枚で修復するんです。衣装も同じ素材で、同じ文様にしなければいけない。自分の好きな顔に仕上げてしまってもいけない。その意味で修復は難しい。その町内が200年近く守(もり)してきた人形を修理に出して顔が変わったり、動作が変わったりしたらだめなんですよ。』Netより

法隆寺宮大工西岡常一の弟子小川三夫氏の話に、『木は生育の方位のままに使へ』というのがあります。山の南側の木は細いが強い、北側の木は太いけれども柔らかい、
陰で育った木は弱いといふやうに、生育の場所によって木にも性質があります。
山で木を見ながら、これはこういう木やからあそこに使おう、これは右に捻れているから左捻れのあの木と組合はせたらいい といふようなことを山で見分けます。これは棟梁の大事な仕事です。
法隆寺は1300年前に建てられた世界最古の木造建築です。法隆寺のヒノキは1300年も使っています。
「木は方位のままに使え」という言葉は、同じ檜でも育った場所で違ってくるということでしょう。
                       
 ましてや人形の材質ともなると大変なことだ。
お読み下され、感謝致します。

仁和寺研修Study Ninna-ji Temple

2013-06-18 20:03:37 | Weblog

仁和寺研修Study Ninna-ji Temple  平成癸巳25年水無月十八日


先日、京都は仁和寺へ研修に行ってきた。
妙心寺と竜安寺の間にあり、失礼ながらこういう機会がないとなかなか来れないところであった。
公益財団法人犬山城白帝文庫主催の研修ならではの企画である。

 仁和寺は真言宗御室派総本山である。平安時代、第58代光孝天皇により西山御願寺として着工されたのに始まる。888年(仁和4)宇多天皇が先帝の遺志を継ぎ、創建された。寺号も仁和寺となる。
 宇多天皇は寛平9年(897年)に譲位し、後に出家し、仁和寺第1世宇多(寛平)法皇となれれてから、30余年もの間、真言密教の修行に励まれました。以来、皇室出身者が仁和寺の代々門跡(住職)を務め、平安から鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちました。  しかし、応仁の乱が1467年に始まり、全山焼失した。そんな中、本尊の阿弥陀三尊や聖教などは、真光院に移され、法燈とともに伝えられている。
御室御所と呼ばれている。
国宝金堂 現存最古の紫宸殿の遺構 内部は天井がなく、防火のため電気など引いてない。
 五重塔 高さ36m   五重塔内部 

蔵経閣 ここも入閣できた。莫大な量の一切経が直径約2mの円柱の納経箱にびっしりと納められている。一箱一箱に防虫剤が入れてあるという。その円柱を右回りに回転させて、一切経を読んだことにして修行を行っているといわれた。
   

残念ながら、今日は雨である。広大な庭と二つの茶室を巡ります。
遼廓亭りょうかくてい  にじり口と内部の配置は「如庵」と同じだ。
江戸時代建築の重要文化財建造物。二畳半台目の茶室と広間・水屋等からなる草庵風と書院式を加味した茶席。仁和寺門前の尾形光琳邸から移したと言われている。その露地庭は築山に小池をうがち、飛び石と延段を配した書院式茶庭である。
何とこの茶室は国宝「如庵」とそっくりではないか。
もっとも、路地といい有楽斎好みの窓の造り(有楽窓)は全然違う。どちらがいいとはいえない。
他にはないと説明していた床の間脇の三角板がちゃんとある。これには参りましたね。
主人がもてなしに良いようにうまい工夫だと説明していたのだが。
壁は味わい深い錆壁であった。「如庵」は江戸時代のカレンダーを張り付けてある。
こちらは土間が長く、刀掛が壁にあった。部屋ではないのです。

飛濤亭(ひとうてい) 
江戸時代建築の重要文化財建造物。光格天皇遺愛の席と伝えられる四畳半の茶室と水屋・台所からなる草庵式本位の茶席。庭園の東北隅にある。
天皇の愛席と言われるだけ、にじり口はないと言われた。

広大な庭です。
   

 

宸殿しんでん内部
   
 応仁の乱から約160年後の寛永11年(1635)7月24日「仁和寺御伝」によると、仁和寺第21世
覚深法親王は、上洛していた徳川幕府3代将軍家光に仁和寺再興を申し入れ、承諾された。
そして御所から紫宸殿(現 金堂)、清涼殿(御影堂)などが下賜され、正保3年(1646)伽藍の再建が完了した。  この第21世覚深法親王は父が107代後陽成天皇であり、弟は第108代後水尾天皇である。
その後水尾天皇は、二代将軍秀忠とお江との和子(異腹の子説あり)をもらうことになり、女一の宮109代明正天皇が誕生する。すごい系譜である。
 この仁和寺第21世覚深法親王は男の子三人あり、三男が道順という。平成23年田中剛「道順・その光背」を読んで感動した。(平23年10月ブログに書きました)
「道順・その光背」 五重塔と御室櫻(表紙) 
高貴な身ながら、生涯行者の道を究めた人で、宗派を超えて、西本願寺、永平寺、知恩院、青龍寺などを転々、修行を重ね、仁和寺御室を継ぐ身でありながら、進んで伊勢一志群竹原村(現津市)の来福寺に入った。そして、地域に流行した疫病から住民を救うため、入定して62歳の生涯をとじた。

これ以上の無私の人はいないと思う。
仁和寺には国宝が4点あり。世界遺産に登録され、敷地は約9万平方mある。
後世に伝える手法として、NHKではないが、デジタルアーカイブにとりくんでいる。
特に撮影時の光量では、LEDの使用は問題なしだったという。
仁和寺執行 大西 智城様のご案内でした。

料亭の都合でお昼を早く頂くことになった。
京の料亭 御室 奥山山荘  松山閣 松山 である。

京料理・本家生ゆば料理でした。

<覚え>
湯葉(ゆば)
[ 日本大百科全書(小学館) ]
湯波、湯婆とも書く。大豆製品の一つ。語源は、豆乳(とうにゅう)の表面に浮かぶ皮「浮皮(うわ)」から、また豆腐の上物(うわもの)、豆腐の姥(うば)の略語などの説がある。豆乳を煮つめ、表面にできる被膜状のものをすくい取ったものが生(なま)湯葉、乾燥したものが干し湯葉である。通常、湯葉というと干し湯葉を意味することが多い。鎌倉時代に中国から伝わり、江戸時代には巻き湯葉、絞り湯葉、茶巾(ちゃきん)湯葉、糸巻き湯葉などの加工湯葉がつくられている。京都と日光が名産地。生湯葉には、大きく畳んだ引き上げ湯葉、巻き湯葉、ぎんなん・百合根(ゆりね)などの具を生湯葉で巻き込み油で揚げた牡丹(ぼたん)湯葉(東寺(とうじ)湯葉ともいう)などがある。干し湯葉には、引き上げ湯葉を干した板(いた)湯葉(平(ひら)湯葉ともいう)、小形に畳んだ畳み湯葉、結び湯葉、巻いて干した巻き湯葉(太巻き、細巻きなど)などがある。干し湯葉では黄色く着色したものもある。また、切れ端を袋詰めにしたり、生湯葉で形の悪いものや鍋(なべ)底の濃厚な部分からつくったものを甘湯葉として総菜用に売る店もある。
<栄養・調理>
湯葉は豆乳を濃縮した形であるため、タンパク質が豊富である。干し湯葉で53%、生湯葉でも22%含まれ、精進料理のタンパク質の給源である。脂肪、カルシウム、鉄、カリウム、ビタミンB1も多く含まれる。生湯葉はそのままわさびじょうゆで食べたり、から揚げ、煮物、吸い物に用いる。干し湯葉は水が行き渡る程度にぬるま湯でもどし、煮物、吸い物、ばらずし(五目ずし)などに用いる。生湯葉は冷蔵庫に入れ、数日間で使用すること。干し湯葉は保存性はよいが、長く置いたり、保存温度が高いと脂肪が酸化し、風味が低下する。中国の湯葉は豆腐皮(ドウフウピイ)、油皮(イウピイ)とよばれ、多種類の形がある。

お読み下され、感謝致します。
 




 
 

長久手古戦場Nagakute battle

2013-06-03 18:43:51 | Weblog
長久手合戦 Nagakute battle 平成癸巳二十五年水無月三日
       
長久手古戦場へ行ってきました。

  

1584年4月9日秀吉陣営と家康・信雄陣営とのたった1日の戦い 
 
徳川家康3500 +井伊直政3000 +信雄3000<本隊>の動き  <金扇が家康本陣>
4/8pm8:00小牧→小幡城4/9am.3:00→→色金山(金扇)5:30→富士ケ根・御旗山(金扇、傘)8:00
   <4:30徳川先遣隊榊原・大須賀4500白山林の戦い・三好秀次隊8000壊滅へ>  
 <7:00堀秀政隊3000桧ケ根の戦いで榊原康政を破る>→8:00三好・堀隊、犬山へ撤退

→井伊・奥平隊<仏ケ根>に残る→富士ケ根→前山・御馬立場8:30(金扇)家康・信雄本隊6500
徳川美術館(徳川版)、豊田市郷土資料館(浦野版)、名古屋市博物館、
犬山城白帝文庫(成瀬版)、大阪城天守閣 ずらりと合戦図屏風の写しが並べられ、
それぞれの大名が、登場人物を入れ替え、書き加えてあるのが良く分かった。
  
全景のジオラマと解説付きで動きが良く分かる。
主戦場は仏ケ根(ほとけがね)であるが、同時進行で戦が起こり、旗差し物を立てた伝令役が合戦の状況を伝えるのである。喚声・銃撃は各隊を威嚇したであろう。
徳川の金扇馬標(富士ケ根)は、効果絶大で、堀久太郎秀政隊はそれを見て、戦闘停止。
現在の愛知医大あたりで、勝鬨を3度揚げて犬山へ撤退したという。
 
棒の手・無形民俗文化財 なぎなた など。

日本人でもスッとは分からぬ屏風絵を前に、外国人は特に子供は、槍の先に頭があるのや、首のない侍などは、目に入るらしい。 当時はチャンと首を取ったかどうかが大事で、首実験をして撤収するのが通例であった。外国の人には、我々もキリストの磔は見慣れておりますと言う用意をしている。     

お読み下され、感謝致します。

P.S. ここ古戦場の近くに、大型ショッピングモールが進出という話があるそうだ。
   様相が一変しますね。地名の変更だけは避けてもらいたい。