隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

内藤丈草 Naito Joso

2016-03-28 23:22:40 | Weblog
ミモザ

内藤丈草 Naito Joso 平成丙申廿八年弥生廿八日

最近、童門冬二の「小説 内藤丈草」を読み、犬山城の丈草胸像を前に、何か内外の人達に良き話が出来ぬかと頭をひねっているところです。
 まず簡単な生涯をまとめよう。
内藤丈草は寛文元1661年、犬山藩の家臣で、白帝城下新道の北端なる内藤家に生まれた。
この年には、榎本其角、上島鬼貫らも生まれている。
彼は、体が弱かったので武士の身を捨てて僧になった。内藤林右衛門から内藤丈草となへいったわけである。出生地は、この花散る澤の西端、通称川原坂にあり、犬山八景の一つ『花(はな)散(ちる)沢(さわ)夜(のや)雨(う)』に数えられ、坂を下れば郷瀬川の流れが見え、近く木曽川の瀬音も聞こえ、西には間近く、白帝城の白壁が見えるそうだ。
 内藤家は、藤原氏の末裔で代々犬山に住し、成瀬氏の重臣と称されている。
     母(未詳)
       |------林右衛門(丈草)
    内藤源左衛門
  (藤原本守)
     |ーーーーーー 恒右衛門(新家一本蒿祖)
          |       儀左衛門(本家)                   
     |       弟妹10数人 多けれども略す
        母(未詳)
父は成瀬家に仕えて、約150石を食んでいた。
母は早くして亡くなり、継母に育てられた。
継母には恒右衛門以下男女合わせて十数人の子があった。丈草は不遇の中に人となった。
しかしながら、早熟で、八歳で『こいこいといへど、蛍は飛んで行く』という句を作った。
九歳の時は、『発句して 笑はれにけり 今日の月』
丈草の家は貧しくはない。叔母が犬山城主成瀬家の当主の側室あり、その縁で内藤家は立身した。たとえ家を弟に譲ったとしても、丈草ひとり一生ブラブラ暮らしても、その面倒はみてもらえるはずであった。彼は禅僧になって生きていこうと心に決めていた。
 丈草からみて叔母に当たる正寿院(仁右衛門祖父の娘)が、成瀬正虎(二代目、犬山祭の基礎を作った)の子供直竜を産み、丈草(幼名林之助)は14歳より、その直竜の面倒をみるようになり27歳まで仕えた。尚、正虎の長男は成瀬正親(三代目)である。主従関係でなく直竜は丈草の従弟であった。尾張徳川家の重臣寺尾家の養子となっていた。その直竜の看護役に中村春庵(医師)がつけられた。そして春庵より向井去来という人物を知った。彼の家は長崎で代々儒学者で医者を務める家で、去来は京洛(けいらく)の隠(いん)士(し)というあだ名がつけられるが、京都には四軒家を持っている。洛西嵯峨に建てられた落(らく)柿舎(ししゃ)という別荘があり、松尾芭蕉は京都での仕事場にしていたという。
 丈草と去来の境遇は似ている。去来は福岡藩で、武士として相当な期待を持たれていたが、武士を辞め、まっすぐ俳句の道を歩み、同時に自分の資力を尽くして、芭蕉の生活をみている。
丈草は、『俳禅一致』つまり禅の精神を俳句の精神と溶け合わせるべく、僧になった。名も林右衛門から丈草とした。 碧巌録に『走り過ぎざらば草の深きこと一丈ならん」とある。
そこが出典だそうだ。丈草の偈(げ) 
「多年屋ヲ負フ一蝸牛、化シテ蛞蝓(かつゆ)トナリ自由ヲ得、火宅最モ惶(おそ)ル延(えん)沫(まつ)尽ンコトヲ、法(ほう)雨(う)ヲ追(つい)尋(じん)シテ林丘二入ル」 意味は、固い殻を覆っていたカタツムリが、殻を脱ぎ捨てて今度はナメクジになったということである。
 聞いて直竜は笑い出し、「カタツムリが殻を捨ててナメクジになったか、これは面白い。しかしお前は骨のあるナメクジだからな。相手がびっくりするだろう」と言って、丈草の新しい人生を心から祝福した。
 丈草が芭蕉の門に入ったのは元禄2年(1689)の冬だといわれる。仲介したのはすでに
京都に出て仙洞御所の医師を務めていた史邦(ふみくに)だった。芭蕉から「西国の俳諧奉行に任命する」とのちにいわれ、上方蕉門の筆頭に立っていた向井去来の兄元端(げんたん)が、その頃、京都御所の医師を務めていた。丈草は去来や史邦に連れられて、去来の別荘である落柿舎で芭蕉に弟子入りした。良き繋がりという縁があるように感じる。去来は芭蕉と丈草の初対面の光景を「芭蕉は丈草に“この僧(草)もし此の道にすすみ学ばば、人の上に立たん事を月を越えゆべからず(たちまち頭角を現すだろう)”とおっしゃった。そのみこみの麗しさに、われわれは羨望の念さえおぼえた」と語っている。
 芭蕉が丈草にみたのは、<禅一途に生きる僧としての丈草の誠実さ>であろう。芭蕉も俳諧一途に生きていた。<精進努力>という意味では、俳諧と禅道の違いはあっても、地下水脈としての基調はまったく同じであった。童門冬二は凄い感性の持ち主だ。禅の精神と俳句の精神は根幹において一致することを丈草と凡兆(貧しい医師)の句や書簡より汲み取るのである。
 丈草が去来の門に入った元禄2年の冬は、この春から、弟子の曾良を連れて”奥の細道“を 歩いてきたばかりで、芭蕉は「この世の中で、変わらないものと変わるもの」の存在をみきわめたという。不易流行の論である。『俳諧はその両端を持っていて風雅の誠という観点で相即(そうそく)(関わり合う)されるべきものだ』と芭蕉はいっているが、去来は<句姿を決定するモノサシ>と受け止めたという。天地自然の姿は不易のものであり、いわば<静>だ。ところが人間社会の現実は、つねに変わり、これは<動>といっていい。したがって不易と変化という対置があり、それはつくられた句の姿を感じ取って決定すべきモノサシだというように考えた。
 貞享3年江戸の芭蕉庵で「蛙の句廿番句合」が興行された。ここで「古池や 蛙飛びこむ水のをと」が作られた。それまで蛙は「鳴く動物」と考えられてきたのが、芭蕉によって「飛ぶ動物」に変わった。多くの俳人たちが目をみはった。 去来も一句、「一(ひと)畦(あぜ)はしばし鳴きやむ
蛙哉」 去来は再び蛙を「鳴く存在」に戻し、しかも鳴きやむという<静>の情景をありありと詠みこんだ。芭蕉は「目からウロコが落ちました」と返事した。
 芭蕉は、「一期一会」の考え方をつねに日常行動の中で実践していた。「どんなに親しい人間でも、あるいは嫌なやつだと感ずる人間でも、自分たちは日常三通りの人間と出会っている」と考えた。三通りの人間とは、①学べる人間 ②語れる人間 ③学ばせる人間 のことである。
それも、身分、職業、男女の別、年齢、実績などは一切関係ない。融通無碍な関係で、時間の長いものもあれば、刹那のものもある。だからある瞬間に、学んだ人間に対しても、その直後には、すぐいやになって、今度は嫌うようなこともある。反対に、嫌い抜いている人間からもある日ある時、ピカリと光るなにかを発見し、たちまちそこから学びとるような一瞬もある。 
「そこが人間の面白いところだ」と芭蕉は思っているという。人間オタクで、心の底から<人間好き>だったと童門冬二氏は評している。彼は、「芭蕉死後の蕉門の分散」という課題として書き始めたそうであるが、門人の中で純粋に、芭蕉を慕い、最後までその師の心を自分の心として生き抜いた門人は内藤丈草だという。
 内藤丈草は、芭蕉の墓所である義仲寺のそばで墓守をし、やがて喪があけると今度は近くの丘に小さな庵をつくって移り住み、「死ぬまで師の墓をお守りしたい」という気持であったろう。 去来が最後に仏幻庵を訪ねて丈草と会ったのは、元禄15年10月。去来は「さむきよやおもひつくれば山の上」と詠んだ。 丈草は『雪曇身の上を啼く烏かな』と壮絶極まりない
句を詠んでいる。経塚の完成した翌年、元禄17年2月永眠した。まだ43歳だった。

現在、瑞泉寺の境内には丈草禅師の碑が、犬山町の同志の人々によって建てられている。
『水底の岩に落ち着く木の葉かな』 (丈草)

合掌

追伸;芭蕉の生まれは、寛永21年(1644年)現在の三重県伊賀市出身。 元禄7年10月12日(1694年11月28 日)に50歳で没。江戸時代前期の俳諧師。幼名は金作。

お読み下され,感謝致します。

瓢水Hyou sui

2016-03-18 20:16:30 | Weblog
サクランボ
瓢水hyou sui 平成乙申廿八年弥生十八日

 「浜までは 海女も蓑着る 時雨かな」 滝 瓢水

 S君というと失礼になってしまう。大変な読書家で、業界大手となってがんばってみえる。
ある講演会で聞いてきたという上の俳句を教えてくれた。滝 瓢水をnetで調べたら、次のブログに出会った。

「老人はゆく」というブログです。
ある掃除のおばさんから、今朝は「とてもいい本を見つけました」と外山滋比古著『いつ死んでもいい老い方』という本を下さった。そのなかに「二度とない人生を」という項があり、「濱までは海女(あま)も蓑(みの)着る時雨(しぐれ)かな」 滝 瓢水(ひょうすい)という句があった。後で図書館で借りて調べてみた。著者は、要旨以下のように書いている。
 ―上の句は江戸時代中頃の俳人・滝瓢水の作。瓢水は貞享2年(1684)播州別府(べふ)、現在の加古川市別府に生まれた。千石船を七艘も持って海運業を営む豪商の家だったが、彼一代で放蕩のため財産を費消し、極貧を苦ともせず名の通り水に浮かぶ瓢箪のごとく飄々と風流の道に 遊んだ人。
ある時、一人の旅の僧が瓢水の評判を聞いて住居を訪ねると、あいにく留守なので近所の人に尋ねたところ「風邪をひいて気分が悪いので医者に薬を貰いにいった」とのこと。
 それを聞いた旅の僧は「生死煩悩を離れて悟道の境地にあると聞いていたが、たかが風邪くらいで医者にかかるとは娑婆に未練のある証拠。取るに足りない似非坊主なら教えを乞う必要もない」と罵り去った。医者から帰ってそのことを聞いた瓢水は、近くの若者に僧を追わせ一枚の紙切れを手渡させました。そこには「濱までは海女も蓑着る時雨かな」と書いてあった。時雨は晩秋から初冬にかけて降る雨で、一時だけ強く降る通り雨のこと。「これから海に入って仕事をする海女が、急に降り出した雨をさけるために蓑を着て浜まで行った。どうせ海に入れば濡れるのだから蓑など着る必要はない のだが、浜までは濡れずにいきたい-」という海女の気持ちを詠んだもの。―
 どうせ長くない命とわかっていても、折角人間として生まれてきたこの命を大切にしよう。あきらめず 投げ出さず最善を尽くして感謝の日暮しをしよう。そういうことを瓢水の句は教えている。若い時はずいぶん無駄なことをして、心臓や脳を酷使したと反省する。よくもパンクしなかったと思う。今朝は、掃除のおばさんの本で、滝瓢水の名句に出会った。よき日良き朝だった。
もう一つ。
青山俊董・愛知専門尼僧堂長が、今週のことば で取り上げて投稿してみえる。
*「蔵売って日あたりのよき牡丹かな」と吟じられるほどに透徹した境涯の持ち主。やがて出家をし、草庵を結んでいた。
わずかな間も命を粗末にはしないというのである。命あって教えを聞け、実践もできる。
天地からの授かりの命、大切にさせていただかねばと思うことである。

Sさんの評
我々はもう先が短い方になりましたので、この一句が大事だと思います。
死ぬ直前までキチッと生きなければいけないということを言っています。

お読み下され、感謝致します。