隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

オーストラリア(5)逆さまUpside down

2009-09-27 21:35:05 | Weblog
オーストラリア(5)逆さまUpside down 平成己丑二十一年長月二十七日

ご存知のように、オーストラリアは南半球にある。駆け足のような旅行で南半球を感じるまでにはいかなかった。サザンクロスSouthern Cross(南十字星)でさえ、夕食会では見ることが許されなかった。というより再会の感激でゆとりを無くしていたのだろう。
スカイバスの起点たる駅がサザンクロス・ステーションだと知って、帰路に着いたくらいの慌しさであった。ホテルで湯船の排水が右回り(a clockwise)かどうかも見なかった。でも、オーストラリアでは「上が南、逆さ」の地図があるのだろうと探したら、“お土産や”にあった。”Upside down Map”で、上の写真である。地球の北が上と誰が決めたのだろう? 「地球には上も下もない」
「クリスマスは夏にやってくる」というように、“北半球の常識”が逆転する。
実際、今オーストラリアは初春である。自分たちの先入観を取っ払う必要がある。
「逆さの地図」で日本列島を見直した 竹村公太郎氏は「日本文明の謎を解く」で、この逆さの日本列島は、見慣れている自分たちの日本を何か「妙な列島」に感じさせる。なんと「うっとうしい列島だ!」となり、極寒のロシアのハバロフスク地方から亜熱帯の中国の福建省まで日本の列島群が大陸を覆っているとなり、「日本列島とはユーラシア大陸を封鎖している列島群なのだ」となる。そして、大陸の帝国が日本を襲う最前線基地として朝鮮半島があったが、その朝鮮半島の人たちは日本へは一度も攻めて来なかった。
朝鮮半島の安定が日本の安全だと見ている。
話が日本へ飛びましたが、「逆さま」ということで面白い話があります。
ホタルのとき読んだ「動物の言い分 人間の言い分」で、日高敏隆氏は、「我々の目の網膜に映った像は上下さかさまになっている。これを我々がそのまま感じとっているとすれば、われわれには世界がすべて上下倒立して見えるはずである。しかし、目の後ろには脳がある。我々が世界を見るのは、目ではなく、脳によってである。そこで、上下が倒立して見えるレンズをはめた眼鏡をかけてみた研究者がいる。この眼鏡をかけると、網膜には正立した像が映ることになる。しかし、その研究者に見えた世界は、完全に上下がさかさまになっていた。その人はこの異常な世界にじっと耐えて、一週間ほどその眼鏡をかけつづけていた。そしてある日、世界は突然に正立した。脳が情報処理のやり方を変えたのである。彼は倒立眼鏡をかけたまま、正立した世界を見るようになった。
そのおよそ一週間後、彼は倒立眼鏡をはずした。彼の網膜に映る像は上下倒立したものに戻った。すると何ということか、見える世界は倒立してしまったのである。彼の見る世界がふたたび、正立した「正常な」ものになるにはまた一週間ほどかかった。」と、不思議な実験を紹介している。
この脳の働きには驚かされる。何が正常か?を一週間はかかるけれど変更するとは不思議である。人間には慣れというか、適応能力が発達するとは考えやすいが、ここでの変更は分からない。
 今は、飛行機の座席の前に、液晶画面があり、ゲーム、映画と楽しむことができるが、現在のフライト状況を知らせてもくれる。香港からメルボルンと、メルボルンから香港の地図は「上が北」の表示であった。「上が南」だと混乱するのか、キャセイ航空だからかは分からない。でも、チャプリンと違って、逆さまになって飛行しているのを分からずに、不時着しなかったのは、有り難かった。
お読み下され、感謝致します。


オーストラリア(4)日本との戦争War against Japan

2009-09-20 13:39:12 | Weblog
オーストラリア(4)日本との戦争  平成己丑二十一年長月二十日

 日本海軍のゼロ戦闘機が、オーストラリアのダーウィンを総攻撃した。
オーストラリアを旅行したことのない日本人の私にとって 映画「オーストラリア」のこのシーンにはびっくりのことだ。日本人で第2次世界大戦において、日本とオーストラリアが戦ったと認識している人はあまりいないと思う。
 事実、今91歳になられる水泳仲間のFさんは、ニューギニア戦線でマラリアに罹ったり、終戦のときには食料がなく大変な思いで、帰国されたのであるが、 南方だけではっきりとは教えてもらえず、連れてこられ戦ったが、所属の師団が崩壊し、取り残されてしまったという。彼にオーストラリアと戦ったことを聞いても、知らなかったという。私のこのブログに「兄の日記」(平19年3月投稿)というのがあります。グァム島へ何も分からずに連れてこられ戦死された兄の日記を、米軍兵士が拾い自分のもとに届けられたという高徳重子さんの話でしたね。 
 シドニーを襲った日本の小型潜水艇は今でも首都キャンベラの戦争記念館に展示されているという。ゼロ戦闘機も。だからキャンベラを訪れた日本人なら、この映画にはびっくりしないだろうが、よくもここまで拡大したものだと思う。
 もう一つ驚いた映画がある。去年(2008年)7/8日本テレビが『あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった。―――カウラ捕虜収容所からの大脱走』というドラマを放映した。それを有り難いことにDVD化され、今年レンタルされるようになった。オーストラリア・シドニーの西320kmにあるカウラ(Cowra)という小さな町で起こった事件だから、旅行前に見ていこうとツタヤさんに行ったが、遠くの支店にあるがここにはないとのこと。やむを得ず、旅行後、You-tube で途切れ途切れ見た。
 何と、オーストラリアの荒涼とした大地で、虚しい悲劇が起こっていたのだ。
1944年日本軍は、ニューブリテン島で連合国軍と戦っていた。食料も尽き、仲間ともはぐれ、敗走した2人(伍長、兵長)の兵士が、ついに、敵兵に捕まり、捕虜となった。バラバラに搬送された2人の捕虜はカウラというオーストラリアの大地で再会する。当時、日本軍には捕虜になることは“戦死”つまり“死”として家族にも伝えられていた。あの東條英機が考案したという、悪名高い「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず。死して罪過の汚名を残すこと勿(なか)れ」という『戦陣訓』の教えがあり、捕虜になることは許されないという考え方があった。しかし、豪州軍はジュネーブ条約という捕虜の取り扱いに関する条約を遵守していたため、捕虜の日本兵は収容所のなかで、野球、マージャン、演芸会と人間らしい暮らしを謳歌していた。山本七平氏は「私の中の日本軍」の中で、『戦陣訓』など読んだこともないし、部隊で奉読されたこともないといっている。このような部隊もあったであろうが、ジャングルでの戦闘は同じであったろう。凄まじい、壮絶な戦場の描写である。そして、戦場には「勝った」「負けた」などという概念はない。あるのは「生きた」「死んだ」「負傷した」の三つだけである。「生きた」「助かった」「皆無事だった」ということを自らに確認したときの、噴出してくるような歓喜を人はとめることは出来ないと書いている。
 山本氏の上官が、優れた将校さんであったのだろう。しかし、この二人の捕虜は、捕虜として生きながらえるより、戦陣訓の教えに従って堂々と死ぬべき!という鬼軍曹によって人生が変わる。凝り固まった上官には困ったものだ。
もう二度と日本には帰れない。自分たちが名誉の戦死しない限り、日本にいる家族が「非国民」とされないで済む・・・・という意識が、捕虜兵士たちの1000名を越える大脱走という「カウラ大脱走」を駆り立てた。
脱走といっても、広いオーストラリアの地だ。ある兵士が「脱走した後のビジョンは?」と聞いても、「ない」であった。まさに大日本帝国の軍人として死ぬことを目的とした大脱走、玉砕脱走だ。 トイレットへーパーによる日本人捕虜全員の投票で決められ、「×」(暴動に反対=生)をつけた捕虜、二人のうち嘉納二郎伍長も、火を放ち脱走に参加。機銃掃射で数百名死亡、成功者一人もなしだったそうだ。
 「○」(暴動に参加=死)をつけた捕虜兵長・朝倉憲一は重症の末、生き残ることとなった。人生の綾というか、分かれ道ですね。復員後、憲一は伍長の「奥様への手紙」を持って、遺族のもとに行くも、「立派な戦士でした」とのみ伝えて、立ち去るしかなかった。 年老いた憲一は、再びオーストラリアの大地カウラにある嘉納二郎伍長の墓(プレート)を見つけ、捕虜となったことを伝えなかって、慟哭する。このシーンには、遣る瀬無い気持で一杯になった。
すばらしいオーストラリアの大地で、こんな戦争が人生を狂わせた悲劇があったのである。この有名な「大事件」を二人のJ,Jo さんは知っていた。
 日本では全く知られてなく、教科書にも載っていない。語り伝えてもらいたい事件だ。
 塩野七生女史は日本軍について語っている。(ローマの街角から)
古代ローマの軍隊とは全く反対のことをした集団であった。一例をあげれば、フィリピンに50万以上もの兵士を送りこんでおいて、補給は保証できないから必要品は現地調達せよ、とはどういうことなのか。味方になりえた人々まで敵にまわしてしまうこと必定だ。補給軽視の国に、共栄圏のリーダーになる資格はない。そして、古代ローマ軍は玉砕戦法に無縁だった。ましてや玉砕脱走は悲劇だ。最後に「精神力」への考え方の違いだという。精神力という不確定要素は他の諸々の確定要素の後にくるべきなのだが、日本軍は最初にくる。
ムリの連続の結果の悲劇であった。

お読み下され、感謝致します。



オーストラリア(3)ツアーTour

2009-09-13 21:51:05 | Weblog
オーストラリア(3)ツアーTour  平成己丑二十一年長月十三日

今は、ネットでツアーを申し込める。HISさんでも、提携ツアー会社の窓口になって、紹介してくれた。個人旅行だからといって、訳の分からぬ会社にネットで出来るからと申し込んでも、万が一の時の保証は無いし、クレジット設定だから、泣き寝入りもあるのではないか。だから私は、HISさんがクリアしたツアーに参加した。現地のホテルが提携しているツアーもあることは分かっていたが、1人旅では、2人分で行くことになるケースが予想された。
 今回、有り難いことに、英語ツアーがあり、一人でもOKということで参加できた。 参加したのは「 GO WEST グレート・オーシャン・ロード」と、「オーストラリアン・ワイン・ツアー」
 世界各国から私みたいな一人旅から、夫婦、恋人どうしと様々な人々が集い、15名前後が英語のガイドを受ける。勿論、英語力が様々だから、今流行のipod で要所は分かるようにしてくれる。
「GO WEST グレート・オーシャン・ロード」 は朝8時から夜9時まで 集合の各ホテルからオーストラリアの広大な自然へと一気に連れて行ってもらえた。自然にのんびり寝転がっているカンガルーの群れに出会い、ユーカリの林に生息するコアラのウォッチングが出来た。珍しく昼間に、子どもを抱いた母コアラを写真に撮れた。びっくりしたのはこの後だ。やしの木や大木が繁るFORESTへ入り1時間ばかりトレッキングである。ここはアフリカでないジャングルなのだ。
海岸沿いとばかり思っていたら、密林の中だ。ハイウェイへ出たら、金鉱堀のゴールドラッシュの記念GATEに立ち寄った。メルボルン近郊はかなり金が出たという。1850年代のゴールドラッシュ全盛期の金鉱がバララットのソブリンヒルにあるという。世界中から富を求めて人々(4万人)が集まって、ヴィクトリア州の金がメルボルンへ集められたという。財務省の苦労話は調べると面白そうだ。アメリカのカリフォルニア州のように、「The Golden State」と呼ばれるまでにはならなかったようですね。
いよいよ12使徒の奇岩群の見学である。メルボルン近郊の海岸トーキーTorquary(サーフィン・スポット)からアポロベイApollo Bayをすぎて、ポート・キャンベルPort Campbellに向かう途中に見えてくるのが「12人の使徒Twelve Apostles」。一千~二千万年前から主たる石灰岩の崖(the limestone cliffs)が強い風と波によって侵食されて(eroded)出来た奇岩群で、崖に洞穴が出来ている。穴はアーチとなり、45mの高さまで堆積された岩石stacksが、崩れると海岸から離れて残されて奇岩群となっている。その岩と切り立った断崖のコンビネーションが絶景である。
さらに進むと、ロンドン・ブリッジに似ていたことからその名前が付いた景観、London Bridgeがそびえる。現在は残念ながら侵食が進み、橋の中間部は落ちている。終点はワーナンプール。全長約214kmである。
海岸へ降り、さらさらの細かい砂にふれ、高さ45mの断崖や奇岩を見上げると、不思議と昔見た「猿の惑星」のラストシ―ン、自由の女神が砂に埋っている衝撃的な場面を思い出すくらい、別世界へ来た感覚に襲われた。
とにかく、風が強い(Blasting windsといっている)。宮崎駿氏は「紅の豚」で、この海岸をイメージしたらしい。オーシャンロードの脇にヘリコプターの発着場があり、空から見下ろすオプションをご案内していた。4,5人参加していた。
朝早くから10時のコーヒータイムには、MACさん持参のコ―ヒーとビスケットをご馳走になり、ドライブインの昼食はビーンズと野菜の料理、夕食は中華の焼きうどんと、とてもリーズナブルな食事を戴いた。帰路は今若者が手にしているPSPとかいうゲーム機を配られ、映画を堪能できるようセットして、飽きさせないようにしてくれた。夜9時ごろまでに各ホテルへ着いた。 
あまりの大変なガイドに、休みは何日くらい取りますかと聞いたら、2か月と返事が来た。明日はフィリップ島へペンギンのパレードをガイドすると言っていた。
翌日には、私はヤラバレーの4箇所のワイナリーを訪れ、ワインを戴く。
でも、夜にはもう一人の先生Jo(暁の漂泊者)さんとの夕食会があり、ぐいぐい飲むわけにはいかなかった。
このツアーもガイドは凄かった。ワインの飲み方から、見分け方などかなり専門的だ。気の毒なことにバスの運転をしなくてはならず、飲めないのだ。半日ツアー(9時半~4時半)だから料理が良かった。子羊のスペアリブを
初めて戴いた。もちろんワインつきだ。 お気に入りのワインが見つかって購入した。「YERING Station 」TAWNY 赤 5year old勿論 Yarra Valley 産ですね。 Jさんのお薦めはWARRAMATE というワイナリーのワインだそうですが、ガイドに聞くと、あるにはあるが、ガイドから外れているということだった。
 ガイドは日本の友人がいて、石川県の温泉に入った。といってくれた。
帰路は何と、みぞれが、降り出した。
お読み下され、感謝致します。

 

オーストラリア(2)アボリジニ礼讃Praise for Aborigine

2009-09-11 23:01:44 | Weblog
オーストラリア(2)アボリジニ礼讃Praise for Aborigine
平成己丑二十一年長月十一日

 たそがれの漂泊者さんから、メルボルンのブログを読まれて、メールを頂いた。
「メルボルンのブログ読ませてもらいました。状況良く分りましたよ。唄の歌詞が何章にも続いたのには驚いた。いずれにしても現地写真を何枚も拝見したいですねー。 
思い立っての旅、実行されて悔いが無い事でしょう、良かったですね。
旅とは、人間の歴史と芸術の宝庫を巡る事、その関心なくして何の旅ぞ、ですよねー。病を得ると余計に、残りの人生健常な限り蒼空を行くのだーとの思いが強くなります。 ではまた旅の話をしましょう。」
*****
有難うございます。
ここ1年の活動を見ていると、去年外しているメルボルン行きは、どうしても行っておかねばならないスケジュール(バケット・リスト)となってきた。 異文化交流が自分のライフワークとなりつつある自分をみがくには、今回しかないと判断。 行ってきてとてもよかったという感想です。
今、「Waltzing Matilda」をユーチューブで録音して歌っております。
マリオネット・ウォッチから聞いて、また、グレート・オーシャン・ロードのバスの中で聞かされたものだから、次回行く時のために資料として1~4まで載せました。
「Waltzing Matilda」の詩にもあるように、オーストラリア人は旅行が好きなのだ。彼らは2年前、婚前旅行を日本中した。 もう一方の私のブログの「あかつきの漂泊者」はオーストラリア人JOさんだ。5大陸旅行を征服した。移民国家オーストラリア人の反骨精神、抵抗の気概は私には感じられない。パイオニア精神といえばよいが、どうもしっくりこない。 今年3月映画『オーストラリア』を見て、予備知識を得たというより、大陸の圧倒的な広さを、1500頭もの牛の大移動で見せつけられ、アボリジニの礼讃、日本軍のダーウィン総攻撃に少なからず、ショックを受けていた。勿論、二コール・キッドマンとヒュー・ジャックマンにしびれたのはいうまでもない。

アボリジニの礼讃について。  私の二人の先生の旅行好きは、映画に出てくるアボリジニと白人の混血少年ナラの旅たちと関係しているのではないかと思います。アボリジニには、徒歩で放浪の旅をする成人の儀式“Walkabout”があるという。内田真弓(アボリジニーアート・プロデゥーサー)さんによると「”ウォークアバウト“というのは、大地と自分たちとの密接な関わりを学ぶ大切な知識として、アボリジニ社会で執り行われるものだと理解している。その重要性は実に奥深いもので、”ウォークアバウト“で得られる知識はまさに”世界の起源にかかわる重大な情報“でもあるゆえ、それは許された者だけが許された場所でのみ知ることが出来る、とても神秘的な部分だ。人間としてこの世で生きるために必要不可欠な智恵を習得すること、それが間違いなくアボリジニの人々にとって”ウォークアバウト“なのだ。」

「オーストラリアには遥か太古から、それは5万年とも6万年ともいわれている長い間、人類最古のライフスタイルである狩猟採集生活をしながら広大な大陸を自由自在に移動してきた先住民アボリジニの人々がいる。白人入植当時アボリジニの人々は農耕をせず、家畜を飼わず、野生のモノだけで、つまり大地から得られる糧だけで何万年もの間オーストラリア大陸と共生してきた人たちである。 道路標識一つない圧倒的に過酷だとしか思えない環境の中でも、アボリジニの人々は世界で最も水の乏しいオーストラリアの砂漠を「命(いのち)あふれる豊穣な大地」だと誇らしげに教えてくれる。物質文明にどっぷりと浸かっている我々ヘナチョコ文明人に『文明』とは異なるもっと重要な『何か』を学ばせてくれる。 もともと“所有する”という概念のないアボリジニの人々と一緒にいると彼らは“モノ”にちっとも固執しないため、あればあるように、なければないようにというまさに有無を超越した生き方をしているではないか。彼らのように物質的満足から離れることで本当の意味での心の充実を生み出すことができたらどんなにすばらしいことだろうかと、そう考えただけで背中に鳥肌が立ったほどだ。 オーストラリアという大地で『本当の自分』を見つけに出かけてはいかがだろうか。」
このようにアボリジニを礼讃してみえるが、アボリジニの大地から今オーストラリアの若者は世界中を旅している。北海道のニセコはオーストラリア村があると聞く。“ウォークアバウト”から『本当の自分』を見つけるのであろう。       
映画『オーストラリア』は必見ものと思います。 
お読み下され、感謝致します。続きます。



オーストラリア(1)メルボルンMelbourne

2009-09-08 09:20:24 | Weblog
オーストラリア(1)メルボルンMelbourne  平成己丑二十一年長月八日

メルボルンは宮崎駿「魔女の宅急便」の舞台だったそうで、駅、教会など古きを残して、現代建築が建ってきている。
流石、大都市ではある。活気がある。碁盤の目にStreetが交差している。Avenue(南北)の表現は無かった。
それぞれのお店が、表通りの屋根に趣向を凝らして独自さを誇る。 旅行のHISさんに行こうとしても分からない。
電話をすると看板が日本のように出せないらしい。近くのビルの前で待つという不便さだ。街の格調を保つにはしかたのないことなのだろう。そういえば、魔女のキキが「お届けします」とパンで作ったパン屋の看板をぶらさげていたっけ。 びっくりしたのは、シティ・サークル・トラムだ。市内中心を無料で巡回してくれる。乗り降り勝手である。100年前の電車みたいだ。私の旧英語の先生で来春結婚されるJさんが、ガイドを半日してくれた。忙しい中、割いてくれた。彼は小中学校の教師で、『Red hot Rhythmakers』のバンドリーダーでもある。翌日は学校の祭りに参加、次の日は飛行機で演奏旅行で大変なのである。有り難いことである。ホテル・リッジスから近くのSt.Patrick's Cathedral は、荘厳さを際立たせていた。ゴチック建築と、中に入るとステンドグラスが私をピュア―な気持ちにさせてくれた。カトリック教会で、1858年から80年かけて造られたというから凄いものだ。ここでも一神教のつよさが出てますね。その隣がFitzuroy Gardenで、自然と中に入っていけるのが良かった。花は君子蘭そっくりの花が咲き誇っていた。 メルボルンとういところは庭園がこれだけでなく取り囲むような配置になっている。これは、大英帝国British Empireの都市政策だという人がいますが、Jさんとベンチに腰を掛け、しばし、旅の疲れを癒すことが出来た。
ここの木は100年越しのでかい木とやしの木がいっぱいに植えられていた。カリフォルニアから移植したそうな。
 軽食にと立ち寄ったのが、「スシ・バーガー」のお店。 彼は魚のフライ、私はカニコロッケを注文。バーガーだから半分に切って、それを寿しご飯でおにぎりにして包み海苔を貼って出来上がっている。 名古屋でいう「天むす」が、寿し米で出来ていると思えばよい。
 奇妙でも何でもない、美味しかった。お持ち帰りも出来るので、流行っていた。
メルボルン・セントラルという巨大ショッピングセンターに連れて行かれた。そこには50mのショット・タワーがあり、側面の壁にマリオネット・ウォッチがあった。
毎定時には、“Waltzing Matilda”が流れてきた。聞き覚えがあり、口ずさんだ。
調べてみると何と「オーストラリアの第二の国歌」だという。

『Waltzing Matilda』 (唄)Slim Dusty
1.Once a jolly swagman camped by a billabong,Under the shade of a coolibah tree, And he sang as he watched and waited 'til his billy boiled "Who'll come a-Waltzing Matilda, with me?" 1.一人の陽気な放浪者川沿いの沼地のそばで野宿をしてた ユーカリの木陰の下でお湯が沸くのを待ちながら歌ってた「誰と一緒に旅に出ようか?」
Chorus:Waltzing Matilda, Waltzing MatildaWho'll come a-Waltzing Matilda, with meAnd he sang as he watchedand waited 'til his billy boiled, "Who'll come a-Waltzing Matilda, with me?" コーラス:マチルダ担いで放浪の旅誰と一緒に旅に出ようか?お湯が沸くのを待ちながら歌ってた誰と一緒に旅に出ようか?
2.Along came a jumbuck to drink at the billabong, Up jumped the swagman and seized him with glee, And he sang as he stowed that jumbuck in his tucker bag, "You'll come a-Waltzing Matilda, with me". 2.羊が沼地に水を飲みにやってきた彼は飛び上がって大喜びで羊を捕まえ歌いながら羊を袋に詰め込んだ「お前と一緒に旅に出よう」
Chorus:Waltzing Matilda, Waltzing MatildaWho'll come a-Waltzing Matilda, with me And he sang as he set that jumbuck in his tucker bag, "You'll come a-Waltzing Matilda, with me?". コーラス:マチルダ担いで放浪の旅誰と一緒に旅に出ようか?歌いながら羊を袋に詰め込んだお前と一緒に旅に出よう
3.Up rode the squatter, mounted on his thoroughbred, Down came the troopers, one, two, three, "Whose is that jumbuck you've got in your tucker bag?" "You'll come a-Waltzing Matilda, with me". 3.サラブレッドに乗って牧羊主が現れた 警官も二人、三人とやって来た「お前が袋に入れたのは誰の羊だ?」「お前と一緒に旅に出よう」
Chorus:Waltzing Matilda, Waltzing Matilda Who'll come a-Waltzing Matilda, with me "Whose is that jumbuck you've got in your tucker bag?", "You'll come a-Waltzing Matilda, with me?". コーラス:マチルダ担いで放浪の旅誰と一緒に旅に出ようか?「お前が袋に入れたのは誰の羊だ?」「お前と一緒に旅に出よう」
4.Up jumped the swagman, leapt into the billabong, "You'll never catch me alive," said he, And his ghost may be heard as you pass by the billabong, "Who'll come a-Waltzing Matilda, with me". 4.放浪者は飛び上がり、沼へ飛び込んだ「生きてお前らには捕まらねぇよ」彼は言った あの沼地を通ると彼の幽霊が出るかも「誰と一緒に旅に出ようか?」
Chorus:Waltzing Matilda, Waltzing Matilda Who'll come a-Waltzing Matilda, with me And his ghost may be heard as you pass by the billabong, "Who'll come a-Waltzing Matilda, with me?" コーラス:マチルダ担いで放浪の旅誰と一緒に旅に出ようか?あの沼地を通ると彼の幽霊が出るかも誰と一緒に旅に出ようか?
アンドルー・バートン・パターソン作詞作曲(1895年)
仕事を求めて放浪(waltzing)する男(swagman)の一人旅の相棒として、擬人的にバッグに女性名(matilda)がつけられたとのこと。
オーストラリアの総人口約2039万人(2006年)の約80%をイギリスやアイルランド系が占める。移民たちの本国イギリスに対する反骨精神、心の中で密かに燃えている抵抗の気概が感じられるといわれる。
だが、現在 「アドバンス・オーストラリア・フェア」が、1984年4月に正式に国歌National Anthemとして制定されている。Waltzing Matildaは、投票で次点だったという。
 
マリオネット・ウォッチを後に、Queen Victoria Market へ。市民の台所であるが、今では何でも揃うショッピング・モールだ。運がないとはこのことだ。月、水曜日が休日とは!
Jさんの奥さんになるBさんを待つためコーヒー・ブレイク。
Bさんは名古屋のノバでJさんと知り合って、ノバの倒産で二人で日本中を旅行した。
今は、ひと勉強して、官僚となって企業育成に役立つ立案をしているという。
2年ぶりの再会であった。祖先がWales出身の肝っ玉かあさんである。
 調べておいたギリシャ料理の「KRI KRIクリクリ」 で乾杯。
お目当ては、タコの炭火焼で、30cm一本出された。3人でshareすることにしていただいた。他いろいろ出されたが、最後は小魚の唐揚げであった。塩が振りすぎている感じであったが、塩をはらえば、美味しいものであった。
メルボルンはギリシャ本国に次ぐギリシャ人口の多い街とのこと。めったに頂けない料理であった。 総選挙直後だったため、彼らから当然話題が出た。 彼女が特に関心があるらしく、日本の年金データの杜撰さや官僚の天下りや地方分権のことなど話した。
 夕食後、ユーレカ・スカイデッキ88へ行った。 EUREKA SKYDECH 88は高さ984.3フィート/300m 風が強いと最高60cm揺れる。40秒足らずで88階に到着。旅の疲れが一辺に来たと感じた。目がくらくらして、夜景の素晴らしさどころでない。高所恐怖症(acrophobia)になったみたいだ。2人は平気である。「ザ・エッジ」という建物から3mせりでた床からも天井からも見える部屋がある。流石に私は遠慮したが、2人は入っていった。帰ってくるなり“ Scary””Scary”の連発。 私はホッとしたが、昼間に来ることをお薦めしたい。 街を流れるYara川は夜景では見えない良い景色だと思うからです。でも、あのエッジの怖さは経験の無い私には語れない。 楽しいメルボルンの1日が過ぎた。

お読み下され、感謝致します。