中国レポート.China Report 平成壬辰廿四年如月廿七日
たそがれの漂泊者たるKさん、今は岐阜市歴博で外国人へのボランティアガイドをしてみえる。
今回は、何と中国の提携市、杭州市との親善旅行。岐阜市長さんとの旅行ですからVIP待遇でよかったでしょう。中国レポートを送ってくれました。 こうしたレポートは本当に有難い。勉強になります。
***
ご無沙汰しています。 以前は楽しいチャイナレポートを頂きましたが、先にお伝えの如く今度は僕が今月15日まで一週間の旅(浙江省から中原)に出たお話です。
上海、北京、広東には10年以上も前に出掛けてますが、今の中国、それに中原には初めて足を踏み入れるので楽しみでした。 歴史絵巻が好きで、それも周代、秦、漢、三国から唐に至るモノは面白い。
今回の西安及び西方は将にその舞台で、一度の訪問では見切れませんねー。
日本の高度成長期の何倍もの勢いと規模で突進する現代中国は情緒も文化も感じない喧騒の真っ只中、けど、やはり悠久の歴史背景へ憧憬が残る、嫌悪しつつまた行きたくなる中国にはそれがありますねー。
余りに多くの史跡、博物館を回ったので一口では語れずですが、司馬氏の「街道を行く」
が如き風情に浸れたかと思える一時があったから幸せか。
「岐阜市歴史探検隊」なる暇そうな名称の一団17名、その一員である僕は10数年振りに大陸の土を踏みましたが、予想外に刺激的な日々を過ごす事になりました。
岐阜市歴史博物館の元館長・藪下隊長率いる本隊の目的は、西安とその西方を巡り古都宝鶏市に至る古跡、博物館を訪ね歩く歴史探求であります。 一帯は中国史上常に激動の大舞台となった「中原」、そのまた中央地域で、紀元前7000年から中世にかけての史跡逸話に事欠かない所です。
西安(Xian)こそ陝西省(Shaanxi)の中心で、1300年間に13余の王朝がその都としたシルクロードの基点長安です、宗教、芸術、他の視点からも語り切れないのは周知のところです。
一方で我が隊は、杭州市(Hangzhou)に立ち寄り、 岐阜市長を団長とする「日中不再戦碑文交換50周年」記念行事に参席する平和ミッション総勢110名、その同行8団体の一つとなりました。 2月10日の午後は、西湖(ここの西湖が一番有名)湖畔、氷雨の友好公園で中日不戦の記念式典が挙行されました。 碑文の前で中日両国少女合唱団の歌声が高まると、居並ぶ双方の大人達には思い感無量の一時とはなりました。 両市友好の誓いは日中国交回復の十年も前に結ばれた事に意義があるのです。
杭州から北西に空路2時間の宝鶏市(Baoji)には市長と一部の団体が同行して、同市主催の「中日友好祝宴」に参席、 市内では市長の工場や博物館視察にも同行するのですが、一行の車列は物々しい市警パトカーが先導しての街中走行、外交使節団の一員なのだーって気分が盛り上がります。
本隊の本来の目的は歴史探策であります、実際には2月10日から最終日まで連日、古跡、博物館など15箇所余を訪ねています。 その日々殆どが気温氷点下前後と寒冷、ガスに覆われた曇天の冬日でありましたが、紀元前数千年の遺物をむさぼる様に観察し、古代墳墓の暗い地下通路を巡り渡り、また秦の始皇帝のケタ外れの遺業に立ち尽くしと、古代に浸る隊員の好奇の目は休む暇もありませんでした。
因みに、隊員構成は埋蔵物研究者の隊長始め、元教職員、元公務員、元社会人、現職のご住職に主婦、人生の放浪者(僕)と、実に異人種の混成部隊です、それが呑むは食べるは語るはの大賑わい、疲れ知らずの男女平均年齢65歳のメンバー、その頑健さ恐るべし、でありました。
「岐阜」命名の起源とも言われる岐山の麓では法門寺も有名です、中国では19ヶ寺が仏舎利保有で認められていて、その筆頭がこの寺、創建は紀元前に因む古さです。 その広大さにも度肝を抜かされます、完全舗装の境内は入り口から1㌔以上も見晴るかす先に巨大な本堂が霞んでいる有様、カートに乗って着いたと思えば、建物仏像は天を突く高さ。 アリガタヤも何も、そのエネルギー、資金力や如何ばかりかと呆れるやらオドロクやら。 ボーっと見てると物売りのオバサン達の突撃に会ってしまう。
この国の日々の激変、既に日本は、そして米国をも抜き去るであろうその巨大な活力には恐怖心さえ覚えますが、国の津々浦々に中央の恩恵があまねく行き渡るのには、なお次世紀を待たねばとの思いがよぎる、混沌と摩訶不思議に満ち溢れた今日の中国の旅でした。
***有難う御座いました。
少し勉強しました。
参考までに岐阜新聞より
半世紀の決意、胸に刻む 「日中不再戦」中国・杭州で式典
2012年02月11日09:15
岐阜、杭州両市関係者が集まって開かれた日中不再戦碑文交換50周年式典=10日午後、中国・杭州市の浙江世界貿易センター
半世紀前の冷戦下、戦争の後始末と友好の願いを込めて建立された日中不再戦の碑。その碑文交換から50周年を祝う式典が10日、中国・杭州市の浙江世界貿易センターで開かれた。出席した岐阜、杭州両市民代表らは先人の思いを次世代に伝える約束を交わした。
式には約360人が出席。岐阜市から市代表団と民間8団体、杭州市からは市関係者、同市第一人民医院、西☆印社、浙江京劇団などの友人も参加した。
邵占維市長が「碑は戦争の悲劇を繰り返さないとの先人の戒め。これからも先人の期待に応え、友好交流を発展させよう」とあいさつ。細江茂光岐阜市長が「先人の信念と勇気が二つの都市を結びつけた。碑文交換の意義を胸に草の根外交を続けよう。今年8月に岐阜市でも式典を開く」と述べた。 県日中友好協会会長の杉山幹夫岐阜新聞・岐阜放送会長は「日中不再戦」の碑文を揮ごうした松尾吾策元岐阜市長、碑文交換を担った岳父らが命懸けで両国の政治の扉を開いた歴史を振り返り「原点を忘れず、両市のメディアが交流を支えていく」と決意を示した。
**先日、名古屋市長の南京大虐殺は無かったという発言とぶつからなかったから、良かったという。もっぱらその話題でもちきりでしょう。
手元に南京虐殺についての日中両国歴史学者共同研究の報告書(2010年1月31日)の要旨がある。南京事件(1937)については、日本側も「日本軍による虐殺事件」と認定したが、犠牲者数をめぐっては、「20万人を上限に4万人、2万人などの推計がある」と指摘したのに対し、中国側は「30万人以上」と主張。両国の歴史認識の違いを認めた形で報告されている。
それなのに、折角の両国の歩み寄りを踏みにじる様な「虐殺は無かった」という意見には、末恐ろしさを感じます。しかも石原都知事というインテリまでが賛同している。不可解だ。「あった」ことは一致している。
ノンフィクション作家山岡淳一郎氏は「政治家の使命は突き詰めれば戦争と飢えをなくすことだろう。そのためには人々の欲望を調整する必要が出てくる。政治の出番だ。だが、なぜ政治は暴力へと走るのか?」と言っている。暴走を見極めることが大事だとも。
因みに宝鶏市は陝西省の西部に位置し、咸陽市、西安市、漢中市、天水市、平凉市に接する。ここに法門寺があり、塔が凄い。法門寺塔
また三国志の孔明が頑張った五丈原がある。
五丈原(ごじょうげん)とは、陝西省宝鶏付近の渭水南岸に広がる台地。蜀の諸葛亮はここに陣を敷き、魏の司馬懿(仲達)と持久戦を繰り広げた。戦いの最中、諸葛亮が病によりこの地で没したことは有名。
やはり「どんな相手にも、<ハグ>をしなければいけない。」と何度も叫ばねばならない。
お読み下され、感謝致します。
たそがれの漂泊者たるKさん、今は岐阜市歴博で外国人へのボランティアガイドをしてみえる。
今回は、何と中国の提携市、杭州市との親善旅行。岐阜市長さんとの旅行ですからVIP待遇でよかったでしょう。中国レポートを送ってくれました。 こうしたレポートは本当に有難い。勉強になります。
***
ご無沙汰しています。 以前は楽しいチャイナレポートを頂きましたが、先にお伝えの如く今度は僕が今月15日まで一週間の旅(浙江省から中原)に出たお話です。
上海、北京、広東には10年以上も前に出掛けてますが、今の中国、それに中原には初めて足を踏み入れるので楽しみでした。 歴史絵巻が好きで、それも周代、秦、漢、三国から唐に至るモノは面白い。
今回の西安及び西方は将にその舞台で、一度の訪問では見切れませんねー。
日本の高度成長期の何倍もの勢いと規模で突進する現代中国は情緒も文化も感じない喧騒の真っ只中、けど、やはり悠久の歴史背景へ憧憬が残る、嫌悪しつつまた行きたくなる中国にはそれがありますねー。
余りに多くの史跡、博物館を回ったので一口では語れずですが、司馬氏の「街道を行く」
が如き風情に浸れたかと思える一時があったから幸せか。
「岐阜市歴史探検隊」なる暇そうな名称の一団17名、その一員である僕は10数年振りに大陸の土を踏みましたが、予想外に刺激的な日々を過ごす事になりました。
岐阜市歴史博物館の元館長・藪下隊長率いる本隊の目的は、西安とその西方を巡り古都宝鶏市に至る古跡、博物館を訪ね歩く歴史探求であります。 一帯は中国史上常に激動の大舞台となった「中原」、そのまた中央地域で、紀元前7000年から中世にかけての史跡逸話に事欠かない所です。
西安(Xian)こそ陝西省(Shaanxi)の中心で、1300年間に13余の王朝がその都としたシルクロードの基点長安です、宗教、芸術、他の視点からも語り切れないのは周知のところです。
一方で我が隊は、杭州市(Hangzhou)に立ち寄り、 岐阜市長を団長とする「日中不再戦碑文交換50周年」記念行事に参席する平和ミッション総勢110名、その同行8団体の一つとなりました。 2月10日の午後は、西湖(ここの西湖が一番有名)湖畔、氷雨の友好公園で中日不戦の記念式典が挙行されました。 碑文の前で中日両国少女合唱団の歌声が高まると、居並ぶ双方の大人達には思い感無量の一時とはなりました。 両市友好の誓いは日中国交回復の十年も前に結ばれた事に意義があるのです。
杭州から北西に空路2時間の宝鶏市(Baoji)には市長と一部の団体が同行して、同市主催の「中日友好祝宴」に参席、 市内では市長の工場や博物館視察にも同行するのですが、一行の車列は物々しい市警パトカーが先導しての街中走行、外交使節団の一員なのだーって気分が盛り上がります。
本隊の本来の目的は歴史探策であります、実際には2月10日から最終日まで連日、古跡、博物館など15箇所余を訪ねています。 その日々殆どが気温氷点下前後と寒冷、ガスに覆われた曇天の冬日でありましたが、紀元前数千年の遺物をむさぼる様に観察し、古代墳墓の暗い地下通路を巡り渡り、また秦の始皇帝のケタ外れの遺業に立ち尽くしと、古代に浸る隊員の好奇の目は休む暇もありませんでした。
因みに、隊員構成は埋蔵物研究者の隊長始め、元教職員、元公務員、元社会人、現職のご住職に主婦、人生の放浪者(僕)と、実に異人種の混成部隊です、それが呑むは食べるは語るはの大賑わい、疲れ知らずの男女平均年齢65歳のメンバー、その頑健さ恐るべし、でありました。
「岐阜」命名の起源とも言われる岐山の麓では法門寺も有名です、中国では19ヶ寺が仏舎利保有で認められていて、その筆頭がこの寺、創建は紀元前に因む古さです。 その広大さにも度肝を抜かされます、完全舗装の境内は入り口から1㌔以上も見晴るかす先に巨大な本堂が霞んでいる有様、カートに乗って着いたと思えば、建物仏像は天を突く高さ。 アリガタヤも何も、そのエネルギー、資金力や如何ばかりかと呆れるやらオドロクやら。 ボーっと見てると物売りのオバサン達の突撃に会ってしまう。
この国の日々の激変、既に日本は、そして米国をも抜き去るであろうその巨大な活力には恐怖心さえ覚えますが、国の津々浦々に中央の恩恵があまねく行き渡るのには、なお次世紀を待たねばとの思いがよぎる、混沌と摩訶不思議に満ち溢れた今日の中国の旅でした。
***有難う御座いました。
少し勉強しました。
参考までに岐阜新聞より
半世紀の決意、胸に刻む 「日中不再戦」中国・杭州で式典
2012年02月11日09:15
岐阜、杭州両市関係者が集まって開かれた日中不再戦碑文交換50周年式典=10日午後、中国・杭州市の浙江世界貿易センター
半世紀前の冷戦下、戦争の後始末と友好の願いを込めて建立された日中不再戦の碑。その碑文交換から50周年を祝う式典が10日、中国・杭州市の浙江世界貿易センターで開かれた。出席した岐阜、杭州両市民代表らは先人の思いを次世代に伝える約束を交わした。
式には約360人が出席。岐阜市から市代表団と民間8団体、杭州市からは市関係者、同市第一人民医院、西☆印社、浙江京劇団などの友人も参加した。
邵占維市長が「碑は戦争の悲劇を繰り返さないとの先人の戒め。これからも先人の期待に応え、友好交流を発展させよう」とあいさつ。細江茂光岐阜市長が「先人の信念と勇気が二つの都市を結びつけた。碑文交換の意義を胸に草の根外交を続けよう。今年8月に岐阜市でも式典を開く」と述べた。 県日中友好協会会長の杉山幹夫岐阜新聞・岐阜放送会長は「日中不再戦」の碑文を揮ごうした松尾吾策元岐阜市長、碑文交換を担った岳父らが命懸けで両国の政治の扉を開いた歴史を振り返り「原点を忘れず、両市のメディアが交流を支えていく」と決意を示した。
**先日、名古屋市長の南京大虐殺は無かったという発言とぶつからなかったから、良かったという。もっぱらその話題でもちきりでしょう。
手元に南京虐殺についての日中両国歴史学者共同研究の報告書(2010年1月31日)の要旨がある。南京事件(1937)については、日本側も「日本軍による虐殺事件」と認定したが、犠牲者数をめぐっては、「20万人を上限に4万人、2万人などの推計がある」と指摘したのに対し、中国側は「30万人以上」と主張。両国の歴史認識の違いを認めた形で報告されている。
それなのに、折角の両国の歩み寄りを踏みにじる様な「虐殺は無かった」という意見には、末恐ろしさを感じます。しかも石原都知事というインテリまでが賛同している。不可解だ。「あった」ことは一致している。
ノンフィクション作家山岡淳一郎氏は「政治家の使命は突き詰めれば戦争と飢えをなくすことだろう。そのためには人々の欲望を調整する必要が出てくる。政治の出番だ。だが、なぜ政治は暴力へと走るのか?」と言っている。暴走を見極めることが大事だとも。
因みに宝鶏市は陝西省の西部に位置し、咸陽市、西安市、漢中市、天水市、平凉市に接する。ここに法門寺があり、塔が凄い。法門寺塔
また三国志の孔明が頑張った五丈原がある。
五丈原(ごじょうげん)とは、陝西省宝鶏付近の渭水南岸に広がる台地。蜀の諸葛亮はここに陣を敷き、魏の司馬懿(仲達)と持久戦を繰り広げた。戦いの最中、諸葛亮が病によりこの地で没したことは有名。
やはり「どんな相手にも、<ハグ>をしなければいけない。」と何度も叫ばねばならない。
お読み下され、感謝致します。