「長篠・長久手合戦図屏風をみる・読む・考える」 平成丙申廿八年長月廿四日
長久手合戦図屏風 (徳川家本)の解説であった。
この戦いは長期間であった。1584年3月、織田信雄(信長の二男)が秀吉に内通した3人の重臣を長島城で殺害し、秀吉に宣戦布告。
家康と信雄が清州で手を結ぶ。前半戦は、秀吉が北伊勢から北尾張方面に戦線を拡大させ、大事な農業をさせなくした。
羽柴方は、犬山城主中川定成が信雄の応援で伊勢へ出陣。その留守をついて大垣城主池田恒興(前城主)が木曾川を渡って西谷から侵入、犬山城占拠。12万の軍勢で秀吉入城そして楽田まで進出。この屏風では、4月9日の長久手方面の戦闘を描いたものである。
池田恒興は女婿の森長可とともに家康本拠地の三河を衝こうと進言し、秀吉に認められ三好秀次を総大将として進軍した。この動きを知った家康はすばやく背後から羽柴・池田方を襲い、壊滅的な打撃を与えた。屏風1扇に、成瀬正成が切り取った首を槍に刺して乗馬している場面があるが、成瀬家本はそういった場面でなく、いかにも初陣らしいところである。しかし3扇目の下に敵の首を獲るところが描かれているが、徳川家本にはない。
3扇目、富士ヶ根山には信雄の馬標の傘があり、井伊直(なお)政(まさ)の軍勢旗もあり、縄手の下のほうに直政が組討ちをする姿がある。この合戦が、井伊直政が武田家の旧臣を付属され、具足を赤色に統一した赤備え(4扇目の仏ヶ根)として初めて臨んだ合戦で、森長可を討ち取るなど大いに武功を挙げた。 原氏はこの徳川家本屏風は「初陣の井伊直政」を2カ所3扇に描いてあるから井伊家の誇りだとみている。
この場面は1584年4月9日秀吉陣営と家康・信雄陣営とのたった1日の戦いであった。
主戦場は仏ケ根(ほとけがね)であるが、同時進行で戦が起こり、旗差し物を立てた伝令役が合戦の状況を伝えるのである。喚声・銃撃は各隊を威嚇したであろう。
徳川の金扇馬標(御馬立場)は、効果絶大で、堀久太郎秀政隊はそれを見て、戦闘停止。
現在の愛知医大あたりで、勝鬨を3度揚げて犬山へ撤退したという。
手柄となるのは、参加が第一、大将級の首を獲っても第3者の証明がいる。首を持って自分が捕ったことを証明してもらう必要がある。成瀬正成も馬に乗っているが、馬の前足のところに首をぶらさげている。
大将旗は大事だそうな。
主戦場の仏ヶ根に、鉄砲の発射煙が描いてあるのが徳川家本で、残念だが、成瀬家本には描かれてない。
秀吉と信雄が11月15日に講和して8か月にわたる抗争は終結した。この合戦で織田家と秀吉の地位は逆転し、家康もまた秀吉の臣下になることを余儀なくされた。
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