老いてますます楽しHale, hearty and happy in an old age 平成庚寅廿二年霜月二十二日
山崎光夫氏(早稲田出身)の本の題名である。
題名通り、元気な老人が多い。でも、現在では「没イチ」という新語が出てきたという。
配偶者を亡くした人を「没イチ」と呼ぶのだそうだ。前ちょっと使ったことのある新語「お一人様」というのと同じなのだろう。
この本を読み終えて、いざ、楽しや、と思いきや、尿管結石に襲われ、息もできぬ痛さで身をよじって耐えた。痛み止めの注射と座薬で入院までは至らず、3日で治まってくれた。
貝原益軒の極意を読み終えただけで、実践せずに楽しという訳にはやはりいけませんね。
この本は有名な養生訓だけのお話ではない。
益軒は、シーボルトが日本のアリストテレスと評し、実証的な学問態度を高く買っているだけ、江戸時代前期、儒学者として啓蒙活動に力を入れた。
筆者は、貝原益軒ほど人生を楽しんだ人はいないとして、生涯を通じて、旅を楽しみ、読書を楽しみ、家庭生活を楽しみ、交遊を楽しみ、奉仕を楽しみ、学問を楽しみ、著述を楽しみ、飲食を楽しみ、服飾を楽しみ、自然を楽しみ、善行を楽しみ、養生を楽しみ、そして、何より生きるを、追求した人物だったといっている。
その実践から「養生訓」が生まれた。
益軒は寛永7年(1630)11/14筑前、福岡に生まれた。3代将軍家光の時代である。
父貝原寛斎は文の人で学問を好み、特に医学に造詣か深かった。その末男に生まれたが、その父や兄から影響を受け、虚弱体質からひたすら、書物に向けられたという。
11歳上の兄家時の算術書「塵劫記」を借りて理解していたというエピソードがあるように、すごい利発者で、しかも、「平家物語」「保元、平治物語」「太平記」と10代の初めに読み終えたという。14,5歳で医薬の漢籍と父の医術の基本(漢方の煎じ方)が身に付き、兄から四書の素読を受けたという。以後京都へ遊学し、儒学者として立つことになった。
当時平均寿命が40歳の時、85歳という長命を得、そればかりか、主だった著作物は60歳を超えてからの作品である。この活力源はどこにあったのか?
著者はついに「用薬日記」の存在を知り、貝原益軒の末裔たる貝原信紘氏、福岡市在住医師よりコピーをし、紐解くこととなった。
日記は益軒の最晩年から死の前年までに及び、自身と妻東軒、使用人たちの健康維持と病気治療のために使用した漢方薬の処方や灸の経穴(ツボ)が克明に記されている。「貝原家のカルテ」といえるものだという。
漢方の遣い手である。薬の煎じ方から、約60種の生薬の原料を自身の体調に合わせて、疲労倦怠や食欲不振のときなど「自家製人参養栄湯」を愛用し、風邪には初期に「香蘇散」、長引いたら「参蘇飲」としていた。しかし、胃弱の彼は有名な「葛根湯」は不向きとして
いた。有名な「八味地黄丸」も処方している。大事にならないよう、発病して間もないときに素早く休養をとり、身体をいたわったようだ。あらゆる症状に、胃弱安眠対策とか夏バテに、効く処方など事細かく書いてある。最後の最後まで愛用したのは「補中益気湯」だという。これも、季節に合わせて加える生薬を違えているから、益軒流処方である。
びっくりなのは自分の体重まで、生涯5回にわたって測っている。もちろん奥様も。愛妻処方など、うらやましい限りである。東軒夫人は62歳と長命を得ている。
「用薬日記」はまさに「実践編養生訓」であり、漢方処方の高度な技量を如実に示したものだと評している。その「養生訓」は亡くなる前年益軒84歳に書いた全8巻になるものである。著者によると、健康的な生活を送るための指南書で、益軒10訓のうち8番目の書だという。益軒の人生のいわば集大成であり、耐え忍ぶ人生を説いている。心気を養うことが養生の基本と説き、心を平穏に保ち、怒りと欲望を抑えて、憂いや心配を少なくして、心を苦しめないこと、ストレスを溜めないことが最も大事である。人が生きることの基本理念を提示した。
生きることを謳歌せよ。だからこそ、快楽の限りを尽くして溺れてはならない。それは男女の交合ばかりでなく、飲食、睡眠、金銭、飲酒など人生の快楽の多方面にわたる一大キーワードとなっている。いわば「養生道」の根幹で、中庸の世界観が浮かび上がる。「頃合い」「ほどほど」「腹八分」だろう。
益軒は人としてこの天地に生を受けたなら、この頃合いの精神で生きる限り「楽」の人生を実践できるとした。晩年には晩年なりになすべきことがあると信じた人である。
その晩年のために体力と気力を養い、また天命を悔いなく、全うできるよう養生を貫いた人であり、最も見習いたい点である。
老いを楽しむ知恵を「大和俗訓」(79歳)で述べている。
努力によって成し得ることはなさねばならぬ。ただ、人間の力に成しえない事はままにならぬこととわきまえ、心を苦しめるなといっている。精力の弱かった益軒はまさに「一つづつつとむれば」の精神で、膨大な著作を残したのである。病弱でも事はなせると益軒自ら範を示した。益軒の自信のあふれた生き方は天道から外れていないという自己確認の故だという。人を押しのけたり、争ったりした形跡がない。
「楽訓」では、他人に勝たなければ自分がないといった他人との比較でしか自分が存在しないとしたら、それは悲しい生き様だといっている。
いまこそ、益軒流の正道論に学ぶ必要がある。正道であれば恐れるものはない。
「和楽」を追求し、「清福」を望んだ。それを著者は「清楽」と呼び、その清楽のもと、読書し、諸国縦覧し、見聞紀行文を残し、古楽を奏で、妻をいつくしみ、良友と語り、飲食を楽しみ、著述に邁進したのである。
老いを見事に生きつくした達人であり、益軒からの老いを生きる知恵を実践したいものです。
お読み下され、感謝致します。
PS.写真は山茶花です。
山崎光夫氏(早稲田出身)の本の題名である。
題名通り、元気な老人が多い。でも、現在では「没イチ」という新語が出てきたという。
配偶者を亡くした人を「没イチ」と呼ぶのだそうだ。前ちょっと使ったことのある新語「お一人様」というのと同じなのだろう。
この本を読み終えて、いざ、楽しや、と思いきや、尿管結石に襲われ、息もできぬ痛さで身をよじって耐えた。痛み止めの注射と座薬で入院までは至らず、3日で治まってくれた。
貝原益軒の極意を読み終えただけで、実践せずに楽しという訳にはやはりいけませんね。
この本は有名な養生訓だけのお話ではない。
益軒は、シーボルトが日本のアリストテレスと評し、実証的な学問態度を高く買っているだけ、江戸時代前期、儒学者として啓蒙活動に力を入れた。
筆者は、貝原益軒ほど人生を楽しんだ人はいないとして、生涯を通じて、旅を楽しみ、読書を楽しみ、家庭生活を楽しみ、交遊を楽しみ、奉仕を楽しみ、学問を楽しみ、著述を楽しみ、飲食を楽しみ、服飾を楽しみ、自然を楽しみ、善行を楽しみ、養生を楽しみ、そして、何より生きるを、追求した人物だったといっている。
その実践から「養生訓」が生まれた。
益軒は寛永7年(1630)11/14筑前、福岡に生まれた。3代将軍家光の時代である。
父貝原寛斎は文の人で学問を好み、特に医学に造詣か深かった。その末男に生まれたが、その父や兄から影響を受け、虚弱体質からひたすら、書物に向けられたという。
11歳上の兄家時の算術書「塵劫記」を借りて理解していたというエピソードがあるように、すごい利発者で、しかも、「平家物語」「保元、平治物語」「太平記」と10代の初めに読み終えたという。14,5歳で医薬の漢籍と父の医術の基本(漢方の煎じ方)が身に付き、兄から四書の素読を受けたという。以後京都へ遊学し、儒学者として立つことになった。
当時平均寿命が40歳の時、85歳という長命を得、そればかりか、主だった著作物は60歳を超えてからの作品である。この活力源はどこにあったのか?
著者はついに「用薬日記」の存在を知り、貝原益軒の末裔たる貝原信紘氏、福岡市在住医師よりコピーをし、紐解くこととなった。
日記は益軒の最晩年から死の前年までに及び、自身と妻東軒、使用人たちの健康維持と病気治療のために使用した漢方薬の処方や灸の経穴(ツボ)が克明に記されている。「貝原家のカルテ」といえるものだという。
漢方の遣い手である。薬の煎じ方から、約60種の生薬の原料を自身の体調に合わせて、疲労倦怠や食欲不振のときなど「自家製人参養栄湯」を愛用し、風邪には初期に「香蘇散」、長引いたら「参蘇飲」としていた。しかし、胃弱の彼は有名な「葛根湯」は不向きとして
いた。有名な「八味地黄丸」も処方している。大事にならないよう、発病して間もないときに素早く休養をとり、身体をいたわったようだ。あらゆる症状に、胃弱安眠対策とか夏バテに、効く処方など事細かく書いてある。最後の最後まで愛用したのは「補中益気湯」だという。これも、季節に合わせて加える生薬を違えているから、益軒流処方である。
びっくりなのは自分の体重まで、生涯5回にわたって測っている。もちろん奥様も。愛妻処方など、うらやましい限りである。東軒夫人は62歳と長命を得ている。
「用薬日記」はまさに「実践編養生訓」であり、漢方処方の高度な技量を如実に示したものだと評している。その「養生訓」は亡くなる前年益軒84歳に書いた全8巻になるものである。著者によると、健康的な生活を送るための指南書で、益軒10訓のうち8番目の書だという。益軒の人生のいわば集大成であり、耐え忍ぶ人生を説いている。心気を養うことが養生の基本と説き、心を平穏に保ち、怒りと欲望を抑えて、憂いや心配を少なくして、心を苦しめないこと、ストレスを溜めないことが最も大事である。人が生きることの基本理念を提示した。
生きることを謳歌せよ。だからこそ、快楽の限りを尽くして溺れてはならない。それは男女の交合ばかりでなく、飲食、睡眠、金銭、飲酒など人生の快楽の多方面にわたる一大キーワードとなっている。いわば「養生道」の根幹で、中庸の世界観が浮かび上がる。「頃合い」「ほどほど」「腹八分」だろう。
益軒は人としてこの天地に生を受けたなら、この頃合いの精神で生きる限り「楽」の人生を実践できるとした。晩年には晩年なりになすべきことがあると信じた人である。
その晩年のために体力と気力を養い、また天命を悔いなく、全うできるよう養生を貫いた人であり、最も見習いたい点である。
老いを楽しむ知恵を「大和俗訓」(79歳)で述べている。
努力によって成し得ることはなさねばならぬ。ただ、人間の力に成しえない事はままにならぬこととわきまえ、心を苦しめるなといっている。精力の弱かった益軒はまさに「一つづつつとむれば」の精神で、膨大な著作を残したのである。病弱でも事はなせると益軒自ら範を示した。益軒の自信のあふれた生き方は天道から外れていないという自己確認の故だという。人を押しのけたり、争ったりした形跡がない。
「楽訓」では、他人に勝たなければ自分がないといった他人との比較でしか自分が存在しないとしたら、それは悲しい生き様だといっている。
いまこそ、益軒流の正道論に学ぶ必要がある。正道であれば恐れるものはない。
「和楽」を追求し、「清福」を望んだ。それを著者は「清楽」と呼び、その清楽のもと、読書し、諸国縦覧し、見聞紀行文を残し、古楽を奏で、妻をいつくしみ、良友と語り、飲食を楽しみ、著述に邁進したのである。
老いを見事に生きつくした達人であり、益軒からの老いを生きる知恵を実践したいものです。
お読み下され、感謝致します。
PS.写真は山茶花です。