隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

日本の演説――架け橋演説Japanese Speech---Bridge Speech

2011-08-27 09:22:55 | Weblog
日本の演説――架け橋演説Japanese Speech---Bridge Speech 平成辛卯廿三年葉月廿七日

 ボランティアガイドで、細やかな国際交流をさせてもらっている。やはりスピーチでは、再度、新渡戸稲造に登場してもらいます。(既出、カナダ・BC滞在記)
 
 伊藤は「我が国に在っては機軸とすべきは独り皇室あるのみ」とし、天皇を憲法の核心に置いたのである。伊藤は本来共和的な思想の持ち主だが、明治維新における錦の御旗の威力、勅諭の効用を十二分に承知していただけに、天皇の存在の重さを充分に理解していただろう。このように日本は「国のかたち」を整え、欧米が産業革命以来40年で成し遂げた発展に「追いつこう」とスタートしていた。
日本はその美意識を理解してもらうのでなく、『武士道』を著した6年後、日露戦争で帝政ロシアを破った。そして軍国主義への道をひた走ることになった。
新渡戸の主君に対する「忠義」、国家に対する「忠誠」という『武士道』精神は一人歩きして、富国強兵政策を推進する中で、「忠君愛国」という言葉に置き換えられ、戦時中の国家総動員体制の精神的な裏づけに利用されてしまった。
 第1次世界大戦後、日本は英、仏、伊とともに国際連盟の常任理事国の一角に名を連ねることになり、新渡戸は事務次長に就任。国際平和の実現のために、また日本の孤立化を防ぐために尽力をつくす。しかし、1931年(昭6)満州事変勃発。1933(昭8)国際連盟の裁定に不満を持った日本は、国際連盟を脱退。
 この半年後の8月、新渡戸は第5回太平洋会議に出席するためにカナダのバンフ・スプリングスに向かった。太平洋会議とは、学術の面で各国の相互理解、平和の達成を目的とした非政治団体で、新渡戸は開会式の壇上、腹痛をこらえながら、次のようにのべた。
“ Here are represented ten nations with vital interest in the Pacific. And China and Japan, the dwellers of its shores from the dawn of history, sit side by side at the Conference tables. It gives my Japanese colleagues and myself a profound satisfaction that in these halls of the Institute we can meet the illustrious sons and daughters of our time-honored neighbor land in an atmosphere of friendship and serenity. There are differences between our governments. That is too true. But, as a man, we harbor no ill will the one to the other.”
「ここに、太平洋に関心を持つ国が10カ国集まりました。歴史始まって以来の隣国たる中国と日本も同じテーブルにつくことができました。これは私の同僚にとっても、私にとっても深い満足を与えてくれるものです。日中政府には相違点がいくつもあります。しかし一人の人間としてあいまみえる時、互いの間には何の悪意もありません。」
演説の最後にこう締めくくった。
“ Discussions and deliberations are important. But is not the personal contact of the people of different nations also a matter of immeasurable consequence in the world afflicted with so many sufferings?
Is it too much to hope then that in the intimate contact of the nationals from all over
the earth the day will gradually come when not passion, but reason, when not self-interest, but justice will become the arbiter of race and nations? “
「議論や審議は必要です。しかし、何よりも、異なった国民がお互いに個人的な触れ合いを持つことこそ、悩み多きこの世界に計り知れない結果をもたらすのではないでしょうか。世界中から集まってきた国民が親密に触れ合うことで、やがて感情ではなく、理性によって、利己ではなく正義によって、人類および国家の行く末が決められていく日がやってくると思うのですが、それは高望みなのでしょうか」
* 自分の信じる「義」のためには命を賭しても惜しくはないと考えた、サムライの渾身の言葉だった。

 震災後、復興せねばならぬ時、実行の伴わない言葉の羅列にうんざりします。またまた、首相交代劇だ。民主党内で、脱原発依存はどこへいってしまったのか。夏の電力不足は乗り切ったようだが、原発維持でも、最終の放射能廃棄物をどうするのかを決めるのが、トップだと思います。でも原子力に群がる利権(政官業が一体となって「原子力村」を構成している原発・エネルギー分野は既得権益の塊)や選挙資金(電力労組からも)のことで、すべてうやむやは困りますね。 正義はどこだ。
お読み下され、感謝致します。


薬師寺展Yakushiji temple exhibition 

2011-08-20 07:59:11 | Weblog
薬師寺展     平成辛卯廿三年葉月二十日

薬師寺展へ先日行ってきました。

国宝、吉祥天画像と神功皇后坐像の小ささにびっくり。
神功皇后坐像はもっと大きいかと思わせるだけ迫力がありましたね。
吉祥天は畳1枚の大きさに拡大してパネルが展示してあり。
パネルの前の本物は通り過ぎてしまう位、ひっそりと額におさまっていた。
麻布に描かれた吉祥天は精緻そのもの、気品にあふれる。
縦53、横31.7cmであるから、しっかりと見なくてはならない。
だから、超拡大したのでしょうね。精緻だからこそですね。唐風の母性的な美人像だそうだ。
同じ吉祥天で有名な浄瑠璃寺へもう一度行ってみたくなった。
こちらは鎌倉の代表的な美人像だという。
目玉の一つの国宝聖観音像は衣のひだの表現が印象的でした。
以前奈良に訪れた時、薬師如来坐像も拝してきましたが、
木彫に目が慣れているものだから、黒光りの銅造に私は抵抗あった。
でも、和辻哲郎は、『古寺巡礼』で「あの真っ黒なみずみずした色沢だけでも人を引き付けて離さないのである。しかもその色沢がそれだけとして働いているのではない。その色沢を持つ面の驚くべく巧妙な造り方が、実は色沢を生かせているのである。そうしてその造り方は、銅という金属の性質を十分に心得たやり方である。特殊な伸張力を持った銅の、言わば柔らかい硬さが、芸術家の霊活な駆使に逢って、あの美しい肌や衣の何とも言えず力強いなめらかさにーーー実質が張り切っていながらとろけそうに柔らかい、永遠に不滅なものの硬さと冷たさとを持ちながらしかも触るれば暖かで握りしめれば弾力のありそうな、あの奇妙な肌のこころもちにーーー結晶しているのである。」と言っています。流石ですね、このように表現されるとなるほどと思わざるを得ない。

加えて、隣の加藤栄三・東一記念美術館での薬師寺所蔵名品展はとてもよい企画だ。興味の持てる現代画家に一品描いてもらった色紙がずらりと並ぶ、流石に一品一品は「これはこの人だ」と言わせるものがあった。
薬師寺ならではの名品展でした。

薬師寺の建立は、壬申の乱で皇位継承した天武天皇が即位して8年目680年、鸕野(うのの)皇后(後の持統天皇)病気平癒を祈って発願され、持統天皇退位後の698年に飛鳥の地に完成したという。710年に都が平城京に移されると薬師寺も新都に移されたという。
まだまだ壬申の乱、薬師寺の移築、薬師寺伽藍の八幡鎮守社(神仏習合)などで分からないことが多い。
薬師寺展は10月2日まで、岐阜市歴史博物館にて、行われており、安田暎胤長老などの講演、連続ガイダンスがある。
安田長老の講演での興味ある一言を記します。「天武天皇はあのお伊勢さんの式年遷宮の制を定めた。」と言われた。びっくりして調べたら本当だ。ウィキペディアにあった。
「記録によれば神宮式年遷宮は、飛鳥時代の天武天皇が定め、持統天皇の治世の690年(持統天皇4年)に第1回が行われた。その後、戦国時代の120年以上に及ぶ中断や幾度かの延期などはあったものの、1993年(平成5年)の第61回式年遷宮まで、およそ1300年にわたって行われている。」と。平成25年第62回はもうすぐだ。犬も歩けば式の情報ですが、ためになった薬師寺展でした。
お読み下され、感謝いたします。

日本の演説――大東亜戦争終結ノ詔書 Imperial Rescript

2011-08-15 18:16:54 | Weblog
日本の演説――大東亜戦争終結ノ詔書 Imperial Rescript 平成辛卯廿三年葉月十五日 

 終戦詔書のラジオ放送は、演説といえるかと言われそうですが、これこそ英国王のスピーチと同様、日本中の国民が聞いたスピーチだといえる。ウィキペディア、Wikisource(英訳), 「神国の森」八神邦建氏より載せさせていただきました。
 
 終戦詔書は大東亜戦争終結ノ詔書とも呼ばれ、天皇大権に基づいてポツダム宣言を受諾する勅旨を国民に宣布するために8月14日付けで詔として発布された。大まかな内容は内閣書記官長・迫水久常が作成し、8月9日以降に漢学者・川田瑞穂(内閣嘱託)が起草、更に14日に安岡正篤(大東亜省顧問)が加筆して完成し、同日の内に天皇の裁可があった。大臣副署は当時の内閣総理大臣・鈴木貫太郎以下16名。
喫緊の間かつ極めて秘密裡に作業が行われた為に、起草、正本の作成に充分な時間がなく、また詔書の内容を決める閣議において阿南惟幾陸軍大臣が「戦勢日ニ非ニシテ」の改訂を求めて「戦局必スシモ好転セス」に改められるなど、最終段階まで字句の修正が施された。このため、現在残る詔書正本にも補入や誤脱に紙を貼って訂正を行った跡が見られるという異例な詔勅である。全815文字とされるが、誤りという説もある。
昭和20(1945)年8月15日正午、「大東亜戦争」の終結を国民に告げる為になされたラジオ放送 ── 所謂「玉音放送」で知らされた訳だが、終戦前日の8月14日、御前会議に於いて、昭和天皇の「御聖断」(最後決定)により実施となったもので、ラジオ放送で使われた円盤(レコード盤)への録音は同日深夜、宮内省内の天皇政務室で行われた。「玉音放送」に関しては、降伏反対・戦争継続を主張した近衛師団等による録音盤奪取未遂事件等、「長い一日」(8月14日~15日)の中で予定通り放送され、日本は「現人神」(あらひとがみ) ── 昭和天皇の「鶴の一声」で降伏を甘受、整然と矛を収め、粛々と武装解除に応じる事となった。
 
 あの敗戦が決定した日に、当時の日本人の耳に届いた昭和天皇の玉音放送が、何を語っていたのか、私の母はよく分からなかったという。名古屋の焼夷弾の嵐で、防空壕へ入る直前、近所の奥さんの背中に負ぶった子の首が吹っ飛んだのを見たということや、周りの人たちの声から、負けたことを認めたという。母は美濃市の疎開地でラジオを聞いたのであったから、雑音だらけであったろう。父は名古屋の師団司令部の中だったろう。何せ私が生まれる前の 出来事であるが、いつも皇居前で正座して涙をぬぐう場面の映像は複雑な思いをいだかせる。八神邦建氏によれば「 分量にして、一二〇〇字足らず、四百字づめ原稿用紙で三枚程度である。それだけの短い文脈にこめられた心は、あたかも今日の日本のありさまを、すでに五十年以上も前に予期していたかのようだ。声涙くだる苦難に満ちた、やるせない痛みに縁取られた詔勅である。及ばずながら、筆者はそこに、昭和天皇の血を吐くような苦悩の深さを見る思いだった。」といってみえる。   『帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに、出でて他国の主権を排し領土を侵すがごときは、もとより朕が意志にあらず。』という下りに、私はなぜもっと早くご聖断がされなかったのか、原爆が2発も落とされたからか分かりませんが、軍人・軍属の死亡・行方不明約186万 人、一般国民の死亡・行方不明約66万人で合計約250万人にのぼるまでになっていたという報告はされていたのだろうか。ルーズベルト大統領の言った 「No matter how long it may take us to overcome this premeditated invasion, the American people in their righteous might will win through to absolute victory.
この計画的な侵略行為を克服するのにどんなに時間がかかろうとも、合衆国の国民はその正当性に基づいて、完全な勝利を勝ち取る所存です。」 この言葉からどの程度の被害が予想できたであろう。Remember Pearl Harborを甘くみていたということか。沖縄玉砕の時が決め時で、天皇退位が意志にあらずという「けじめ」だと思います。
皆様と共に、しっかり読み返したいと思います。

『大東亜戦争終結ノ詔書』原文(昭和20年8月14日) ウィキペディアより
 朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
 抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遣範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
 朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ 惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克く朕カ意ヲ体セヨ
(御名御璽)
 昭和二十年八月十四日
 [以下、内閣総理大臣・鈴木貫太郎はじめ、十六名の閣僚、連署]

天皇の詔勅Imperial Rescript   帝国政府による英訳
     To Our Good and loyal subjects:
  After pondering deeply the general trends of the world and the actual conditions obtaining in Our Empire today, We have decided to effect a settlement of the present situation by resorting to an extraordinary measure.
  We have ordered Our Government to communicate to the Governments of the United States, Great Britain, China and the Soviet Union that Our Empire accepts the provisions of their Joint Declaration.
  To strive for the common prosperity and happiness of all nations as well as the security and well-being of Our subjects is the solemn obligation which has been handed down by Our Imperial Ancestors, and which We lay close to heart. Indeed, We declared war on America and Britain out of Our sincere desire to secure Japan's self-preservation and the stabilization of East Asia, it being far from Our thought either to infringe upon the sovereignty of other nations or to embark upon territorial aggrandisement. But now the war has lasted for nearly four years. Despite the best that has been done by every one -- the gallant fighting of military and naval forces, the diligence and assiduity of Our servants of the State and the devoted service of Our one hundred million people, the war situation has developed not necessarily to Japan's advantage, while the general trends of the world have all turned against her interest. Moreover, the enemy has begun to employ a new and most cruel bomb, the power of which to do damage is indeed incalculable, taking the toll of many innocent lives. Should we continue to fight, it would not only result in an ultimate collapse and obliteration of the Japanese nation, but also it would lead to the total extinction of human civilization. Such being the case, how are We to save the millions of Our subjects; or to atone Ourselves before the hallowed spirits of Our Imperial Ancestors? This is the reason why We have ordered the acceptance of the provisions of the Joint Declaration of the Powers.
  We cannot but express the deepest sense of regret to Our Allied nations of East Asia, who have consistently cooperated with the Empire towards the emancipation of East Asia. The thought of those officers and men as well as others who have fallen in the fields of battle, those who died at their posts of duty, or those who met with untimely death and all their bereaved families, pains Our heart night and day. The welfare of the wounded and the war-sufferers, and of those who have lost their home and livelihood, are the objects of Our profound solicitude. The hardships and sufferings to which Our nation is to be subjected hereafter will be certainly great. We are keenly aware of the inmost feelings of all ye, Our subjects. However, it is according to the dictate of time and fate that We have resolved to pave the way for grand peace for all the generations to come by enduring the unendurable and suffering what is insufferable.
  Having been able to safeguard and maintain the structure of the Imperial State, We are always with ye, Our good and loyal subjects, relying upon your sincerity and integrity. Beware most strictly of any outbursts of emotion which may endanger needless complications, or any fraternal contention and strife which may create confusion, lead ye astray and cause ye to lose the confidence of the world. Let the entire nation continue as one family from generation to generation, ever firm in its faith of the imperishableness of its divine land and mindful of its heavy burden of responsibilities, and the long road before it. Unite your total strength to be devoted to the construction for the future. Cultivate the ways of rectitudes; foster nobility of spirit; and work with resolution so as ye may enhance the inmate glory of the Imperial State and keep place which the progress of the world.

読み下し文[原文の難読漢字を開き、ひらがな文に書き替えた。]:ブログ「神国の森」八神邦建氏より

 『朕(ちん)、深く世界の大勢と、帝国の現状とにかんがみ、非常の措置をもって、時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なる汝臣民に告ぐ。朕は、帝国政府をして、米英支ソ四国に対し、その共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり。
 そもそも帝国臣民の康寧(こうねい)をはかり、万邦共栄の楽を共にするは、皇祖皇宗の遺範にして、朕の挙々おかざるところ。先に米英二国に宣戦せるゆえんも、また実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに、出でて他国の主権を排し、領土を侵すがごときは、もとより朕が意志にあらず。しかるに、交戦すでに四歳をけみし、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、おのおの最善を尽くせるにかかわらず、戦局、かならずしも好転せず、世界の大勢、また我に利あらず。しかのみならず、敵は新たに残虐なる爆弾を使用し、しきりに無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶところ、まことに測るべからざるに至る。しかもなお交戦を継続せんか。ついにわが民族の滅亡を招来するのみならず、のべて人類の文明をも破却すべし。かくのごとくむは、朕、何をもってか、億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。これ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れるゆえんなり。
 朕は帝国とともに、終始、東亜の開放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるをえず。帝国臣民にして、戦陣に死し、職域に殉し、非命に倒れたる者、及びその遺族に想を致せば、五内ために裂く。かつ戦傷を負い、災禍をこうむり、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)するところなり。おもうに今後、帝国の受くべき苦難は、もとより尋常にあらず。汝臣民の衷情も、朕よくこれを知る。しかれども、朕は時運のおもむくところ、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す。
 朕はここに、国体を護持しえて、忠良なる汝臣民の赤誠に信倚(しんい)し、常に汝臣民と共にあり、もしそれ情の激するところ、みだりに事端をしげくし、あるいは同胞排擠(はいせい)、互いに時局を乱り、ために大道を誤り、信義を世界に失うがごときは、朕もっともこれを戒む。よろしく挙国一家、子孫、相伝え、よく神州の不滅を信じ、任重くして道遠きをおもい、総力を将来の建設に傾け、道義を篤(あつ)くし、志操を固くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運におくれざらんことを期すべし。汝臣民、それよく朕が意を体せよ。』
(御名御璽)
お読み下され、感謝致します。

日本の演説――超然、共和演説Japanese Speech--Chouzen, Kyouwa speech

2011-08-14 11:40:25 | Weblog
日本の演説――超然、共和演説Japanese Speech--Chouzen, Kyouwa speech 
平成辛卯廿三年葉月十三日

 年代順だと超然演説(内閣総理大臣・黒田清隆)1889年となりますが、    
超然主義は、第2代内閣総理大臣の黒田清隆が大日本帝国憲法公布の翌日である1889年(明治22年)2月12日、鹿鳴館で催された午餐会(昼食会)の席上、地方官を前にして行った、以下の演説(いわゆる「超然主義演説」)において表明された。

---…憲法は敢(あえ)て臣民の一辞(いちじ、ひとこと)を容(い)るる所に非(あらざ)るは勿論なり。唯た(ただ?)施政上の意見は人々其所説(しょせつ、主張)を異にし、其合同する者相投して(あいとうじて)団結をなし、所謂(いわゆる)政党なる者の社會に存立するは亦(また)情勢の免(まぬが)れさる所なり。
---然れとも政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正(しこうしせい、この上なく公平で正しい)の道に居らさる可らす(おらざるべからず)。各員(かくいん)宜(よろし)く意を此に留め、不偏不党の心を以て人民に臨み、撫馭(ぶぎょ)宜きを得、以て国家隆盛の治を助けんことを勉むへきなり(つとむべきなり?)…

*あまり聞きなれませんが、他の動きには関知せず、自分独自の立場から事を行う主義とのことで、翌日、大日本帝国憲法起草を主導した伊藤博文も同様の主張を表明する演説を行った。 第1回衆議院選挙が行なわれたのが明治23年(1890年)の7月1日だそうです。この年の11月29日に最初の議会が開かれたらしい。帝国議会の始まりは個性の強い集まりであったろう。批判勢力がおり、選挙干渉事件などが、却って議会の審議を停滞させたばかりでなく、一般国民の反発を買った。結局、伊藤博文は超然主義を取って議会との対立を続けるよりも自らが目指す近代国家の方向性を実現させるための政党結成に乗り出す事を考え、1900年に立憲政友会を旗揚げして政府の内側から超然主義を否定する動きに出たのである。  他方、山県有朋は、政党から超然とする超然主義を主張しています。
 念のために、内閣総理大臣黒田清隆は薩摩出身です。伊藤、山県は長州出身ですね。
1代から7代まで見事に長州、薩摩と交代で総理が選ばれています。①伊藤博文②黒田清隆③山県有朋④松方正義⑤伊藤⑥松方⑦伊藤 と、たらい回しですね。 


共和演説(第1次大隈内閣文部大臣・尾崎行雄)1898年

 共和演説(きょうわえんぜつ)は、第1次大隈内閣(隈板内閣)の文部大臣であった尾崎行雄が1898年8月21日に行った演説である。これがもとで隈板内閣瓦解の発端となった事件となる。Netで調べると、
尾崎は1898年8月21日に帝国教育会茶話会で行った演説の中で、                    

『世人は米国を拝金の本元のように思っているが、米国では金があるために大統領になったものは一人もいない。歴代の大統領は貧乏人の方が多い。日本では共和政治を行う気遣いはないが、仮に共和政治がありという夢を見たとしても、おそらく三井、三菱は大統領の候補者となるであろう。米国ではそんなことはできない。』と発言した。
 
 この発言の趣旨は当時蔓延していた財閥中心の腐敗した金権政治の風潮を批判したものだった。
ところが、「共和政治となる」とは、「日本から天皇がいなくなる」という意味なのですね。これが大日本帝国憲法下の当時の日本では「不敬の言」であると曲解され、まず宮内省から批判の声が挙がり、初の政党内閣である隈板内閣に批判的な枢密院・貴族院に非難の声は広がり、さらに与党憲政党内旧自由党派の実力者星亨が、陸軍大臣桂太郎らと密かに連携して尾崎排除を計画、隈板内閣を嫌っていた伊藤博文の盟友伊東巳代治が社主を務める東京日日新聞も尾崎攻撃を開始した。尾崎は9月6日に参内して明治天皇に謝罪し、更に辞職をするなら一蓮托生と大隈重信首相に食いさがるが、同年10月22日明治天皇より不信任の意向が伝えられたことにより、10月24日に辞任を余儀なくされた。
その後任をめぐって旧進歩党・旧自由党両派の対立は深刻化し、妥協点を見出せないまま、大隈首相は独断で進歩派から犬養毅を後任に推した。これに対し3日後10月27日の就任式当日、内務大臣板垣退助が反対意見を上奏、翌日板垣ら旧自由党派三大臣が辞任、さらに与党憲政党も分裂し、隈板内閣は10月31日に崩壊した。まもなく憲政党は旧自由党派を中心とする憲政党と旧進歩党派を中心とする憲政本党に分裂した。
 
 *尾崎行雄は、真の民主政治と世界平和の実現にその一生を捧げた政治家である。若くして自由民権運動に身を投じ、保安条例により東京退去を命じられ海外(米国・英国)に渡るが、国会開設(1890年)とともに衆議院議員に選ばれ、以来、議席にあること63年(連続当選25回)、世界議会史上の記録を打ち立てた。素志は藩閥軍閥の打破、民主政治の確立にあり、あらゆる権力の弾圧にも屈せず、常に民衆の側に立って闘った。その雄弁は天下に鳴り、憲政擁護運動が起こると人は彼を「憲政の神」と呼んだ。また、軍国主義が一世を支配するに及んでも平和の信念を曲げず、軍縮を説き単身全国遊説を始めるとともに、三たび辞世を懐にして議政壇上に立ち、国論に警告することをやめなかった。そして晩年は、廃藩置県ならぬ廃国置州という考えに基づく「世界連邦」の建設を提唱。議会政治の父と仰がれつつ一生の幕を閉じた(享年95歳)。         普通選挙に基づく民主政治の確立と、軍縮・世界平和の実現を目指した尾崎。民主主義と平和主義の精神を、国民一人一人が自らのものにすることの大切さを尾崎は終始説き続けた。
 良き座右の銘がある。『人生の本舞台は常に将来にあり』

尾崎は東京市長時代(1903年~1912年)、日露戦争の際に米国が日本に対して好意的だったことに非常に感謝していた。1912年、桜の苗木3000本を送った。苗木は無事育ち、現在も見事な美しさでポトマック河畔の春を彩っている。(ブログ既出、桜の環、平22年4月)

ちなみに、大隈重信8代総理は肥前(佐賀)出身ですね。この後、長州が⑨山県⑩伊藤⑪桂太郎と続いていきました。(日本の演説 続く)

日本の演説――日の丸演説Japanese Speech---Hinomaru Speech

2011-08-04 14:48:45 | Weblog
日本の演説――日の丸演説Japanese Speech---Hinomaru Speech
平成辛卯廿三年葉月四日
日本で歴史に残る名演説TOP 5は何だろう。
Netで調べると、
• 超然演説(内閣総理大臣・黒田清隆)1889年
• 共和演説(第1次大隈内閣文部大臣・尾崎行雄)1898年
• 腹切り問答(衆議院議員・浜田国松)1937年
• 粛軍演説(1936年5月7日)
• 反軍演説(1940年2月2日:以上2つ衆議院議員・斎藤隆夫)
• 自衛隊決起演説(1970年11月25日:作家・三島由紀夫)
と出てきましたが、衆議院議員・斎藤隆夫氏の2つの演説は、まず挙げられますが、その前に、忘れてはならない演説がありました。
4年前平成19年6月16日 ブログに岩倉使節団(1~など)を取り上げました。どうか検索してお読み下さい。そこで、明治新政府の有力者、伊藤博文の有名な「日の丸演説」が出てきます。当時は演説を中心に纏めませんでしたが、いつか来るという事で調べてありましたので、ご案内いたします。
Hinomaru Speech by Hirofumi Ito日の丸演説(伊藤博文)
On 12th Nov, 1871, Iwakura Goodwill Envoi , more than 100 members , left Yokohama getting on a Steamship America. Through 23days they got to San Francisco. Then, Ito Hirofumi made a speech in front of about 300 American citizens.
1871年(明治4年)11月12日、蒸気船アメリカ号にのって、総数100名をこす岩倉使節団が横浜を発った。23日目に、彼らはサンフランシスコについた。そこで伊藤博文は特命全権副使として、およそ300名近いアメリカ市民の前でスピーチをしている。一部を引用しよう。
 What country in the middle ages broke down its feudal system without war?
 ’Foreign customs are now generally understood throughout Japan.
Today it is earnest wish of both our government and people to strive for the highest points of civilization enjoyed by more enlightened countries. Looking to this end, we have adopted their military, navel, scientific, and educational institutions, and knowledge has flowed to us freely in the wake of foreign commerce.’
他のいずれの国が、戦争なくして中世の封建制度を打破することができたでありましょうか
「今や外国の風習は、日本全国に広く行きわたりつつあります。今日、わが国の政府および人民の希望は、先進諸国の持つ文明の最高点に到達することです。この目的に向かって、わが国は陸海軍、学校教育の諸制度を整えています。また、外国貿易が発展するに従い、知識も自由にわが国に流入しています。」
Within a year a feudal system, firmly established many centuries ago, has been completely abolished, without firing a gun or shedding a drop of blood. These wonderful results have been accomplished by the united action of a Government and people, now pressing jointly forward in the peaceful paths of progress. What country in the middle ages broke down its feudal system without war?

(数世紀にわたって強固に続いてきた日本の封建制度は、一発の弾丸も放たず、一滴の血も流さずして、わずか一年以内に撤廃することができました。この驚くべき事実は。政府と人民との共同行為によって達成されたものであり、両者は今や一致団結して平和の道を進みつつあります。他のいずれの国が、戦争なくして中世の封建制度を打破することができたでありましょうか)

スピーチの文章は、明石康さんの「サムライと英語」(角川書店)から引用させていただいた。明石さんは、伊藤のこのスピーチについて、こう書いている。

<この伊藤の演説は、いわゆる「日の丸演説」といわれ、その内容については様々に評価されているが、こと異文化コミュニケーションの視点で捉えてみると、多くの示唆に富む。伊藤の英語は、それほど達者でなかったという。今ではどのような発音だったか知るすべもないが、おそらく強い日本語訛があっただろう。しかし伊藤は全く臆する様子もなく300人のアメリカ人が見守る中、堂々と「日本はこのような国だ」と伝えている。(略)
伊藤のスピーチは、日本があたかも一発の銃声も使わない平和な革命を成し遂げた人道的な近代国家であるかのように聞こえる。100パーセント嘘ではないが、かなり日本の有様を美化し誇張していることは間違いない。しかしそのことで聴衆にインパクトを与えたことは評価できる。・・・伊藤博文のスピーチは、アメリカ人たちの喝采を浴びたという意味で大変インパクトのあるスピーチだったといえよう>

 1971年といえば、南北戦争が終わってまもないころである。アメリカは第二次大戦で30万人あまりの戦死者を出しているが、南北戦争(1861~64)はその二倍の60万人あまりが死んでいる。伊藤のスピーチを聴いたアメリカ人は、南北戦争の悲劇を思い出し、最小の犠牲で封建的な体制をうち破り、近代国家へと歩み始めた日本の姿に、尊敬の念を覚え、惜しみない賞賛の拍手を送ったのではないだろうか。しかもこのような国家を代表するようなスピーチが、若干31歳の青年によって行われたことも特筆に値することであろう。
追いつけ、追い越せの初めての演説だったのではなかろうか。         
岩倉使節訪欧米後の日本が、「天皇制という国のかたち」を整え、小国から大国の道を選んで、侵略が当たり前の時代にあって、列強に対等に伍していくスタートになった演説だったと思います。(日本の演説続く)

写真は駿河蘭30年以上大事にしている。大阪阪神百貨店の展示会で購入したもの。