隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

鼎談Three-cornered talk 平27年9月

2015-09-28 16:30:52 | Weblog

鼎談Three-cornered talk 平成乙未廿七年長月廿九日

 今年も恒例となった「こころの好縁会」鼎談で「世相」をどう見てるのか聞きにいって来た。全席指定の504名であった。
 共催は中日新聞社と大興寺さんで、今回も、前聖学院大学学長、東大名誉教授の姜(かん)尚(さん)中(じゅん)先生・芥川賞作家、福聚(じゅ)寺住職の玄(げん)侑(ゆう)宗久先生・中日新聞社社長の小出宣(のぶ)昭(あき)氏であった。
 姜先生は「悪について」
 最近同名の本を出されているらしく、今の世の中は悪というのがぴったりくるという。
どう定義されているのだろう。色々悪役の名を挙げて見えたが、分からなかった。
ところが、先生も学生の時読んだ石母田正氏の「中世的世界の形成」という本を取り上げ、古代から中世の封建社会の成立における悪党の役割はしいたげられた人々を救うという難しい話となりました。今日の問題ではやはり「イスラム国・IS」で、彼らはインターネットで殺人の儀式を行っている。オリンピックのエムブレムの問題はだれも責任を取らないという組織としての悪がある。もう行きいついたと考える金融資本主義が悪ではないのか。
「自分だけしか信じられない」というような社会に日本はなってきている。どこまで寛容 tolerantでおれるかでしょう。
 玄侑先生は「律儀な私たち」として安倍政権への懸念を示し、鼎談では「唯一の被爆国として永世中立国をめざしては」と提案された。これにはびっくりしましたね。
 どんどん安倍政権は、同盟関係を強固にしようと今回の安保法案は憲法改正を議論せずに通過してしまった。裏にオバマ大統領への年次報告とうりにして、『イスラム国叩き』をスムーズにしてあげよう。そしてそれ以外の紛争については、日本の地球裏まで行けるように解釈を、一旦緩急あれば、出来るようにしたばかりの状況です。
 旧社会党の党是は確か非武装中立だったが、40年前の議論を思い出しますよ。丸腰ではだめなどと言ってましたね。こういう提案が出されるほど今日本は『国の立ち位置がぐらついている』証拠なんですね。
 小出社長は『戦後70年平和であった実績にもっと自信を持つべきだ』と言われた。
 去年は「IS」過激派に対して「中立」が良いと締めくくったが、結果は、日本ジャーナリスト2名殺害されて、規模が拡大し、おびただしい難民がヨーロッパ各地へ逃げていく。
悲惨な状況である。今年47万人が欧州に渡ったという。

それなりの鼎談でした。
お読み下され、感謝致します。

織田有楽斎(1)

2015-09-25 21:17:12 | Weblog
織田有楽斎(1)    平成乙未廿七年長月廿五日

犬山というところは、鵜沼という宿場町へ木曽川を渡って岐阜に繋がる交易の要衝である。
木曽川ライン下りで有名であったが、天竜川下り船の転覆死亡事故(2011年8月17日)の影響で、
中止となった。今、犬山城の西にダムが出来ている。聞くところによると、洪水対策、灌漑用だという。
昔、あったと言われる川原が無くなって、子供の時の水遊びが出来ないようになったわけである。水遊びが無くなり、私には風情が無くなったという感がしないでもありません。
もっと昔を遡れば、江戸時代には、木曽山脈から産出された木曽桧材の筏流しの中継地点であり、各筏の通行料の徴収には大切な場所であった。尾張藩の直轄領であった。
あの小牧・長久手の戦いで秀吉軍(池田恒興)は12万人を各務原から鵜沼あたりが川を渡るのに最適として、渡り攻めた。そして犬山城を落としたのであるが、もう400年前のことである。
 
織田有楽斎は、織田長益(長益)といい天文16(1547)年、織田信秀の11男として生まれている。幼年期は源吾と言った。 織田家は、家長が信長であるが、長男として信広が妾腹の兄としていたから次男であり、信秀は12男もうけた。兄弟を代表して言葉を述べる役は信行で、事実上次男で、長益11歳の時、信長は、政敵林通勝の信行擁立で、平手中務丞政秀(4宿老の一人)が自刃するも、「逆らうものは容赦せぬ」と信行の首をはねた。

 初陣   稲葉山城から大挙くり出してきた美濃勢と激突。近江源氏佐々木の一族の出の佐々成政により敵の首を掻き切った。15歳であった。
 兵農分離がなされていない当時、国主も、その麾下(きか)の小領主も、配下の将卒も、それぞれが土地と直接つながっており、領地が荒らされ、作物や家畜がなくなり、農民が逃散してしまえば、息の根を止められたのも同然であった。とりわけ、軍隊の中心である兵卒は、一領具足ともよばれる半農半士であり、雑兵や徴発される夫役は農民そのものである。
 天下布武の大道に立ちはだかる者は何であれ、踏み潰してゆくのが信長の戦法である。長益は数多くの戦いに従軍を余儀なくされたが、そのなかでも、元亀2年(1572)9月の延暦寺攻めほど心を苛まれた体験はない。山門堂宇のすべてを焼き払い、住まう者は誰かれなく、皆殺しであり、僧俗男女は2300人だったという。

 永禄9年(1566) 20歳の秋 茶道の師であった平手政秀の末娘、お清(おせい)を迎えた。そして織田家の数奇の道の第一人者となり、平手家より政秀の茶道具一切を譲られる。子は側室に生ましめた長考という男児がいる。 
 本能寺の変で 信長、長利(信長の12番目の弟)が亡くなり、10人までが非業の死をとげた。生存しているのは、4男信包(40歳)と11男の長益(36歳)だけである。
跡目の候補は信長の次男信雄(25歳)、三男信孝(25歳)三法師(信忠の嫡子で信長の孫にあたる3歳)である。 これからの織田家は多難として、「逃げの有楽」と後年呼ばれるように「浮世を捨て、方々の菩提を弔いたき発心やみがたく、伏して御寛恕のほどを。三法師さまのこと、くれぐれも願い上げ申しまする」という置き手紙を長谷川丹波守と前田玄以に残して、姿をくらましたのである。
 行脚僧のいでたちで岐阜城下をでた長益は、所領の知多郡大草城(おおくさじょう)へは寄らず、桑名へ。桑名港より隠遁地と定めている堺へ行くことになった。堺には、信長の茶頭たる今井(納屋)宗久、津田(天王寺屋)宗及、魚問屋の千宗易(利休)がいる。「成り行きを見守ること肝要でしょう」と今井宗久は説き、宿院町の別邸を供したという。
結局、長益が跡目を辞退し、三法師を奉戴する秀吉を支援することが、秀吉の覇権の道を開くことになった。 続きます。
堀和久「織田有楽斎」より