隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

渚にてOn the beach

2011-04-23 16:06:12 | Weblog
渚にてOn the beach   平成辛卯廿三年卯月廿三日

ちょっと古い映画ですが、映画好きなT氏が“Waltzing Matilda”を歌ってる
映画があるよといって紹介してくれた映画がある。
「On the Beach 渚にて」だ。古いのでツタヤさんが名画復活シリーズで掘り起してくれた。
去年、借りて見みたが、何とも言えない感情になって、記憶の片隅にしまっておいた。
しかし、今般の津波による福島第一原発事故で、どうしても私の頭は核戦争を思い起してしまった。そして、この映画がまさに「核戦争直後」を描いていたから、記憶の片隅から
ブログに載せるまでになった。
 3年前、“Waltzing Matilda”を歌いながら、メルボルン市内を歩いていた。
そのメルボルンが舞台で、それは恐ろしい、ぞっとするような映画が作られた。
時は1959年、監督スタンリー・クレイマー 出演グレゴリー・ペック、アバ・ガードナーなど。
 核戦争が始められ、アメリカ原子力潜水艦とまだ放射能が致死量まで汚染されていない
メルボルン市だけが生き残って、世界破滅の日doomsdayを迎える。
アメリカ原子力潜水艦はアメリカ西海岸を調査に出かけるも、そこは不気味に静まり返っていた。廃墟だ。人々が忽然と消えた。信号員がモールス音を拾うも、たまたまの事象であった。 メルボルン市のガイガーカウンターの値が上がってきてくる。
胸をつかれるのは、いよいよその日を迎える潜水艦員たちとその彼女らとの別れである。
様々なドラマが展開された。核戦争は終わった。
しかし、首相は述べる。「人間の生き残っている証拠はない。」
街の横断幕は「兄弟よ。まだ時間はある。」と掲げてある。
原子力潜水艦は海底へ潜っていく。そして、映画は終わる。

50年も前の映画でしたが、今の日本の現実に戻っても、放射能は目に見えないから、どのくらいの濃さかどうかが分からない。
事故当初から『直ちに人体に影響を与えるものではない』という将来のリスクに含みをもたせた言い方で、ついに、政府はレベル4からレベル7まで来てしまった。
原子力安全委員たちは、事故発生から1カ月以上も現地入りせず、その事実が報じられてから駆けつけたという。年間1千万円以上の報酬を受けながら怠慢である。
 アル・ゴア元アメリカ副大統領が「不都合な真実」で、一気に注目を浴びた原発市場は、花開くかにみえたが、ドイツの「緑の党」の大躍進で、反原発の気運が高まりますね。
三菱重工のアメリカ原発60億円単独受注は中断か?
去年鳩山首相(当時)自らセールし、10月には菅首相がベトナムのズン首相と会談し、日本が建設するという合意した原発は、見直し宣言で白紙になりましたね。
この動きを見ると、民主党も本気で核廃絶を考えてこなかったということになる。

真摯な堤未果氏は、「もうひとつの核なき世界」(小学館)で、被爆国として廃絶を訴え続けてきた<核>と、日常生活の中で使うエネルギーとして依存する<原子力>は、たとえ言葉で切り離しても<核なき世界>を通して未来を見る時、表裏一体の存在だ。
核燃料なんてウランを加工すれば簡単にできてしまう。原子炉内で核弾頭用プルトニウムを造ることがいつでも出来る。核の傘といっているけれど、いざとなれば核装備は出来るのだ。ただ言わないだけで、原発を隠れ蓑で開発してきたといえる。非核3原則は完全にウソでしたと言えない事情といっしょですね。
 それよりももっと怖い話がこの本に書いてあった。
劣化ウランである。聞いたことはあったが、これほど深刻な問題だとは知らなかった。
劣化ウランとはウラン235の同位体存在比が天然のものより少ないもののことをいう。
ちょっとnetで調べたら、
天然のウランは、ウラン238が99.3%、ウラン235が0.7%という割合で出来ています。
ウラン238は特殊な環境でなければ核分裂は起こりにくいのですが、ウラン235は核分裂を起こしやすいので「燃えるウラン」とも言われます。つまり、天然ウラン程度のウラン235の比率では原子力発電所の燃料としては使えないので、ウラン235の比率を天然のものよりも高める「ウラン濃縮」という作業が必要となります。
この「ウラン濃縮」のあとに出る低レベル放射性廃棄物(ほとんどがウラン238)を劣化ウランといいます。
100万キロワット級原発を1年間動かす場合、燃料として濃縮ウランが30t必要となりますが、そのときに発生する劣化ウランは160tにものぼります。
今話題の原子力発電をする際に出る廃棄物の中に、ウラン238を大量に含んでいるという。放射性物質なので破棄することができず、原発を所有するフランス、アメリカや日本などにとっては長い間悩みの種であった。
 友人S君は此度の震災について「原子力を利用するのは、爆弾にしろ、原発にしろ、良いことだとは思えません。原発が順調に運転されても核廃棄物の処理問題が残ります。私が原子力をやっていた頃には最高の処理方法はロケットに載せて太陽に打ち込むことだと言われました。太陽活動は核融合反応ですからそこに核廃棄物を打ち返すのは理想的かもしれませんがコストが引き合いません。」と言ってくれています。
 
アメリカ政府は、この廃棄物をどうにかして利用できないかと研究に研究を重ね、その結果生れたのが、この劣化ウランを機関砲の弾にするというアイデアである。
劣化ウランから成るこの弾は分厚い戦車の鋼鈑を貫通し、破片も出さずにガス化する。  湾岸戦争ではイラクの戦車が次々に爆発炎上しました。これは、撃ち込まれた劣化ウランが鋼鉄の装甲板に命中した衝撃で高温になって溶け、戦車内部に飛び散り、瞬時に自然発火し、摂氏3000度以上の高熱により戦車の砲弾や燃料に引火したためである。戦車に乗っている兵士は即死し、さらに放射性ガスも出るのだ。
 処理できずに持て余されていたこの<核のゴミ>の国内蓄積量は1940年代に原爆を開発した「マンハッタン計画」以来50万トンにものぼり、加工したければエネルギー省がただ同然でいくらでも支給してくれる。こうして<安い、堅い、便利>と三拍子揃った小型破壊兵器「劣化ウラン弾」が誕生した。
 この劣化ウラン弾が発する高二酸化ウランや八酸化三ウランなどの酸化物微粒子は、高度3千メートルの範囲で約二カ月かけて微粒子をまきちらし、さらにそれが風で広く拡散される。そしてゆっくりと地面へ舞い降りると、土や水、食べ物を汚染してゆくのだ。湾岸戦争で320トン、イラクで2200トンの劣化ウラン弾が使用されたといわれる。

ここで問題なのが、この劣化ウランとがんや白血病などの因果関係が、はっきりと解明されていないことである。なんの症状もなく、何年も何十年も経ってからがんが発症するが、“そのがんの原因が何年も前の放射能であった”と確定的に証明することが非常に難しいというのである。危険性は湾岸戦争以前より指摘されてきたが、公式研究はされてない。1990年米軍化学兵器司令部が、戦場で劣化ウランの粉塵を吸い込んだ場合、放射能と毒性で重大な問題になる。たとえ被曝量が少なくても長時間繰り返し粉塵に曝されれば、時間が経ったあとでがんに罹患すると警告している。1998年「軍事毒性プロジェクト」のフェーヒーは「湾岸戦争で約40万人の兵士が劣化ウランに曝された可能性あり」と、公表。帰還兵が訴訟に持ち込んではいるが、敗訴か保留中。一番新しいケースはアフガニスタン帰還兵で、洞窟や地下施設を破壊するために使われたバンガーバスター爆弾に劣化ウランが大量に使用されているから、湾岸、イラクからの帰還兵たちと同じ症状がでているという。怖いのは生まれてくる子供に重度障害があることだ。湾岸からの帰還兵に先天性障害児が生まれる確率は一般国民の4倍だったという。

『直ちに人体に影響を与えるものではない』と発表しながら、レベル7という重大な汚染が始まっていたわけで、まだ福島第一原発の温水は90°で蒸気を出しているから、収まったとは言えない状況だ。
オバマ大統領の2009年4月のプラハでの演説における『核なき世界』の『核』には、この劣化ウランは、残念ながらあたらないということだ。
核廃絶を謳いながら、原発推進では本当に核を無くしたいのではない。核兵器を最後まで安全に処理できる技術がない以上、何をもって、削減したといえるのか。
堤氏は子ども達に平和の大切さを伝えてゆくには、まず私たち大人が思考停止に陥らず何がおこっているかを知らないといけないと訴える。

60年間アメリカにおんぶに抱っこで来たうえに、物質的な豊かさを手に入れてしまったことがこの国の不幸だったのだ。万物に神が宿り、時に「荒ぶる神」となる自然をおそれる縄文以来の日本の伝統思想から、日本の美質を発揮して、津波と原発災害から復興を果たさねばならない。自然を力で支配することができると考えてきた西洋思想とは異なる自然と共存できる防災や国づくりの在り方を見出さねばならない。
お読み下され、感謝致します。

堤未果「もうひとつの核なき世界」(小学館)

写真は木瓜です。




再び原子力Nuclear Energy again   

2011-04-15 18:18:54 | Weblog
再び原子力Nuclear Energy again  平成辛卯廿三年卯月十五日  

 5年前「原子力の現在」という題で、池内了氏がTVで原子力の持つ危険性を慎重に語られていた。 原子力は化学反応エネルギーで2000万度以上に達する。だから普通の管理の「想定外」では済まされないと。当時53基からさらに10基増える勢いだったから、心配で話されたのであるが、私はむしろ、当時はテロによるミサイル攻撃や航空機の体当たりで、放射能汚染の危険性を取り上げました。
 更に、2年前「本質」というテーマで取り上げた原子力。また取り上げねばならない時が来るとみていますと書いたが、以外にも早く来た。
でも、あと4,50年の石油枯渇という命題と人口も1億人を切るという問題を考え、ちょうど良い機会と前向きに考えたいものです。
養老氏と竹村氏は、「本質」の中で、
原子力、火力はというと、地球温暖化を進めているから今後は?といっている。 竹村氏は「日本文明の謎を解く」で、指摘している。現在最も有効な発電とされている原子力はウラン燃料を核分裂させ、そこで発生した熱エネルギーで水を加熱する。そして200℃以上の高温水蒸気でタービンを回し、発電する。その後、高温水蒸気は海水の冷却水で冷却され、暖まった冷却水は放水口で海に返される。海から取水された冷却水は「7℃」に温められて排水されるという。発電電力量10万キロワット・アワー当たり、約2万2000立方メートルの温水が排出されることとなる。2002年の1年間日本中の原子力発電所によって発電された電力量は約3170億キロワット・アワーであるから、全国で年間約680億立方メートルの温水が「7℃」で排出されている。
排出熱→温暖化。   我々人類文明はとてつもないパラドックスを含んでいる。この文明を支えている原子力、火力発電所が温暖化と海面上昇をもたらし、未来文明の撤退を準備しつつある。この試算は専門家によって誤りなしとされた。「日本文明の謎を解く」より。
日本は水力と揚力を使った風車で発電をまかなうようにと、石油のない時代を見越して対談されている。勿論、少子化も万歳である。「本質」より。
今回の大参事より、キュリー夫人から約105年、原子力の平和利用は危ういことになってきた。
 特にこの度災禍を被っておられるのが、あくまで我慢強くもの静かな東北地方の方々であったから、ことさらに悲痛の念が私たちの胸を刺す。日が経つにつれて、この震災がいかに想像を絶する規模のものであるかが少しずつ分かりかけてきている。 秋田のW君は
調査で10日間被災地を廻ったが、「現場の凄さは、TVで見る光景で感ずるのとでは比べられないくらいひどいものだ。東北人の粘り強さを見せなければ。」と言っている。
 水泳仲間も、東北の会社が世界を相手になかなかやっているではないかという事が分かったと、感心していた。
 ここにきてやっと、あの池内了氏が新聞に投稿されている。
『今回の原発事故は、産業構造を大型化・集中化・一様化とする道を突っ走ってきた人災の要素が大きい。安全神話ボケに陥っていた。 すべての原発の運転をいったんストップして、耐震や外部電源の確保などシステム設計を根本的に見直すべき。
 なかでも、東海地震震源地に近い中部電力浜岡原発は、ただちに運転中止にして廃炉の措置をとるべき。私たちは、日常生活を見直すことを通じても、東北地方の人々と苦難を分かち合わねばならない。』と。
 仲間との話で、専門家でないけれど、今後のエネルギーの見通しは、脱原子力+脱火力でいかなければならない。各個人の家にソーラーパネルと風力発電装置を据え付けることで賄う。風力での今現在の状態では、量的にカバーできないよという批判はあるだろうが、大口は当面火力、水力でやっていくしかないだろう。メタンハイドレードも繋ぎに取り上げられていますが、まず、アフリカのウイリアム・カムクアンバ君のように各家庭で賄えるようにし、各家庭で自給体制をつくることが良いのではないか。と纏めてはきた。
  
先日、英会話のJohn先生から、「Artificial Leaf」というMIT(Scientists at the Massachusetts Institute of Technology) が開発した装置というか、ものを紹介してもらえた。 水と太陽光から水素を生み出すもの、装置なんだそうだ。
燃料電池なるものは、今小型化に取り組んでみえるが、水素などの燃料の酸化反応を特別な電池の中で起し、化学エネルギーを直接電気エネルギーに変換するわけなんですが、その水素をどうやって造りだすかが問題であった。
 MITによると、Silicon から作られ、トランプくらいの大きさで、太陽の下で水の中に置くことで、水をHydrogenとOxygen に分けてエネルギーに変えるものだという。 
Holy Grail of Science(究極の科学){聖杯を意味する}と呼んでいる。
 実用化を期待したい。プレイングサイズで開発国の家1軒分ぐらいの電力量ならまかなえ、製造コストも安価だそうだ。 各家庭での自給体制が基本だ。
原発の代替になることを期待したい。

地震以来、ずっと玄侑宗久先生は、新聞、TV、ホームページ などで吠えまくって、福島県に対する愚策を指摘してきた。今度は東北一円に渡る政府の主催する復興構想会議のメンバーになった。 葬式で忙しいらしいが、現場の声を汲み取り、復興にがんばってもらいたい。 伊勢湾台風の時、仮設住宅がスラム化し、新しい住宅へ移った仲間から差別を受けたという話を聞いた。 避難先で放射能が怖いといじめにあったとニュースがあったが、とんでもない話だ。
広範囲な話になりましたが、お読み下され、感謝致します。
写真は君子蘭です。

犬山祭りInuyama Festival

2011-04-04 11:20:03 | Weblog

犬山祭りInuyama Festival 平成辛卯廿三年卯月四日
 
今年は、未曽有の災害で、祭りの自粛が叫ばれ、わが団地もきのうは中止となった。
ただ桜をめでる私的な集まりだから、当然である。しかし、何百年と続いてきた祭りは、今年の豊年満作の願いも込められているから、実施されてきている。
 その中のひとつに犬山祭りがある。
一昨日が試楽祭、昨日が本楽祭と今年は、第三百七十七回を数える。
そして、犬山お城まつりが2週間前から行われてきた。
 犬山は、犬山城を警護する堀に囲まれた城郭都市であった。
現在の人口は約75000人、面積75km^2で、名前は、読んで字の如く犬の山を意味する。由来は3説あるが、昔ここは犬を使った狩りをするのにいい場所だったことによるものがよさそうである。
 お祭りに出る車山(やま)は869年京都の祇園祭が始まりで、高山祭りとここ犬山祭りが有名である。元々車山は神の降臨を願い、車山に乗った人形に精霊が宿ると考えられ、春先に五穀豊穣、商売繁盛を願って、神を招き入れようとしたのであろう。
特徴として①3層である。②3層目にからくりが乗る。2層目は操る人たち、1層目は子供たちによるお囃子③車輪が外車である。方向変換が大変。祇園祭りのときは割竹で滑らせてやってみえたようだが、ここは無理にガタガタいわせて変換していく。裏方は担ぐ訳ではないから良いが、相当な力がいる。押したり、引いたり、大変だ。でも、上には愛する子供たちがお囃子をやっている。


針綱神社祭礼のアトラクションとして、寛永12年(1635)に下本町が出されたことより、各町内13両が揃うことになった。
本来は奉納でないようだが、並ぶと壮観である。
各町内の車山のからくりに特徴があり、私が見たのは、「浦島太郎が玉手箱をお姫様から受け取り、開けてびっくり、煙が出てきておじいさんに変身するというシーン」でした。観客も分かっていて、チャンと受け取り、白いひげになると大喝采である。

各車山ごとテーマがあり、唐子人形が鉄棒の大車輪のように回転する離れ業もあるという。

全部見ようとするなら、朝10時より15時まで5時間かかる。
全部じゃなくても、犬山城見学がある。

 最近、犬山通訳ボランティアグループに入り、お城のガイドをして、勉強してきた恩返しをしようと思っている。Ko先輩は鵜飼ガイド、たそがれのKaさんはAPECなどの通訳で頑張ってきてみえる。刺激を受けつつも、中学生の指導があり、なかなか踏み切れなかったが、週1,2回の昼間できることなので、仲間入りした。

 ちょうど、祭りだという事で、外国の人を目指して、待機した。
犬山祭りで、覚悟をして来ましたが、お城へ30分待ちの長蛇の列。
茶室で待つこと30分。なかなか要請ありません。
これではいけないと外で列を見ていると、外人が5人いて、連れてきた日本人と
話しているではないか。早速日本人に聞いてみると連れてはきたが、頼みますとのこと。
たどたどしく、Canon櫓がrestroom と説明。城の歴史①この前まで個人成瀬家所有の国宝②信長のおじさんにあたる織田与次郎信康によって天文6年(1537)につくられたことを説明して、何せ長蛇の列だから、あちこち連れる訳にもいかず、列から「デッド・シーダー」の説明。 hand axでFish scale のBeam(梁)は 分かってもらえたみたいです。
屏風は4 battle scenes といって名前(簗瀬・賤ヶ岳合戦、姉川、関ケ原、小牧長久手の合戦)を4つ挙げました。じっくり説明どころでない。階段がsteepで、靴袋と資料で危ないくらい。ここも行列だ。
Gable 破風の間はChinese style, plover gableと言っても、首をひねってました。
ここで赤毛のアンをいう訳にもならず、Here Samurais were resting.と逃げました。
バルコニーは数珠つなぎでモンキーパークにはうなずいてもらえた。
お子さんと昼から行くのかな?
震災の報道より行列の並ぶのはここでもだなと感心してくれた。
 家族はアメリカ人で名古屋国際学園の教師で奥さんと息子、娘で、彼の友人の5人だったが、見学は男の3人であった。
あっという間の1時間でした。よちよちの駆け出しの国際交流でした。
浅草雷門ガイドのO先輩に、ちゃんとやっていますよと言えるようになりたいものです。
お読み下され、感謝致します。