隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

たそがれの放浪者から再びA wanderer in the twilight, Again(1).

2008-09-28 07:00:14 | Weblog
たそがれの放浪者から再びA wanderer in the twilight, Again(1).平成戊子二十年長月二十八日 

 英会話仲間のKさんは、2年ぶり満を持して、再び荒野へ、サンタフェの近くだそうな。余程、荒野という自然が体に合っているのだろう。3か月位、農場生活だ。といっても、土日は、楽しい交流がある。メールしたら、大統領選や現地の様子を知らせてくれた。公開します。

荒野へのメール初便拝受、ハイヌーン、農園に一人ぼっちでメール送受信してます。
今一㌔円状の農地に居るのは僕と、18頭の牛、犬猫鶏くらい、その真ん中に母屋がある訳。
我がケビンにはTVも新聞も何も無し、ただNPR 公共放送を聴いて細く情報を得てる。
晩飯の農場夫妻との会話では、マケインは評判が悪い、若者らも、マイノリティーもこの辺りでは同様の模様、メリルリンチ、ゴードマンサックスの会話もでるが、あと詳細な当地評論をなせるほど情報入手出来ず。  当地はオクラホマ、テキサスのバイブルベルトとは違い、カソリックが主体で、日曜礼拝するほど熱心では無い土地柄。

午前中は菜園作業で強い日差しを受けて過ごし、午後は比較的フリータイムが多いので、
時間を持て余すことも多いです、ハイウェイを町まで走る事もあるし、荒野、山並みを見て
ボーっと過ごすのが至福の時かもしれないなー、スケッチ練習したり、牛の水チェック、ま、
何ってことなく、土と汗の臭いの耐久生活の積み重ねに喜びを見つけるって位のもんですよ。
人のうらやむアメリカンライフのエンジョイなんてのでは無いのです。

*** 
彼のように、どっぷりと自然に浸かりたい気になってくる。

こちらは、事故米でどっぷり汚染されてしまった。全国的だ。
利ざやを稼ぐ悪質犯罪である。見過ごした役人も同罪である。
そちらではマケイン氏は評判良くないですね。
金融危機。サブプライム住宅ローンの証券化ビジネスで、危険をリスク分散の名の下に、世界中に撒き散らした。どう混乱した事態を収拾するかですね。
日本時間27日オバマ・マケイン両候補の必至さが伝わってくる第1回DEBATEでしたね。
ジャブの応酬といったところと見ました。まだ2回と副大統領が出てくる。
荒野のKさんでも関係ないと言っておれませんよね。

ところで、麻生さん大変だ。任命した中山国土交通大臣が失言で辞任のようです。
こっちのお尻に火がつき始めた。
お読み下され、感謝します。


バラック・フセイン・オバマ・ジュニアBarack Hussein Obama Jr.

2008-09-25 21:49:45 | Weblog
バラック・フセイン・オバマ・ジュニアBarack Hussein Obama Jr.平成戊子二十年長月二十五日

マーリーン・タージ・ブリルMarlene Targ Brill氏の書いた「オバマ――アメリカを変える挑戦Working to Make a Difference」を読んだ。
若い人向けに執筆されているだけに、彼の地道な下積み時代や家族のことを平易に描いている。特に母親については感心させられた。
 オバマ氏は呼びかけた。
「私がこの場で言いたいことは・・・この世の中には、黒人のアメリカも、白人のアメリカも、ラテン系アメリカ人のアメリカも、アジア系アメリカ人のアメリカも存在しない。ここにあるのは、アメリカ合衆国なのです。この事実こそが、私たちアメリカ国民に与えられた最もすばらしい恩恵であり、それこそがこの国家の基盤つまり未来の可能性を信じ、将来の発展を信じる力なのです。」と。対決よりも団結を呼びかけたこの希望のメッセイジによってアメリカ全土を感銘させた。(2004年党大会)

 では、この本より父親と母親のことと州議員になるまでを要約しますと、
バラックは1961年8月4日ハワイ州ホノルルで生まれた。彼の母親のスタンリー・アン・ドゥンハムはアメリカ中西部カンザス州ウィチタ出身の白人であり、彼の父親のバラック・オバマはアフリカ出身の黒人であった。彼らは自分たちの子供に「神の恵みblessing from God」という意味のバラックと名づけた。父オバマは23歳の時ケニア政府留学生としてハワイ大学へ選出され、1959年にハワイ大学初のアフリカ人学生となった。母アンもハワイ大学に入学し、1年目はロシア語の授業を履修した。
 当時、合衆国では、1955年、ローザ・パークスさんのバスボイコット運動(平17年10/26ブログに書きました)が起こり、ひどい差別の現状に、南部全般で、抗議の嵐が吹き荒れていた。1960年父オバマと母アンは大学で知り合い、国の半分の州が人種間結婚を禁止していた時代に結婚したのである。南部におれば、絞首刑にされても不思議でなかったが、ハワイは州をあげて、人種偏見のない社会を標榜しており、人種の壁を越え、結婚したのである。父オバマはハワイ大学を3年で済ませ、首席で卒業した。そして、ハーバード大学から奨学金を得たが、奨学金では3人生活できず、母アンとオバマJr,はハワイに残ることになる。ハーバード大学へ行った父は卒業すると、政府に対しての責務で、ケニアに帰国し、妻帯して子供までもうけた。ケニアのルオ族では許されたが、両親は離婚してしまった。
 オバマJrが6歳の時、母アンはロロというインドネシア人と再婚した。
ついに、インドネシアへ移ることになったのである。インドネシアでは、貧困、病気そして貧富の差がひどかった。オバマJrは金銭的余裕がなかったため、使用人や農家の子供たちと同じ学校に通った。そこはイスラム教国におけるカトリック系の学校であった。オバマJr.の母親アンは教育の質が低いことが自分の息子の未来の可能性を制約するのではと心配し、授業を補うためにアメリカから先生用の教材を取り寄せた。そうして母アンは学校がある日は毎朝彼を4時に起こし、授業前に眠い息子と3時間勉強することを習慣とした。母アンはアメリカ中西部の前向きな価値観を各授業に散りばめた。彼女は彼に、正直で公正であること、良識ある判断力、そして自分の将来は自分自身で切り開くことができるという信念を教えた。彼女は「一人前の人間になりたいのであれば、自分に価値を付ける必要があるのよ。」と彼に言った。そして、このままではいけないとして、10歳のとき(4年後)彼をホノルルへ戻し、祖父母のもとに預けた。《ここがオバマの母親の凄いところで、孟母三遷の教えのアメリカ版ですね。》
 子供の頃、オバマは最初は宇宙飛行士、建築家、そしてその後にはバスケットボール選手になりたかったという。バスケットボール好きが高じて、彼は高校バスケットボール部のレギュラーの一員になった。
彼は自分に何が起こっているのか理解するために、本を読んだ。白人が権力を握っている国で黒人がどうやって生きてきたかを知るために、有名な著者の経験から学び、そして黒人家庭でもあり、白人家庭でもあった自分の家族の中で自分の居場所を見つけようと努力した。
オクシデンタル大学で彼は政治に触れた。そこで、はじめて自分の言葉に人々の心情を変える力があることを感じた。活動を通じて彼は国際的な黒人運動とつながりをもつようになった。1981年の秋、ニューヨークのコロンビア大学へ移った。そこでオバマは政治学の学位を取得して卒業。ちょうどその頃、ケニアで父親が交通事故によって死んだという知らせを受けた。大学卒業後、オバマは社会活動家としての仕事を探し、1985年シカゴの公営住宅の仕事についた。
 オバマは助けを必要とする人に会えば会うほど、彼らの助けになりたいという思いを強くした。そして、彼は父親の母校であるハーバード大学ロースクールへ進学した。
 その後の活躍はこの本をお読み下さい。
上院議員になってオバマは『3カ国にルーツがあり、2カ国で育ち、3つの異なる宗教の学校に通ったことは、さまざまな集団の人々にとっての大切なことを理解する上で、もっとも有効な経験であった』といっている。
 マーリン・ブリル著者は最後に
『オバマは政界の大半の人たちに比べ、より「庶民的な感覚の持ち主」だ。おそらく、それは彼がそれほど裕福ではないからかもしれない。空き時間には彼は本を読み、散歩をし、映画を見に行く。家での主な役割には、買い物とゴミ捨てがある。』と、評価してみえる。
彼が大統領に選ばれるかどうかは分からないが、「時代が生んだヒーロー」に間違いない。未来への希望を感じさせる新しいタイプのリーダーである。
日本時間27日(土)第1回大統領討論会が開かれる。
注目しよう。
お読み下され、感謝致します。

「オバマ――アメリカを変える挑戦」 マーリン・タージ・ブリル著 本間正人訳     英語対訳本でとても有益です。            株式会社オーク  


アメリカ大統領選挙An American Presidential Election

2008-09-20 12:12:42 | Weblog
アメリカ大統領選挙An American Presidencial Election 平成戊子二十年長月二十日

G君より「アメリカ大統領選」について貴重な考察を頂きました。
現地の生の声ですので、公開させてもらいます。
***
アメリカの大統領選は 共和党が マケインと 副大統領がサラ・ベイリン(女性のアラスカ州知事) 民主党が オバマと 副大統領が バイデン(デラウエア州の上院議員)という組み合わせで 11月上旬までの戦いが始まった。

ところで アメリカの大統領は なにが大きなファクターで決まるのであろうか?
私は あまり詳しくはないが 私なりの知識でまとめてみると;

1.宗教
  表立って 選挙選では取り上げないが やはり大きな要素である。 両者共に プロテスタントであるが 最近 モスリムの人口も増えており 選挙では やはり 宗教はタブーである。 また 最近その比重がましているヒスパニック系の人は カトリックの人が多いが やはり同じクリスチャンと言っても主義主張はかなり異なるので やはり宗教の話はタブーである。

また 最近では 同性愛や避妊の問題で 大きな争点になるが これに 進化論がからみ キリスト系右派の動きも絡むため 更に問題は複雑である。

2.人種
  人種のルツボと言われる国であり またそれに伴う宗教が大きなファクターを占めることになるが こと 人種の問題になると 更に複雑である。

オバマが アフリカ系アメリカ人だといって 黒人系に人気が高いとは そう一概には言えない。
マケインは 白人であるが どこの人種の血をひいているかは わからない(最近は 雑誌などで 選挙の記事が増えているので どこかで それについて書いた記事があるかも知れないが)

3.所得
  日本に比べ 所得による階層がよりはっきりしているとは言え 上流と下流との差がさらに広がり その中間の層を如何に取り込むかが 大きな争点になっている。
もともと富裕層に人気がある共和党であるが 今回は 如何にこの中間層を獲得するかが 大きな戦略になっている。

4.その他 リーダーシップ、経済に関する知識、外交の能力、など 色々あるが、予備選を戦い抜いた2人である、そう簡単に優劣はつけられない。 (少なくても 私から見て)

マケイン 73歳、オバマ 47歳 年齢的には オバマに+、経験と言う意味では マケインに+、戦争経験には マケインが+、女性層の支持と言う意味では オバマの奥さん(弁護士で コミュニティ活動に評価)の分 +、(でも マケインが支持した女性の副大統領の反撃で これも?)

これから2ヶ月程 選挙人を如何に取り込むかの 色々な活動が開始される。 私は選挙権を持たないが アメリカの大統領選挙は 538人の州毎の大統領選挙人により投票される。 過半数の270人以上を獲得した人が 2009年の1月20日に 大統領に就任する。

誰がなるであろうか? 日本にも影響が深いこの選挙 まだまだ 目が放せない。
***有難う御座います。
 S君からも8月に、7月カリフォルニアへ研修に行った時の大統領選の様子を知らせてくれた。

出合った人々はオバマ支持派が多くて、ブッシュの件は大変申し訳ない、オバマになれば大丈夫だ。そういえば福留を有難うなどと言っておりました。
個人的には日本にとっては、マケインの方が良いとは思いますが、米国のインテリにとっては若くて、世の中を変えてくれそうなオバマの方が良いのでしょうね。

***有難う御座います。
マケイン、オバマ候補とも、イラク戦争に対して、現実路線に軌道修正と報道されている。米兵の死者は4000人を越えた。イラク人の死者数は約十万からそれ以上と推計される。
国民に不人気な戦争をどうやって終らせるか?本選挙向けての論争が注目される。と見ております。
今、「バラック・オバマーーアメリカを変える挑戦」マーリーン・タージ・ブリル著を読み終えた。この本は、家族や周りの人たちの話でオバマ像を良く描いており、若者向けで、オバマの母親の凄さには感心した。次回で纏める予定です。
お読み下され、感謝致します。






21世紀の日本Japan in the 21th century 

2008-09-16 11:15:18 | Weblog
21世紀の日本Japan in the 21th century     平成戊子二十年長月十六日

突然の福田首相の辞任で、5人も立って賑やかな自民党総裁選挙戦が繰り広げられている。
自民党にとっては最後の首相となるかもしれない。日本の将来を安倍首相でどうですか?福田首相でいかがですか?と、国民に問われたのではなく、議員内閣制だから、たらいまわしの如く今度は5人も立候補して、首相が決まっていく。新総裁――首相指名――新政権誕生――(補正予算成立)――解散――総選挙へと一気に政局が流れていく。 ここで野党が第一党を取るかもしれない状況であるが分からない。自民党をぶっ壊すといった小泉氏と竹中氏時代の遺産はまだ進行中である。きっちりと検証せねばならない。幸い5人とも小泉内閣の閣僚経験者であるから、日米同盟でアメリカの「年次改革要望書」に沿って進めていくのだろうか? 道路特定財源問題、郵政民営化、天下りなどの税金の無駄使い、去年から噴出した「消えた年金」、防衛省の改革、など全部中途半端だ。官僚と族議員の癒着は相当なものらしい(渡辺喜美談)。
年金問題の解決はこれから1年~3年かかると候補者はいっている。安倍氏は自分の内閣で1年と言っていた。枡添氏も似たようなことを言って就任したが、
今、「身内からの指示」と出ておかしくなってきた。
それにしても、食品偽装はひどい。雪印、不二家、白い恋人、餃子、赤福それに今回の三笠フーズなどここ10年以上前から行われてきた問題である。
拝金主義がここまで来てしまっているのか。農林省は改善書提出で処理。おそらく検査体勢は今回のようになあなあで済ましているのと違いますか?
ここは国政調査権で政治家が頑張ってもらいたいところです。

 こんなことで、政府は未来図を描くどころか、現在や過去の問題に追いまくられすぎた。 不祥事への対応にエネルギーの大部分が吸い取られてしまった。「西欧に追いつき追い越せ」から「西欧に追いついた日本はどうすればよいのか」。日本はどこへ向かうべきなのか、日本の将来はどういう姿になって、世界でどういう役割を果たす国になるのか。 第三の道はどういう道なのか? 5人の総裁候補と民主党小沢氏が国民に向かって説明しないならリーダーシップがあるとは思えない。国家百年の計の議論を期待している。

 奇しくも、アメリカでは大統領選で、オバマ、マケイン両候補が激しい戦いをしている。 しかし、ブッシュ大統領はすでに歴史に残る国家的な科学政策、『アメリカが10年以内エネルギー自給国になるための代替エネルギーの開発とエネルギー節約の緊急計画』を実行中である。2016年までで、あと8年である。以前、ブログに取り上げた「エネルギー自給率」に書いた文を再度挙げます。トーマス・フリードマン氏は、エネルギー自給を大目標に揚げれば、一挙にテロリズムの資金源を枯渇させ、イラン、ロシア、ベネズエラ、サウジアラビアを改革への道につかせ―――石油が1バレル当たり50ドルでは絶対そうならないーーードルを強くし、地球温暖化防止に大きく貢献することで、ヨーロッパにおける立場も改善できる。そのことはまた、若者をふたたび奮い立たせる巨大な磁石、科学者、エンジニア、数学者になってテロとの戦いと国の未来の両方に貢献したいという風潮をもたらすだろう。と言っている。
アメリカ人はブッシュに代わるキチンとしたエネルギー節約を呼びかける勇気を兼ね備えた大統領を望むことになるだろう。それこそ国家安全保障なのだ。石油はあと40年を笑う人はいるだろうが、人類が100年とこのままでは持たないことが、あらゆる物質(希土類など)の不足からも言えるように思えます。
 では、日本ではということになるが、以前ブログに書きましたので、再度挙げます。
『燃料電池』の開発と市場形成である。 忘れてならないのは『メタンハイドレード』である。 友人S君に教えてもらった「燃える氷」つまりメタンガスがシャーベット状になって海底に存在しているというわけだ。 試算によると国内で、7.4兆 が埋蔵されている。これは、1999年度国内の天然ガス消費量の約100年分に相当する。しかも日本周辺海域に埋蔵されている。 これを地上に取り出せば、日本のエネルギー問題はなくなるかもしれない。 だが、これを取り出すのに少なくとも10年間、開発費のみが出て、売上ゼロですから、それこそ国家的なプロジェクトで、宇宙旅行を夢みているのでなく、取り組んでもらいたい。
それから、もう一つありましたね。『ユビキタス元素戦略』である。平成19年より5年間で成果を上げるとのことでした。イラク戦争が、泥沼化している以上、打開策として、これくらいスピードを上げないと真の脱石油などのテロ対策にならない。日本は、一刻も早く、対テロの補給や石油輸送安全の心配はいらないように、したいものです。近未来(平19、11/10)より。

外交・安保では、東アジアのリーダーで唯一の被爆国として、アメリカの核の傘を差しているという非核3原則の国連安保理常任理事国入りをアメリカに提案させるよう働きかけてもらいたい。もう3原則というより、非常事態の時と考えて、2原則にならざるを得ないだろう。 日米安保条約の同盟だけでは今後心配である。自衛軍もあり、「国連での拒否権のある日本」にならないといけない。
撃ち込むからそれに対抗は分かりますが、ベストの危機管理とは、撃ち込ませないように、最悪の事態がこないようにするのが危機管理です。
六者協議は10年スパンで続けてほしい。簡単に絶望しないことだと思います。
花咲かじいさんになったらいいと思います。NGO活動は相当なものです。
性癖(平19、1/10)より。

NGOについてはG君が提案してくれた。ソフトパワー(平19,10/24)に載せました。再度みますと、
日本は この世界で 他国から尊敬されるパワーをもつ国に ならなければいけない。 単に 金による援助だけではなく このソフトパワーを持つにはどうしたらいいのか? もっとNGOを 国の力で育てる事である。
役人の力を借りずにやる方法はないものか。
先月、残念にも、現地で活躍していたNGOペシャワール会の伊藤和也さんが殺された。「ソフトパワー」の活動を期待していた私にとって、ショックであった。ご冥福をお祈り致します。
何かあったら、動きますという外務省は、撤退を指示していたと繰り返すだけだ。状況が悪化してきたら、どうしようもないことか。ボランティアで、農業や灌漑の協力までしている活動で、医療活動だけでない大変なことだ。
今でも、いつか花が咲き、実のなるのを願って見ている。 このソフトパワーが広がるとよいと思っている。

オリセットネット』をご存知ですか?
2か月くらい前にTVで取り上げられていた、住友化学が独自に開発した蚊帳のことである。先日、早坂隆氏が「ニッポン三面鏡」で取り上げてみえた。
 世界では1年間に約3~5億人がマラリアを発症し、少なくとも百万人以上が亡くなっていると言われている。そして、そのほとんどがアフリカのサハラ以南の地域で暮らす5歳未満の小児だという。この「オリセットネット」には、防虫剤が練り込められていて、蚊を近づけない効果が倍増される。洗濯も可能で、耐用期間も5年と長い。住友化学では、この蚊帳の本格生産をすでに2000年より開始し、2003年にはタンザニアのメーカーに生産技術を無償供与してきているとのこと。タンザニアでは工場一つで、数万人規模の生活を支えているという。さらに、東南アジアで井戸水を浄化する薬と設備を提供する事業をTVでやっていた。ある私企業だったと思うが、日本には世界に秀でた技術を持つ企業が数多く存在する。世界の貧困を解消するために役立つ技術もあるし、多くの雇用を生み出すこともできるだろう。こういう事業こそ国がバックアップして、世界にアピールする第3の道ではないか。ソフトパワーではないか。

お読み下され、感謝致します。

一茶 Issa, a haikai poet

2008-09-03 07:32:10 | Weblog
一茶 Issa, a haikai poet 平成戊子二十年長月三日

痩蛙まけるな一茶是(これ)に有
雀の子そこのけそこのけ御馬が通る
我と来て遊べや親のない雀
やれ打つな蝿が手をすり足をする
目出度(めでた)さもちう(ちゅう)位也(なり)おらが春
うつくしやせう(しょう)じの穴の天の川
雪とけて村一ぱいの子ども哉
む(う)まさ(そ)うな雪がふうは(わ)りふは(わ)り哉

これらは「声に出して読みたい日本語」斎藤孝氏の選んだ一茶の句です。
 先日、足立美術館へ行き、横山大観など大家の並ぶ中に、ほのぼのとした絵本向けの絵があり、一茶の句が挿入されていた。それは鈴木寿雄氏の絵であった。
久しぶりに、ひょうひょうとした一茶の句に接して昔を懐かしく思えた。
俳風三麗花を読んで、その勢いで、小林一茶についてどういう生涯なのか興味を持ち、「一茶」藤沢周平著を読んだ。
 俳句から受けた、平易で親近感のある印象とは程遠い生涯であった。
藤沢周平は、一茶の日記や2万句は勿論、信濃国柏原(長野県上水内(かみみのち)郡信濃町)まで足を運び、黒姫山の麓と江戸を舞台に一茶を描いている。

 一茶は1763年(宝暦13年)農家に生まれ、名は信之。通称弥太郎。
3歳で生母に死別。8歳の時に継母を迎え、10歳で異母弟仙六が生まれた。
継母の「さつ」から相当いじめられたという。父親の弥五兵衛より15歳で江戸へ奉公に出されることになる。江戸での一茶は谷中の書家から米屋、筆屋など転々と奉公先を替えるうちに、当時ご法度だった三笠付けの集まりに出入りし、秀句を作って賞金をかせぎ、俳諧師と認められる。三笠付けとは貞享から元禄にかけて流行った句合わせの遊びで、宗匠が下の句を出題し、参加者に上の句を付けさせて、一句の戯れ歌を作る前句付けである。たとえば、「暑いことかな、暑いことかな」という下句に対して「日盛りを笠もかぶらで行く御坊」と上句を付ける遊びで、金を賭ける訳である。
今では「笑点」というTV番組であろう。座蒲団がお金の替わりである。

しかし、俳諧師になるのは容易ではない。しかも当時はあちこちで飢饉の話ばかりだ。やはり、頼むところが定まらないとやっていけない。大川立砂や夏目成美の世話で、句会の執筆役までして、頭角を現す。藤沢氏の調べではあるが、奥州の「奥の細道」を辿る旅をしている。江戸の中期では、俳書、歌仙集、発句集などが出版されている。芭蕉の猿蓑集という六巻二冊も読んでいる。また、大阪、四国など、諸国の俳諧師を訪ねて放浪の旅もしている。

 一茶が39歳の時、父弥五兵衛が世を去るが、その前に、父は遺産を折半するという遺言状を書いている。このことから継母、異母弟と三つ巴となって、醜い財産争いがおこる。 江戸時代、総領の兄(長男)が家を出て、家督を弟が継ぐ訳にはいかない。弟は父母といっしょに田畑を広げたに違いないが、如何せん一茶は江戸で宗匠の看板を揚げれなかった。

 人間が疎ましくなると、物言わぬ動物や草木が好ましくなった。一茶はせっせと蛙や蚊、筍や草花の句を作った。中味が変わると言いあらわす手法にも変化が出て、わざと広瀬惟然坊をまね、「雁起きよ 雪がとけるぞ とけるぞと」一茶はいかにも借り物でない自分の声で物を句にしている。

 悪どいと思われる手段で、きっちりとした遺産折半の和解が成立し、一茶は齢のひたもの(ひたすら)ちぢまり行くことは明白だ、そしてこのまま旅路に老いて、人に気を遣いながら死んでいくのはたまらないと思った。そう思ったとき、北信濃柏原周辺の風景が、胸せまるほどの懐かしさで一茶の脳裏に浮かんできた。少し傾いてどっしりと居据わっている黒姫山。落葉松の枝かげに小鳥が啼く鳥居川の岸辺。杉菜と蕗の葉が、わずかに雨に濡れている畦道。柏原に帰ったのは50歳であった。
『是がまあ つひの栖(すみか)か 雪五尺』
長い漂泊の旅を経て、故郷の深い雪に埋もれた終の栖となる自分の家をもつことができた一茶の喜びが伝わってくる。
一茶は52歳で初めて28歳の妻きくを娶る。『五十聟(むこ)天窓(あたま)をかくす扇かな』一茶は禿げ上がっていたらしい。長男が生まれるも28日で夭折。56歳のとき娘さとを授かった。一人前の正月の雑煮膳をすえて、『這へ笑へ 二つになるぞ けさからは』と祝い、『目出度さも ちう位也 おらが春』と詠んだ。子の行く末を祝して、『たのもしや てんつるてんの(つんつるてん)の 初袷(はつあわせ)』、秋には『名月を 取ってくれろと 泣く子哉』と詠んだ。しかし、その娘も満2歳を待たずに「天然痘の神」に見込まれて亡くなってしまう。
『露の世は 露の世ながら さりながら』
 この世に不幸は数あれど、子に先立たれるに勝る不幸はない。なんともやり場のない悲しみが込められた句である。

 1年置いて次男石太郎が生まれるが、96日で死ぬ。つづいて三男金三郎が生まれるも1年9か月の短い命であった。しかも、妻きくまで先立たれた。
中風になった一茶は、雪という女と一緒になるも2か月で別れ、3度目の妻やをと連れ子の倉吉もろともにひき取る。柏原の大火で家は灰燼に帰し、焼け残った土蔵で、一茶65歳は、やたが身篭っていることを知り、「ごくらくじゃ」といって、文政10年11月19日、わがままで、子どものような飾らぬ人間味に溢れたその生涯を閉じた。

 足立美術館で買い求めた絵葉書に『ゆきとけて むらいっぱいの こどもかな』とあった。藤沢氏は「――子どもたちよ。 村はずれの原っぱで子供たちが雪を投げて遊んでいるのを見ると一茶はさらに眼をほそめて、心の中で呼びかけた。
 子供を見ると、一茶の心の中には、その後の世の辛酸も知ることなく遊びたわむれて過ごした、子供のころの自分の姿が重なって見えてくる。可憐な生き物に思えてくる。――元気なものだ。雪の原をすべってくる、甲高く、鋭い子供の叫び声を聞きながら、一茶は今日はとりわけ彼らを祝福してやりたいような気持になった。」と一茶の心の底を描いている。

 一茶は生涯二万におよぶ発句を残している。
藤沢氏は、高く心を悟りて俗に帰るべしという芭蕉の教えはお手本であるが、俗であることを隠さない俗物であり、俗から出てあやうく俗を突き抜けたところにあった一茶を描いた。 老いても年に二百、三百も、ひたすら句を作り続けた一茶の情熱に凄さを感じる。そして、最後の「極楽じゃ」には人生の金メダルだと思った。
それにしても、兄弟というものは難しいものだと改めて感じた。
古くは源頼朝と義経、新しくは若乃花と貴乃花を思い出す。

お読み下され、感謝致します。

   * 一茶            藤沢周平    文春文庫
一茶 (文春文庫 ふ 1-2)
藤沢 周平
文藝春秋

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   * 声に出して読みたい日本語  斎藤孝     草思社
声に出して読みたい日本語
斎藤 孝
草思社

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* 
はいくのえほん
鈴木 寿雄
リンリン企画

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