久松真一記念館Dr.Hisamatsu Shinichi's memorial museum 平成戊子年皐月二十四日
先日、岐阜市長良福光にある久松真一哲学者の晩年の住居を訪ねた。
昨年(平19)5月記念館としてオープンされたが、「東洋的無」という著書のタイトルに圧されてしまって、訪ねる機会がなかった。意を決して、電話予約をし、訪ねた。
京都大学の西田幾多郎氏に仏教哲学を学んだだけに、『抱石庵』という西田氏(寸心)揮毫による扁額が掲げてあった。客間に通され、床には久松氏の『花開いて鳥が啼く』という軸が掛けてあった。書斎、茶室、仏間 そして二階に上がると南面には広い廊下があり、昔は金華山の岐阜城を仰ぎ見ることのできる借景であったそうだが、町のうるささを忘れさせてくれる良い部屋があり、久松氏直筆の原稿や硯、筆、すばらしい軸や屏風を拝見することができた。
館長を務める久松家当主、定昭氏としばし歓談。 真一氏の遺言で、お墓がなく、仏間には先祖とお写真のみとのことであったが、このように拝するようになっていれば、さぞ喜んでみえることだろう。
私のブログ名「隻手の音声」を言いましたところ、定昭氏は「白隠禅師の公案については軸がありますよ。」といって、りっぱな写真集を見せて頂いた。左上の写真がそれです。
全く凄い達筆で「隻手の音声」だけは解った。
それと、「ドクダミ」という花は花は十字で、葉は菩提樹と一茎に奇しくも備わっているという(神仏習合)話を頂いた。なるほど現FAS協会の基本精神「人類の誓い」に通ずることだと思った。
FAS協会の基本精神
私たちは よくおちついて
本当の自己にめざめ
あわれみ深い心をもった
人間となり
各自の使命に従って
そのもちまえを生かし
個人や社会の悩みと
そのみなもとを探り
歴史の進むべき
ただしい方向を見きわめ
人種国家貧富の別なく
みな同胞として手をとりあい
誓って人類解放の悲願をなし遂げ
真実にして幸福なる
世界を建設しましょう
自己を問う深さの次元はTo waken to Formless self (F) , 世界の中にある広さの次元はTo stand on the standpoint of All mankind(A) , 歴史を形成するという長さの次元はTo create Superhistorical history(S)と表現された。
久松真一氏は米ハーバード大学の客員教授として、欧米へ東洋の哲学、文化の紹介に努められた。 その功績を辿ることはとても大切である。
山田慎二氏は、「文明と宗教の危機に」という題で、(機関紙風信より)
国際テロも、それに報復する戦争も、ともに「神の名」において推進され、大いに奨励された。 宗教は平和の役に立たないのだ。ここにおいて私たちは、キリスト教やイスラム教のはらんでいる“病理”について無関心ではすまされない。
「人種・国家・貧富の別なく、みな同胞として手をとりあい」久松真一博士が人類解放のために揚げられた悲願のメッセージというべき『人類の誓い』こそ、いま私たちにとってこのうえもなく切実な響きをもって迫ってくる。それと同時、いま私は虚心にこの一節を前にして、これに加えて「宗教の別なく」という一句を重ね合わせて読み込みたい気持に駆られる。あらゆる文明の背景には、まぎれもなく宗教の問題が存在する。その宗教そのもののあり方が根底から問い直される時を迎えたのではないか。いまや人類の病理となった宗教対立(一神教対一神教)を克服するためには、宗教以前の宗教でありながら、あらゆる宗教を越えて宗教以後の宗教へ。そうした探求の旅。それが、私にとってFAS禅の持つ意味であると受けとめている。 と書いておられる。
帰りに、定昭氏より、北原白秋の長男、北原隆太郎氏の「覚の参究」(春秋社)を頂いた。有り難いことです。久松真一に参じ、万人が真実の自己にめざめうる<世界禅>を究めた北原氏の足跡をそれこそ自分の与えられた場で辿っていこうと思います。
北原白秋も26歳くらいから座禅しているという。神奈川県三崎の禅寺で。そして「真珠抄」に「勿体なや何を見てもよ日のしづく日の光日のしづく日の涙」とうたっている。松原哲明龍源寺住職は、<白秋は、己と森羅万象・山河大地、無二無別と見抜いた。このすごさは忘れません。>と、評価してみえる。
ご案内
久松真一記念館
岐阜市長良福光228-2(岩佐病院北)
電話058―231-5317
入館料は抹茶と菓子付き1000円
公開日は毎月第二、第四日曜日
来館7日前までに要予約。
お読みくだされ、感謝致します。
先日、岐阜市長良福光にある久松真一哲学者の晩年の住居を訪ねた。
昨年(平19)5月記念館としてオープンされたが、「東洋的無」という著書のタイトルに圧されてしまって、訪ねる機会がなかった。意を決して、電話予約をし、訪ねた。
京都大学の西田幾多郎氏に仏教哲学を学んだだけに、『抱石庵』という西田氏(寸心)揮毫による扁額が掲げてあった。客間に通され、床には久松氏の『花開いて鳥が啼く』という軸が掛けてあった。書斎、茶室、仏間 そして二階に上がると南面には広い廊下があり、昔は金華山の岐阜城を仰ぎ見ることのできる借景であったそうだが、町のうるささを忘れさせてくれる良い部屋があり、久松氏直筆の原稿や硯、筆、すばらしい軸や屏風を拝見することができた。
館長を務める久松家当主、定昭氏としばし歓談。 真一氏の遺言で、お墓がなく、仏間には先祖とお写真のみとのことであったが、このように拝するようになっていれば、さぞ喜んでみえることだろう。
私のブログ名「隻手の音声」を言いましたところ、定昭氏は「白隠禅師の公案については軸がありますよ。」といって、りっぱな写真集を見せて頂いた。左上の写真がそれです。
全く凄い達筆で「隻手の音声」だけは解った。
それと、「ドクダミ」という花は花は十字で、葉は菩提樹と一茎に奇しくも備わっているという(神仏習合)話を頂いた。なるほど現FAS協会の基本精神「人類の誓い」に通ずることだと思った。
FAS協会の基本精神
私たちは よくおちついて
本当の自己にめざめ
あわれみ深い心をもった
人間となり
各自の使命に従って
そのもちまえを生かし
個人や社会の悩みと
そのみなもとを探り
歴史の進むべき
ただしい方向を見きわめ
人種国家貧富の別なく
みな同胞として手をとりあい
誓って人類解放の悲願をなし遂げ
真実にして幸福なる
世界を建設しましょう
自己を問う深さの次元はTo waken to Formless self (F) , 世界の中にある広さの次元はTo stand on the standpoint of All mankind(A) , 歴史を形成するという長さの次元はTo create Superhistorical history(S)と表現された。
久松真一氏は米ハーバード大学の客員教授として、欧米へ東洋の哲学、文化の紹介に努められた。 その功績を辿ることはとても大切である。
山田慎二氏は、「文明と宗教の危機に」という題で、(機関紙風信より)
国際テロも、それに報復する戦争も、ともに「神の名」において推進され、大いに奨励された。 宗教は平和の役に立たないのだ。ここにおいて私たちは、キリスト教やイスラム教のはらんでいる“病理”について無関心ではすまされない。
「人種・国家・貧富の別なく、みな同胞として手をとりあい」久松真一博士が人類解放のために揚げられた悲願のメッセージというべき『人類の誓い』こそ、いま私たちにとってこのうえもなく切実な響きをもって迫ってくる。それと同時、いま私は虚心にこの一節を前にして、これに加えて「宗教の別なく」という一句を重ね合わせて読み込みたい気持に駆られる。あらゆる文明の背景には、まぎれもなく宗教の問題が存在する。その宗教そのもののあり方が根底から問い直される時を迎えたのではないか。いまや人類の病理となった宗教対立(一神教対一神教)を克服するためには、宗教以前の宗教でありながら、あらゆる宗教を越えて宗教以後の宗教へ。そうした探求の旅。それが、私にとってFAS禅の持つ意味であると受けとめている。 と書いておられる。
帰りに、定昭氏より、北原白秋の長男、北原隆太郎氏の「覚の参究」(春秋社)を頂いた。有り難いことです。久松真一に参じ、万人が真実の自己にめざめうる<世界禅>を究めた北原氏の足跡をそれこそ自分の与えられた場で辿っていこうと思います。
北原白秋も26歳くらいから座禅しているという。神奈川県三崎の禅寺で。そして「真珠抄」に「勿体なや何を見てもよ日のしづく日の光日のしづく日の涙」とうたっている。松原哲明龍源寺住職は、<白秋は、己と森羅万象・山河大地、無二無別と見抜いた。このすごさは忘れません。>と、評価してみえる。
ご案内
久松真一記念館
岐阜市長良福光228-2(岩佐病院北)
電話058―231-5317
入館料は抹茶と菓子付き1000円
公開日は毎月第二、第四日曜日
来館7日前までに要予約。
お読みくだされ、感謝致します。