隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

久松真一記念館Dr.HISAMATSU Shinichi's memorial museum

2008-05-24 05:54:39 | Weblog
久松真一記念館Dr.Hisamatsu Shinichi's memorial museum 平成戊子年皐月二十四日

 先日、岐阜市長良福光にある久松真一哲学者の晩年の住居を訪ねた。
昨年(平19)5月記念館としてオープンされたが、「東洋的無」という著書のタイトルに圧されてしまって、訪ねる機会がなかった。意を決して、電話予約をし、訪ねた。
 京都大学の西田幾多郎氏に仏教哲学を学んだだけに、『抱石庵』という西田氏(寸心)揮毫による扁額が掲げてあった。客間に通され、床には久松氏の『花開いて鳥が啼く』という軸が掛けてあった。書斎、茶室、仏間 そして二階に上がると南面には広い廊下があり、昔は金華山の岐阜城を仰ぎ見ることのできる借景であったそうだが、町のうるささを忘れさせてくれる良い部屋があり、久松氏直筆の原稿や硯、筆、すばらしい軸や屏風を拝見することができた。
 館長を務める久松家当主、定昭氏としばし歓談。 真一氏の遺言で、お墓がなく、仏間には先祖とお写真のみとのことであったが、このように拝するようになっていれば、さぞ喜んでみえることだろう。
 私のブログ名「隻手の音声」を言いましたところ、定昭氏は「白隠禅師の公案については軸がありますよ。」といって、りっぱな写真集を見せて頂いた。左上の写真がそれです。
全く凄い達筆で「隻手の音声」だけは解った。
それと、「ドクダミ」という花は花は十字で、葉は菩提樹と一茎に奇しくも備わっているという(神仏習合)話を頂いた。なるほど現FAS協会の基本精神「人類の誓い」に通ずることだと思った。
 FAS協会の基本精神
  私たちは よくおちついて
    本当の自己にめざめ
  あわれみ深い心をもった
    人間となり
  各自の使命に従って
    そのもちまえを生かし
  個人や社会の悩みと
    そのみなもとを探り
  歴史の進むべき
  ただしい方向を見きわめ
    人種国家貧富の別なく
  みな同胞として手をとりあい
    誓って人類解放の悲願をなし遂げ
  真実にして幸福なる
    世界を建設しましょう
 自己を問う深さの次元はTo waken to Formless self (F) , 世界の中にある広さの次元はTo stand on the standpoint of All mankind(A) , 歴史を形成するという長さの次元はTo create Superhistorical history(S)と表現された。
 久松真一氏は米ハーバード大学の客員教授として、欧米へ東洋の哲学、文化の紹介に努められた。 その功績を辿ることはとても大切である。

山田慎二氏は、「文明と宗教の危機に」という題で、(機関紙風信より)
国際テロも、それに報復する戦争も、ともに「神の名」において推進され、大いに奨励された。 宗教は平和の役に立たないのだ。ここにおいて私たちは、キリスト教やイスラム教のはらんでいる“病理”について無関心ではすまされない。
「人種・国家・貧富の別なく、みな同胞として手をとりあい」久松真一博士が人類解放のために揚げられた悲願のメッセージというべき『人類の誓い』こそ、いま私たちにとってこのうえもなく切実な響きをもって迫ってくる。それと同時、いま私は虚心にこの一節を前にして、これに加えて「宗教の別なく」という一句を重ね合わせて読み込みたい気持に駆られる。あらゆる文明の背景には、まぎれもなく宗教の問題が存在する。その宗教そのもののあり方が根底から問い直される時を迎えたのではないか。いまや人類の病理となった宗教対立(一神教対一神教)を克服するためには、宗教以前の宗教でありながら、あらゆる宗教を越えて宗教以後の宗教へ。そうした探求の旅。それが、私にとってFAS禅の持つ意味であると受けとめている。  と書いておられる。
 帰りに、定昭氏より、北原白秋の長男、北原隆太郎氏の「覚の参究」(春秋社)を頂いた。有り難いことです。久松真一に参じ、万人が真実の自己にめざめうる<世界禅>を究めた北原氏の足跡をそれこそ自分の与えられた場で辿っていこうと思います。
 北原白秋も26歳くらいから座禅しているという。神奈川県三崎の禅寺で。そして「真珠抄」に「勿体なや何を見てもよ日のしづく日の光日のしづく日の涙」とうたっている。松原哲明龍源寺住職は、<白秋は、己と森羅万象・山河大地、無二無別と見抜いた。このすごさは忘れません。>と、評価してみえる。

ご案内
久松真一記念館
岐阜市長良福光228-2(岩佐病院北)
電話058―231-5317
入館料は抹茶と菓子付き1000円
公開日は毎月第二、第四日曜日
来館7日前までに要予約。

お読みくだされ、感謝致します。

修験道The way of enduring ascetic practices

2008-05-16 22:50:50 | Weblog
修験道(Syugendou)The way of enduring ascetic practices 平成戊子年皐月十六日

 S君より「人生生涯小僧のこころ」にコメントを頂いた。
昔電力の鬼と謂われた松永安左衛門が「長い闘病生活か、長い浪人生活か、長い
獄中生活を経験しないと人間は一人前にならない」と言いましたが、千日回峰と四無行
はそれらのエッセンスを纏めて更に苦しくしたようなものだと思います。人間が出来上がりますね。
* 陽明学の山田方谷は佐藤一斎先生より『尽己』と贈られ、養父より『己の命を美しく使い切れ』と倉橋長五郎政重(生きて候)は言われたそうですが、「真に生きる」という道を少しずつ自分の範囲内で歩けるよう努力していきたい。

 塩沼亮潤大阿闍梨によると、今から1300年前、役行者という方が葛城山(かつらぎさん)の麓、茅原(かやはら)の里でお生まれになって、小さい頃からどうしたら世の中が救われるのだろうかと考えておられた。
当時、茅の里から見て大峯(おおみね)山系は非常に神々しかったということで、役行者は大峯山に一千日間の参籠をしたそうです。そして、難行苦行の末、ちょうど1千日の満願のときに、第1番目にお釈迦様が現われた。さらに祈りを続けたら、千手観音様が現われた。さらにもう一度祈られたところ、世直しと病気治しの弥勒菩薩様が出現された。どの三尊様も非常に素晴らしい仏さまではあるけれど、この世、五濁悪世において人々の心が本当に改まるような仏様をと、さらに強い祈りを込められたところ、天地鳴動して、大峯山頂から湧出されたのが、金剛蔵王大権現だという言い伝えがあるという。
顔が憤怒(ふんぬ)の相で、右手に三鈷杵(さんこしょ)を持ち、お不動さんのような非常に怖いお姿をしておられる。人間には善心と邪心があり、邪心を諌める様な強いお姿を望まれたという。この本尊こそはこの世を救うにふさわしい仏様だということで、大峯山頂と下の吉野山の蔵王堂にお祀りしたのが、金峯山寺(きんぷせんじ)の始まりだという。
ところで、四無行においては、お堂に入るとただ座っているばかりでなく、九日間のうちに、お不動様の御真言蔵王権現の御真言を十万遍ずつ、合わせて、二十万遍を唱え、一日三回の修法と、一度のお水取りがあるという。
そのお不動様の御真言とは
『なまく さまんだばさらなん せんだまかろしゃなそはたや うんたらた かんまん』 
蔵王権現様の御真言とは
『おんばさらくしゃあらんじゃうんそわか』
二十万遍とは半端じゃない数です。

日本人は本来いわゆる山岳信仰、自然宗教を持つ。
大きな山、大きな樹、大きな岩を見たりすると、畏敬の念を抱く。その時にすべてに霊魂が宿るという意味でアニミズムこそ、人類の最も自然な宗教感情だろうと思う。
塩沼大阿闍梨によると、役行者以降、修験道というのは、仏教、神道、儒教、道教など、いろんな宗教が習合して成立し、時代の流れとともにずっと信仰されてきた。
純粋に自然の中で悟りを求めていく山岳宗教であり、神仏一体の宗教であった。
修験道の修行者は俗に山伏とも呼ばれてきた。武蔵坊弁慶もその一人ですね。(平18年12月2日「弁慶のひたむきさ」)
 
 藤田庄市氏によると、修験道というより日本の伝統宗教は江戸時代まで基本的には神仏習合であった。それが、明治維新政府の神仏判然令、修験道廃止令により、神社
から仏教色は一掃され、吉野、熊野などの修験道は壊滅状態となった。吉野では百二十数カ寺あった塔頭(たっちゅう)寺院は数カ寺にすぎない。
 しかし、「山川草木悉有(しつう)仏性」千年以上に渡り、山にも、川にも、草木にも、神仏がいますと感じ取り、神仏習合の信仰をつくりあげてきた先祖伝来の心は消えてはいない。 熊野本宮大社の神殿から、御神水と御神火を捧げ持った聖護院山伏と熊野本宮大社神職が並んで、神仏習合の採灯護摩がなされるという。
聖護院は平安時代、熊野三山の検校職(頭領)から始まったというから、権力によって壊される以前の元の姿に近づいたといえるといってみえる。
 塩沼大阿闍梨は、吉野、熊野は勿論高野山もそうですが、金峯山寺を中心にした吉野の宗教的聖地、あるいはそこで培われている宗教性といったものは、大変重要なもので、人間本来の姿に立ち返るということでは、非常に大事な場所であるとしてみえる。
 日本人のもつ自然に対する「神仏混交」あるいは「シンクレティズム」「信仰のあいまいさ」というものを私たちはひとつの豊かな精神的な感性として磨き上げ、さらに深い信仰の思想に練り上げていかなければならない。
こうした感覚は近代の欧米の人間中心主義とはどこか相容れないところがある。
五木寛之氏は人間と自然との間にいい関係をつくっていき、共にいたわりあいながら共生していく。そのために日本人が長い間無意識にこころに抱きつづけてきた自然への考え方、神や仏への感受性、又、曖昧さと感じられてきた日本人の感覚がむしろ21世紀世界のひとつの希望の糸口になる可能性があるのではないかといってみえる。
お読みくだされ、感謝致します。


人生生涯小僧のこころWith a pure heart all my life

2008-05-09 09:42:42 | Weblog
人生生涯小僧のこころ    平成戊子年皐月九日

 塩沼亮潤:大峯千日回峰行大行満大阿闍梨が、超人的修行を振り返って、如何に成し遂げたかという全人間的な体力、知力、精神力を具体的に辿って、今の自分を見つめてくれております。
 S君の紹介で、またまた読む機会を得た。
前回の対談(ブログ投稿大峯千日回峰行11/1)では、修行のエッセンスを板橋興宗禅師と話されていた。「今日一日という日はとても大事な日で、そんななかで多くの人との出会い、又別れがあります。そんな時でも常に心豊かに皆さんと出会って、理解し合って、笑いながら、いい人生を一日でも多く積み重ねていきたいと思っております。」その言葉通り「心の純粋さ」を持ち、今回『人生生涯小僧のこころ』を書かれた。
 彼の999日目の行日誌に「もしこの体に限界がないなら、今の心のまま永遠に行が続いてほしい、人生生涯小僧でありたい。」と記したという。
随処に生きていく上での智恵がちりばめられている。

「何事も根気よく、丁寧に、ぼちぼちと」が長い長い行を続ける秘訣です。人生の旅も一緒です。そのバックボーンは家族の絆であった。皆で力を合わせ生きてきた家族の絆が、神仏を信じるゆるぎない心に変わり、不可能を可能に導いてくれた。と言ってみえる。
大自然の驚異に遭遇したり、小さな半分干からびたミミズにさえ、自分が苦しいからといって自分のことだけを考えるようでは行者失格と考え、貴重な水を分け与えたという。その数、修行中に、数百匹になる。
人生において何ひとつ無駄なことはない。自分が生かされているうちは必ずチャンスがある。その紆余曲折の波を楽しまないと「生きてるな!」という実感がしない。そのために大事なことは「自分は何のためにしているのか」という問いに対する答えを整理しておくことだと言ってみえる。夢がかなった時の先まではっきりさせなさいという。
 
 千日回峰行が終っても、四無行が一年後にある。九日の間、「断食、断水、不眠、不臥」を続ける、非常に厳しく危険な行である。 これを行う前の「生き葬式」で「今日から生きるか死ぬかの四無行に入り、もし世のため人のために生きて帰ってきて、皆様方にお仕えしなさいというご神仏の判断がないならば、
永遠の別れになります」と挨拶をされたという。
 お堂に入るとただ座っているばかりでなく、九日間のうちに、お不動様の御真言と蔵王権現の御真言を十万遍ずつ、合わせて、二十万遍を唱え、一日三回の修法と、一度のお水取りがあるという。
 
 「しなければならない」とか「やらされている」と思えば、どんどん心が枯れてきて、卑屈になる。重要なポイントは、人を恨まない、憎まない、人のせいにしない覚悟を持つことだ。神さま仏さまはいついかなるときでも、人の心を見ておられる。最終的に行の中で行き着いたのは、感謝の世界だという。

 大自然と自分が強い絆で結ばれていることを改めて感じた。山で修行した人だけしか悟れないというものではない。それぞれの生活の中で、それぞれに与えられた役目を果たしていく中で、心を研ぎ澄ませ、目を凝らし、耳を済ませたとき、いろいろなことが悟れる。
 この授けられた命を精いっぱい生きること。それが神さま仏さまから私たちに与えられたプレゼントではないかと考えてみえる。

 行を終えた今現在も、「今日より明日、明日より明後日」といつもいつも過去最高の自分になれるように神仏に手を合わせ祈っていますと締めくくってみえる。まだまだたくさんの生きる智恵が書かれておりますので、読まれることをお薦めします。
お読み下され、感謝いたします。


アメリカの宗教American religion

2008-05-01 16:27:40 | Weblog
アメリカの宗教American religion 平成戊子年皐月一日 

アメリカにいるG君から、貴重なコメントを寄せて頂いた。公開致します。

こちらも やっと春らしくなり 家の桜や 梨の花が 満開です。

’隻手の声’を 見ていますが ここアメリカの宗教について 気のついたことを 述べます。

ご承知のように アメリカでは 宗教の話題は タブーです。 多民族国家での注意すべきこととして 宗教の話はしない、ということですが 実際は すごく宗教色の強い国だと思います。 キリスト教(プロテスタントが多く カソリックは その1割ぐらいでしょうか)の国という印象を持ちます。 どこへ行っても 教会が多く 日曜日には ミサに行く人が多いと思います。 その意味では 信仰心の強い人が多いという気がします。 私の妻は カソリックで 近くに やはりカソリックの人がいますが イベントが近くなると(イースター、など) 一緒に教会へさそいに来ます。

私は 無宗教ですが 日本では 宗教心のない人が増えているといわれますが 正月や 季節の行事に神社へ行く人は 多いのではないでしょうか? これは宗教心とは関係なく ただ何となく行くという感じで その意味では 日本人にとっては やはり 神道が何となく 日本人の宗教という感じではないかと思います。

日本では キリスト教が なぜはやらないのかという 問題は 昔から 疑問に思われているそうですが イエズス会の布教活動は その昔から 苦難の歴史だったようです。 

今回のアメリカの大統領選挙でも 宗教の話題は 皆 さけていましたが 終盤になってきて オバマ候補が 黒人系の教会に関係しているという話題で(彼は プロテスタントですが) 一部 問題になっています。 表だって 皆 表現しませんが やはり 黒人系アメリカ人ということで 気にしている人はいるのでは? と思います。

日本では 次の総理大臣が どんな宗教を信じているか等は 問題にはなりませんが(議論にすらならないと 言ったほうがいいでしょうか) アメリカでは 口に出す 出さないは 別にして 気にしなければいけないことが 多い気がします。 その意味では 話題が尽きない社会だと思います。

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お読み頂き、有難うございます。
隠れキリシタンを調べると、明治になっても、新政府は恐ろしい弾圧をしている。「浦上キリシタン流配事件」がある。廃仏毀釈と、天皇制の神道確立に、またまた、蛮行の歴史です。鹿児島に行ったらキリシタン墓地をお参りしようと思う。
やはり、アメリカの宗教はキリスト教であって、しかもプロテスタントが多いのですね。養老氏の言うように、だからという訳ではないけれど、「あいつらは悪魔だ。」という傾向が強いということですね。

では、日本ではどうかというと、推測ですが、70%の日本人が仏教徒だというだろう。過去帳があり、亡くなると特定な宗教でない限り、お寺が供養する。しかし、新年、結婚式は神道で祈念する。
日本人にとっての基本的なアイデンティティーは魂の帰属する場所ですが、
それが、曖昧になってしまっている。
明治国家を創るに際して、岩倉使節団一行が視察した。そして、国家神道と、天皇制を打ち立てるまでは、良かったが、列強に追いつけ、追い越せで暴走してしまった。その結果、敗戦後、もう「和魂洋才」はだめだとされ、しかたなく「無魂洋才」のままやってきた。しかし、日常生活だけでなく、経済活動の背景にも、必ず精神的なものが必要です。国際社会では、それでは通用しない。
 五木氏は、「21世紀は宗教と民族が共存していく時代だ。宗教が寛容さを持ちあわせて、それぞれの神が共存してもいいと考えなければ、民族と宗教の対立はさらに深まっていく。そうなった時に、非近代的と言われてきた日本の神仏習合(シンクレティズム)に、もういちど光があたるようになってくるにちがいない。」と言っている。(いまを生きるちから)
 亡くなった小渕首相が就任した時、テレビのインタビューで、「これまでは毎朝、朝日に向かって柏手を打って拝んでいたのだが、首相になったからには、これからはそういうことはやめなきゃいかんね。」と言ったそうですが、日本人のトップとして照れくさかったのでしょう。見えない大きなものへの畏敬の念を抱いているということこそ大事だと思います。
お読み下され、感謝致します。