隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

中国三峡下りGo down 3 Gorges in China(4)

2011-09-28 14:29:08 | Weblog
中国三峡下りGo down 3 Gorges in China(4)

 
赤壁の戦い古戦場に行く前に、バスでは映画「レッド・クリフ」を上映。
添乗者なりに盛り上げに苦労してみえた。
赤壁へは、何せ黄鶴楼から約3時間かかるのだ。

赤壁の戦いとは、中国、後漢末の208年蜀の劉備・呉の孫権の連合軍が、南下してきた魏の曹操の水軍80万を、湖北省嘉魚県西方の赤壁付近の長江上で迎え討ち、少数の兵で大敗させた戦いで、この結果、天下が魏・呉・蜀に3分される形勢となった。
広い古戦場である。
    
  中国はすごい、約2000年前のことだ。ここに千年の銀杏の大樹がある。
「桃園の誓い」の場面:劉備・関羽・張飛の3人が、宴会にて義兄弟(長兄・劉備、次兄・ 関羽、弟・張飛)となる誓いを結び、生死を共にする宣言を行った。 呉には、周瑜という智謀溢れた名将がおり、目の前の曹操軍を打ち破るため孔明と相談し、互いに火計しかないと決断した。周瑜は呉にいた龐統(ほうとう)と会い、龐統に曹操へ船と船を鎖でつないで、揺れを少なくすれば陸上と同じように兵士は動けると進言するように計った。曹操は龐統が呉の協力者だと知らず船と船をつないだ。これを連環の計という。古戦場の一角に「兵法三十六計」が、ずらりとご案内してある。
NETで調べると
兵法三十六計(へいほうさんじゅうろっけい, 中: 三十六计)とは中世頃の中国の兵法書。兵法における戦術を六段階の三十六通りのに分けてまとめたものである。「三十六計逃げるに如かず」という故事が有名だが、形勢が不利になったときは逃げて体勢を立て直すことを意味したもので、「逃げるが勝ち」という解釈は俗説。またこの故事自体も兵法三十六計とは関係ない。
成立時期は不明であるが、大体5世紀までの故事を17世紀明末清初の時代に纏められた物だと言われている。1941年、邠州(現・陝西省邠県)において再発見され、時流に乗って大量に出版された。様々な時代の故事・教訓がちりばめられ、中国では兵法書として世界的に有名な『孫子』よりも民間において流通し、日常生活でも幅広く流用されている。
ほんの一部紹介します。
<敗戦計>  自国が圧倒的劣勢の場合に用いる奇策。
・ 美人計 - 土地や金銀財宝ではなく、あえて美女を献上して敵の力を挫く。
• 空城計 - 自分の陣地に敵を招き入れることで敵の警戒心を誘い、攻城戦や
          包囲戦を避ける。
• 反間計 - スパイを利用し、敵内部を混乱させ、自らの望む行動を取らせる。
• 苦肉計 - 人間というものは自分を傷つけることはない、と思い込む心理を利用し         て敵を騙す。
• 連環計 - 敵と正面からぶつかることなく、複数の計略を連続して用いて勝利を得          る。
• 走為上 - 勝ち目がないならば、戦わずに全力で逃走して損害を避ける。

<勝戦計> こちらが戦いの主導権を握っている場合の定石。

<敵戦計>  余裕を持って戦える、優勢の場合の作戦。

<攻戦計>  相手が一筋縄でいかない場合の作戦。

<混戦計>  相手がかなり手ごわい場合の作戦。

<併戦計>  同盟国間で優位に立つために用いる策謀。
6×6=36計
この連環の計で、周瑜と諸葛亮孔明は火計を実行することになるが、流石、孔明ですね。
東の風が吹くのを、祭壇を作って天に祈るのですね。運よく風向きが変わり、曹操軍の軍船を一気に全滅することが出来たんですね。
更に古戦場を進むと、李白、杜牧など赤壁に対する漢詩が大書されている所に来ます。

赤壁  杜牧
折戟沈沙鐵未銷
自將磨洗認前朝
東風不与周郎便
銅雀春深鎖二喬

折戟(せつげき)沙(すな)に沈んで 鉄未だ銷(しょう)せず
自ら磨洗(ません)をもつて 前朝(ぜんちょう)を認む
東風 周郎の与(ため)に便(べん)せずんば
銅雀 春深うして 二喬を鎖(とざ)さん

現代語訳

砂の中に折れた矛が埋もれていた。
掘り出してみると鉄はいまだにさび付いていない。
自分で磨いてみると、まさに三国時代のものとわかった。
もし赤壁の戦いで、呉の周瑜や蜀の諸葛亮が望んだように東風が吹かなかったら、美人で名高い大喬・小喬姉妹は魏の宮殿【銅雀台】に捕らえられ、曹操の慰みものにされていただろう。

赤壁歌送別    李白(盛唐・701~762)

二龍争戦決雌雄     二龍争戦 雌雄を決す
赤壁楼船掃地空     赤壁の楼船 地を掃(はろ)うて空し
烈火張天照雲海     烈火天に張(みなぎ)って雲海を照らし
周瑜於此破曹公     周瑜ここに於いて曹公を破る
君去滄江望澄碧     君去って滄江に澄碧を望めば
鯨鯢唐突留余跡     鯨鯢(げいげい) 唐突 余跡を留む
――書来報故人     ――書し来たって故人に報ぜよ
我欲因之壮心魄     我れ之に因って心魄を壮(さかん)にせんと欲す

魏と呉の二龍が雌雄を決すべく、赤壁の地で戦った
魏軍は赤壁に楼船を並べたが、一艘残らず無と帰してしまった
火をかけられた楼船の激しく燃え盛る炎は、空いっぱいに広がり、
雲海をもあかあかと照らすほどだったという
連環の計により、周瑜は火攻めでここに曹操を破った
君がかの地に行って、青く澄んだ長江の古戦場を眺めたならば
雌雄の鯨(魏と呉)の戦いの跡に行きあたることだろう
友よ、どうかわたしに、そのとき見たこと、感じたことを手紙で知らせてほしい
わたしはその手紙を読むことによって、意気をさかんに奮いたたせたいと思うのだ
 他は省略させてもらいます。
とてもためになる古戦場で「赤壁大戦陳列館」は等身大の人物像があった。諸葛亮孔明  曹操  
赤壁の文字が刻まれた三国赤壁に行ってきました。
激戦の跡はやはり静かな川岸でした。
再び武漢へ、所要時間約3時間160kmだそうな。
 ニューワールド・ホテル 
更に上海でしたが、昨日9/27の地下鉄追突事故にはびっくりですね。
私たちが上海市内見学の時9/14は、地下鉄の延長工事で掘り返していましたね。
行くとこ行くとこ、立派に様変わりしていて、日本にいるより便利になっている。
発展が内陸に移っている感じがするけど、ひずみはひどいと感じた。
犬山城との縁で無事(尿管結石もおとなしく、ライフセーバーも使わず)に行って来れました。感謝、感謝です。
お読み下され、感謝致します。


中国三峡下りGo down 3 gorges in China(3)

2011-09-26 17:15:54 | Weblog
中国三峡下りGo down 3 gorges in China(3)平成辛卯廿三年長月廿六日

センチュリー・サンの客室は5☆といっているだけ良かった。
皆に聞いても満足みたいであった。S,Nさんと私の部屋がエンジンルームの上にあり、夜
航行する分、私には大変だった。絶えずゴンゴンという響きとたまにグラグラと揺れるのである。ここは船の上だと言い聞かせて寝るには寝ているが、たまの震度2~3の感じの揺れで起きてしまう。S,Nさんに聞いても、彼はどこでも寝れる旅人らしく「揺れたね。」というだけだ。  他の人はぐっすり寝ちゃったという方もみえる。船室が違うのだ。
我々おとしよりの日本人は、シャワーだけの部屋には3日ともたないのではないか。
湯船に浸かる習慣が染みついているから、4日目の武漢のホテルにはバスタブがあったので、疲れを癒やすことができた。朝早くから中学の教科書に出てくる『黄鶴楼』へ登楼だ。
トップの写真がS,Nさんが描いた黄鶴楼です。残念にも、これを描くため彼は登楼出来なかった。もう一度ここに来ると言っていた。
黄鶴楼(湖北省武漢市)  滕王閣(江西省南昌市)  岳陽楼(湖南省岳陽市)洞庭湖畔
以上は「江南の三大名楼」と呼ばれている。 これに蓬莱閣(山東省蓬莱市)を加えて「中国四大名楼」という。 三国時代呉の建立といわれるが、その後、改修がなされ、清代だけでも8度の改修が行われ、現在の建物は1985年の再建されたもの。楼閣からは、武昌の蛇山と漢陽の亀山を結ぶ全長1670mの長江大橋を眺望できる。
  
   長江大橋が見える
  故人~~♪
漢詩吟詠会の皆さんが、楼閣に登られて李白のこの詩を吟詠された。感動である。
黄鶴楼送孟浩然之広陵         黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る    李白
故人西辞黄鶴楼                 故人西のかた黄鶴楼を辞し、
煙花三月下揚州                 煙花三月揚州に下る。
孤帆遠影碧空尽                 孤帆(こはん)の遠影碧空(へきくう)に尽き、
唯見長江天際流                 唯見る長江の天際に流るるを。
旧友の孟浩然先生が西方の黄鶴楼を去って、霞たなびくこの三月、揚州へと下っていく。(楼に登ってそれを見送ると)一艘の帆かけ舟が遠く水平線のかなたまでいって見えなくなり、長江が天のかなたまで流れているのが見えるばかりだ。
光村教科書の石川忠久氏の解説では、「故人」とは古くからの親友のこと。友は西にあるこの黄鶴楼に別れを告げて、春、かすみ立つ三月に、揚州へと舟で下ってゆく。「煙花」とは春かすみです。旧暦の三月は晩春。揚州は広陵ともいい、長江下流第一の繁華な都。前半は何やら華やかな情景が描かれます。しかし、後半は華やかさとは逆に、孟浩然の孤独な姿がとらえられます。広い長江の流れにぽつんと一つ浮かんだ帆掛け舟。その白帆の小さな姿がゆるゆると遠ざかる。いつまでもいつまでも黄鶴楼の上で見送る李白。やがて白帆は青空のかなたにふっと消える。あとには、ただ天際まで続く長江の水が流れるばかり。こう歌い放つことによって、別離の悲しみは尽きずに漂うのですと言っています。  この詩には12歳年上の孟浩然を詩業における先輩に対するあたたかい気持ちがあふれているようですね。
≪脱線勉強≫孟浩然の「春暁」も有名ですね。                             春暁              孟浩然
春眠不覚暁         春眠暁を覚えず
処処聞啼鳥         処処啼鳥を聞く
夜来風雨声         夜来風雨の声
花落知多少        花落つること知る多少

口語訳
春の眠りはここちよく、いつ夜が明けたか気がつかない。
あちらでもこちらでも、鳥のさえずりが聞こえる。
昨夜は雨まじりの風が吹いていた。
花がいったいどれくらい散っただろうか。(さぞかしたくさん花が散ったことだろう)

バスに戻って、いよいよ赤壁の戦いです。
お読み下され、感謝致します。


中国三峡下りGo down 3 Gorges in China(2)

2011-09-24 13:10:58 | Weblog
中国三峡下りGo down 3 Gorges in China(2)平成辛卯廿三年長月廿五日


このツアーのきっかけを作って下さったS.Nさんと一緒に参加した。
彼は、英会話の同級生でスケッチ旅行の趣味で、毎月どこかに行ってはスケッチしてみえる。
日本各地ばかりでなく海外へ、主に先生と一緒だという。一般のツアーだと添乗員の旗に従ってないと迷惑を掛けることになるからだろう。今回のツアーは、障害者と一緒で、しかも画家たるS.Nさんと詩吟吟詠会と一般の私とで添乗員は大変だったろう。先頭と最後尾と人数の確認だ。
上のスケッチが今回彼が描いた白帝城の遠景です。
「共に白帝城に立つ 犬山住 十三代 淳」と添え書きがされているから、彼の喜びは相当なものだった。

3泊目にはもうセンチュリー・サン豪華客船船長によるフェアウェルパーティーである。
夜には、三峡ダムの五段式シップロック(閘門式)を通過する。
「西方の上流になお石壁を築きて、巫山の雲雨を絶ちきり、高き山峡に平らなる湖を見出さん」と1956年毛沢東が詠んだこの詩以来、悲願でもあった三峡ダムが2009年4月完成した。
客船は高低差約110mを5段階のロック式水門を約3時間かけて一段一段降りていく。残念ながら夜(丑三つ時)だから見なかったが、頑張って見ていた人も何人かはいた。

翌日(4日目)、船閘門の上をバスで通過。
三峡ダムの見学といっても、黒部ダムのように排水ダムの上から眺めるといった具合にはいかず、ダム全景を見下ろす展望台から見ることが出来た。発電所は排水ダムの両側に配置されており、水力タービン発電機(混流式・フランシス式)が左岸に14基、右岸に12基据え付けられ、右岸の山の中に6基
据つけられて、しめて32基で、1基70万キロワットですから発電能力は2240万kwになる。
年間計算すると、中国年間使用電力の10%に相当するという。
移転住民は、140万人(2009年8月)にのぼる。
ダムには直接関係がないが、重慶からの長江はひどく汚れているのが分かり、ある人曰く「これじゃ黄河じゃないの?」茶色に見えるのだ。豊都の港ではゴミが集まってくるからタモ網ですくっている人たちがいた。ゴミの船である。最終的には三峡ダムできれいになるのだろうが、問題があるように感じた。
 客船に戻って、最後の三峡・西稜峡を下り、
 
宜昌(ぎしょう)で下船。

三国志ゆかりの荊州だ。三国が欲しがった要衝、関羽が守り続けた江南随一の名城「荊州古城」を見学。
関羽が建設したと伝えられる城壁で、現在のものは清代の再建で、高さ9m幅10mの堂々としたものだ。
東西に細長い楕円状に約10kmも張り巡らされている。美しい市民公園になっている。
      荊州城
   関帝廟
関羽は何と言っても青竜刀の達人ですね。当陽で219年呉の孫権によって殺された。孫権は
その首を洛陽の曹操に送ったという。日本はまだ弥生時代なんですね。
各地に関帝廟が建てられ、商売の神様という風に私は受け取っている。
天井画が気になってガイドに聞いてみたら4枚とも龍の絵が描かれていた。
   
見学後、武漢のホテルへ。

お読み下され、感謝致します。

中国三峡下りGo down 3gorges in China(1)

2011-09-23 22:57:14 | Weblog
中国三峡下りGo down 3gorges in China 平成辛卯廿三年長月廿三日

平成23年9月14~19日
私は、19日夜12時に帰ってきました。
このツアーは、特別企画で犬山城白帝文庫理事長と漢詩吟詠会グループと夫が全盲、聾唖のご夫妻と我々一般からなる大変なツアーであった。
障害のある方もみえ、こういう夫婦の形もあることを教えられました。
随分前から、おそどまさこさんが障害者ツアーを企画してみえましたが、このような形でご一緒できたことは一種の感動でした。
ツアー・ステーションの加藤氏には心から拍手を送りたい気持ちです。

上海→重慶→豊都雪玉洞→三国志ゆかり劉備玄徳終焉の白帝城→三峡下り→三峡ダム→関羽の荊州古城→武漢→黄鶴楼→赤壁→上海という日程です。

上海はとても広く、浦東国際空港(到着)と虹橋国際空港(出発)と2つもある。
そのお蔭?か、市内で昼食と万博の後始末の状況を見ることが出来た。取り壊して新しいビルの建設です。とにかく建設中のビルのうえのクレーンがやたらと多かった。

虹橋空港から重慶へ。霧の都といわれているらしく霧混んでいた。
交通の混雑は相当なものだ。道路は人より車優先で、何か所も事故を見かけた。
仲間の人曰く「レンタカーを借りて、運転は出来ないよね」「中国製の車が見かけない。」

三峡ダムが出来たればこそですね。100m川が深くなって、約8000トンの豪華客船(6階建てのビルだ)重慶より夜出帆。各国からの観光客で一杯、食事も現地じゃなく、5☆のシェフが中華料理を提供。毎食堪能できるものばかり、景色は写真のような名画を背景に我々に迫ってきます。 船内では成瀬理事長から講演、漢詩解説、吟詠と有難い。
漢詩吟詠もフランス人からの要望で別の時間に行うというおまけまでついた。

上陸観光は豊都雪玉洞だ。鍾乳洞の中で「妙齢の少女」を見てきた。かなり歩いて歩いた山の中を1166m。 暗い中、障害者もアップダウンのきつい坑道である。
その上、夜はウエルカムパーティーと楽しい船旅の初日でした。

写真が白帝城のある小山です。今、周りが水没し小島になって橋がかけられています。
三峡下りの船からのアングルです。これが各務原からの犬山城と似ているのですね。
白帝城は、15年前は100m更に下から上がって来なくてはならず、駕籠担ぎ人がたくさんいたであろうが、今は楽に上がれるみたいだ。手違いで担いでもらう有難いことになったが、小雨が降ったり止んだりですべらないように祈って乗っていた。
犬山城は別名「白帝城」と呼ばれているが、江戸時代の儒学者荻生徂徠によって名付られた。中国の詩人李白が詠んだ詩から来ている。
早発白帝城                     早(つと)に白帝城を発す    
朝辞白帝彩雲間                   朝に辞す白帝彩雲の間
千里江陵一日還                   千里の江陵一日にして還る
両岸猿声啼不住                   両岸の猿声啼いて住(や)まざるに
軽舟已過万重山                   軽舟已に過ぐ万重の山
 漢詩の朗詠会の皆さんが、白帝城を前に長江に向かって歌われました。 こういう経験は得難いですね。来て良かったと思ってみえることでしょう。
蜀の劉備玄徳は夷陵の戦いで敗れ、この城に逃れてきて、息子を成都から呼んだ諸葛孔明に託すと病に倒れてしまう。孔明が星を観測した望星亭もあった。
船は瞿塘峡(くとうきょう)へ下っていきます。
両岸に8kmに渡って高さ約350mの刃で切り取ったような急峻な崖が続く。
まるで水墨画の世界ですね。
巫峡(ふきょう)。ここで豪華客船から中型船に乗り換え、神農渓(長江の支流)という深い渓谷へ、更に15人乗りの原始的な小船「湾豆」に乗り換え、少数民族トチャ族による素朴で汚れのない自然のままの景観を満喫。 かわいいガイドというよりAKB48ならぬ歌姫の透き通った声に酔いしれた。これもダムのお蔭でここまで来れるようになった秘境である。   
ここで、成瀬犬山城白帝文庫理事長から一句を頂いた。
『かわいらし 乙女の歌や 秋の風』犬山住 十三代 淳

頑丈なライフジャケットを全員に装着し、安全第一を徹底しているには感心した。
天龍、日本ライン下りはようやくジャケットを発注である。

いよいよ三峡ダムへ。
お読み下され、感謝致します。

参考資料
長江の長さは6380kmで、ナイル川、アマゾン川の次、3位です。
源泉はチッベットなんですね。

一体になるunify

2011-09-10 22:03:07 | Weblog
一体になる。平成辛卯廿三年長月十日

先日、揖斐川町の大興寺へ行ってきました。
井川老師は相変わらず元気な声で、「仏教で復興を。被災地にどういう思いで復興したらいいのか。原爆死20万、300万の戦死者の60年前と重なってしまう。」と。
今日法話される清水寺貫主・森清範和上と福島県郡山市へ行かれ、玄侑宗久先生と会われたという。
玄侑先生は三春町ですが、すぐ近くに田村市がある。この地は征夷大将軍・坂上田村麻呂の生誕の地と伝えられている。この世は、約1200年前とはいえ広い様で狭いですね。
 坂上田村麻呂といえば794年蝦夷を征討し、征夷大将軍となり、胆沢城(胆沢城)を造営し、蝦夷地平定に功を残したのであるが、当時、薬となる鹿の肝を求めて、いまの清水寺のある音羽山にきたという。この山で草庵を結び修行をしていた延鎮(エンチン)上人に殺生を戒められたことがきっかけで清水寺の本堂を寄進したといわれる。蝦夷から京都とはかなり離れていますよね。昔の人は凄かったということですね。
 その坂上田村麻呂は、阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)と戦うも、京都に連れて戻り、助命嘆願を朝廷に行う。だが、二人は死罪となってしまった。
平成6年、岩手の水沢地方の有志の方から、阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)の碑をつくるという話が出た。  朝廷に与した坂上田村麻呂をスポンサーとした清水寺からすれば、敵である阿弖流為と母禮の碑を境内に建てるのは憚れることであろうが、森和上は碑を建てたのである。
 観音信仰はあらゆる人に開かれている。観音さまは、人間の賢(さか)しらでは捉えきれない慈悲をおもちです。その大きな慈悲を少しでもこの世に現すとすれば、分別をせず、恩讐を超える、少なくともそういう心持が必要だろうといってみえる。(心を掴むより)
相手と「一体になる」のが観音であるという。私の心に、人の良い処を見る心が大切だといわれた。
私のブログ名に恥ずかしながら「隻手の声」とさせてもらっていますが、森和上はこの白隠禅師の公案を、売り手と買い手とたとえて、両手たたいて商いなれば片手の音はいらない。一体になることが大切だ。相手の心をそのまま映した生き方が大切だともいわれた。

毎年年末に森清範和上は、清水寺の舞台で今年の一字を揮毫されている。
私は「興」を投稿したが、大興寺の集まった結果は『絆』となった。
果たしてどうなるかは楽しみである。
お読み下され、感謝致します。

初代犬山城主成瀬正成 First Lord Naruse Masanari

2011-09-02 20:38:30 | Weblog
各務原から見た犬山城
初代犬山城主成瀬正成 First Lord Naruse Masanari 平成辛卯廿三年長月二日

成瀬正一の長男(永禄10年1567生)。父正一は長篠合戦(1575)に鉄砲隊の背後でがんばっている。長篠の合戦図屏風に出て来ています。
正成は、小牧・長久手の戦(1584年)に17歳で従軍し(初陣)、家康の馬前でその働きを評価され、同年中に、根来寺の僧兵50人を預かる指揮官にされた。徳川家の歴史で、17歳の足軽大将は正成だけである。 小牧・長久手合戦図屏風には颯爽と馬で駆ける姿と敵の首を獲る場面が描かれている。その功賞として家康から備前兼光の脇差を賜ったと伝えられる。
先日、中日新聞連載「先人たちの名語録」童門冬二に、初代犬山城主成瀬正成が登場しました。 付家老について『悲願』で取り上げましたが、童門冬二氏は現代の岡谷繁実ですね。童門さんらしい切り口で描いている。抜粋させてもらいます。
 
 成瀬正成は譜代の臣で徳川家康に信頼された。勇猛で忠誠心あつく、とくにその誠実さは“生きる良心”だった。
天下人になった豊臣秀吉はよくこういう他家の良臣を高い報酬で引き抜いた。当時二千石の給与しかもらっていない正成に目をつけ、五万石出すからオレのところへこい、と誘った。正成はこのことを家康に報告した。
家康は複雑な人間だ。
「秀吉公はわしの主人的存在だ。目をつけられたのは名誉だ。いったらどうだ?」と応じた。正成は怒った。「報告したのは相談ではありません。生涯二千石でも私はあなたの家臣です。ただ黙っているわけにはいけないのでお話したのです。情けない。」とハラハラ涙をこぼした。家康はこのことを秀吉に告げた。秀吉は間の悪い表情をして、「わるかった、正成に思うとおりにせよ、と告げてくれ」といった。

これ以後、正成は、自身で雇用する足軽を、三河よりも東の出身者に限るようにして、家康を喜ばせたという。(岡谷・名将言行録)

正成は三万石の領地と、のちには犬山城も与えられる“準大名”として扱われた。赴任してすぐ、「公平だがきびしいご領主」の評判が流れ領内の気風はどんどん正しく改まっていった。恐れをなした商人の米屋八郎兵衛が自首してきた。
 「父が多少非道なことをしてカネをもうけましたので、罰していただきたく」という。
何をしたのだと聞くと、「米を売るときに使うマスは小さく、借金を米で返してもらう時のマスは大きく、二種類のマスを使っておりました」という。
正成は笑った。こう告げた。「わかった。これからは逆にしろ。それが罰だ」
 『人には多く自分に少なく』という生きる良心ですね。
 
岡谷・名将言行録にはさらにある。駿府城を修営するとき、正成は下帯をしていなかった。それを見た家康が、布地を賜った。それが、いまでも成瀬家の家宝だそうだ。
財団法人犬山城白帝文庫の山澄氏にそのことを伺ったが、下帯というのはいわゆる褌のことで、約400年も前のこと、どうやらなさそうでした。その代りではないが、第9代成瀬正肥の具足下着がある。白麻で丸にかたばみ紋が藍で染めてある。九州出兵の際、使用されたと伝えられている。
 
初代成瀬正成は、関ヶ原の戦いでは、家康の使番を務める一方で、根来組100人を率いて麾下(きか)の先鋒を務めた。最後まで徳川家に忠誠を誓い、死に際は日光に行くと言って聞かず、遺言により遺骸は家康廟の近くに埋められたそうです。
第2代徳川秀忠(側室は江ですね)は喪を服して3日間、江戸での鳴り物を止めさせたという。寛永2年(1625)のことである。

余談: 下帯については、「岡谷・名将言行録」に面白い話が載っている。
    
細川忠興の項で、大阪の陣の後、医師の伊藤三白(さんぱく)が、「死亡または重傷を負っ
て家人にひきずられていく武将は、なぜか皆、下帯を脱しているのだそうですが、それは
なぜですか?」と、細川忠興に質した。忠興は答えた。「人は、血が抜けると、肉が細り、
帯などは外れ落ちてしまうのだ。それで歴戦の巧者は『もっこふんどし』と称して、首か
ら紐をかけて下帯につなぎ、死後も見苦しくないようにする」
主君たるものは何でも知っていないと務まりませんね。
妻・ガラシア夫人は、明智光秀の娘ですね。

南山大留学生書道体験9/1
お読み下され、感謝いたします。