隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

Skyfall 007スカイフォール

2012-11-26 07:29:45 | Weblog
Skyfall 007スカイフォール  平成壬辰廿四年霜月廿六日

007スカイフォールという映画が、日本では12月1日登場する。
「最高のボンド」と言われるダニエル・クレイグが見もの。車はアストン・マーティンDB5、銃はワルサ―PPK, 腕時計はオメガ シーマスターというたまらないガジェットが、でてくるという。

宣伝の英文があります。私なりに訳してみました。
The latest James Bond movie premiered in London on Wednesday night in front of British and Hollywood royalty.
最新のジェームス・ボンド映画が 、ロンドンで、水曜日、英国やハリウッドの王族の前で、封切られた。
“Skyfall” is the 23rd official Bond film and coincides with the 50th anniversary year of the first 007 movie “Dr No”.
「スカイフォール」は第23作のボンド映画で、初代007映画「ドクター・ノー」の生誕50周年記念と一致します。
The U.K. heir to the throne, Prince Charles, attended the glittering event with his wife.
英国王位継承者プリンス・チャールズ は、奥さんときらめく行事に出席した。
Also in attendance were stars from the film and a collection of actresses who have played the lead female role in the films over the past five decades.
映画からのスターたちや過去50年に渡って主演女優を演じた女優達も、出席した。
Daniel Craig, playing the part of the sophisticated British spy for the third time, was one of the first stars to arrive on the red carpet at London’s elegant Royal Albert Hall.
ダニエル・クレイグは、3回洗練された英国のスパイの役を演じているが、ロンドンの優雅な王立アルバート・ホールの赤い絨緞に到着した最初のスターの一人でした。
He was accompanied by French actress Berenice Marlohe, who plays Bond girl Severine.
彼は、ボンドガールSeverineを演じているフランスの女優Berenice Marloheに付き添われていた。
Many movie critics are hailing “Skyfall” as one of the best Bond movies ever.
多くの映画批評家は「スカイフォール」を今までで最も良い作品の一つとして歓迎している。
Britain’s “The Daily Telegraph” said the film was full of the usual Bond trademarks of first cars, beautiful women, high-tech gadgets and vodka Martinis, which were of course shaken, not stirred.
英国の「デイリーテレグラフ」によれば、勿論驚くが悩ませはしない、ボンドらしいいつものかっこいい車、美女、ハイテクの小物やマティニーウォッカで一杯であった。
The paper said the movie was a “blistering comic book escapade” that will be “a stratospheric hit”.
新聞は、映画は「成層圏入りの成功」になるだろう猛烈なコミックの脱線であったといっている。
Mr. Craig told reporters : “ It is just a real honor to be part of it.”
クレイグ氏は報道陣に 「映画の一部であることだけで真の名誉なんだ。」と言った。
Director Sam Mendes said : I just wanted to make a film that I would like to see…..I
just wanted to channel my inner 13-year-old boy.”
監督サム・メンデス氏は「私は自分が見たいと思う映画を造りたいだけなんです。ただ、
私は自分の内なる13歳の少年に目を向けたかっただけだ。
The film is sure to add to the $5.1 billion grossed at the worldwide box office by the previous 22 films in the franchise.
映画は加盟店において前の22作による世界興行収益でおおまかに51億ドル確実に増える。

以上でした。予告編では、評判通りのアクションでしたね。
期待していいのかな。

お読み下され、感謝致します。

「調印の階段」よりFrom “stairs of signature”(3)

2012-11-21 14:28:08 | Weblog
「調印の階段」よりFrom “stairs of signature”(3)平成壬辰廿四年霜月廿一日

 戦前の外交官は見識を持っていましたね。松岡洋右外相も国際連合の夢を重光に託しました。クリスチャンだったとは、びっくりです。オレゴンのポートランドで学ぶ中で洗礼を受けた。本の最後にドイツ宰相のビスマルクが出て来ます。弱小だったドイツ帝国を守るために、各国と同盟を結び、フランスを孤立させて、きわめて微妙な均衡を保ったのは、ビスマルクならではの外交だといわれる。松岡は尊敬していたのでしょう。
先日、犬山城でドイツからの老夫婦が、ガイドの要請をしてくれた。
ガイドを終え、写真をとって、名刺を渡し、添付メールのためメールアドレスを聞いた。
何とビスマルク1871~と書いてあるではないか。
私作成の年表を見せると、1871The German Empire was formed. 横に廃藩置県とある。 彼らは喜びましたね。良きビスマルク体制の思いをメールに託しているのだ。
  
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶA fool learns from Experience, and a sage learns from history. 」という名言を残したのは、「鉄血宰相」と呼ばれた初代ドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルク(1815年 ~ 1898年)であった。「帰せられるもの目下の大問題(ドイツ統一)は演説や多数決ではなく、鉄と血によってのみ解決されるのであります」「愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む」などと演説した。いわゆる「鉄血演説」と言われたこの演説のなかの名言が、後に一般化されて、伝えられてきたのである。 
(参考)鉄血政略a blood-and-iron policy -
鉄血宰相the Iron Chancellor (Bismarck)
鉄血政策という統治政策a ruling policy, called a blood and iron policy


*重光(小林)華子さんの訃報 (調べると悲しい物語もありますね。)
富士ゼロックス会長小林陽太郎の実弟夫婦心中 拳銃使用しホテルで(共同通信)
2003年3月8日配信

8日午後3時15分ごろ、東京都港区六本木のホテルオークラ別館の11階の部屋で、会社社長小林奎二郎さん(66)=世田谷区下馬=と妻の華子さん(71)がベッドの上で口と耳から血を流して死んでいるのが見つかった。

小林さんは右手に拳銃を握り締めており、警視庁赤坂署は小林さんが華子さんを射殺した後、自殺したとみて動機や拳銃の入手先などを調べている。遺書はなかった。
小林さんは富士ゼロックス会長で経済同友会代表幹事の小林陽太郎氏(69)の実弟。プラスチック材卸売業「アトラス」の社長で、富士ゼロックスと取引があるという。夫婦は数年前から同ホテルに長期滞在していた。

調べでは、小林さんが華子さんの口に銃口を当て拳銃を発射。自分も同様の方法で自殺したとみられる。2人とも普段着姿で、遺体の状況から死後数時間以上経過しているという。(共同通信)
曾野綾子氏は、この事件について以下のような回想を寄せている。
「大きなショックは9日付けの新聞で、小林奎二郎・華子夫妻の拳銃自殺を読んだことである。小林華子さんは、重光葵元外務大臣の長女。聖心時代は私の1年下級生で背が高い品位のある少女だった。
 70年の年月を生きると、現世で何が本当に価値あることか自然眼が見えて来る。華子さんは端然と夫に撃たれて亡くなったらしい。私は人の心は憶測しないことにしているが、何も抗った跡がないということは、もう何もかも重荷になったということだろう。」(日本財団HP)
この「自殺」については理由も含めて詳しいことは全く分からないのだが、場所がホテル・オークラということから、米国大使館がらみかとも思わせるが、こんなネット記事もあった。韓国の暴力団との金銭トラブルを示唆する内容である。ただ、胃ガンだったとも書かれているし、単に愛妻と共に心中するつもりだったという線も捨てきれない。

**牧野義雄画伯と重光葵との交流は、動乱の中イギリスで、心温まるものであったように感ずる。調べると、Netより
牧野 義雄(まきの よしお、1870年1月26日(明治2年12月25日) - 1956年(昭和31年)10月18日)は、愛知県西加茂郡挙母村(現:豊田市)出身で、主にイギリスで活動した画家、随筆家である。三河なんですね。
挙母藩士の次男として誕生する。幼い頃から水墨画を学んだ牧野は23歳の時、単身渡航をして、アメリカ、フランスでアルバイト暮らしの貧乏生活を送りながら絵を描き続けた。
つらい修行期間を経て、牧野の才能はついにイギリスで花を開いた。美術雑誌の編集長、スピールマンに見いだされ、1907年(明治40年)に出版した画集『The Colour of London』は大ベストセラーになった。大都市の日常風景を描いた水彩画の数々。洗練された色使いと独創的なタッチ。その作品は、当時の大物著名人たちをも魅了し、アーサー・コナン・ドイル、ハーバート・ジョージ・ウェルズ、ウィンストン・チャーチル、ファイフ公爵夫人にも称えられた。ロンドンは霧に煙る町と云われているイメージがあるが、そのイメージが定着したのは牧野の功績とも云われている。霧に魅了された牧野は「霧のないロンドンはウェディングドレスを忘れた花嫁のようだ」という言葉を残している。彼のことをイギリスでは、「霧のマキノ」としてもてはやした。
牧野は霧を描くに当たり、1910年(明治43年)に発表した自叙伝「日本人画工 倫敦日記」で「水中に1時間入れて吸い取り紙の様になし、その濡れている内に描く。乾くに従って近景を描く」と語る。紙が十分濡れている内に遠くの最もぼやけた部分を描き、乾くに従って近くのはっきりした部分を描くことで霧独特の奥行きある情景を表現した。
また、1921年に訪英した日本の皇太子(後の昭和天皇)に謁見している。第二次世界大戦が激化したため、帰国。イギリス時代に懇意となった重光葵の援助を受け、重光家と共に疎開をしている。その縁で油絵や鉛筆画が重光葵記念館にも展示されている。
開館日・時間 毎週金曜日12:00~17:00/土曜日10:00~17:00/日曜日10:00~13:00
入館料 大人600円・学生300円
住所・交通 湯河原町宮上684
奥湯河原行きバス終点奥湯河原下車(乗車時間20分程度)後徒歩5分
お問合せ 重光葵記念館 0465(62)3860

***国連加盟に際しての重光外務大臣の演説1956、12月18日
……日本国民は今日恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するものであって、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼してわれわれの安全と生存を保持しょうと決意し、更に日本国民は平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しょうと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めんとすることを念願し、全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存する権利を有することを確認するものであります。われらは、いずれの国家も自国のことのみに専念して他国を無視してはならな
いのであって、政治道徳の法則は普遍的なものであり、この法則に従うことは自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であることを信ずるものであります。以上は日本国民の信条であり、日本国憲法の前文に掲げられたところであります。この日本国民の信条は完全に国際連合憲章の目的及び原則として規定せられておるところに合致するものであります。……日本は原子爆弾の試練を受けた唯一の国であって、その惨
害の如何なるものであるかを知っております。日本の国会がさる二月衆参両院において、ともに原水爆の使用及び実験の禁止に関する決議を行ったのは、人道上の見地より国民的要望に応えたものであり、人類をして再び大量破壊の悲惨を味わしめざさんとする願望に出でたものであります。日本は国際連合の指揮の下に軍縮の大事業
が成功し、人類が悲惨な運命から免れ、堪えがたい恐怖感から救われることを衷心よりねがうものであります。
……日本はアジア諸国とは、政冶上もちろん経済上においても唇歯輔車の関係にあり、かつ不可分の運命の下にあって、これら諸国の向上発展に大なる期待をかけているのであります。……わが国の今日の政治、経済、文化の実質は、過去一世紀にわたる欧米及びアジア両文明の融合の産物であって、日本はある意味において東西の
かけ橋となり得るのであります。このような地位にある日本は、その大きな責任を充分自覚しておるのであります。私は本総会において、日本が国際連合の崇高な目的に対し誠実に奉仕する決意を有することを再び表明して、私の演説を終わります。
****
「日本が国際連合の崇高な目的に対し誠実に奉仕する決意を有する」と表明している。「二度」にわたる「言語に絶する悲哀」を将来三たび繰り返してはならない。これが、国連憲章が前文の冒頭に掲げた決意だった。むごたらしい世界戦争を三たびくりかえさず、国際的な平和と安全を維持することこそ、国連の最大の目的なのである。わが国は世界平和を守るという「国連の崇高な目的」に「誠実に奉仕する」とはっきり約束しているのである。
改めて読み直してみる時、この重光演説には日本国憲法の平和条項、国連の平和維持の方向に対する誠実さと実現に向けた決意がうかがわれる。現在の改憲派には、重光にみられるこのような誠実な姿勢や思考は全く見ることができない。
*****英語版は下の手順で
外務省ホームページ → 報道・広報 → 演説 → 国連の場における演説
                 → 国際連合第十一総会における重光外務大臣の演説(仮訳・英語版)で(英語版)をクリック
ADDRESS OF HIS EXCELLENCY MAMORU SHIGEMITSU, DEPUTY PRIME MINISTER AND FOREIGN MINISTER OF JAPAN, BEFORE THE UNITED NATIONS GENERAL ASSEMBLY ON THE OCCASION OF JAPAN'S ADMISSION TO THE UNITED NATIONS ON DECEMBER 18, 1956
全文は略し、ハイライトのみ。
The substance of Japan's political, economic and cultural life is the product of the fusion within the last century of the civilizations of the Orient and the Occident. In a way, Japan may well be regarded as a bridge between the East and the West. She is fully conscious of the great responsibilities of such a position.
May I close my remarks by expressing again before this great assembly the resolve of Japan to serve sincerely the high cause of the United Nations.
お読み下され、感謝致します。

「調印の階段」よりFrom “stairs of signature”(2)

2012-11-20 18:04:23 | Weblog
ザクロ
「調印の階段」よりFrom “stairs of signature”(2)平成壬辰廿四年霜月廿日

 重光の立場は戦争を起こさないための楯になり、それでも起きてしまった場合は、早期終結に努める。それこそが自分に課せられた役目だと、明確に意識し始めていた。
 天皇の意志は戦争回避で、はっきりしている。だが、弱気と非難される決断を天皇に押しつけることはできない。責任を取らずにやめた近衛に代って、東条英機は、重光外務大臣とともに、大東亜会議を開催し、大東亜共同宣言を採択。ビルマ国誕生、フィリピンが独立したが、日本軍の戦線が逆に拡大。イタリアが降伏。サイパンの日本軍が玉砕していく。重光は、鈴木貫太郎内閣には外務大臣からはずされ、日光へ疎開する。しかし、ゆっくりしておれない。東久邇宮内閣の外務大臣となる。マッカーサーが厚木に降り立って、いよいよ降伏文書の調印である。重光と陸軍の梅津美治郎(うめずよしじろう)が推された。『願わくは御国の末の栄え行き 我が名さけすむ人の多きを』という短歌をしたためた。
軍艦のタラップは梯子段に近い。慎重に一段ずつ昇って、甲板まで昇りきると目もくらむような屈辱が待っていたという。モーニングコートのポケットから万年筆を取り出し、重光葵と一気に漢字で署名した。

マッカーサーとの会見が凄い。ちょっと長いですが。
重光は 「ドイツはヒトラーが自殺し、政府が壊滅した状態で降伏したが、ポツダム宣言
     は日本政府が存在することを前提にしている。連合国軍による軍政はポツダム宣言の趣     旨を越えることであり、日本はそこまで承認したわけではない。
      天皇はファシズムを毛嫌いし、平和を望んできた。戦争を終結できたのも、天皇の御     意志に、軍部をはじめ全国民が従ったからであり、この絶対服従の力をGHQが利用しな     い手はないと思う。」
マッカーサーは 「ならば天皇は、なぜ開戦を止めなかった? 絶対服従なら止められただろうにーー」
重光は、 「もちろん止められないこともある。現に今も、軍人の一部は、陛下を守れないのであ      れば、もういちど蜂起すると息巻いているーー もし軍政を布くのであれば、反乱軍      の責任は、GHQが負うことになる。
      だが、そちらで天皇の存在を認め、日本政府に仕事を任せるのであれば、私たちが責      任を負い、何が何でも平和国家の建設に全力を尽す。」
マッカーサーは、 「だが日本の軍隊は、天皇の名のもとに戦った。その天皇の責任が皆無とは言      えまい。我が国だけでなく、すべての連合国が、天皇の戦争責任を追及するつもりで      いる。それに今後、日本に民主制を布く上で、天皇は邪魔になるーー」
重光は、 「いや、邪魔にはならない。天皇家は古代から連綿と続いている。それは天皇という存      在が、柔軟性に富んでいるからだ。サムライの世になればサムライに逆らわず、戦争      の時代には、現人神として祭り上げられるーー
      どんな時代になっても、自在に形式を変えて生き残れるのが、日本の天皇だ。これか      らは民主制の中で、英国王室のような存在になれるはずだーー
      世界で最も古い王家を あなたは今、ここで潰そうというのかーー
      イギリスで開戦を決断したのは、国王のジェームズ六世ではなく、チァーチル首相とイギリス議会だ。日本の天皇の立場も、イギリス国王と同じだった。」
マッカーサーは即答を避けたが、重光が東京に着くや、 
     「さっきの件だが、こちらで検討した結果、君の言い分を認めることにした。天皇の戦争責任を追及しないよう、わが国と連合国に伝える。私たちは軍政を布かず、日本政府の存続を認める」と返事を重光は得た。国体は守られたのである。

東京裁判で重光は、昭和23年11月「禁錮7年」とされた。服役中、彼は「日本の動乱」 を書き上げる。朝鮮戦争の勃発により、GHQの政策が変わり、重光は仮釈放
が認められた。昭和25年(1950)64歳で、巣鴨プリズンの門を出た。
1951年吉田茂がサンフランシスコ講和条約に調印した。1954年民主党の鳩山一郎
 が首相に就き、重光は9年ぶりに外務大臣に復帰。鳩山は日ソ共同宣言に調印し、国交正
常化に成功。そのお蔭で、日本は80番目の国際連合加盟国となった。重光はニューヨーク国連本部ビル会議場の演壇の4つある段を昇った。
 戦争の苦しみを知る日本は、武力以外の力で世界に貢献していく意志があると語り、今日の日本の政治、経済、文化は、過去一世紀にわたる東洋と西洋、両文明の融合の産物です。そういった意味で、日本は東西の架け橋になり得る。このような立場にある日本は、その大きな責任を、充分に自覚していますーーと締めくくった。
 スピーチを終えると割れるような拍手が湧いた。松岡洋右との約束は果たされた瞬間であった。
 孫崎氏の「戦後史の正体」から、さらに重光に光を当てられた戦後史を読むこととなったが、孫崎氏によると、吉田茂は米国追随路線の代表、重光葵は自主路線の代表となる。
1951年の安保条約締結後、日本政府の中で重光外相は、「米軍の12年以内の完全撤退」をアリソン駐日大使に提案(要請)している。しかも「在日米軍支援のための防衛分担金は今後廃止する」ことまでも主張しているのだ。当時1955年のことだ。今の日本では、普天間基地ひとつ海外へ移転させるというだけで、「暴論」となってしまう。
 さらに重光は、昭和天皇からも、ダレス会談にのぞむ内奏(国政報告)で、駐屯軍の撤退は不可であることを念を押されたという。『続 重光葵日記』より 決してたんなる象徴ではなかったことを裏付けている。
 重光は、ダレスとの交渉の翌年1956年外相を辞任。わずか1カ月後1957年1月26日湯河原の山荘で、69歳の生涯を閉じた。 
(つづく)

「調印の階段」よりFrom “stairs of signature”(1)

2012-11-17 19:55:16 | Weblog
つわぶき
「調印の階段」よりFrom “stairs of signature”(1) 平成壬辰廿四年霜月十七日

友人S君のお薦めの植松三十里氏新作である。
同じ作者の本「家康の子」が犬山城ガイドに必要を感じたため、この本が後になったが、とても面白く読めた。重光葵、あのミズリー号上の降伏文書に調印した人物伝である。
女流作家らしく随所に家族に恵まれ、支えられて来たことが描かれている。彼の堅物さが余計「国士」らしく、光っているように感じた。

昭和6年1931中華日本公使だった上海で爆弾テロに遭い、右足を失う。いきなり一大事件から物語が始まった。 昭和の動乱を紐解くことになった。ハラハラの展開である。
その2カ月後に柳条湖事件である。「悶絶せんばかりの痛みに、重光は仰け反った」からこれでもかという位、どれほど痛いかを彼の身になって書いてくれている。
父親の直愿(なおまさ)は、杵築藩の漢学者で藩校の教授を務めたが、勤王の志を説いたため閉門という重い処分を受けた。彼の教えが書いてある。
「朝鮮通信使とは信を通じる使いという意味だ。彼らは将軍にひれ伏すために来たわけではない。むしろ大陸の高度な文化を運んできた。江戸時代を通じて、中国はもとより、朝鮮も憧れの国だった。外交官としては、その歴史を忘れてはならない。」
秀吉以来の征服慾で明治時代には、ボタンの掛け違いを重ねて、朝鮮の併呑まで来てしまっている。直愿は、はなむけの言葉「志四海」を短冊にし、「四海を志すと読む。四海とはまさに日本の周囲だ。近隣の国々への配慮も大事だ。それを志にせよ。自分が東洋人であることも忘れてはならぬ。」と。重光は、31歳で領事になり、アメリカ西海岸のポートランドに赴任している。友人のF君が永住している良いところだ。土産のなつかしい高い高いMultnomah Fallsのキーホルダーを使っている。 外務次官になって3年後昭和11(1936)2.26事件が起きた。駐ソ大使に任命され、翌年盧溝橋事件から北支事変が起きる。日ソ停戦協定を結ぶも、駐英大使を命じられる。こういう時でも、画家の牧野義雄画伯やベティ・シェファードという父がタイムズの主筆の美人との交流があって、政治談議が大変興味深かった。ちょっと長くなりますが、
牧野はいう「天皇は何百年もの間、京都の宮殿の奥の、さらに御簾という竹のカーテンの向うにおわします存在だった。わずか三代前までそうだった。それが明治維新という革命が起きると東京に移り、軍服を着て馬に乗られた。そういう柔軟性があるからこそ、日本の天皇は千年以上も続いている。だが今は、戦意昂揚に利用されているのだ。『天皇陛下万歳』なんて、厳つい怒鳴り声は、いちばん似合わない。」
 作者は、「天皇の権威は太古の昔から絶対的なものと思いがちだが、確かに時代によって一様ではないかもしれなかった。特に幕末に重光の父のような勤王家たちが現れるまで、天皇の存在は、今ほど顧みられなかった」という。
 ベティは「日本は満州や朝鮮を独立させる気はないの?」
 重光は「満州はいちおう独立国の体裁を取っている。わたしの個人的な考えでは、満州人自身が充分な軍備を整えたら、日本人は治安維持から手を引くべきだと思う。」と。
さらに、「朝鮮については、もとは中国の保護を受けていたが、中国は中華思想が災いして、軍備の西洋化が遅れた。それで日本とロシアとで朝鮮半島の取り合いになった。結局は、日露戦争で勝って、日本が半島を併合したという形だ。」
 ベティは聞く「朝鮮に独立運動は?」
「朝鮮には存在する。上海で爆弾を投げて、私の脚を失わせたのは、朝鮮の独立運動家だ。テロは容認できないが、いずれ朝鮮も独立すべき。」と重光は答えた。
 牧野は付け加えた。「一番の問題は、日本人の差別意識だ。日本人は中国や朝鮮の人々を見下している。それさえなければ、満州国だって、もっとうまくいってるはずだ。
 差別を受けた側は決して忘れない。俺はアメリカで、ひどい人種差別を受けた。唾を吐きかけられたり、石や煉瓦をなげつけられたりした。その点、イギリスは紳士だ。」
 重光は「志四海」という短冊を見ながら、父の言葉を思い出す。「日本は太古の昔から、中国から文化を取り入れ続けてきた。国力が逆転したのはここ30年か40年に過ぎない。
中国人にしてみれば、日本人に見下されるなど、とうてい納得できないだろう。江戸時代を通じて、中国はもとより、朝鮮も憧れの国だったのだ。」と。
父の見識の高さに頭が下がる思いだった。
(つづく)