隻手の声(佐藤節夫)The voice of one hand clapping.

世の中の片手の声をココロで聴こう。

油井さんの言葉Words of Yui

2015-07-25 11:08:15 | Weblog

油井さんの言葉Words of Yui 平成乙未廿七年文月廿五日

1961年4月 ソビエトの宇宙飛行Soviet cosmonaut ,Yury Gagarin ユーリ・ガガーリンは VostokⅠに乗って、 人類初の宇宙飛行を行った。
  "The sky was bluish."「地球は青かった」 と言ったとは、間違いがないが、何でも尾ひれがつきますね。
 「地球は青いブェールをまとった花嫁のようだった」がロシア語から英語に翻訳される際に「地球は青かった」に変化して広まった。
 
 The sky was very very dark, and the earth was like a bride wearing a blue veil.⇒⇒

⇒The sky was very very dark, and the earth was bluish. 

今回の油井亀美也(ゆいきみや)さんは 「地球がすごくきれいで言葉がないぐらい。みんなに見せてあげたい」と語ったという。

 "The earth is very beautiful, It's beyond expression. I'd like to show it to you ."
今回、彼はソユーズ宇宙船で、火星への有人飛行を目指した基礎データを取得することに参加する。


お読み下され、感謝いたしまs 

美濃路の白隠Hakuin on Mino route

2015-07-04 16:33:51 | Weblog
美濃路の白隠 平成乙未廿七年文月四日

 先日といっても、早く過ぎてしまう、3週間になる。正眼寺で正眼セミナーがあって、白隠禅師を取り上げられた。 講演者は学長の山川宗玄老師と芳澤勝弘先生であった。
 まず、芳澤先生が美濃路の白隠についてと、雷神図を解説された。
 20歳から32歳までの白隠の行状を語られた。大変な仕事である。白隠の行動を年代順に、どこで誰と会ってどんなエピソードがあったかを調べられた。
 
 白隠は1685年12月25日に東海道は原の宿(沼津)で生まれた。江戸時代早い人で5歳位で出家したものだが、白隠は15歳で出家、沼津で修行。幕末ころは寺はたくさん出来たが、皆は貧しく食い扶持を
持って入ったという。 幼名を岩次郎といった。11歳の時ある寺で日厳上人が勧善懲悪、地獄極楽の話をするのを聞いて、岩次郎はふるえあがり、夜もねられず、風呂を燃やす火を見ても焦熱地獄を連想して恐れた。そこで岩次郎は出家して苦行をつめば地獄から逃れることが出来ると考え、父母の反対を押し切って出家したというエピソードがある。
 20歳の時(1704)清水の禅叢寺(ぜんそうじ)から美濃大垣の瑞雲寺の馬翁和尚に掛塔。21歳には、洞戸の保福寺に移った。その頃の美濃には盤珪派の平実禅(これでいいのだという禅?)を説く僧が多かったが、「大丈夫たるもの、わが目で見ることを信ぜずして、噂をしんじるものでない」と退けたという。
 岩崎霊松寺の万休慧長和尚に謁し、伊自良・東光寺に移り、大巧慧龍和尚のもとで臘八接心をうける。
 22歳の時、若狭まで行く。23歳で、松山、西宮(おおさか)、舟に乗って伊勢へ行き、大垣に戻る。
 24歳の時、原、越後高田、長野飯山正受庵にて正受老人から痛棒を受ける。(語録がある。)

このころ富士山が、噴爆した。
 26歳の時の白幽仙人の訪問はフィクションだという。
「夜船閑話」の題は「白河夜船」から名付けたと手紙に書いてあるそうだ。 
 29歳の時、伊勢、鈴鹿、京都、若狭、大阪、堺へと足を伸ばしている。
 31歳の時、美濃・虎渓山、岩滝山へ。
   独接心をするのによい霊地が岩滝山で、山の上の鹿野徳源老人や複数の人が世話をした。
 32歳の時 「岩瀧山茅斎記」を書く。
 その中の話
 ある時、托鉢に出た折に、地元の者から次のような話を聞いた。
昔、関山国師が敕(ちょく・みことのり)によって伊深山を辞して京都に帰ることになった。ある老夫婦が涙を流しながら言った。「こんなに高徳で偉いお方とも知らずに、私どもの様なねじけた田舎者の仲間扱いをしてしまい、今となっては、お詫びのしようもありません。どうか願わくは、私らでも往生できるようなお言葉をお示しください」と。
 すると国師いわく、「近くに寄りなさい」。老夫婦が近づく。国師、「まだまだ、もっと。よい秘訣があるので、教えて進ぜよう」と言って、二人を左右に座らせ低頭させ、それぞれの頭を近づけさせた。そして、一方の手で親爺の首をつかみ、もう一方の手で婆さんの首をつかんで、ふたつの頭同士をいきなりぶちつけた。老夫婦は何のことやら分からないが、これまで味わったことのないような思いで、ありがたい気持ちでいっぱいになって、感謝をするのであった。こうして国師は京都に去って行かれた。
 白隠はこの話を聞いて、関山国師の慈悲心が深く骨髄に徹して分かったのであった。

 42歳で悟りを得、絵は10000点もある。84歳まで生きた。
白隠禅画「雷神図」
 「賛」 かみなり風の三郎所へ
     庄屋を頼み状をやる所   *雷神が書状を書いているところが描いてある。

 雨(慈雲の)を降らして下さいと庄屋は、百姓の代表としてお願いする。 風の三郎(風の神様)の手にしている書状は何と書いてあるのか?
図をひっくり返して読む。
 先生は解読した。
 『一筆令啓上候。   <~せしめそうろう>
 ひかれば、雲どもに、乍大義、  <光れば ~たいぎながら>
 迎ひ参候様に御申。       <むかひ参りそうろうように、御申し>
           *「御申」はお出ましを願う時に用いる語です。 
 **「そう頼まれてもわし一人では、雨を降らすことはできん。そこで風神や雲たちに一筆書くので、   御苦労ながらそれを届けてくれ。そして皆一緒になって、雨を降らしてやろう」というのでしょう。
 ***仏教の教えのことを法雨とか慈雨とか、雨に譬えます。その雨を降らせる雲のことを慈雲という。

 ****百姓はハクセイと読み、いっさいの人々を意味し、衆生つまり、われわれ、衆生の    ために慈悲の教えを垂れてほしいということを描いたものです。

     建仁寺霊洞院 蔵

次に、山川老師による「座禅和讃」の解説であった。
  
 お話の前に 椅子に腰かけ禅を3~5分するのが、決まりになっている。
 短い時間であるけれど、合図のチーンが会場に響く。

 あらたまって話を聞く。
    結論は『衆生本来仏なり』である。
       水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり

最後は対談でした。江戸時代は寺子屋教育で、識字率は60%だったらしい。各藩が明倫館など藩校を建てた。 美濃の山と川が白隠を育てたのであろう。

 良きセミナーであった。

お読み下され、感謝致します。