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加賀越前旅行・その3

で旅行の最後は、楽しい食べ物から一転、男の子向けなマニアックなのりもののお話。

かつては富山にあったがいまは小松市に移転した日本自動車博物館。もともとは富山のセメント販売業のオーナーのコレクションから始まった。懐かしいクルマがたくさん。でも建物の割にクルマが多いので結構ぎっしり並んでる。もっと間隔をあけて展示できる広い場所で見れるといいと思う。

これは1950年代の三輪のミニカー。右からメッサーシュミット、フジキャビン、ハインケル・キャビン。ちっちゃい!

ギャランGTO(左)とFTO(右)このGTOはMRというグレードでツインカムだった。かつて私が乗ったのは後の2リッターになった仕様だった。2リットルになっても4気筒エンジンは吹けが良かった。FTOはオーバーフェンダー付きのGSR。ホイルベースが短いので舗装のタイトコーナーでは4ピニオンのLSDにアップグレードすると抜群の旋回性能を示した。ピッチングに弱いのでラリーでは直進性が悪いので同じ4G32エンジンを搭載したランサーの方が多く使われた。

私がラリーをしていたころ、国内ラリー常勝だった初代、TE27のレビン/トレノ。これはトレノ。2TGエンジンのフルチューンのラリー車にも何度か乗ったが、速くて、クセがなく乗りやすく、メンテも容易だった。先輩がこの後、二代目トレノのラリー車を所有していたが、重量増などのせいか、機敏な初代に比べかなり鈍重なイメージがあった。

これはいい状態!ポルシェ356  アメリカで最近 ビンテージ市場で高値。

ビンテージ市場で高値といえばコレ。もはや「億の世界。私が学生の時、中古で300万円で買えた。もっともそのころの300万円は今の1千万円超だろうけどね。

これはいすゞのヒルマン。イギリスのライセンス生産。最初はKD(ノックダウン)生産から始まり数年後に国産化。

ヒルマンのライセンス切れから、その後継的な意味合いで開発された。ディーゼルエンジンで話題になったが、そのカタカタとうるさいエンジン音、塗装の不具合、組み立て品質の悪さからイマイチ評価が悪かった。でもこの三角の形状のリアのライトは懐かしい。

ライセンス生産からはじまったといえば日野のルノー4CV。子供のころ、タクシーで初乗り60円だった記憶がある。今見ると、室内、狭いなんてもんじゃない!

これは初代シルビア。スペシャリティーカーという言葉があったがその最初がコレ。たしか東名道あたりでパトカーもあった。

マツダキャロル。高校のときの化学の先生がずーっと乗ってた。

これはプリンス自動車のプリンス・セダン。プリンスは前身、「たま自動車といい、後の日産の技術担当の常務になる田中次郎氏やスカイラインで有名な桜井眞一郎氏が若手の技術者として頑張っていたらしい。

同じくプリンス自動車、左が初代、右は二代目のグロリア。 右のスーパー6、この色と同じクルマ、軽井沢で皇太子様(現天皇)がご自身で運転してご滞在先の門から出て行かれたのを見たっけ。超ごゆっくりで慎重な運転でした。

これはスカイライン・スポーツ。デザインはミケロッティ。1962年当時、クラウンの2倍の価格だったそうな。

これはプリンス・スカイライン、初代。最初は全然スポーティじゃないね。

途中で日産と合併したときの二代目スカイライン。これらは1500のボディをロングノーズにしてグロリアのG型6気筒を搭載した2000GT。右は2000GTBで、いわばGTRの先祖的な存在。レース用のウェーバーのキャブ3連!付き。当時ウチの父所有のは2000GTAだった。

戦後初の国産設計の国産乗用車。トヨタSA型。1948年に東海道線の急行列車と競走して買ったというデモンストレーションをしたことで有名。ダットサンに対してトヨペットという名前もこのクルマの愛称的に使われたのが最初らしい。品質的にはまだまだ低い水準だったようだ。

こちらはトヨペット・コロナ(初代)当時は小型タクシー市場でダットサンに負けていたのでそれに対抗して投入したらしい。当時はさほど、車種のバラエティのない時代なのでタクシーに採用されているか否かということは大きなセールスポイントだったのだろう。

ダットサン210系。この頃はまだ、フロントサスペンションもリジットだった!

こちら、日産ブルーバード・ファンシーデラックス。ウインカー作動時のオルゴール音やカーテン、今じゃ当たり前のサンバイザー裏のバニティーミラー、ハイヒールボックスなど、初の女性向け仕様乗用車で話題を呼んだ。

 

日産セドリック 日産発のモノコック構造。これは初代の後期型、ヘッドライトが「タテ目」から横にかわる。

崑ちゃんのミゼット。子供の頃、エンジンかけないで、運転席にのって自転車みたいなハンドル握って、大人の人に押してもらって超うれしかった。

懐かしいサーブ96。非力だったがFFゆえ、結構雪のラリーでは国際的に活躍しエリック・カールソンやスティグ・ブロンクビストなど名選手を生んでいる。一番最初は2サイクルエンジン。

1960年代中盤のベントレー。実はこの一つ前のモデルのほうが曲線がオシャレで個人的には好き。今のベントレーは成金的でチョット引くけど・・・(どうせ買えないし)

カルマンギア。60年代コレに乗って軽井沢にいたお坊ちゃまクンはオシャレだった。

60年代前半のフォード・タウナス。U型のアップアラウンドなバンパーが印象的。結構東京の街中でも見られた。宇津井健の「ザ・ガードマン」でも有名だった。

締めに メルセデスのガルウィングの300SL。これは夏木陽介の所有らしい。このクルマを見ると力道山と裕次郎を思い出す。それにしても乗り降り大変そうだね・・・

あ、そうそう、ついでだけど なぜかこんなものもありましたよ。

以上でクルマは終わり。さて帰路のため小松飛行場に行くが、まだチョット時間がある。

で、ここに寄ったよ。「石川県立航空プラザ」空港の真ん前!

おお、本物のF86セイバー戦闘機。朝鮮戦争で活躍した戦闘機で、日本の航空自衛隊の主力戦闘機でもあった。初代のブルーインパルスの機体で東京五輪の大空の五輪を描いたヤツ。この頃、本気で将来は五輪の体操選手になるかブルーインパルスのパイロットになるか悩んだ。

 

ブルーインパルスの二代目はコレ。国産(三菱重工)のT-2。このペイントのデザインは当時の女子高生だって!もちろんパクリなし。

最後にコレ、ロッキードF104J。これは大好きで幾つかプラモデル作った。カッコ良くてあこがれたなあ。今見てもいいなあ。でも子供の頃思っていたサイズよりは小さかった。

奇しくも、明日は集団的自衛権行使容認の安保法案決議の日。チョット複雑な心境・・・

・・ってなわけで 金沢の旅行最終日は小松飛行場界隈の男の子的にはしっかり楽しめる施設でナイスな時間つぶし。

奥さん、つまんないもの付き合わせてごめんなさい。

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AKBの選挙。

安倍政権の支持率が下がったそうだ。昨年末の前回選挙の後、安倍政権の支持が増え議席も増えたのは記憶に新しい。そして、いうまでもなくこの時点のずっと前、少なくとも選挙の前から安部氏は集団的自衛権の行使は許される!と言い続けている。(同様に原発の再稼働も見えていた。)すなわち選挙の前から、数の論理でごり押しし今回の結果にいたる筋書きはほとんど見えていた。そんな筋書きを知ってか知らないか、前選挙の時に支持して自公民の議席を増やしてあげて、今回支持しない!といっている選挙民がいるわけだ。まったく無責任な選挙民だ。そうした選挙民は今になって反対しているかもしれないが、あの時、明白に安部氏の背中を押したのだ。そして今日のごり押しに至ったと言うことだ。経済がちょっとばかり好転していたから・・・とでも言い訳をするのかも知れない。しかし、それはまんまとその手に乗ったということだ。AKBの選挙じゃないのだから選挙民はもっと慎重に責任を持って投票しなくてはいけない。繰り返し言うが、歴史的に「国民の思考レベルより高い水準の政治」はない。悪い言葉で言えば、ダメ国民が多いとにダメ政治になるということ。 

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加賀越前旅行・その2

引き続き食べ物編・・・

これは金沢近江町市場。金沢の中心街にある金沢の食文化を支える「市民の台所」

なんたって日本海の魚は世界一!特にこれから冬が食べごろが多い。味の良いズワイガニ!でも結構いいお値段。

ボタンエビや甘エビも美味しいが、冬がベスト。

甘エビはもちろん生もいいが、こうしてカラっと揚げても美味しい!

今が食べ頃らしい幻の魚と呼ばれるノドグロ(あかむつ)日本海側では最高の味を誇る魚で、鯛よりも重宝されている白身魚の王様。値段も大きなものだと上限一匹4~5千円!刺身良し、焼いても良し、煮ても良し!

これはノドグロの塩焼き。お値段高いから半身!脂のノリが最高。

これはお宿の夕食の前菜。オシャレだね。

お造りはもう言葉が出ない鮮度。

これは治部煮(じぶに)という郷土料理。鴨肉と地元野菜。ギザギザの端のものは金沢特産の「すだれ麩」汁の味は醤油・砂糖・みりん・酒。肉にまぶした小麦粉が汁にとろみを加える。結構甘めの味付けなので好みはわかれるかも・・・・

海産物のみならず野菜も「加賀野菜」というブランドの地元産のものも有名。これは金時草(きんじそう)という葉の裏が紫の葉物野菜。紫の成分はアントシアンと言って、抗酸化作用があるそうな・・・茹でると粘りが出る。天ぷらにしても美味しいらしい。

 
お宿の朝食で頂いた地元・加賀野菜。ダシのお鍋にサッと通して頂く。見るからに健康に良さそう。

炭火で焼く絶品、一夜干しののどぐろ、カレイやホタルイカ。朝からごちそう過ぎ。尿酸値ヤバっ!

夕食の前菜。オシャレだね。

お造りはもう言葉が出ない鮮度。

これは治部煮(じぶに)という郷土料理。鴨肉と地元野菜。ギザギザの端のものは金沢特産の「すだれ麩」汁の味は醤油・砂糖・みりん・酒。肉にまぶした小麦粉が汁にとろみを加える。結構甘めの味付けなので好みはわかれるかも・・・・

これは恐竜博物館の近くの勝山市内でいただいた福井名物??左醤油カツ丼、右はソースカツ丼。まあ、味は説明するまでもないけれど、醤油のほうはショウガ焼きに近いお味。

 

さて甘い物・・・

これは金沢の名品、金粉入りソフトクリーム。買ったお姉さんが写真を撮らせてくれた。「箔一」という金箔のお店で売っていた。で、お値段も¥891(はくいち)。

名物 中田屋の大納言小豆きんつば。歳をとるとこういう和菓子のを頂いて旨い!と思っちゃう。

 

仕上げはこいつ。お宿のお風呂上がりのひんやり梅ゼリー。さっぱり冷たく湯上がりにピッタリ!

まあ、北陸はホントに美味満載。

あすは、自動車と飛行機のミュージアム編。

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加賀越前旅行 ・その1

36年ぶりの金沢。金沢は就職して最初に名古屋に赴任したときに担当した地域のひとつで、当時は毎月延べ1週間ほど滞在していた。秋は雨が多く、長い冬は雪の日々。仕事の環境も厳しく、あまりいい想い出がない。

これは金沢駅。駅も含め、36年も時が流れるとまったく昔の面影はなく懐かしいと思う場所がほとんどない。ローカル色たっぷりだった駅前広場も今やまるで大都市の駅だ。

幸いなことに、このような茶屋街など古い街並みはキチンと保存されていている。

建物の中も原形を損なうことなく、陶器・和菓子・小物などおしゃれにディスプレイしたお店が並ぶ。

これは金沢で最初に宿泊したホテル。今回はレンタカー利用なので、駅から多少離れている出来たてのホヤホヤのホテル。部屋も広く、駐車場が無料で豊富な点、駅近より有利。

これは福井県立恐竜博物館。山の中にある恐竜だけの博物館!

リアルに動く! 

これは史上最大のウミガメの先祖「アーケロン」。かなり大きい!全長が4m以上、左右の水かきの端から端までが約5m弱もあるらしい。重さなんと2トン。これ海中で会ったらビックリだなあ。 

恐竜つながりってわけじゃないけどゴジラもいたよ。金沢近郊の故郷に記念館があるんだね。

二日目は山中温泉。紅葉のころはキレイ。冬は雪景色と美味しい蟹や魚貝がいいね。

奥の細道の旅の道中、芭蕉は山中温泉で八泊したらしい。「山中や菊は手折らじ湯のにほい」

湯上がりに、芸妓連の「山中節四季の舞」が観賞出来るっていう「山中座」はアンティーク風な近代建物。山中温泉は、伊豆などの旧態依然としている温泉街などにくらべ 街並みづくりなども まあ頑張ってる方かな・・・

お宿の部屋の風呂。サウナと水風呂と掛け流し温泉。パーフェクト!

夫婦で宿泊日と誕生日が近かったので贈りもので頂いた九谷焼の夫婦湯のみ。

お宿の食事何処の内装。有名な和紙デザイナーらしい堀木エリ子氏の作品。

上品な明るさと適度なシャープさと和紙の優しさが調和。すばらしいね。

明日は その2 北陸の美味編。

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備える・・・

異常な雨量が日本列島を襲い多大な被害が出ている。とにかく自然は怖い。空・陸・海・川の全てが人に恵みを与えると共に、時にこうして猛威をふるい私たちにその恐ろしさを教える。なにより普段はやさしい空気と土と水が一変し凶暴になるのである。

日本も阪神大震災、東日本の震災などの苦い経験を経て、防災意識も高まり、国や地方自治体も過去の教訓を活かして進歩はしているのだろう。

震災に対する備えは、ハード・ソフトが一体になった強固なシステムとして構築し、いざという時に活かされないと意味がない。

8月下旬に中国・天津で 化学物質倉庫で大規模な爆発事故が起きた。このとき、トヨタ自動車の天津の自動車組み立て工場で完成車だけで5千台弱の被害を被ったそうだ。幸い日本の夏季休暇に合わせて現地工場も休みだったため人的被害は限定的だったが、すぐには再開が見通せない一大事となった。

この直後の対応がすごい。

 翌日から現場で被害の確認にあたり、数日後には東日本大震災の際に現場の指揮官を務めた幹部らが現地に到着。生産設備の確認や復旧にあたるエンジニアらが応援に入り復旧の検討を開始。幹部の一人曰く「東日本大震災やタイの洪水の際の経験が役に立った」とのこと。

即座に風評被害の回避のため、事故の際に現場に置いていた完成車を販売しないことはもとより、工場の中にあった仕掛品、すなわち生産途中の車もわざわざ最後まで完成品にしてから破棄したらしい。これは一見、”わざわざ完成せず、その時点で破棄すればいいのに”と思うところだが、実はクルマというのは車両とその個々の部品が連動して流れており、いわば "ひも付き" であり、これを崩さず流しきった方が、復旧時にヨーイドンで新しい部品を円滑に流すための現場の知恵だ。ここで恐らく、工場内の仕掛品の残数量を考慮したコスト計算が即座になされたはずだ。 

あわせて もう一つの知恵は部品メーカーの被害状況の把握だ。東日本大震災の教訓を生かし、直接取引する1次メーカーに加え、2次以下のメーカーの詳細なリストも事故前からしっかり作成されておりその所在地も正確に把握できていた。だから事故直後、近隣に立地するメーカーがすぐに分かり、次の行動に移しやすかったとのことだ。

 日本からの応援の役割も大きかったが、現地社員の初動の適切さもすばらしかったらしい。ある稼働中の部品メーカーでは事故直後、作業者が列を作って整然と避難した。屋外の車両置き場では爆発の影響で1台が炎上したが、とっさの機転で周囲の車両のガラスを割って動かし、延焼を避けたとのこと。

そして、もう一つ、世界でもっとも大きな自動車メーカーの「社長」が現地に飛ぶのである。雨が降り風がひどい悪天候にもかかわらず、現場をつぶさに見て回ったらしい。そして警備員や設備の保全に携わる社員など“縁の下の力持ち”の話に重点的に耳を傾け、「不安ななか勇気ある行動をしてもらいありがとう」と繰り返したという。ある現地社員は「勇気をもらった」と話す。社員にとってこんな嬉しいことはないだろう。

実はこの工場、設立わずか15年でトヨタからの出資率は50%だそうだ。それでこれだけ、徹底したことが出来るのがトヨタならではの現場力ではなかろうか。 

規模志向で安直な結果追求だけに陥っているため事故や不具合の多い中国の生産現場事情に比して、トヨタの見せた災害へのこの準備・対応の力量を見る限り、まだまだ中国など足下にも及ばないと思うと共に、日本がこうした現場力を忘れず、突き進むことが将来の繁栄への鍵であると痛感する。世の中が変わってどんなに進化しても モノを作り続ける限り、基本は変わらない。日本の製造業の生き残るキーは、これまで培った現場力の更なる研鑽であることを確信する。

さて、豪雨災害にもどるが、先ほどのニュースで、災害対応で地方自治体によっては情報伝達、対応の混乱も語られていた。地方自治体や国も少し、トヨタに勉強に行くといいかもしれない。

それと自衛隊諸氏が 身を挺して救助にあたる真摯な姿を目にして、これらの頼りがいのある私たちを守ってくれる人を戦場に送り込んで、命の危険にさらすようなことがないようにと祈ってしまう。

私が戦地にいくならまだしも、自分は行かないクセに誰かが危険にさらされる可能性のある法案には恐ろしくて安易に賛成はできない。

自然も本当に怖いが 人間の暴走も自然災害同様、どれだけ時を経て歴史を重ねても決してなくならない。 

そういえば、今日は奇しくも忘れ難いあの「9月11日だな・・・

 

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