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天才逝く。(後編)


大賀さんはあらゆる分野に対して感覚的に鋭いセンスを持ち合わせていた。若い頃のソニーのデザイン室での活躍ぶりは前述のとおりだが、会社のロゴマークであるSONYの4文字も実はよく見るとSが大きくYが小さいのである。これは大賀さんがデザイン室長時代に最初の仕事であったそうだ。このようなちょっとしたバランス感覚まで鋭いのである。こういうセンスが音楽家としても素晴らしい才能発揮の礎になっているのかもしれない。


当時、入社前の研修以来ずっと仲の良かった同期の女子社員がいた。彼女は当初仕事に悩んでおり、私も単身赴任で名古屋でひとり寂しかったので、幾度か手紙をやりとりしたり、たまに上京すると会ったりしていた。その後、彼女はソニーの秘書室に異動になり大賀さんと仕事上も休日も行動を共にする機会が多かった。たまに休日に会うと、ずっと大賀さんの話ばかり聞かされた。卓越した仕事ぶりや才能をダイレクトに聞かされるのである。気がつくと、何を勘違いしたか私は大賀さんに嫉妬を感じるようになっていたのだ。何がどうひっくり返ったってかなうわけがないのに勝手にライバルだと妄想していた。で、私は何をしたかというと、「大賀社長に認められたい」などと思うようになり負けるモノかと仕事を一生懸命やり、あらゆる勉強も狂ったようにした。ここで自分のしたことをこと細かく記載すると自慢話っぽくなるので書かないが、とにかく大賀さんと彼女のおかげで私は大いに成長できたと感謝している。


(入社時の社内報より-左上から2人目ヘンな帽子をかぶっているのが私。左下は尾崎豊・浜田省吾を売り出した名ディレクターの須藤晃君。 右下のヒゲ男は現・ソニーミュージックエンターテインメントCEOの北川直樹君)



私は一介の平社員だったので、大賀さんに身近で会うことはなかったが、一つだけ大賀さんの隣に並んで仕事をした思い出がある。それは今はなき、品川のホテルパシフィックで全国の販売会社の社長と優秀なセールスを招いたコンベンションで、大賀さんが各社長ひとりひとりに挨拶をする機会があり、その時”ライバル”大賀さんの隣に私が立ち大賀さんの向こう隣には、当日のショーのゲストだったジュディ・オングが白いドレスで並んで、私が大賀さんとジュディにひとりづつ販売会社の社長を紹介していった。大賀さんは身長が高く恰幅もいいので横にいると威圧感があった。今思えば、大賀さんと一番近くで仕事ができた唯一の思い出なのに、その時はジュディオングの美しさと足の小ささのほうに驚いていた!「きっと楊貴妃ってのはこんな感じだったのかなあ?」とか余計なことを考えていた。

羽のように両手を広げて Wind is blowing from the Aegean~♪ と唄ったあの曲がが大ヒットし、レコード大賞を受賞した1979年だった。


その後も夢を持って仕事に励んだ日々を送っていたが、残念ながら事業を経営していた父が倒れ1981年の春、私は後ろ髪をひかれる思いでこの会社を去った。山口百恵が引退し、入れ替わるように松田聖子が大ヒットした頃だった。


大賀さんはその後もCBSレコード米国本社やコロンビア映画の買収やプレイステーションの成功などソニーの宰相として、また社外でも経団連副会長や行革推進委員長などを歴任し、数々の功績を残した。ソニーというと井深さんや盛田さんの名前が挙がるが、こうした2人の優れた創業者の方針や発想を、さらに価値あるモノやサービスとして具現化し、業績向上に最も尽くした大賀さんがいなかったら 世界のソニーはなかったかもしれない。


実務を退いてからは多忙故できなかった音楽家に戻った。指揮者としてベルリンフィルや東京フィルなどを率いてタクトを振った 2001年には北京でオーケストラを指揮中に脳卒中で倒れ、3カ月間も意識が戻らない生命の危機もあったが奇跡的に乗り越えた。その際、軽井沢などで療養していたがその縁でソニーの退職慰労金の手取りほぼ全額を寄付してつくられたのが軽井沢大ホールである。ご自身もホールで折りを見て指揮者としてステージに立っていた。この連休中も5月4日に大賀さんの指揮で東京フィルハーモニーとの公演が予定されていた矢先の逝去だった。


自分が軽井沢に縁があったことから そのうちいつかお会いできて、なつかしい思い出と感謝の言葉をつたえられればと思っていた。今となってはそれもかなわぬこととなった。来る5月4日も大賀さんはホールでタクトを振る予定だったが、体調を崩され4月23日急逝された。思えば入社時に盛田さんが音楽家と企業家の二足のわらじを約束したが、実際は多忙故に音楽家は断念していた。そして引退後 オペラ歌手はずっと歌っていなかったから無理だが、指揮者ならできると言い、ソニー入社以来およそ40年ぶり?に 音楽家・大賀典雄に戻った。最後の10年くらいは楽しい余生を送られていたのではないだろうか。  



折しもこの震災後の日本の危機の最中に亡くなられるとは・・・・

この危機を救えるような 大賀さんのような、強い志と経営センスのある すばらしいリーダーはいないものだろうか・・・・


生きておられるときに言いたかった。「大賀さん、ありがとうございました。」


どうぞ安らかにおやすみください・・・・・


 

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天才逝く。(前編)

 

スポーツや芸術の世界で「天才」と感じさせる人がいるが、ビジネスの世界でも「天才」を感じさせる人がいる。

私が一番仕事の中で「天才」を感じさせてくれた人は先日急逝された元ソニーCEOの大賀典雄さんだ。


氏が社長を務める会社に所属した事があるので、思い出を少し語りたい。 


学校を出て就職の春。CBSソニー(現ソニーミュージックエンターテインメント)入社式。当時会長だった盛田昭夫さんは「ソニーという会社は あなた方を馬にたとえれば水飲み場まで連れて行きます。でもそこで水を飲むかどうかはあなた次第です。」といった。要するに社員の活躍の場は与えるが活躍できるかどうかは実力次第だということだ。


次に挨拶に立った当時社長の大賀典雄さんの挨拶は以下の通りだった。レコードを発明したのはエディソンで、素晴らしい発明だったがエディソンは当初の筒型に以降も固執していた。後にベルリーナという人がもっと長時間録音できるようにと、柔軟に発想を広げて円盤に記録する現在のレコードをつくった。仕事で様々な決断をするとき、もう一度別角度から考えて見ようということだ。また「群盲象を撫でるの図」という中国のことわざをたとえにだした。これは、ある人は象を触り、足だけをさわって大木のようなものだといい、またある人は鼻だけを触り ヘビのようだったといい、ある人は耳をさわりうちわみたいだったといい・・・すなわち物事は一部分だけから見てはダメで多面的にみなくてはいけないということだった。大賀さんは常に一つの成功に甘んじることなくそれを打破しなくてはいけない。常に習慣や前例にとらわれず、頭を柔軟にしていろいろな角度から発想するように社員に問いかけた。社内で 前例がないから・・・とか それは以前にもうやってダメだったから・・・とか 現実性がないなあ・・・とか 頭からアイディアを否定する言い方は御法度だった。 


(10周年記念で山口百恵を表彰する大賀氏)


当時すでにソニーの専務だったのでたしか週に2~3日しか会社には顔を出さなかった。かっこいいブラウンのダイムラーが駐車場に駐まっている日は社長が来ている日だった。週に数日しか顔は出さなくとも当時専務の小沢敏夫さんのサポートを得て、総てを把握し、自分のアイディアも出し、リーダーシップを十分に発揮していた。驚異的に素早い理解力と人を驚愕させる創造力は誰にもマネのできない天性だった。忙しい毎日なのに、アメリカに渡って飛行機の操縦免許を短期間で取得したり、日曜日にはヨットに乗って大海原に出た。


そもそも大賀さんは東京芸術大学で声楽家を目指していた。ちょうどその頃、テープレコーダーを開発中だったソニーが芸大の学生に使い買ってをモニターしてもらった。その中でひとり細かく専門的に注文をつけた学生が大賀さんだった。創業者の井深さんと盛田さんがこいつはおもしろいやつだ!と目をつけ、ソニーに強引に引っ張り入れたのだ。入社後、いろいろな分野で大活躍をし、早くも30才代で取締役製造部長になる。数ある大賀さんの最大の功績の一つはデザイン室長時代、今でこそCI(コーポレートアイデンティティ)などという言葉があるが、そんなことどこの会社も考えていない時代に社名のロゴから製品のデザイン、宣伝広告など総てを垢抜けた高品質感にあふれたイメージで統一し他社製品と差別化したことだ。それまでソニーは「ソニー坊や」こと岡部冬彦さんという漫画家の作品の「アッちゃん」(写真下)という子供のキャラクターを店頭などに人形で置いたり、広告で使用していた。この「アッちゃん」は社会的にも浸透していた親しみ深いキャラクターだったが、大賀さんはこれはこれからのソニーの目指すイメージではないと、岡部冬彦さんに頭を下げて使用をやめたという逸話がある。




とにかく氏のざまざまな畑違いの分野での大活躍がソニーを国際的な企業にすることに大きく貢献するのだが、こういう人材に目をつけ引っ張る井深さんと盛田さんの眼力もすごい。


そんな大賀さんは1968年、アメリカのCBSとソニーの合弁会社としてレコード事業を立ち上げる際、社長として送り込まれ総てを任される。レコード事業はソフトとハードの両輪で会社を発展させていくという戦略上、ソニーにとって欠かせない重要な新規ビジネスだった。ここで、大賀さんは CBSソニーはソニーでもないし、CBSでもない独自の会社であり独自の社風をつくりあげるというテーマのもと、会社設立時の人材募集も一般公募であらゆる業種から募った。ありがちな同業からの転職者はかなり少なかった。当初はレコード業界の古い体質と戦い苦難の船出であったが、ここでも持ち前の創造力を発揮し約10年で売上面でも業界一位の企業に育てた。財務内容も親会社を遙かに上回る驚異的な利益率や自己資本率を誇った。おかげで給与・賞与も今では考えられない高水準だった。


私が入社したのは、創業8年目くらいだったと思う。会社としては創業の基づくりの時期から次への拡大のステップアップの時期だった。このころは、山口百恵、キャンディーズ、郷ひろみ、太田裕美など数多くの売れっ子アイドルを世に送り出していた。音楽メディアの技術面では後のCD化の礎となるPCMデジタル録音をソニーの技術力を持ってなしえてデジタルオーディオの新時代の幕開けの頃だった。レコードの静電気の音や針飛び・テープの走行ノイズなどが皆無になると言うことは当時、驚愕だった。同時に今では当たり前となった映像メディアへの取り組みもすでに始まっていた。


(世界初の16ビットによるPCMデジタル録音開始時の社内報より)


10周年の際に、社員に労をねぎらうと共に、10年で溜まったコレステロールを会社から除去しゼロからスタートの大運動をするといった。そして来るべくレコードからCDの時代への変化と新たにビデオソフトへのチャレンジを旗振りした。反面、日常業務でのコスト感覚も相当厳しく、10人での会議にたった1人が5分遅れてくるとすると、5分の損でなく5x10で50分の損失であるなど徹底していた。それとコストを考えるのは単にケチるこどではないということをたたき込まれた。いわゆるVA(価値分析)の発想で、分子たるアウトプット(仕事の成果)と分母たるインプット(コスト)を常に考えるようにいわれた。こうした基本発想はすべて「社員手帳」に明確に記されていた。このようにコストや仕事の成果追求も厳しいけれど 基本的には 夢があり進むべくベクトルが明確な経営方針を常に提起していた。社員に夢と方向を示すことは 経営者として一番大切なことである。

 

昨今の大企業経営者は 保身に走り社員のモラルを高揚させる夢と方向を示すひとが 少ない気がしてならない。

上がそうだから部下たちも同じように保身に走る。従って はるかに元気な韓国・中国人のビジネスマンに追い越されている。


日本経済 ”失われた20年” というが こうしたことの結果ではなかろうか?     (続く)

                                                                   

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右側にずれたけど・・・

 キャンディーズは僕らが大学生になった頃、「あなたに夢中」でデビュー。アイドルらしいカワイさと歌唱力からスーちゃんは立ち位置センターのメインボーカルで売り出した。デビュー曲から4作目まで大きなヒットに恵まれずシングル売り上げ枚数もそれぞれ20万枚に届かなかった。

なんとかマンネリを打開すべく所属の渡辺プロダクションは5作目でスーちゃんにかわって蘭ちゃん(伊藤蘭)を立ち位置センターでメインボーカルにすることを提案。そして皮肉にもこの5作目「年下の男の子」は50万枚を超す大ヒットとなりオリコンも6位まで上昇。

選曲の妙も多分にあったが、とびきり美人でもないが、男好きのするちょっと色っぽい蘭ちゃんの方が世間には受けたわけだ。

個人的には蘭ちゃんの方がかわいいとか思っていても、テレビの画面の右端にずれたけど 笑顔で歌うスーちゃんをみて、ちょっとかわいそうだなあ・・・と同情してた。 

 こうしてスーちゃんが脇役になることをきっかけとしてキャンディーズは以降、引退まで約4年半の活動で通算100億円弱のレコードテープを売り上げる人気アイドルとなる。

学校を出てボクはなぜか彼女らの所属していたレコード会社に就職。入社した頃は「やさしい悪魔」がヒットしていた。翌年、全国をめぐる引退コンサート(キャンディーズ・ファイナルカーニバル)では、3月の名古屋市国際展示場での応援にかり出され、キャンディーズのロゴの入ったブルゾンを着て楽屋前付近の警備やらファン整理から現地即売のブースまで朝から晩までホントに忙しい一日だった思い出がある。

そして迎えた4月4日、最後の東京での公演。後楽園に5万人以上入場の伝説の引退コンサートとなった。

脇役へと退いたきっかけの「年下の男の子」の曲紹介ではスーちゃんがMCをした。

 「みなさんの歌声が聞きたい。一緒に歌って下さい。私達にとってとても思い出深い曲です!」

と涙を浮かべて大声で観客席へ問いかけた。スーちゃんにとっては悔しかったがキャンディーズとしてはトップアイドルに躍り出られた曲なので複雑な心境だったと思う。

そして キャンディーズとして最初で最後のオリコン1位になった最後のシングル「微笑がえし」の3番、最後のサビ・・・

 ♪ やさしい悪魔と 住みなれた部屋 それでは鍵が さかさまよ おかしくって涙がでそう ♪

ここで 蘭ちゃんと入れ替わりスーちゃんはセンターに移動する。最初で最後のオリコン1位になった最後のシングルで4年ぶりにセンターに戻った。

こうして画像を見ていると昨日のことのようだ。センターに移動して涙を浮かべて熱唱するスーちゃんを見ていると涙が止めどなく溢れた。

キャンディーズでは蘭ちゃんにセンターを譲ったが、引退後は 女優として著名な映画に多く出演し日本アカデミー賞主演女優賞も受賞した。確実に演技派の大女優に上り詰める途上だった。

まだまだこれからいい女優として活躍できるひとだったのに・・・

悲しい・・・・R.I.P.

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443万人の罪 

 

震災は天罰といった人には震災は神風だったようだ。

 

本音で天罰と言い、こりゃまずいってんで深くお詫びしますと口先でいい、消防隊の帰還に涙するという弟顔負けの上手な演技でお涙好きで保守的な高齢者の支持で当選した。東京は日本のダイナモだといい震災に強い東京を作り上げると選挙になってからつけ刃のように言っている。どうしてこれまでの12年の任期中に震災につよい東京をつくらなかったのだと問いたい。今東京に巨大地震が来たらどうなるのか?彼がなにをしてきたのだ?

 

長年にわたって都知事を務めたにもかかわらず、なんら都民が喜べるような施策で実績を残さない人が、この先明日を担う若者の意見より去りゆく中高年の意見で選出されたことを憂う。世界有数の大都市東京でボーダレスの時代にこんなに国際感覚のない人がまた選ばれてしまった。

 

もし彼が本気で都政を変えたければ 立候補はもっと早くあるべきである。土壇場で立候補を決めたとき”国家の危機感ゆえに”とか言ったがこれは詭弁である。まじめに都政を考えていれば立候補者の受付開始日に同じ事を言って立候補すべきである。ウソ見え見えである。同様に東国原という人も立身出世のステップとして次は都知事か国会議員かどっちにしようかという個人的な意向で動いているのが丸見えである。本気で都政をかえたいというなら、さっさと立候補者の受付開始日に候補するはず。宮崎同様に東京も踏み台にするつもりだったが、”想定外”の震災がらみで失敗したので次は国会議員ねらいか?

いずれにしても反・石原の票をワタミの社長から取り、分散さたことにより結果的には石原の援護をした形となった。

 

石原のために立候補をやめた松沢という人も情けない。本当に都政を思うなら、石原さんここはぜひやらせてくれ!たのむ!と言うぐらいの気概があるべきで、どれだけ恩義があるか知らないが、石原が出馬するからということで退くようではその志を疑う。こんな人は、もし仮に都知事になっても、きっと国民より仲間の政治家のメンツや立場を優先するに決まっている。こんな人に政治は任せられない。

 

ワタミの社長はそういう点では掛け値のない実直な立候補だったと思うが、なにぶん実績のないことが、震災でさらにマイナスに働いてしまった。

 

こうして数々の幸運に見舞われて当選した後でふんぞり返って実力のように振る舞う態度は、彼らしくいつ見ても下品だ。

 

1995年にも大前研一が同様の経営的な発想で改革を試みようと立候補したが、なんと都民は元祖タレント議員だった青島幸男を選んでしまった。あの時もし、大前研一の試みを実行するチャンスを与えていたら、その成否にかかわらず経験として政治レベルが一歩前進できた可能性は高かったと思う。

 

神代の昔から ”政治のレベルは絶対に市民のレベル以上にならない” という格言があるが またまたそれを痛感することとなった。かくして東京はまた改革の機会を逸した。

 

それでもTwitterなどで、ずいぶんと若い人たちが投票を呼びかけ東京に行かないと老害が当選してしまうと危機感をあらわにしている人がいたのは救いだった。

 

とにかく事実は以下の通りである。

 

 投票に行かなかった人  443万人   

 石原以外に投票した人  341万人   

 石原に票を入れた人   261万人  

 

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しょあんめえ・・・・

しょあんめえ・・・・とは 福島の方の方言で「しかたない」「しようがない」が訛ったことばである。

めったに会わなかったけど 子供の頃、福島の田舎のおばあちゃんが、頬に手を当てて「しょあんめえ・・」って言ってた。

原発の汚染区域で避難する第二原発のある福島県双葉町のある初老の人がインタビューでこう語りため息をついていた。

「ずっと前から自分の町に原発があるのは危険だし、まして自分たちの町にあるにもかかわらず自分たちの使う電気を生産しているわけではなかったから不満だった。でも これで東京に役に立つことだし、東京が良くなってこそ 我々も生きていけるんだと思っていたからねえ・・・・」

それを聞いて泣けてきた。--- 東京のためにもうしわけありませんでした。

私の父は原発からも遠くない福島のいわき出身の人間だった。幼い頃 父が営む工場には東北から上京してきた人がたくさん働いていた。後に自分もこの工場の経営者として、東北出身の多くの人と一緒に汗を流したから こういう福島県-というか東北の人の気質がわかる。

しょあんめえ・・・と言って 黙々と我慢してがんばるのである。

ところが時としてこの我慢強さが仕事の上では問題点を顕在化せず、がんばりで対処することで根本的な改善を妨げることも少なくはなかった。だから良く朝礼などでも「みなさんが問題処理でがんばってくれるのはありがたいが、声を大にして問題提起して問題点を根こそぎ除去していきましょう」と問いかけた思い出もある。

私の父親も多くを語らず我慢する気質で 皮肉にも沈黙の臓器と言われる 我慢強い臓器、肝臓の癌で60才でこの世を去った。 

そうしたなつかしく いとおしい まじめな東北気質を このような悲しいことで思い出すのが切ない。

いわきには今でも親戚がいるが、幸いなんとか大きな不自由もなく元気でいるようだ。

あまり我慢しちゃだめなんだけど・・・ 

 (父の写真。貴重な孫とのくつろぎの写真)


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