ちょっと書いとこう・・・・
Feelin' Kinda Lucky
たいしたことない選手
さて、過日 古いモノの整理をしてると中学のころの古い賞状が幾つか出てきてなつかしかった。賞状といってもあまり威張れる表彰状でなく参加しましたよ!の証が多い。
この上の五輪マークが見えるのは1964年の東京五輪の祝賀書道展覧会のただの参加賞。だれでももらえる。半世紀前だね。下の書き初めのは確か「春の海」って上手にかけて入選して武道館に行って書いた。他にも勉強のできたSくんとそうでもないOくんがクラスで選ばれたが、Oくんはもっぱら親に書いてもらったという評判で 結局当日、風邪を引いたってことで会場にこなかったのでSくんと二人で参加。広い武道館でお習字をかく機会は貴重だった。でも習字より、ビートルズはどの辺がステージだったのかとか関係ないことを考えていた。
下は剣道部の寒稽古の皆勤賞。中学の時は水泳部だったが、なぜか水泳部員は毎年剣道部の寒稽古に強制参加だった。真冬の一番寒い時期に確か1週間だったか、早朝夜明け前から寒い中、ホントに憂鬱だった。冷たい体育館の板が裸足の足裏に辛かったなあ。なんで朝から剣道しなきゃきゃいけないの?ってみんなでブーブー言いながら参加していた。最後の日におしるこが振る舞われるのだけが救いだった。そういえば水泳部の夏の合宿はプールの隣の2階にあった剣道場に布団を敷いて寝泊まりしていたっけ。
↑ 確かに寒くてイヤだったんで 永久に忘れないわ。
さて、その水泳であまり立派な賞状は残念ながら見当たらず・・・・
アタシの中学は豊島区では敵なしで男子の全種目制覇をしていた。実は雑司ヶ谷近辺、池袋の南東の方に水泳界では全国でも有数の学校だった日大豊山があり、これが豊島区と境界線の道の向こう側の文京区にあった。日大豊山がもしも道1本隔てて豊島区だったら恐らく我が母校は全種目でメダルを取れなかっただろう。なぜなら文京区水泳大会で中学高校の部は全部日大豊山の選手がメダルを制している。それもみんな二軍の選手だそうで、それほど層が厚いわけだ。
そもそもアタシは自由形の選手だったがホントにたいした選手じゃなかった。やはり一般的には水泳って身体が大きいほうが良い選手が多いようで、私はチビだったのでまあ、先も知れていたが3年は続けた。だから個人種目で豊島区以外では賞状もないが、東京都学年別大会のメドレーリレーで3位になったのと3年最後の大会だった私立中学大会でのフリーリレーが思い出にある。圧勝と思われていた日大豊山に果敢に挑み、最後にウチらのエースのIくんが猛烈に追い込んで、ほぼ同時にゴールした。客席の日大豊山チームは青ざめていた。結果がなかなか出ず、まるで相撲の物言いのように審判員が集まっていた。しばらくして結果が放送され、残念ながら0.1秒差で負けてしまった。(当時は十分の一秒までの計測で、オリンピックや日本選手権でもない限り。各コース2人の審判員によるストップウォッチによる手動計測だった)
くやしかったけど、I君の力量が凄かったからで、I君は唯一、ウチの学校からは私のいた3年間では唯一全国大会に出場していた程の選手だった。この最後の私立大会でおもしろい話がある。枠があるけど誰も出ないから100mのバタフライにおまえが出ろとコーチに言われ、バタフライなんか試合に出たことがないのに仕方なくエントリーさせられた。ところがこれまで個人種目で3年間入賞などなかったのに、最後の最後にメダルは逃したものの確か5位だか6位だかに入賞した。そしたらコーチが「おまえ、最初っからバタフライやっときゃよかったなあ、わはっは!」っていわれ心の中で・・ 『バーカっ!今日でおわりだっての。今頃言うなよ。ったく!・・・』とつぶやくのだった。
で、このコーチ、3年間付き合わされたが、一応OBであったが水泳のことはあまり詳しくなく、夏はひたすら量を泳がせ、冬はひたすら水のないプールサイドの廻りをウサギ跳びをさせただけだった。泳ぎ方の指導はほとんどなく、泳ぐのが遅いと叱られた思い出だけしかない。その時のコーチの言葉はいつも「もっと速く泳げ!」だった。とにかく形相が怖かった。まるでライフルマンのチャック・コナーズっていうか、悪役俳優の佐藤允のようなおっかない顔をしていた。(後でわかったことだが、R高校の”第一期不良時代”の代表的なワルだったらしい)
当時は、東京五輪でニッポンの水泳が惨敗に終わった反省から、中高生の水泳もそろそろ学校の部活からアメリカのように英才教育重視のスイミングクラブの時代への移り変わりが始まった頃で、関西のロート製薬の社長が私財を出してつくった「山田スイミングクラブ」などが名選手を送り出しつつあった。
その頃ー3年になる前だったか東京でも同様の流れで「TSC・東京スイミングセンター」がスタートした。たいした選手でなかった私は実はこのダメコーチの練習方に疑問をもって、いち早くこの門戸を叩いた。学校では自由形の選手だからといって寝ても覚めてもクロールばかり練習させられたが、TSCでは常に個人メドレーのタイムの向上を目指し全種目早く泳げるという目標で短時間で集中的に練習させられた。手・足・身体の使い方など水泳をしていて初めてまともな記述的な指導をしてもらった。とにかくその練習方法は眼から鱗だった。すぐに自由形のエースだったI君にも「君は是非行ったら?」と勧めて それがきっかけだったどうかは忘れたが結局はI君もTSCに行きだした。しばらくしてI君はTSCの練習重視で学校の練習にはあまり顔を出さなかったような記憶がある。でも先生もコーチも結果が抜群なので文句を言わなかった。TSCはその後、同クラブの”あの”平井コーチにより、中村礼子・北島康介などのメダリストを排出した。ちなみに北島康介はここで5才から水泳を始めた。
とにかく、やることは先見の明があったが、まあ、水泳選手としては結局3年の終わりまで「たいしたことない」選手でおわった。
時は流れ、15年くらい前に地元の区水泳大会に今どのくらいで泳げるのかと思って大会にでたら、50mで31秒で銀メダルをもらった。中学の最後のころは何とか長水路で29秒台位で泳いでいたので、できればもう一度29秒代台が出ないかなと思ってそれから何年に一回とか出場していたが、31秒が32秒になりしまいに33秒になりで、25mもダメになっていく一方だった。
区の水泳大会の成人のクラス分けは10才区切り。40-49才。50-59才。60才以上(もう柔道で言えば無差別級だ!)
50才台のとき 多分かつて選手だったのだろうが、いつも一人自分より異常に速い人がいて、その人のお陰でいつも銀メダルに甘んじた。で、60才になって出てみた。きっとあの異常に早い人が50台だろうと思ったので・・・・
ワクワクして参加してみるとその日のレースの招集になんとその人がまた同じレースで横を泳いだ。若く見えたが、彼もまた無差別級だった。それどころか他にも凄い人がいて銅メダルがやっとだった。
別に勝つのが目的じゃないし、レースの緊張感が今となっては楽しくていい。そうはいうもののそろそろ身体もやばくなってきたので、無差別級とはいえ、今年でおしまいにしようと思う。
明日がその日だ。
・・・・メダル捕れたら孫が飴をくれるそうだ・・・ がんばりましょ!
シコシコとチマチマなあの頃・・・
Google Play Music や Apple Music など、いよいよ音楽もCDや録音媒体で所有しないどころか、パソコンやモバイル端末ですら保管せず 定額の配信サービスで聞く時代になったようだ。
脳みそが昭和な私は、どうして音源すら収集して自分の手元に置きたい口で、いまだiTunesの中に約8千曲、およそ45GBがAACやMPEGなどのファイルとして保管してある。
先日、学友がfacebookでカセットの話題を提供してくれたことをきっかけに、昔カセットに曲入れて、沢山のカセットテープを専用の箱に入れてクルマの座席の横に置いたり旅行などに持って行ったりしたなあと思い出してどこかにあったか?・・・と調べてみたがどうやら3年前の引っ越し時に千枚ほどのレコードと共に処分したようで残っていたのは数本だけだった。
で、思い出したのが、カセットが役割を終えて、MDのデジタル音源でそろえて、カセットの時と同じように、こんなアルミのケースにいれたんだということ・・・
中をあけるとこんな感じでカセットの時と同じようにジャンルやアーティスト別などに区分してたくさんのMDが保管してあった。一枚に15曲くらい入っているのが60~70枚くらいある?ってことは全部で9,000曲くらいあるのかな・・・
もともとカセットもこうして分類してアーティストごとに分けたりしていた。表側も週刊誌などを切り抜いてこんな感じで写真を入れていた。(ちなみに写真のは結城アンナだからきっとガールフレンドかなんかのan-anだかnon-noから切って入れたのだろうね。)
まあ、いまでは既にカセットもかける機械がウチにない・・・
かろうじてMDウォークマンの一号機があるが果たしてかかるのかな??
カセットは学生時代に 流行のモノを春のトップ10とか夏のトップ10とかそんな感じで好き勝手に作っていた。
楽しかったのは、たとえば・・・
海辺の道をドライブするときのカセット・夜寝るときに聞いたまま眠れる静かな音のカセット・デートの時に都会の夜のドライブに聴くカセットとかね。女の子にカセットに好みの音楽を編集してあげるのは攻略の第一歩だったっけ(笑)
で、たまたまレコード会社に入っていて、企画ものの制作部門に配属を希望して一生懸命に場面別カセットを作ってアピールしていた。
たとえば、朝起きたときに 最初の曲は 静かなチェロの無伴奏曲から始まり、アルルの女のメヌエットあたりを経て徐々に優しく目覚めいていけるような曲順で、最後は大爆発の効果音で絶対眼をさまさせるカセットとか・・・
FENのラジオの音と波の音とクルマの爆音とサーフィン&ホットロッド系の曲をクロスフェードして作ったカセット。これはちゃんとカセットの表の絵もそれ風に海と椰子を書いて作った。これが大阪時代に良い先輩がいて、本社の企画の方に聞かせてくれて、それがヒントでその手のレコードが発売されるに至った。
とはいえレコード会社としてはなんってたってレコードやカセットを作って売るのが一番付加価値が高く収益に貢献するわけで、それらを制作販売するに越したことはない。そこでそのころ私の考えていたのが、前述のような生活の場面ごとに聞ける音楽を普及させればもっと大人に音楽が受け入れられ安定的な収益基盤の一助になると思っていて常々主張していた。事実、ステレオが世の中に普及している割に音楽を聴く時間は意外と短いというデータもあった。親会社がステレオなどハードウェアの会社だから社長のいうハードとソフトの両輪をしっかり回せ!に合致するでしょー!ってんで、なにかにつけて声を大にしていた。
ところが、実際は 声は大きかったがその割にあんまり受け入れられなかった。そんな環境音楽なんてダメよって・・・とよく言われた。
ところが そのころ写真家の浅井慎平がカリブ海にナグラ4Sという業務用のポータブル録音器を持って行って、写真を撮る傍らひたすら波の音だけを取った全編波の音のLPレコードが予想外に売れた。
この辺から環境音楽というジャンルが芽生えてその後、大ヒットはしなものの、静かに世の中に浸透していきひとつの音楽ジャンルを形成したが、その頃はもうレコード会社を離れ、親の会社で、製造現場で汗と油にまみれていた。
さて、時は流れ、Google Play MusicのTVCM、若者がみんなでドライブ!ひとりの少年が、スマートフォンに向かって「ドライブが盛り上がる曲」とかランニングしている女子が「ラストスパート!」って手元のスマートフォンに話しかける・・・
すると端末から勝手にジャンルや雰囲気ごとにプレイリストを提案してくれて音楽が流れるだすという仕組み(ステーションと呼ぶらしい)である。
Apple Music でも同様にMy Music と称す、予め自分の好きなジャンルやアーティストを記憶させておくと好きそうな音楽を提案してくれるらしい。
もはや私がシコシコとチマチマと楽しんできた小技は なんの役にも立たない時代になったようだ。
当時のガールフレンドたちが もし今の時代に生きていたら、そんなつまらないことにマメな男、ダメよっていいそうだな・・・・
そうだ、身近にいたわ。ウチの奥さんもカセットもらった人のひとりだから、明日起きたら聞いてみよう。
おやすみなさい・・・
悲しい投票率・・・
20代 66.69% → 32.58% ▼34.11
30代 77.88% → 42.09% ▼35.79
40代 82.07% → 49.98% ▼32.09
50代 82.68% → 60.07% ▼22.61
60代 77.08% → 68.28% ▼8.8
70代〜56.83% → 59.46% △2.63 ・・・・・・・・だそうである。