ちょっと書いとこう・・・・
Feelin' Kinda Lucky
終末の時・・・
ある高齢の夫婦は、お互いどちらかが先にせよ終末を迎えた際に相手に対して延命治療を施さないことを約束した。ある時、ご主人が脳出血で倒れ意識不明になった。約束通り夫人は医師に延命治療をしないでと頼んだ。ところが医師は医学的見地から数日後に意識が戻る可能性があるので、医師として蘇生の可能性があるのに治療をしないことはできないということで医療の最善を尽くした。
数日後ご主人の意識は戻った。目を開き、耳も聞こえるようになった。しかしそれ以外に、喋ることも身体を動かすことも物を食べることも一切できない状態だった。ご夫人がお見舞いに行くたび、ご主人は憂いに満ちた眼差しでひたすら睨んでいるようだったという。ご夫人は約束を守らなかったので怒っていると思い後悔した。
その後、ご主人の病状は改善することなく、寝た切りのまま2ヶ月後に亡くなった。亡くなる直前、ご夫人は「50年間ありがとう。一緒でよかった。」と死にゆく夫に感謝のことばを述べた。ご夫人曰く、約束を破って後悔したが、結局はお別れの言葉が伝えられて良かったと今は思えるとのこと。
延命治療、安楽死など生きてる人がいろいろな意見を言う。しかし実際の終末の場面ではいろいろな予期せぬことが起きる。延命治療の断絶、安楽死、どちらも理解できるし、そうしたいと言うことは簡単だ。しかし結局はその場面に当の本人はいないも同然で、自分以外の人に死の決断を委ねなくてはならない。
だからあまり深刻に余計なことは考えず、生きていられてありがたいと思い楽しい人生を送りつつ、死後、人に負担をかけないように生きようと思う。もっと生きたかったのに、戦争や不慮の事故や病気で悔しい思いのまま短い生涯を閉じた人たちを思うと自分は幸せだ。
幸せついでに、願わくは上述の御夫婦のように「長年ありがとう、一緒にいられて良かった」と自分で言って先に逝ければ最高。
Music Makes Our Future - 50周年だそうで-
過日 既に桜も散った外堀通りを新宿方面に走ってると、既に売却し看板や社名が消えた旧ソニーミュージックのビルが目に入った。
私達のころ学生の会社訪問解禁は卒業前年の10月1日だった。
ほぼ40年前このビルに会社訪問して、面接して入社式をして・・・
入社式では当時会長の盛田昭夫さんが私の目の前2mくらいで話をしているので緊張で肩がガチガチに凝ったことを良く憶えている。
最初の会社だけに想い出が詰まったビルだったので いつもクルマで前を通る度に懐かしく思っていた。
すでに本社は近隣の六番町に移転して久しいが、こうしていざ看板が取れたビルを見るとなんとも間が抜けた感じに見えると同時に寂しい気分にもなる。
私が入社したのは1977年、創業10周年の直前のころ。当時の虚飾を廃した黒いビルは、ニッポンのCI戦略の先駆けとも言える「デザインのソニー」を築き上げた当時の大賀社長のセンスの良さが光る建物だった。創業5周年の1973年に建てたビルで先の成長を考慮すればもっと大きな立派なビルを立てても良かったのかもしれないが、コスト意識とムダの排除に関してはとことん厳しい人だったのでこの程度の規模の建物にしておくことで社員が驕ることなく前進できたのかも知れない。
そのころ社長の訓話で、"We're second,try harder ! " というアメリカのレンタカー屋のAvisの言葉を借りて、ウチもその言葉、共有する!と言っていた。その当時は収益率はトップだったが、売り上げではまだ東芝EMIに次いで業界2位の売り上げ規模だった。(その2年後、売り上げも1位になる)
入社1年後だったか、当時の品川パシフィックホテルで 創業10周年記念のパーティが開かれた。同時に10周年を記念して記念の歌の歌詞と論文、そしてそれまでの「Music People」に替わる新しいスローガンを社内公募した。私は歌詞を作る才能などないからせめてスローガンをと思い、「Music Creates my future」と応募した。ちなみに最優秀賞はカリフォルニア研修、次点はソニーの電化製品だった。
すると最終的に決まったスローガンは「Music Makes Our Future」だった。発表の時の審査結果コメントは「応募したものに良いスローガンがなかったので社長が決めた」とのことだった。内心思った。「社長、オレのパクったな・・」
結局、このスローガンをタイトルにした歌詞で、最初のウチは嘱託社員だった作曲家の森田公一さんが曲を作るとのことだったが、結局作曲は都倉俊一で南沙織が歌って社員だけに配られた。そういえば都倉俊一と大信田礼子の結婚の媒酌人は社長がしてたっけ・・・
経営的にも当時松下電器などを筆頭に主流だった事業部制を乗り越え、グループ会社をアメーバ増殖のように次々と立ち上げて増殖し、音楽関係以外でも 文房具、化粧品、出版など異分野に進出し、ソニーグループの中でも飛ぶ鳥の勢いだった。
こうしてCD化の流れを受け、89年には静岡の工場でのレコード生産にピリオドを打つ。
この時、誰が29年後に再びその工場でアナログレコード生産設備が導入されることを予測しただろうか・・・・
当時の盛田さんや大賀さんが聞いたら天国で苦笑いするだろうか・・・
あの時10周年だった会社。今年は50周年を迎えるそうだ。