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ノスタルジック2デイズ(パシフィコ横浜) Nostalgic 2 Days in Yokohama

↓Nissan (Datsun) Fairlady 2000  (1967 -1970 ) フェアレディZの前のSR

↓ Nissan  (Datsun) Fairlady Z  432 (1969-1972) fully restored  

432 means " 4 valves 3 carburetor 2 camshafts "   432は240Zより30万円くらい高かった。

↓ Nissan's genuine magnesium wheel - almost $800 each in ealy 70's ! 

この日産の純正マグネシウムホイールは同時、アルミホイールが1万円くらいの時代に1本約8万円くらいだった。

↓Nissan (Datsun)  Fairlady 240 ZG  (1971-1973) fully restored ホイルキャップも純正だ!

↓Prince Gloria (1962 - 1967) 天皇も乗っていた二代目グロリア

↓Prince/Nissan Skyline S54B  (1965 - 1968)

お馴染みスカイライン伝説の始まり54B

First Nissan Skyline GT-R (1969-1970 ) 最初のGTRは4枚ドア

 ↓Aichi Kikai Industry Cony 360 (1962-1970 ) 愛知機械のコニー。レトロ感満載。

↓Some dealers sell such old genuine parts for classic cars. Most of them are new-old-stock !

よくこんなのとってあるよね。全部NOSだわ!

↓Subaru 360 (1958 - 1970 ) お馴染みスバル360

↓Isuzu Bellet GT   (1964-1973) ベレG シフトレバーの位置がカッコ良かったな。

↓Mitsubishi Gallant AⅡ GS  (1969 - 1973)  乾いたいい排気音してたな。

↓Mazda Cosmo Sports (1957 - 1972) 日本初のロータリーエンジン車

↓Mazda Luce Coupe (1969-1972) ロータリーエンジンでFFだった。元のセダンのデザインは当時まだベルトーネに在籍していたジウジアーロ。

↓Mazda RX-3 Racing Version サバンナ TS仕様 片山選手マシン レース界の重鎮。昨年亡くなられたそうだ。残念!

サバンナGTは 市販車もホントに速かった。あのころ椅子の背中にひっつく加速感は市販車ではコレと240Zが一番かな・・・

↓Honda S800 (1966 - 1970)  エスハチ! 4連のCVキャブが着いてた。

↓Toyota 2000 GT  もはやオーバー1億円

↓Toyota 2000GT Convertible for 007 ?

↓ 2000GT replica -not bult by Toyota  

コレはレプリカ 受注生産で2千万円超?もちろんトヨタ製でないよ。

↓Old foreign cars for sale  こんなのも売り物です。

↓"Narrow" Porsche 911    ナローも1000万円越え。

↓70's designated gas decals -  leaded, non, mix and some more. 懐かしいね! 

Looks like I wento back in time to 70s.

なんか昔にもどったようだわ・・・

 

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「発禁」と深夜放送。

先日、ふと「あの素晴らしい愛をもう一度」が聞こえてきた。なつかしい・・・ 

ああ 加藤和彦 死んじゃったんだなあ。

聞いていて、この歌の歌詞じゃないけど 涙が知らずにあふれてくるようだった。歳とるとホント涙もろくなるの。

しっかり勉強しないと大学いけないぞという圧力とか奴隷のような部活の苦しみとか、失恋の傷手とか、あまり人生おもしろくない頃に、この曲は少し元気をくれたな。 あの、B♭からDmからG7を介してCに転調して「広ーい荒野に・・・」のところなんか、疲れた心にムチを打ってくれた気がする。

たぶん高校の1年か2年頃だったと思う。もう自分でバンドをやる機会はとっくになくなっていたし、邦楽はもちろんもうGSなんか終幕を迎えていた。洋楽もアートロックと当時いわれたクリームやツェッペリンなどや西海岸あたりからのサイケなども下火になってビートルズも解散風が吹いて、カーペンターズなどバカラックあたりのメロディが流行始めていた頃だったと思う。音楽がまったりしてきたころに、この曲はとてもまた邦楽の元気を取り戻してくれたような曲だった想い出がある。GSが短命の流行を追えた後も、深夜放送からカルメンマキだのフォーク・クルセダーズが出てきておもしろい時代だった。フォーク・クルセダーズが「帰って来たヨッパライ」で一世を風靡した。ひとり密かにオープンリールの2スピードを駆使して一人で「オラは死んじまっただー」ってマネしたっけ。ギターをもってゆっくり歌って録音して速度を上げて再生するだけのことだ。

久しぶりに「放送禁止」ということばを聞いたのも深夜放送に夢中だった頃。このことばの初めて聞いたのは子供のころ、美輪明宏(当時丸山明宏)だった。ヨイトマケの歌で確か「土方」っていう言葉がいかんというので放送禁止になっていた。放送禁止は些細なことだったのだろうが、「母ちゃんのためならエンヤコラ」とふざけて歌っていたので、放送禁止という言葉も子供ながらに記憶として残っていた。とにかく高校生のころとかは発売禁止なんていうとみんなでよろめき立っていた。平凡パンチで有名な写真家の誰それの撮ったヌードで毛が写っちゃって発禁だぜ!なんて休み時間の話題だった。(とにかく毛だけで発禁の時代であったのだ。) 

発禁」ということばイコール禁断の誘惑だったのか?

で、話を戻すと・・・

フォーク・クルセダーズが「帰って来たヨッパライ」で大ヒットしたわけだが、当然 第二弾は今度はどんなギミックをしでかすのか注目していた。

するとなんとも美しいメロディの曲だった。ところがこれが放送禁止になり、レコードも発売されなかった。放送禁止だの発売禁止なんていうとますます聞きたくなるのが常だが東京はダメだが関西では以前として放送しているぞとか。実はもう世の中に一部レコードが出回ったとかいう噂話が伝わってきたりしていた。 後に「ミューテーション・ファクトリー」というもともとこの曲を発掘した人たち(加藤和彦とも知り合いの)がレコードを作り売ったとの話を聞くが入手できなかった。(ずっと後にこの曲を聞いたら2番を韓国語で独唱しているのは間違いなく加藤和彦だった!)

 とにかく今の時代のようにYouTubeもないのでもうどうしようもなかった。禁止理由は北朝鮮のプロパガンダの意味の曲だのどうだので韓国がだめ出ししたとからしいが、そんな事はどうでも良かった。とにかくキレイな曲だった記憶がある。聞けないとなるとホントに聞きたくなっていた想い出がいっぱいだ。

加藤和彦は自分だけでなく他のアーチストにも良い曲を沢山作ったし、日本の音楽史に功績はホントに大きい。生きていて欲しかったな。軽井沢で一人で死んじゃたっけね。

井上大輔とかもそうだが、ある一時代に名作を連続的に送りだした著名なアーチストが、時代が変わり自分の作品が世の中の嗜好から離れていくというのはしんどいことなのだろうな。荒井由美なんかもあれだけ凄かったからそういう点、きっと痛感しているんじゃないかな? 

いずれにしても昨今の大衆音楽は、打ち込みコンピュータの低コスト音楽ばっかりで、やんなちゃうな・・・・

まあ、そんなこと言ったってしょーがない。もうジジイが何いってんの?って孫に言われる日も近そうだな。なんたって最近、オリコンの今週のベストテンとか見ても全く知ってる歌手いないしね・・・

ため息がてらに おじさん、加藤和彦と、彼が元気づけてくれた昔を偲んで 自分で演ったからヘタだけど聞いてね。

https://soundcloud.com/pudgybonzo/lravf50a5va5

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国の未来の課題。

特定分野で世界市場の上位三位に入っていて売上規模が5千億円未満の会社が世界に3,000社ほどあり、うち1,200社がドイツの企業で日本は220社らしい。GDPや人口から考慮すると日本は少ない。そのドイツの企業のうち7割は同族経営らしい。経営陣が変わらないので腰を据えた長期的な経営視点の利点も生かされるのだろうが、やはり私が思うに投資などで大きなカネの使い方がサラリーマン経営者と意識が違うことが大きいと思う。東芝のような大企業サラリーマン経営の悪い点が出にくそうだし石原のように莫大な金額をどぶに捨てて平気な顔もしないし。重要なもう一つのポイント、ドイツは一定の条件を満たせば企業継承時の莫大な相続税を回避できるそうだ。こうして中堅の族企業を後押しし多才な中堅企業が常に活発に経済を支え、構造的に大企業ばかりの世の中にしないよう配慮しているとのこと。そんなこと少しも考えず、目先の税金稼ぎに手段を問わず血眼になって会社や個人から税徴収するニッポンとは大違いだ。役人第一の日本と違い、ドイツは国の将来第一なのだろう。そういえばドイツは2022年までに脱・原発宣言しているし。後数年で原発をやめるそのドイツでさえも、放射線汚染物を処理し収納保管する場所に苦悩しているらしい。原子力について学ぼうという若者も減少しているらしい。そんなこと地べたの狭い島国のニッポンでだれも話題にしない。再稼働すら反対が少ない。3年後の2週間のオリンピックがらみで多額のお金が舞っている。政治家達の脳裏は自分の死後のことなんか知ったこっちゃないってなところだ。

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軽い詫び。

浅草で老舗の天ぷら屋に入った。

傘をもっていたので、「かさ、ここに入れていいですか?」とおそらく私と同世代の高齢者の店員のおばさんに聞いたら「ああどうぞどうぞ」といってくれたのでその傘立てに入れた。
そして席に着いたあと、別の店員のおばさんが席の方にその傘を持ってきて、こっちにおいて下さいといって席のソバの傘立てに置いた。どうやら遠くの傘立てに入れないで、席のソバの傘立てに入れないといけなかったようだ。

それをみていたのであろう、最初の店員のおばさんがお茶をもってテーブルに来たときに「傘、すみませんでしたね。私がそこに入れていいなんていったから・・・」といったので、私も「ああ、だいじょぶですよ」と軽く返した。
 
まあ、至極当たり前な軽いお詫びでどうっていうことのない会話だった。ところが ふと思ったが なかなか最近はこの程度の軽い詫びを口にだして言う人が少ない。
最近の日本人(特に都会で)はチョットしたことでなかなか詫びないので、そのおばさんのさりげない軽い詫びが ちょっとうれしかった。 
 
さて、その後でそのおばさん、ほぼ満席になってきた店の中に新たに入ってきた6人の高齢者の客を別の席に通した。客たちは席のところで立って少し狭いことを危惧した。(私は腹の中で”混んでるんだから我慢しろよ”と思った。)するとおばさんは「立っているより座るとさほど狭くないこともありますからすみませんけど一度どうぞ座ってみて下さい。」というようなことをいった。そして座ってからしばらくして向こうの席が空いたらすかさず「向こう空きましたけど、チョット広いかもしれないから移動しますか?」といって案内した。
 
こういう老舗の店で黙っていても客が入る店の店員は えてしてぶっきらぼうで、客を店のルールに従わせたがることが多い。(あるソバの銘店なんかそれがイヤで二度と行っていない。)
そういう店はいわば「お店ファースト」なのだ。ところが少なくともこのおばさんは「お客ファースト」だった。おばさんはなるべく客の望むことをしてあげようという奉仕精神が行動に出ている。
 
食べ終わった頃、おばさんに この話を含めてちょっと話をしていたら 明るいフレンドリーな人で 下町の出身で私と隣町の出身とのことだった。

なるほど下町人情ってなわけか? 

かつては こんな感じの大人が多かったなと思った。そんなことを思うのも 自分が歳をとったせいも大いにあるだろう。あとでウチの奥さんが、老人っぽい高齢者ならではの会話だったと笑っていた。
 
昔は幼稚園や保育園の子供がうるさいというようなことが社会問題になるようなことはなかった。幼少の私のようにやんちゃな小僧が近所で騒いだりして親が詫びると「賑やかで元気でうるさいくらいじゃなきゃダメよ、子供なんて、ハハハっ」って笑って済ませてくれる人が多かった気がする。
 
カリカリした欲張り高齢者も多いけど、こういう昔ながらの普通のおばさんもいるんだなと思い、チョットほっとしながら天ぷらに舌鼓を打った。
 
たしかに昔は今みたいにギスギスしてなかったな。「癒し」という言葉もそもそも肉体的・精神的苦痛を解消するときの言葉だったが、今では加えて休養とか安らぐような意味で使われることの方が多くなった。世知辛い世の中で「癒し」なんて言葉をつかって現実逃避をしなくてはならないってことかもしれない? これもきっと今日という時代のせいだな。
 
 
 
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