YS11は戦後初の国産旅客機で、旅客機としては2006年に役割を終えていたが、自衛隊で輸送機として使われており、このたび最後の機が飛行を終えたとのこと。YS11ははるか昔、大阪に勤務していたころ出張でよく乗った。ANAとTDA(東亜国内航空)だった。TDAのチケットはYSだったが、ANAのチケットでは便名にYO12などのようにOが使われていた。このOはYS11の愛称が「オリンピア号」であるからとのことだった。
当時の地方都市は滑走路の問題でジェット機が着陸できる空港は少なかったのでYS11が重宝された。席が50席程度なので早くから予約しないとチケットが取れない。山陰・四国の出張でこのチケットが取れないとほぼ1日がムダになった。四国はまだ本州との橋がなく岡山や広島のどこかから海路で渡った。三原市あたりから高速船に乗って松山にわたるときなど、温暖な瀬戸内海の気候の中、島めぐりのようでチョットした旅行気分に浸れた。冬の山陰は上空から見下ろす雪にまみれた伯耆富士とも呼ばれる鳥取西部の最高峰、大山(だいせん)がとてもキレイだ。
雪の大山が窓に見えるとそろそろ着陸間近なので、書類やウォークマンをカバンにしまい込む。ところが、機長のアナウンスが流れ「大変申し訳ございません。管制塔からの支持で出雲空港の滑走路が積雪で着陸不可能とのことで当機は伊丹に引き返します!」こうなると大変だ。伊丹に着陸後、公衆電話で会社に電話して上司に連絡し、大阪駅か新大阪駅まで行き、そこからまた電車に乗り、福知山だか舞鶴だか(よく憶えていない)日本海側に出て鳥取を経由して松江にたどり着くか、倉敷だか岡山まで新幹線に乗り、つながりの悪い伯備線か長距離バスで太平洋側から日本海側に縦に抜けるかのどちらかで、いずれにしても心が重くなる程の長時間の旅となる。
初めて大阪から松江に電車で行ったとき、途中ウトウトしていたら車内で「ハワイはこちらで下車してください!」というアナウンスが流れた。居眠りをして寝ぼけているのかと思いきや、途中の鳥取に「羽合」という温泉地があったのだ。岡山から山陰に抜けるバスの道のりはクネクネの田舎道で見渡す限り農家と畑ばかりだった。日が落ちたらほとんど街がないので真っ暗だった。こうしてムダになった時間と長旅で当時は気持ちが相当萎えたが、今になって考えれば、給与を貰って旅情を楽しめるってのも良かったと思う。
YS11に話を戻すと、とにかくプロペラだから高度は大体ジェット機のように高度1万メートルまでいけず大体6千メートルだったと思う。航続距離も大体1,200kmくらいで飛行時間は長くても1時間半。機内も狭し時間も短いから食事などなしで、CAのお譲さんはザルに入れた飴玉と紙コップのお茶だけ配っていた。エンジンもプロペラだから機内もうるさい。低空飛行なのでとにかく揺れるのでCAが倒れかかってきて支えてあげたこと数知れず。但し恋は芽生えず?。
↓倒れかかってきて支えてあげたCAの当時のユニフォームはコレ。三宅一生デザインだそうです。(by ANA)
↓ 私がよく搭乗していた頃のANAのYSはこの塗装。トップ部が青く塗られていたので通常モヒカン塗装といわれているらしい。ANAの古いマークが懐かしい。
着陸するとタラップの到着まで結構時間がかかる。やっとドアが開き頭をかがめて機内から降り外気に触れる瞬間の閉所から解放されたほっとした気持ちよさは今日の飛行機の旅では味わえないだろう。
時は流れ 旅の効率は上がりビジネスマンの出張もテレビ電話などのコミュニケーション手段のハイテク化も相まって昔とは様変わりで私たちが費やしたムダな時間がなくなり仕事の生産性は上がっているのだろう。あわせて余暇も増して有意義な時間になっているといいのだが・・・
とにかく YS11さん、ありがとう!!