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赤毛のなっちゅん

去年の11月のある夜、ガレージにいると妻が涙を浮かべて外から帰ってきた。お友達の妹さんである元宝塚トップスターの大浦みずきさんが亡くなったことをお姉さんから聞いたからだった。

大浦みずきさんは宝塚のフレッド・アステアといわれたほどのダンスの達人で男役の宝塚トップスターとして活躍の後、退団後も多くのミュージカルなどの舞台で活躍された玄人受けのする舞台女優さんだった。

妻は大浦さんのお姉さんとは、息子どうしが幼稚園・小学校が同窓であったことから知り合い、以後も長く懇意にしていただいており大浦さんの公演もずいぶん沢山ご一緒させていただいてきた。

3月に親しいファンの方々に癌と闘っていることを告白されたのちも復帰への強い意志を持ってがんばっておられたので、妻はもちろん、直接ご本人にはお会いしたこともない私でさえも治癒を願っていたが、残念ながら帰らぬ人となった。

先日、亡くなられて1年が過ぎ、お姉さんが書かれた赤毛のなっちゅん―宝塚を愛し、舞台に生きた妹・大浦みずきに」と題したエッセイが出版された。なっちゅんとは、大浦みずきさんの本名が「なつめ」さんでなっちゅんと呼ばれたからだ。

過日、遅ればせながら私も読ませていただいた。妻を介してお聞きしていたお話もあったり、幼いころからの姉妹のお話、ユニークなご両親など家族のエピソードも楽しくグングン引き込まれていき結局一晩で読み終えてしまった。 実はお父上は芥川賞作家であり、童謡のサッちゃんの作詞者でもある阪田寛夫さんである。だからDNA的にも初めて本を書かれたと思えないくらい文章はお上手なのだが、やはり常に近くで長年、大浦さんを見続けてきた身近なお姉さんの真実の感情や考察が読者の心を惹き付ける。私などはご近所で妻がお世話になっているにもかかわらず良くは存じないが、立派なお家柄で上品な方なのだが、ご両親譲りのウィットに富んだおもしろい姉妹であったことも文中垣間見られ、心を和ませてくれる。

ずっと一緒に楽しく過ごした子供時代から 十代半ばで宝塚の世界に入り、兄弟は離ればなりになり身近な姉妹から一転、姉は妹の最大のファンになる。途中、足のケガで役者生命を断念しなくてはならないような状況になるが、ファンの声援と共にそれを乗り越え栄光のトップの座を得た最初の公演で、陰で支えてきたお姉さんが感極まり心の中で「よく頑張ったね、おめでとう!」という下りは感動させられる。その後もダンスの才能をフルに発揮し、数々の舞台でますます才能を開花させ、姉は妹を側面から支える。しかし活躍のさなか、突然病に倒れる。そして闘病の日々、やっと姉妹は昔の姉妹に戻る。その一年間の姉妹の闘病生活のお話は心を打つ。 病に倒れることがなければ これからももっともっと活躍されて素晴らしい舞台キャリアを重ねていったに違いないと思うと残念でならない。こんなことは私が言うまでもなく、お姉さんは悔しくて仕方ないと思う。

余計な話かもしれないが、お姉さんは、妹さんの病気と前後して、長くご自身のご両親の病気の介護など 普通の人ならへこたれてしまうような 大変な環境でいらっしゃるのだが、そういう苦労をおくびにも出さない方であり、家内ともどもいつも尊敬している。なかなかできることではない。そういう人徳のある方だからみんなに慕われる。家内にとってもこういう方と知り合えたことは人生の宝物である。

この写真はお宅に飾ってあったのを妻が写真に撮らせて頂いてきたものだが、親しいお知り合いが実際の写真をもとに描かれた大浦みずきさんの幼少期の絵である。--今回の本の表紙もこれをベースに仕上がっている--

大人になって大スターになった大浦みずきさんの面影そのまんま! 素晴らしい絵だ。

ひとりの少女がのびのびと生きて、やがて大輪を咲かせるがしおれることなく散っていった・・・

そんな少女をお姉さんはいつも暖かく見守った。

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蛙の子は蛙  ~おすすめクリスマス・アルバム~

10代や20代のころのように、新しい音楽に感動することが減り、もっぱら50-70年代の古い音楽をアーカイブから引っ張り出してきては聞くだけという懐古的な傾向は益々強くなった。特に邦楽に関してはホント90年代以降にデビューした歌手やバンドに感動を覚えないようになってしまってずっとフォローしたいような人はなかなかでない。そこいくとやはり洋楽は結構ときめくような新しい人がときどき出てくるね。ありきたりないい方だけど、showbiz的にやっぱ層が厚いのかな??

そんな中からクリスマスにおすすめ音楽!!

クリスマスというと定番は、もちろん静かで雪が降ってキラキラしそうなバラッドだけど、シャキっとした不景気をぶっ飛ばすような元気のいい美しいハーモニーいかが?

こちらは “Wilson Philips" という 一人のひとの名のような名前ですが、じつはこれ、“ますだ・おかだ”みたいなくっつけた女性コーラスグループ名。

Chynna Phillips と Carnie & Wendy Wilson 姉妹からなる3人がメンバーで、 Chynnaの両親は60年代に活躍したフォーク・ロック・グループのMamas & PapasのメンバーのJohn & Michelle Phillips夫妻(グループ内不倫問題で有名?)を両親に持ち、一方のWilson姉妹は父はなんとあの、The Beach BoysのBrian Wilson!! アメリカポップス的にはスゴイ、血統である。

だから60年代のアメリカのキレイなハーモニーの代名詞のようなこの2バンドの血統を受け継いでいるんで、そりゃもう言うまでもない!! まさに蛙の子は蛙!!

そんな彼女らが久しぶりにクリスマスアルバムをリリース!

Christmas in Harmony というアルバム。

トップのI Wish It Could Be Christmas Every Dayはクリスマスの定番曲になるかもね?

実はWilosn姉妹は1990年代前半にも、すばらしいクリスマスアルバムを出している。Hey !Santa! はマライアとならんで毎年この時期良く流れている。

Carnie は10年前はそうとうなおデブさんだったけど、ダイエットしてキレイになってビックリ!アメリカではダイエットぶりが話題になったようだ。

残念ながら映像が著作権の関係でYouTubeでは見れないけど、ありがたいことにちっちゃいけど結構キレイな映像が米国アマゾンのサイトから見れる。

お気に召したら2004年に出したCaliforniaというアルバムもおすすめ。親たちの名曲、Monday Monday や In My Room などをはじめ、The EaglesやThe Byrdsなどの名曲もカバーしていてキレイなハーモニーが生きる選曲。

でもやっぱりクリスマスは静かな音楽をお好みならChristmas Singers Unlimited というアルバムがおすすめ。 1972年からずっと聞いてる大好きなアルバム!全部アカペラのクリスマスソング。このSIngers Unlimited というグループは 女性一人男三人だけで、コンサートはなし。なぜなら全部、多重録音でCDをつくるから。でもスゴイ完成度!

ことしも お好きな曲で どうぞ Happy Holiday !

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ボブ・フェラーの想い出

今ほどインターネットが盛んでなかった90年代。全米でもっとも大きなアンティークショーが春と秋の年2回、ニュージャージー州アトランティックシティで盛大に開催されていたのでよく買い付けに出向いていた。特に春は、子供たちも春休みなので一緒に連れて行き、まだ小中学生だったので、私達が買い付けをしている間に会場の片隅やホテルの部屋で宿題をしたりして時間をつぶしていた。

アトランティックシティは日本人にはあまり馴染みがないが、アメリカでは西のラスベガス、東のアトランティックシティと言われるほどカジノで栄えた街である。

日本からは、成田からでシカゴ経由でフィラデルフィアまで行って、その後一時間半のドライブでやっとたどり着くので待ち時間も合わせて17時間前後を要す遠いところだった。

年に2回、会える現地のディーラーの家族たちとの再会もたのしみで、いまでもその時に出会って依頼、ずっとつきあいの続いているアメリカの友人も多い。

その後、インターネットの普及にともない、eBayに代表される大規模なネットオークションにより売り手と買い手が直結することになり、次第にこのような大規模なアンティークショーは衰退していった。かつての国際電話や郵便などの通信手段からインターネットの発達によりなにかといろいろ便利になったが、反面こうした人同士が会うことによるコミュニケーションや人間的なつきあいが減っていってしまったのは残念なことだ。

(↓アトランティックシティのショーで、サウスカロライナからいつも参加していたディーラー夫妻と)


時々、ショーの彩りを添えるためにかつての名選手や名俳優などのサイン会を会場で行うことがあり、中でも2000年の春にかつてのMLBの大投手、ボブ・フェラーに会えたのは忘れられない想い出の一つになった。

ボブ・フェラーは“火の玉投手”と言われ、1930年代から50年代まで インディアンズ一筋で最多勝6回、最多奪三振7回など通算266勝を上げ、当時米軍が協力した球速測定などで軽く100マイルを越えるスピードを記録したという。全盛時の40年代に戦争で4年間の途中ブランクがあるので、それがなければ軽く通算300勝を越えていたといわれている。更にスゴイのは無安打試合3回達成とあわせて、1安打試合をなんと12回も達成したことである。これはもちろんメジャー最多記録である。

(↓ボブ・フェラーにサインをもらう)

日本から来たというと、彼は70年代に臨時コーチとして巨人軍の宮崎キャンプに行って指導した想い出について語り出した。楽しかったことがいっぱいあったそうで、王貞治は今でも友達だよ!といっていた。すでに引退して監督になっていた長島茂雄の印象はないようで、やはりアメリカでの知名度は圧倒的に実績から王貞治であることを認識。このとき、すでに80才を越えているのに、さすが元メジャーリーガー!肉体滴にも精神的にもとてもエネルギッシュな印象を受けた。

昨日、残念ながらそのボブ・フェラーが亡くなったとの報道。 92才だったそうだ。

 いまでもちゃんとその時のサインボールを大切にとってある。私の名前も書いてくれた。

すばらしい想い出をありがとう・・・・・

写真では見にくいがボールの下に "H.O.F 62" と書いてある。

この意味は,もちろん “1962年 殿堂入り”ということである。

R.I.P  Bullet Bob .........

 

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首都高のトイレに日本の原点を見る

最近 よく 「勝ち組」「負け組」ということばを聞くが、この言葉を聞くたびに冷たさを感じ、暗い気分になる。

事実 雇用や所得で ”格差社会” とかいわれるような構造が生じてしまい、だれが最初に言ったか知らないが こんなことばが おもしろおかしく使われて楽しんでいるんだか悲しんでいるんだかしらないけれど 今だけの時点 ヒトの価値を決めつけるようなことばが 流行語のように使われるのは 人間の温かみを感じられずいやだと思う。

マスコミはそんな言葉で厭世的な記事ばかり書いてないで、そんなヘンな社会を生み出したのはいったいだれの責任なんだとか、大卒者の就職率が6割に落ち込んだなんて、いったい大企業の経営者は何をしてるんだ? というアピールをすべきではないだろうか? そしてもっと雇用の多様化や柔軟性を配慮したしくみ作りに眼を向けさせるべきだろう。

いまは勝ち組でも 明日は負け組になるかもしれないし その反対もたくさんあるはずで、今は勝っているのは立派だけれど明日は負けてしまわないようにさらに頑張ればいいし、今は負けていても挽回するように頑張ればいいじゃないか、という前向きな表現がなぜできないのだろうか?

いうまでもなく、これからしばらくは 中国と韓国と日本を中心としたアジア経済が世界の経済をリードする重要な位置づけとなって行く時代になりそうだが、その中でも日本は心配である。政治家は選挙対策だけの小手先のマニフェストでお茶を濁し、経営者は下を向いて、目先の収益のためのコストダウンに終始している。

それに比して中国や韓国は企業も就労者も前向きで、政府もイイ関係で側面からバックアップしているようだ。そういう意味で日本はすこし危機意識を持った方がいいと思う。

さて、下の写真、先日 首都高速道のパーキングにあるトイレで撮った写真。

ただの造花で一見 なんてことない風に見えるこの一輪挿し

トイレに立ち寄って用を足すヒトもほとんど眼もくれない。

でもよく見ると、たぶん下の花瓶代わりの筒は多分、ペットボトルを丁寧に切ったものに、星がちりばめられたキレイな銀紙がキレイに巻かれている。そしてその下にはキチンと切り取って作ったフェルトのマットが置かれているようだ。

誰が飾ったか知らないが、誰も見向きもしないお金のかかっていない どうということのない一輪刺しなのだが そこに作った人の誠意が溢れているのである。よく見るとキチンときめ細かく作り上げてある。

日本がまだ家電や自動車の輸出で潤う前、1950年代後半にアメリカのマテル社がバービー人形を作ろうとしたときに、アメリカ国内では当初なかなか思ったような人形ができなかった。不器用なアメリカ人に精密な人形を手作業で作る力がなかったのである。結局アメリカから指導に来て、下町、葛飾界隈の女工さんたちが手抜きせず工夫して一生懸命に作り上げたのであった。日本人の知恵と器用さがなければバービー人形は生まれなかった。


以後、高度成長で家電・自動車で世界市場を席捲した原点もまさにこれと同じ精神だと思う。

時は流れ製造現場は中国などに移管されても、良い製品を生み出す開発力や生産管理システムでこれからも世界をリード出来ると思う。

サービス業だって世界でこんなに顧客指向できめの細かいサービスを提供できる国はない。

いま自信を持って前向きに新興諸国に負けないように一層、頑張るべき時なのに日本国内は否定的で下向きすぎると思う。

この国は少なくともここ50年、政治が経済の活況に役に立ったことはない。

政治などこの程度の質でも 日本経済は 民間の力でいくらでも逆境に立ち向かい勝ち抜いてきたのである。

日本が成長してきた最大の要因である、他国にマネのできない きめの細かい高度なものづくりやサービスの精神を忘れないことがいま一番取り戻すべき事ではないだろうか。

時代が変わるにつれ 変わるべきことと 変わるべきでない原点を 見極めたいと思う。

 

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