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若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

お客様は金様であるが神ではない

2006年08月22日 | Weblog
 今後マスコミに話題としてもらいたい社会問題があるとすれば第一にオン・ステージしてもらいたいのがこの問題である。安直さをもって是(保護者の教師に対する評価だけが絶対条件であって、親の目は教師を睨む蛇の蛙を睨む目と同一視して来たこと)としてきたことによる児童の精神教育放棄の咎が高等教育をも阻んでいる実態が浮かび上がっている。
 この記事は、マスメディアとしてとても良い切り口であると思う。この問題は今後の教育改革の最重要ポイントの一つであると思う。

 今日は、SANKEI新聞記事に注目する。

 『大学生による事件、稚拙さを増す 教育機関の悩み深く』

 大学への進学希望者と合格者が同じになる「大学全入時代」を来春に控える中、万引きや婦女暴行、殺人など大学生の犯罪が相次いでいる。「幼稚」「自立心が弱い」など、今時の大学生の心の問題が根底にある。事件を起こした大学では、本来なら小中学生に行なうような倫理道徳教育を実施した。教育の最高機関が抱える悩みは深い。

 『稚拙な動機』

 「彼女にプレゼントを贈るためにやった」。駒沢や帝京などの私大3人らが昨年10月頃から半年間で家電量販店などからDVDなど計700点(約350万円相当)を万引きし、警視庁に逮捕された。
 捜査本部は、「大学生にもなって万引きとは。幼稚の一言に尽きる」と嘆いた。大学生とは思えない稚拙な動機や短絡的な犯行は全国で相次いでいる。
 母親(58)殺害で7月に逮捕された大阪大工学部4年の男(24)は、母親の「24歳にもなって仕事もしないで」の言葉にかっとなり、金槌を振り下ろした。大学3年の頃から学校に行かなくなり、4年に進級後も2年留年。「大学へ行く」と言って外出してはパチスロ店に入り浸り、両親からもらった小遣いも注ぎ込んでいた。

 『凶悪犯罪』

 今年6月、大阪府立大の学生ら9人が女性をめぐるトラブルの報復として、男子大学生ら2人を岡山県内で生き埋めにして殺害した事件では、リーダー格の府立大農学部3年の男(21)らがゴルフクラブや金槌でめった打ちにした。事件発覚後仲間の部屋で、「死体を掘り起こし焼いてしまえば、警察に捕まっても大丈夫だ」と、平然と話し合っていた。
 アメリカンフットボールの名門、京大の元部員3人は昨年暮れ、女子大生3人と「鍋パーティー」。瓶を回して飲み口の向いた人に一気飲みさせる「焼酎ルーレット」で泥酔させ、2人集団婦女暴行した。わいせつな行為をしているところを他の2人が冷やかす無軌道ぶりだった。
 大学生らのイベントサークル「スーパーフリー」による女子大生集団暴行事件(平成15年)では、東大生も逮捕された。捜査関係者は「一流大と呼ばれる学生もそうでない大学生も徒党を組み、一昔前の素行不良の中高生並みの犯罪に手を染めている」と指摘する。
 法政大学教授で教育評論家の尾木直樹さんは、「今に大学生は未発達で自立心が弱く、群れを成して行動する。常に友達に依存しないと生きて生けない」と感じている。

 『学力低下が原因?』

 広辞苑によると、大学は『学術の研究および教育の最高機関」。にも拘らず、学生が事件を起こした大学では、規範意識の徹底など、本来なら小中学生に行なうような倫理道徳教育を実施している。
 京大は事件後、在学生や新入生に「人権を考えるために」と題したパンフレットを配布した。この中で、『性暴力:本学の学生による事件について考えてみましょう」と事件を取り上げた。学内からは「大学生にもなってこんなことを教えなければいけないのか」との声も上がったという。
 東大阪大では来年度から道徳を学ぶための教養科目に「人を学ぶ」(仮題)を設け、全学生必修にする方針という。
 尾木さんはリポートに名前を平仮名で書くなど、大学生の稚拙犯罪と学力低下との関係に注目している。「今の大学生には向上心が全くない。教育現場に係わって来て、こんなことは初めて、中高生レベルの生徒が入学するようになって、私自身、中学校の教師になったようだ」と、大学生の稚拙な犯罪が今後も相次ぐことを危惧している。(全文)

 あまりにお粗末且つ凶悪な大学生による犯罪を検証した結果、この種の社会問題にようやく目が向いて来たのは当然であるが、甚だ遅すぎた感も否めない。少年非行であるとか親の子殺し、子の親殺し、常識人と見なされる人の知能犯罪など、このまま放置しておけば、日本は内部から崩壊するのではないかという恐怖心に苛まれつつある。・・・・これこそ進歩的文化人が夢見たユートピアなのだろう。今後進歩的文化人どもはその罪を持って己が暗殺されるのではないかという妄想に浸ると良い。しかし、歯車は既に狂ってしまっているのだから、言葉の遊びでは済まされまい。

 この社会現象をミクロな視点で見るべきであるという視野の狭い見解が主流であることにも怒りを覚える。進歩的文化人などこの痛ましい社会現象を、家庭の崩壊などということでお茶を濁そうとするのだが、問題の根は、事はそんな小さな所にはないだろう。家庭の延長線上に大して価値のない国家があるなどという理論は、国際基準からすれば、臍で茶を沸かすほど他愛もないことだ。
 国家の有り様をこそ教育の前提条件に据えるべきである。そして、より良い国家を支えるために家庭や国民は如何にあるべきかを教育の指針とすべきだと思う。