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若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

日本人的観念美の世界

2005年05月03日 | Weblog
 今日は憲法記念日ということでありますが、以前そのことについては書いた記憶がありますので、今日の日記は日本人的観念美の世界ということにします。
 太宰治の滅びの美学、梶井基次郎の私小説の中の魂の彷徨、三島由紀夫のまさに観念美を創出するための観念美等々。
 その中で、三島由紀夫の世界を取り上げて観たいと思います。
 とにかく、彼は美の結末はこういうものでなければならないという自己陶酔の世界を作り上げ、その来るべき結末にむかって、一種の狂気とも思える偏執的美意識を創作します。
 こういう美意識は、外国人には理解し難いもので、一時、ノーベル文学賞を取るなら三島由紀夫だろうと言われたこともあったようですが、結果は川端泰成がとりましたね。
 彼の文学作品に漂う美意識は、日本人だからこそ共有できる種類のものなのでしょう。
 そして、彼自身の結末も非常に劇的で、自己陶酔美と一体化させる中、自ら切腹することで、その人生を完結なされた、真にあっぱれであられたことよ。
 こういう美意識が日本人の魂のどこかにある。
 そういう前提で、靖国ということを考えてみたいと思います。
 この神社の前身は、招魂社といって、明治維新頃から、官軍として戦い、命を落とされた人の霊を祀った神社ということで1868年明治元年創建されたものが、その10年後、1878年に靖国神社と改名され現在に至っているとのことであります。
 現在、200万余柱が祀られているとのことです。
 ここで、最も重要なことは、明治以来官軍、すなわち、国家国民のために戦い、あえなく、命を捧げられた人の魂をお祀りする場所ということである。
 従って、そこにお祀りするしないの判断は日本人の意志に委ねられていなければなりません。
 日本が敗戦を経験する以前は、この原則が、まことに支障なく運用できました。しかし、先の敗戦により、戦争犯罪人という範疇に入る人が出てきてしまいました。
 これは、連合国即ち戦勝国側の一方的な判断基準により断じられた戦犯です。
 そして、数年前にこの戦犯といわれる人たちを合祀したことが新たな問題を提起しました。
 従来どうり官軍に属した人を祀るという判断基準にたてば、間違ったことではないと思いますし、私などはむしろ賛成しますが、それは間違いだという人が出てきても当然といえば当然でしょう。
 いずれにしてもこの種のことに対して、外国がとやかく干渉することではないし、絶対にさせるべきではない。日本人自身の問題です。
 今、私たちに求められるのは、真の意味での日本人としての自覚であり、日本人が本来立つべき立場に立ち、誇りをもつことです。
特に、どこかの国などに踊らされているようでは、どうしようもありますまい。
 このへんで、一矢報いる必要があります。
 こんなのはどうでしょう。アメリカと協力して、北朝鮮を踏み絵にさせるのです、すぐに本性がでることでしょう。
 しかし、わけも分からぬ国だねー、戦勝国なんだろ、やってることはまるで敗戦国だよね。プライドの一かけらぐらいは欲しいよね。
 私たちの先輩は良くやってきてくれたと思います。開国、明治維新、憲法制定、富国強兵、不平等条約の撤廃、日清、日露戦争勝利。結果、過信しすぎて最後には、負けてしまったけども、もし彼らが、平々凡々としていたら、列強の餌食になり植民地化され、どこかの国の国旗が立っていたかもしれない。
 唯一つ間違ったことは、日本の起源が曖昧無垢な神話にあるとしてしまったことだと思います。 少し考えればおかしいと思えるようなものに。
 今思えば、靖国はそんな中で生まれた、魂の住まう場所であったと思います。それは三島由紀夫的美の世界と共通するような気がします。
 中国は、日本に学んだといっておりますが、この辺のところを参考にしているのだと思います。
次に彼らが求めるものは敵です。それが何処か考えてください。