昨日今日明日

きのうを思い、きょうを実感し、あすに想いを馳せよう。
若年性或いは老人性痴呆症にならない為にもね?

未知なる方へ

2005年05月25日 | Weblog
 私はあなたの今居る立場に向かって、発すべき言葉をもっておりません。従って何も触れないのがマナーかとも思いましたが、これが当て外れのことであっても、一応書いてみようと思います。
 期待しないでください。
 小、中学生の頃、読んだことがありますが、おそらく芥川龍之介の作品であったと思うのですが、「河童」を題材とした作品があったと思います。
 その作品の中に、河童の誕生の話がありまして、新生児誕生の際にはその生まれてくる本人に、生まれたいかどうかお伺いするのである。
 そして、生まれたいという意思表示をした時のみ、この世の人となるのである。
 私など、鈍い感性しか持ち合わせていないためこの意味を理解できたのは、思春期に至り自分の限界を恐る恐る自覚せざるを得なくなり、同時に自己嫌悪に苛まれるようになった時、初めてこの「河童」の話を思い出しました。
 このような心理状態のとき、「お前は生まれたいか?」と問われれば果たしてYESと言えたかどうか自信はありません。
 しかし、人は「河童」のようには生まれて来ません。
 何かしら、この世に縁あって生まれ落ちた身でありますから、時としてやり切れないような気持ちに襲われても、その都度何とか乗り越えていくのもまた人生なのだと思います。
 もう一つ、あなたの置かれている立場にとって、逆風として立ちはだかる社会構造があると思います。
 それは、血筋にもとずく平等を根拠に置く相続法です。これが弱い立場にある者を徹底的に排除するように働きます。
 私に言わせて貰えば、戦後日本が受け入れざるを得なかったのかも知れませんが、我が大和民族がその道徳、倫理、価値観を喪失してしまったのも、この現民法の相続法によるところです。
 敗戦以前は、家という固定観念があって、その家という観念の中に、その家系の財産、家風、対面、正負の資産、或いは誇り、先祖をお祭りする責任と義務を含め、一族の魂の場所として、継承するにふさわしい代表者が代々引き継いで行くこういうシステムが構築されていました。
 それを家督と呼び、その相続方法を家督相続といいました。この相続方法の優れたところは、現在金銭的価値で見ている財産を一種の最小単位(家)のシンボルと観ていたことです、従って、現在のように相続とは財産の分割を意味することではなく、不分割なるなるものとして、後の代に送り伝えるものだったのです。
 このような、社会構造ならば、異質の者或いは立場の弱い者でも当然のこととして仲間に迎え入れられる素地があります。このような構造の社会においては、自分の子供がその後を継ぐに相応しくないと判断すれば、外から養子を迎え入れてもその家の存続を図ったということです。その家系として無縁仏にはなりたくなかったのでしょう。
 いっぽう、家督を相続しなかった者には、その代償として、当然のこととしての自由がありました。そのような社会の土壌に於いてのみ立身出世をもって人生の目的となすというような風潮が発現するものと私は思います。
 今、この日本において「立身出世」などという言葉はすでに、死語です。
 実に、残念です。
 しかし、現在の社会構造のなかでそのルーツを究明することが幸せかどうか私には判りませんし、ドナーとなって、生まれた子にその権利を持って対抗されたときどのような責任が有るのか見当もつきません。安易に運用してはならぬものであろう。
 また、人生などというもの自分の価値観を何処におくかということに尽きるのだと思います。