深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

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「なんちゃってソマティック・エクスペリエンシング」の話

2018-04-08 09:43:31 | 症例から考える

ソマティック・エクスペリエンシング(Somatic Experiencing ; SE)はピーター・ラヴィーン(注1)がフォーカシング(注2)をベースに開発した、身体意識的アプローチによるトラウマ治療メソッドである。

ラヴィーンとSEについては、フランクリン・シルズの『クラニオセイクラル・バイオダイナミクスvol.1』で知り、当時まだ日本語訳の出ていなかった『Waking the Tiger:Healing Trauma』を買って読んでいた(その後、この本は『身体と心をつなぐトラウマ・セラピー』のタイトルで邦訳され、それも読んだ)。

今回、邦訳された彼の最も新しい著作『トラウマと記憶~脳・身体に刻まれた過去からの回復~』を読んで、ちょっと思いつきで自分自身にSEを行ってみた。もちろんSEの専門的なトレーニングなど受けたことがないので、例によってあくまで「なんちゃって」レベルである。

(注1)英語表記ではPeter A. Levineである。現在4冊の著作が邦訳されているが、うち2冊ではピーター・リヴァインとなっている。どちらが正しいのかわからないが、この記事ではラヴィーンの方を使っている。
(注2)ユージン・ジェンドリンによって開発された心理療法メソッド。フォーカシングは身体を注意深く意識した時に現れる、上手く言葉にできないかすかな感覚(フェルトセンス)に注意を向け、それを言語化していくことで、隠れた問題を抽出し解決するものである。

ここでSEについて私の理解する範囲で少し述べておくと、一般にトラウマに対する治療として比較的よく知られているのはこういったものだろう。

彼ら(=セラピストたち)は、解離していて、長く忘れられていたか、または抑圧されていた子供時代の性的いたずらや虐待の記憶を「回復」させようとクライアントに激しく圧力をかけた。こうした苦痛に満ちた掘り起こし作業では、非常に大きな解除反応が繰り返し起こったり、暴力的なカタルシスを伴ったりした。これらの非常にエネルギーを消耗する「表出的」な治療がグループで頻繁に行われ、クライアントは恐ろし記憶が次々によみがえるのを体験し、苦悩や怒りを込めて叫ぶことが推奨(多くは強制)された。

実際こうしたやり方は広く行われている。

しかし、不運なことに、こうしたセラピーは混乱を喚起したり、不正確であることも多かった。その上、たとえ正確であったとしても、こうしたセラピーは、深く永続的な癒やしをもたらすことはなかった。また、多くの場合、こういった記憶の掘り起こしが帰って不必要な苦しみの原因になった。

こんな方法がまかり通る背景には、トラウマの機序が正しく認識されていないからだとラヴィーンは言う。ラヴィーンによるトラウマの機序とは次のようなものだ。

不適応な手続き記憶と情動記憶が長期にわたって存続することが、社会的な、あるいは人間関係の問題の根幹となっており、すべてのトラウマのもとにある中心的な作用機序を形成しているといってよいだろう。

そしてトラウマを抱えた人は「過覚醒/圧倒」か「低覚醒/シャットダウン・無力化」のいずれかに陥る。SEはフェルトセンスを使って、「今・ここ」の安定し落ち着いた状態を起点に、そこと過覚醒/低覚醒の状態との間を少しずつ行き来する(これをタイトレーションという)ことで分断されていた手続き記憶にアクセスしていく。するとクライエントが完了させることができなかった反応に行き着き、当時は阻害され失敗してしまった反応をここで完了させることができる。そして静かに手続き記憶と情動記憶の両方が本来あるべきだった形に変容するのである。

『トラウマと記憶』にはラヴィーン自身がクライエントに行った詳しい臨床記録が載っているので、それを参考に上記の問題に対して「なんちゃってSE」をやってみることにした。

私は子供の頃からずっと両親、特に母親が大嫌いだった。母親と一緒の空間にいるだけでイヤで仕方がなかった。長い間その理由がわからずに来てしまったが、その1つと思われるものが最近になってやっとわかった。私は鉗子分娩で生まれてきたらしい。なかなか出てこなくて/出てこられなくて鉗子で引っ張り出されたのだという(母親曰く、「ずいぶん長いこと頭に鉗子の跡が残ってたよ」)。だからなのか、母親のことを思い浮かべると胸の上部が圧迫されたようになって息ができなくなるのだ。それは死を間近に感じるような感覚だった。

ノーマルな「今・ここ」の感覚と母親のことを思い浮かべた時の胸が圧迫されて息ができなくなる感覚との間をタイトレーションしていくと、体に回旋するような動きが現れるのとほぼ合わせて、ノドの奥からうめくような声(注3)が出てきた。そしてそれがひとしきり続いた後は、母親のことを思い浮かべてももう胸の圧迫感も息ができなくなることもなくなった。もしかするとその回旋とうめき声は、私にとって未完了だった自力で産道を通って産声を上げるということを完了させる行為だったのかもしれない。

これで母親に対するわだかまりが完全に消えた、ということはないが、このワークで少し自分を縛っていたものが取れて身軽になったような気はしている。

(注3)「うううう…」とか「おおおお…」といったような声。本当はもっと大きな声を上げたいところだったが、何しろ場所が住宅地なので声を抑えてやっていた。


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