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深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

Trick or Treatment ? 第6部

2010-04-13 11:06:47 | 一治療家の視点
この記事は、第5部のコメント欄に有機創世派さんからいただいた3回目のコメントに対するレスポンスでもあります。コメントとして書くには長くなりすぎてしまったため、独立した記事としてupすることにしました。だから以下を読まれる方は、前もって第5部のコメントによるやり取りをお読みいただきたい(ただし、かなり長い)

これまでのやり取りで、私と有機創世派さんとの間の論点は、「治療効果というもののを、純粋に治療行為による結果の部分とそれ以外の部分とに明確に分離することができるか」ということに集約されてきたように思います。これは『代替医療のトリック』の核心部分ともリンクするものです。

>(代替医療と対比しての)通常医療は、治療効果が治療行為によってのみ発生するとは考えていません。sokyudo氏のおっしゃる通り、治療効果には様々な要因が存在します。
>しかし、その要因のすべては治療効果が一様に等しくはありません。
>とても強い治療効果を持つ要因や、回復率を引き上げる程度の要因、あるいは理論上は治療効果があってもほとんど観測不能な要因もあるでしょう。
>治療行為とは本質的にはこれらのうち可能な限り強い治療効果を持つ要因を人為的に引き起こすことです。

という、有機創世派さんの治療行為についての考え方に私も全く異存ありません。そして、医療行為とは全て統計学と切り離せないものであることも。遙か昔から今に至るまで、さまざまな治療法が考案され、その中で経験的に比較的効果が高いものだけがずっと残って使われてきた。それは即ち、統計学的な分別が行われてきたということです(もちろん、ここで言う「統計学的な…」とは素朴な経験則の延長にあるレベルのもので、数学的な厳密性を持った「統計学的な…」ということではありません)。

そして『代替医療の~』が行おうとしたのは、その「経験的に」の部分を「科学的に」に置き換えることであり、そのための最高のツールが二重盲検法だというわけです。二重盲検法を用いれば、得られた治療効果の中から治療行為そのものによる結果を分離できるので、その治療法が純粋に有効であるかどうかを判定できる──それがこの本や有機創世派さんの考え方であり、それに対して私は、治療効果とは治療行為と患者の内的・外的なさまざまな要因との関係性によって決まるので、治療法そのものの純粋な効果を求めることなどできない、と考えています。

この2つの考え方の違いは、通常医療と代替医療というものの、医療あるいは治療そのもののあり方の違いが大きく関わっているのかもしれない、と2回目のコメントへのレスを書いた後、ふと思いました。

私は、通常医療で「○○病に対してこの治療は有効か?」という問いは意味があるけれど、代替医療では「○○病に対して鍼灸は有効か?」とか「カイロプラクティックは有効か?」という問いには意味がないと思うのです。

通常医療では病名診断がなされると、その診断に基づいて治療法が選択されます。実際には、患者の症状の程度などの他、年齢や性別などの疾患名以外の要因も当然加味されるでしょうが、大枠としては患者個人の属性といった要素の影響は相対的に小さく、疾患名に対して治療法が決まってくる。ですから「○○病に対してこの治療は有効か?」という問いには大きな意味があるわけです。

それに対して、代替医療の治療はそうではありません。単に、疾患名に対応して治療法を選択する、ということではありません。○○病である特定のAさんに対応して治療法を選択する、といったことでもありません。○○病と診断された特定のAさん現在心身の(構造的、電気的、エネルギー的、…)の状態に応じて治療法を選択する、ということなのです。だから極端な話、Aさんを診るのが1時間早かったら、あるいは遅かったら、治療の流れは全く違うものになっていたかもしれない。つまり代替医療では、治療法の選択そのものが患者の内的・外的な要因と不可分なのであり、だから治療効果から治療行為そのものの結果だけを分離することなど最初から不可能なのです。

薬の治験であれば、特定の疾患を持った人を大勢集めて、実際に投薬を行うグループと投薬を行わない対照群とに分けて、その差を比較することでその薬の有効性が測れると考えることには一定の合理性があるでしょう(実際には、これだけではただの大規模な調査にすぎず、二重盲検検査ではありませんが)。しかし、鍼灸、カイロプラクティック、オステオパシー、…何でもいいですが、代替医療でそれと同様のことを行ったとして、それをもって治療行為による効果を測れるものでしょうか。

例えば、ある特定の疾患に対する鍼の効果を調べるために、その疾患と診断された人を大勢集めて、鍼を打つグループと打たない対照群とに分けます。しかし、ここで問題となるのは、鍼を打つグループに対して、どこにどれだけの鍼を打つことを認めるのか、ということです。ある人にはツボAを使い、ある人にはツボBを使う、あるいはある人には鍼を1本だけ打ち、ある人には10本打ち、ある人には接触鍼だけ、…といったことは認められるのか? もし、公平を期すために使うツボ、使う鍼の本数、使う手技は全て統一しよう、などとなったら、それはもはや鍼治療ではなく、そんなことで対照群と比べて疾患の改善度合いが云々などと言っても、そんな結果には何の意味もありません。

『代替医療の~』の最大の問題は、全く違うあり方をしている2つのものを同一の基準で評価しようとしたことにあるのです(この本を読む時、自分がいつも感じていた「何とも言えない違和感」の正体が、これを書くことでやっとわかったような気がします。有機創世派さんにはお礼を言わなければなりませんね)。

それでも、「通常医療も代替医療も同じ『医療』なのだから、同じ基準で評価できなければならないはずだ」と言い張る人もいるでしょう。そういう人に私の考えを述べるなら、
「代替医療は、通常医療とは違うあり方をしていることに意味がある。もし代替医療が通常医療と同じあり方に変わってしまったら、通常医療を『代替』することも『補完』することもできなくなるだろう。そして、あり方が異なるものを同一の基準で評価できるはずもないし、またする必要もない。『では代替医療の評価は誰がどのように行うのか』と問われるならば、『それは、それを受ける患者と時間が決める』と答える。本当に効果のないものならば、その治療法からは自然に患者は離れて、時間の経過とともに消えていくものだから」
ということになるでしょう。

※なお、私はこの場で単に自分が個人として信ずることを述べているだけで、これが代替医療のスタンダードな考え方だ、などということではありません。誤解なさらぬよう。


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98 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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コメントありがとうございます。 (sokyudo)
2010-08-24 19:18:13
>通りすがりの治療家さん

コメントありがとうございます。
確かにおっしゃる通りだと思います。
返信する
治療は普遍化されない (通りすがりの治療家)
2010-08-24 18:17:46
>科学は「普遍化できる事情」のみを取り扱うことしかできません。そして私たちは、普遍化できない事情について類推以上の検証を行うことができません。


患者がすべて異なるものであれば、治療はオーダーメイドであって、何の普遍化もされませんね。

同じ患者の状態に出会うことは二度とない。

特に手技療法のような繊細なものでは当然でしょう。
まあ、話も終わっているようなので感想ということで。

 
返信する
そこにこそ魔法が許されているのです。 (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-06-12 22:24:19
…コメントの趣旨をご理解いただけなかったようで残念です。

>結局、「>非常にたくさん「黒いカラス」を見つけても確証度が上がるだけで依然として覆される可能性がある。「累進的確証」で手に入ったのは蓋然性だけだ。」と言うことであり、現代科学を根拠に少数の異端ケースを否定することはできないのです。
誤解されているようですが…「少数の異端ケースを否定する」意図など毛頭ありません。
少数の、現代科学には必ずしも当てはまらないように見える異端ケースが存在することを否定するつもりはありません。
「科学が完全ではない、不完全なものである」ということなどとうに証明されていることは理解しています。
ただし、それは決して「科学でないもの」を肯定する理由にはなりません。
科学が完全でないとしても、科学が十分に蓋然性が高いことを否定するものではありませんし、またその事実が代替医療を初めとした、現在「科学でないもの」に肯定的な根拠となることもありません。
少数の異端的ケース、すなわち普遍化不能な「奇跡」の存在をもって、科学を否定するのは、科学がすべてを説明できるものでなければならないという誤った理解によるものではないかと思います。
科学は「普遍化できる事情」のみを取り扱うことしかできません。そして私たちは、普遍化できない事情について類推以上の検証を行うことができません。
ある奇跡が科学と異なる論理体系で説明可能であるとしても、それを説明できない科学が劣っているということにはならないのです。
その論理体系が類推以上の何かか、そうでないか、私たちに確かめるすべはなく、ただその論理体系を「信じる」ことしかできないのですから。

ヤフー掲示板での議論の継続を提案されましたが、私はヤフー掲示板の利用経験がなく、ヤフー掲示板のどこならばこの議論の続きを行う際に適切か否か判断することができません。
もしよろしければ、考える名無し氏に誘導していただければありがたいです。
返信する
二重投稿分を削除 (sokyudo)
2010-06-12 17:29:10
考える名無しさんの二重投稿分を削除しました。一応お知らせまで。
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すみません (考える名無し)
2010-06-12 10:50:51
二重投稿になってしまいました。
本業が忙しいので、これで失礼します。

返信する
科学錬金術の朝令暮改 (考える名無し)
2010-06-12 10:48:31
いいえ、「最も客観に近い方法で検証を続けている」ことが「可能な限り正確な事実の観察によって得られた、現在最も確からしい、普遍化できる知見」になりませんよね。
だから、ドグマと言われているんでしょ。
これまでのsokyudoさんとのやり取りを見てもドグマティックな考えに囚われている有機創世派さんに、何を言っても無駄なような気がします。

いいですか、結局、「>非常にたくさん「黒いカラス」を見つけても確証度が上がるだけで依然として覆される可能性がある。「累進的確証」で手に入ったのは蓋然性だけだ。」と言うことであり、現代科学を根拠に少数の異端ケースを否定することはできないのです。

科学ができることは、『蓋然性に基づいた疑義を申し立てる』と言うことだけなわけです。
今回の『代替医療のトリック』に関しても・・・・ある調査方法では、代替医療はまったく効果がない方法と比べて同じ程度の効果しか得られないという統計結果が出た・・・・と言うことでしかありませんね。


ここで問題とされているのは「>科学を否定する際に必要なのは、「科学は完全じゃない」という証拠ではなく、」ではなくて、


  『 科学は不完全であると証明されている 』


と言うことです。
科学を否定しているのではなく、異なる論理体系を持つものを批判した場合、極めて信頼性に欠けると言うことです。
だから、パラダイムシフトと言うものが出てくるんですよ。
今まで主流の考え方では無効であるとか、ノイズであるとか言う部分が、理論の矛盾となるわけです。

現代科学側の人のEBMによる反論がほぼすべて「理論やメカニズムは知らないけど、とにかく実際にやっても効かないことが実証されちゃったよ」になっていますが、「その科学自体が暫定的な結論しか述べることができず、その実証知見は常に覆されうるものであることが証明されている。」と言うことですから、それでは反論にならないわけで、単なる一見解と言うことです。


>科学が説明できないことと、科学が今説明できることの両方をよりうまく説明できる何かがあらわれたら、それが新たな科学となる形で、科学的知見は覆されうるものです。

『代替医療に関して科学は説明できない』・・・と言う事実を把握すべきですね。
「理論やメカニズムを知らないのに、どうして実際にやったといえるのか?」と言うことです。

結論から言えば・・・現代科学側の自己満足でしかない・・・と言うことですな。



ところで、個人のブログではなくて、例えばヤフーの掲示板とかでやったらいかがでしょう。

私も忙しいんで、これ以上付き合っていられないと思いますが。


 
返信する
魔法とプロシージャの間 (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-06-12 09:33:47
まず、老婆心からの忠告ですが、考える名なし様、通りすがり氏にも言いましたが、「名なし」などの不特定多数を想起させる名前は、時に議論に対する姿勢を疑われることにつながります。ですから、可能なら別の名前を名乗ることをお勧めいたします。

>今回の事例は『現代科学を根拠に少数の異端ケースを否定するならば、まずはその現代科学が確実であるという根拠を示していただきたく思います。』でしょう。

いいえ、違います。
そこについては通りすがり氏も同様の間違いを犯しているようでしたので、指摘したかったのですが…。
現代科学が完全で未来永劫無謬の物でなければ、他の理論を批判できないかというと、そうではありません。
というか、そんな理論は「存在しえません」。
科学は、「可能な限り正確な事実の観察によって得られた、現在最も確からしい、普遍化できる知見」ということができるでしょう。
ですから、科学において世界のすべてを説明し、すべての神秘を説明するような、まさしく「科学技術結社的なこと」はできませんし、科学が説明できないことと、科学が今説明できることの両方をよりうまく説明できる何かがあらわれたら、それが新たな科学となる形で、科学的知見は覆されうるものです。
(例をあげるなら、RNAウイルスなんかが代表でしょうか?)
おそらく、通りすがり氏も貴殿も、「現代科学という理論が完全に正しくないかもしれないのに、どうして他の理論を正しくないと言えるんだ?」と考えているのでしょう。
それは科学が「最も客観に近い方法で検証を続けている」ことにあると考えています。
科学は個人の経験に収まらないように、実験や観察を厳密に行ったり、あるいは個人の経験に左右されないように実験をデザインすることで、少しでも普遍に近い位置に己を置こうとしています。
もちろん、だからと言ってその知見が絶対に更新されえないものであるとは考えません。
しかし、現状において最も信頼できる、と言える程度には確実でしょう。
科学を否定する際に必要なのは、「科学は完全じゃない」という証拠ではなく、「現在の科学はこのデータと矛盾している」という証拠なのです。

最後に、失礼かもしれませんが今この場にいられないかもしれない方へのアナウンスを少々。
通りすがり氏へ。まぁこの書き込みを見ないかもしれませんし、見ても反応しなくて結構です。しかし、もし見ていて反応したいのでしたら、当方のブログへどうぞ。
戦争じゃないのですから、地の利なんてありません。ぜひうちのブログで続きをやりましょう。
返信する
自己限界がわからない科学教信徒 (考える名無し)
2010-06-12 08:28:29
>また、パラダイム理論を引用したならば理解できるかと思いますが、我々は少数の異端的ケースが誤差などによるもので、理論の修正が必要ない程度のものか、それとも理論の過ちによるもので、理論の修正が必要なものかを完全に区別するすべを持ちません。

だから、EBMで現在否定されたということが何ら完全な区別にはならないということですよね。

>少数の異端ケースの存在を根拠に現代科学を否定するならば、まずはその異端的ケースが無視できない程度の誤差であることを示していただきたく思います。

それは反対でしょう。
今回の事例は『現代科学を根拠に少数の異端ケースを否定するならば、まずはその現代科学が確実であるという根拠を示していただきたく思います。』でしょう。
そして、有機創世派さんは「>科学はこの世界のありとあらゆる現象のすべてに完璧な回答を出せるとは科学を知る者は考えません。」と言っているわけですよね。

>少数の異端ケースの存在をもとに、科学が「絶対出ない」ことを示したいとおっしゃられるならば、安心してください。
>我々はそんな絶対を名乗りはしませんから。

つまり、「代替医療のトリック」で提示されたEBMによる知見は常に覆されうる(科学的な結論は常に暫定的である:反証可能性も参照せよ)ものである」わけですよね。
返信する
理性教団の後継者 (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-06-11 23:10:29
若干嫌な予感は感じていますが、返信することにしましょう。

>間違いなくはっきり言えることは、「代替医療のトリック」で提示されたEBMによる知見は常に覆されうる(科学的な結論は常に暫定的である:反証可能性も参照せよ)ものである」わけですよね。

ええ。覆される可能性は否定しませんよ。
覆されえないものだとは思っていません。
…しかし、それがどうしたというのでしょう?
科学は神を名乗ったりはしません。
ゆえに、反証可能性があったからと言ってそれを恐れるような事はありません。
むしろ、反証される可能性が全くない科学、と名乗るものがあったら、私は真っ先にそれを疑うでしょう。

>「真実に一番近い知見」なんてないんですよ。
>人ならば、既に目の前に真実としてあるんですからね。
>それを知見として捉えようと言うのが、そもそも傲慢なんです。
発言の意味がいまいちよくつかめません。が、「人の【真実に一番近い知見】」という言葉は、「わかっている限り一番確からしいこと」という意味の発言ですが、それは十分存在すると考えます。(誤解を生みやすい表現だったのは認め、その点では謝罪したいと思います)

理解していただきたいのは、科学はこの世界のありとあらゆる現象のすべてに完璧な回答を出せるとは科学を知る者は考えません。

また、パラダイム理論を引用したならば理解できるかと思いますが、我々は少数の異端的ケースが誤差などによるもので、理論の修正が必要ない程度のものか、それとも理論の過ちによるもので、理論の修正が必要なものかを完全に区別するすべを持ちません。
少数の異端ケースの存在を根拠に現代科学を否定するならば、まずはその異端的ケースが無視できない程度の誤差であることを示していただきたく思います。
少数の異端ケースの存在をもとに、科学が「絶対出ない」ことを示したいとおっしゃられるならば、安心してください。
我々はそんな絶対を名乗りはしませんから。
返信する
常に反証されるのが科学 (考える名無し)
2010-06-11 21:25:54
私も有機創世派さんの言っていることはドグマだと思います。

>それは、現代医療がEBMに則った精査を行った一つの成果ともいえるものであり、何ら現代医療や、科学的検証法の脆弱さを示すものではありません。むしろ誠実さや、医学の進歩のあらわれであるといえるのではないでしょうか。

間違いなくはっきり言えることは、「代替医療のトリック」で提示されたEBMによる知見は常に覆されうる(科学的な結論は常に暫定的である:反証可能性も参照せよ)ものである」わけですよね。


それにTime of Judgmentって、一体誰がジャッジするんですか?

>それらは常に検証されており…これからも人の、「真実に一番近い知見」を目指し続けるでしょう。
>いつか来るTime of Judgmentまで。

「真実に一番近い知見」なんてないんですよ。
人ならば、既に目の前に真実としてあるんですからね。
それを知見として捉えようと言うのが、そもそも傲慢なんです。

論理実証主義の破綻からも明白です。
>非常にたくさん「黒いカラス」を見つけても確証度が上がるだけで依然として覆される可能性がある。「累進的確証」で手に入ったのは蓋然性だけだ。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1356/PHILOFIGHT/card15987.html

また、クーンのパラダイムシフトを考えれば、“主流"の説明は出来ても、科学の異端的少数集団に対する説明が困難になると言う事例をさけて通れませんよね。

パラダイムとは或る集団が有する世界観のことであり、それに付随して方法、一般理論がある。通常科学はそれに則り、その法則の下でその理論に合わせて世界を翻訳する。・・・それの中では、世界の歪曲も往々にして起こっている。・・・そのデータの混乱が一定以上になったときに、初めて新種のパラダイムが出来、旧パラダイムを駆逐して(支持者の数に拠って決まる)以後の世界を解釈する。
http://www6.big.or.jp/~es_plus/main/l3/es-zui/philo-sci.htm

現代医学のパラダイムで効果がないとされたところで、パラダイムの異なる代替医学に関して何かを説明したことにはならないわけです。
ここで言えることは、代替医学に一定の効果がありながら、現代医学の手法ではそれを特定できないということが現代医学の手によって証明されただけでしょう。
それに「代替医療のトリック」が出版されてしばらく経ちますが、なんの反響もないように思えます。
多くの人々は現代科学の手法というものをそれほど信用していないのではないかと思われるくらいです。
返信する
Time of Judgment (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-06-11 19:25:11
通りすがり氏が議論に参加されないという形での打ち切り、大変残念に思います。
が、私に議論を強制する資格はありませんから、これで終わりとするべきなのでしょう。
ただ、最後に一言だけいわせていただければ幸いです。

>100件のエビデンスのうち23件が2年以内に覆され、そのうち7件は出版された時点で既に覆されていたとの報告があるように、臨床研究による知見は常に覆されうる(科学的な結論は常に暫定的である:反証可能性も参照せよ)ものであることを念頭において下さい。
>註)参考文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/根拠に基づいた医療

それは、現代医療がEBMに則った精査を行った一つの成果ともいえるものであり、何ら現代医療や、科学的検証法の脆弱さを示すものではありません。むしろ誠実さや、医学の進歩のあらわれであるといえるのではないでしょうか。

科学はドグマではありません。
通常医療も、ドグマではありません。
それらは常に検証されており…これからも人の、「真実に一番近い知見」を目指し続けるでしょう。
いつか来るTime of Judgmentまで。
返信する
Unknown (Unknown)
2010-06-11 16:43:58


とおりすがりさん
お疲れさまでした
返信する
愚かなる科学教信者のドグマ (とおりすがり)
2010-06-11 14:19:52


 
最後に下記を再掲しておきます。


100件のエビデンスのうち23件が2年以内に覆され、そのうち7件は出版された時点で既に覆されていたとの報告があるように、臨床研究による知見は常に覆されうる(科学的な結論は常に暫定的である:反証可能性も参照せよ)ものであることを念頭において下さい。
註)参考文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/根拠に基づいた医療

EBMは即座に覆される得るものですよね。

 
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-11 14:01:38

 
では、私の方は、これで議論を打ち切らせて頂きます。


 
返信する
了解しました。 (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-06-11 13:31:45
では改めて、アドレスを貼らせていただきます。

http://doppelp.blog134.fc2.com/blog-entry-4.html
返信する
態度を決めました。 (sokyudo)
2010-06-11 13:20:14
私が「どちらでもいい」という、どっちつかずの態度を取ってしまったため、混乱が生じてしまっているようで、申し訳ありません。
現在ここで進行している議論を見ると、どうも有紀創世派さんと、とおりすがりさんとの間のやり取りに収斂しているように感じられます。
ですので、議論の流れがわかることを重視する、とおりがかりさんの言い分もわかりますが、今後の議論は場所を移して行ってくださるよう、お願いします。

また余裕ができたら、新たな場に参戦させていただくかもしれません。その時はよろしく。
返信する
偉大なる魔術はすでに過去のかなたにあり (科学技術結社 有機創世派)
2010-06-11 13:02:23
私個人としては場所を移すべきかと考えていますが、通りすがり氏の同意がいただけないのでこちらで議論するしかありません。

>そもそも「交通安全のお守りの効果」と言うものを、どう考えておられるのでしょうか?
>「交通安全のお守りをもつことで不思議な力に守られる」という考えであれば、先んじて【不思議な力なるもの】があると言うことを認めていますよね。
>そうではなく、【不思議な力なるもの】などあってもなくてもよく、単に「交通安全に効果があるのかどうかだけの見る」と言うことであれば、次のような意味合いになります。
>「交通安全のお守りの効果」は、自分の信じている神様などに【自分は気をつけて車を運転するなどの約束した】という証明です。
歴史的検証においては、文化的側面でその神様がどのくらい社会生活に影響力を持っているかということに比例して、お守りの効力は発揮されるでしょう。
>効果をはかるためには、その神様に敬虔なる信仰をしている人間とそうでない人間を区分してから効果を確認することが必要ですね。
>上記のような素地を無視して、「交通安全のお守りの効果」を統計的に検証しても無意味です。
>これで「どのような状況で効果があり、どのような状況で効果がないのか?」ご理解頂けたと存じます。

交通安全のお守りが、いかなる原理で効果を発生させるのか?ということはこの議論において重要ではありません。
問題は、何もかもを「主観」として扱い、「その意見が現実を反映しているように見えるか、そうでないか」のみでしか判断することのできない通りすがり氏の主張の範囲では、この場合交通安全のお守りを持つことが交通安全に対し有効か否か全く分からない、ということです。
たとえ神様を信じていて、交通安全に気をつけていても事故に巻き込まれることはあり得ますし、そうなれば効果がなかったと判断しうるでしょう。
あるいは、神様なんて特に信じていない、という人でも交通安全のお守りを持った後、一回も事故に合わなかったら「効果があったのかもしれない」と判断することはあり得ます。
個々の経験はそもそも偏っているため、「効果があった」という結論が経験と一致する人と、「効果がなかった」という結論が経験と一致する人が現れるわけです。
その時、経験が主観の重みづけを成すことはないでしょう。
また、通りすがり氏は
>「交通安全のお守りの効果」は、自分の信じている神様などに【自分は気をつけて車を運転するなどの約束した】という証明です。
>歴史的検証においては、文化的側面でその神様がどのくらい社会生活に影響力を持っているかということに比例して、お守りの効力は発揮されるでしょう。

とおっしゃっておられますが、「神を信じている」ということがバイアスとなって、「お守りには効果がある」という結論に達しているだけではないでしょうか?歴史的検証はバイアスがある結論が出ても信頼性が高いが、科学的検証はバイアスがあるから信頼性が低い、というダブルスタンダードのように思われます。

>無益であったり、被害が出てしまえば、社会から抹殺されるかたちで淘汰されるでしょう。
>丁度18~19世紀の西洋医学が「有効なすべであるように見える実害だらけのもの」であり、>そう言う手法はみな淘汰されてしまった事実を無視してはいけません。
>継続していく間には、今回の「代替医療のトリック」のような否定見解がでてくるのは当然です。
>過去にもそう言う経過は何度もあり、そのおかげで進歩している部分も多数あると考えられます。
>しかし、それらの否定見解による試練を乗り越えて継続している限り、社会的に有益であるという証明だということです。

とのことですが、「否定意見による試練を乗り越えて継続している限り、社会的に有益であるという証明だということです」が、「過去正しいとされてきたから、正しいはずだ」とどう違うのか、私にはわかりません。
結局、通りすがり氏の言う歴史的検証とは

1 歴史上長く存在しているものは、批判にさらされているはず
2 批判にさらされながら、残っているものは正しい
3 だから歴史上長く残っているものは正しい

というずさんな三段論法でしかありません。
長く残っていても否定される物など数多くありますし、批判にさらされても批判を無視する形で残り続けるものも存在しています。
結局、現在まで残っているというだけでは、なんら信頼性の担保にならないのです。
返信する
破壊の徒よ 汝の世界は矛盾なり (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-06-11 11:06:36
まず、このコメントは通りすがり氏が場所の移転に同意していただけなかったため、転載したものです。そのため、時系列に若干のずれがあることをお許しください

通りすがり氏(こっちでは管理人として識別用に何か名乗ってもらいたい)の意見を読んで、
Ⅰ「客観、及び【十分に客観に近いもの】の存在を否定するなら、どうやって主観同士を検討するの?」
Ⅱ「歴史的検証はそこまで信頼性が高いのか?」
と、いう疑問を持っています。

ⅠについてはすでにMDL氏が同様の質問をおっしゃっておられるのですが、その返事は返事になっていません。
>等価値でないなら複数の主観の重み付けは何を基準に行うのか教えてください。(MDL氏)
に対し、
>「実用性」によって重みづけられるでしょう。
>「物事の真理を実際の経験の結果により判断し、効果のあるものは真理であるとする。」と言うことです。

と答えられているのですが、その実用性の有無も通りすがり氏の言う通りならば【主観】でしかなく、いつまでたっても真理と呼べるものにたどり着けません。

わかりやすい例として、交通安全のお守りに効果があるか否かを調べるケースを考えてみましょう。
歴史的検証とやらによるならば、長期間お守りを持ってもらって、効果があるか否かを確認してもらう、ということになるでしょう。
ところが、お守りを複数の人に持ってもらったところ、「効いた」という人と「効かなかった」という人がいたとします。
(もっと細かく分かれるかもしれませんが、今は簡単にこうだったことにしておきましょう)
その時、はたしてこの交通安全のお守りは、効果があるのか、ないのかどちらでしょうか?
通りすがり氏の理論によるなら、確かめるすべがありません。
「ある人には効果があったが、別の人には効果がなかったんだ」とおっしゃられるかもしれません。
しかしそれは、「どのような状況で効果があり、どのような状況で効果がないのか?」が分からない限り、何もわかっていないに等しい結論です。


また、歴史的検証法が客観に近く、信頼性が高いと考える理由も存在しないでしょう。
歴史的検証法は通りすがり氏によれば、
「特定の治療法が、永年継続して社会で存続してきていることによる信頼性の担保」
とのことです。
が、この時、永年継続して社会に存在してきているものが、その年月に等しく検証、検討されてきたと言えるかを通りすがり氏はまったく考慮していないようです。
ただ漫然と時代に存在し続けただけでは、「それが有効なすべであるように見える」物ならば生き残ることができます。
しかし、それでは「有効な術であるように見えている」だけですから、実際には無益であったり、むしろ被害が出てしまいます。
そうならないために、「主観に左右されないよう、可能な限り客観的な方法で検討し続ける」ことが必要になります。
…が、通りすがり氏の言う通りならそんなことは不可能なので、「歴史的検証」の正当性を担保する個々の事例が存在しえないのです。
結局通りすがり氏の論理の通りならば、私たちは「自明である」という知識に頼ることしかできません。
それは通りすがり氏が否定したはずの、「過去に正しいとされてきたから、正しいはずだ」と何ら変わらないでしょう。


おまけ
「細工の無いサイコロの目が出る確率はそれぞれ1/6」を常識的に判断した場合、「細工されていない六面体ダイスを一回振ったとき、1~6のそれぞれの目が出る確率はそれぞれについて1/6である」ということになるでしょう。
それを否定される通りすがり氏は、普段ダイスを振るゲームをよく振るゲームをやる私からしたらよっぽどうらやましいタイプの人間か、それとも「1/6」という事実は存在しない!というような強引な論理を展開される方か、それとも単に質問が理解できていないかのいずれかなのでしょう…(違っていたら申し訳ない)

以上転載です。
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-11 10:56:04


 
私は、今までの経緯がよくわかるこちらで議論を継続することがよりわかりやすいと判断しております。

有機創世派さんは、私の意思を確認せずに勝手に場所を変更されておりますね。
それはマナーに反した行為だと考えますが、いかがでしょう?

また、本題とはまったく関係のないところでもめていても仕方ないのではないでしょうか?



 


 
返信する
Unknown (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-06-11 10:41:23
ええ。sokyudo氏は「場を移しても移さなくてもかまわない」という趣旨の発言をしてくださいました。
でしたら、場を移したほうがいいのではないか、と考えて当方のブログへ誘導させていただきました。

この議論は、すでにsokyudo氏の手を離れています。
ゆえに、sokyudo氏の管理するここではなく、私の用意できる場所で続行すべきだと考えたのです
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-11 10:40:04
上記のご意見であれば、こちらに投稿するのは何の問題もないと考えます。

私が貴方の勝手な言い分に付き合う必要性を感じません。

私個人としては、こちらでレスをしないのであれば、今後議論する必要性すら感じません。

そもそも、いままでさんざん他人のブログを占有してレスをしていた有機創世派さまが、都合の悪い意見が出たとたんに場所を変えたいと言いだしているようにしか思われませんよ。


 

 
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Unknown (とおりすがり)
2010-06-11 10:34:44
>この議論については、このままここで続けていただいても、別のところに場を移していただいても、私はかまいません・・・と言うのが、sokyudoさまのご意見です。
返信する
通りすがり氏へのお願い (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-06-11 09:57:17
ここの議論は、すでに管理人であるsokyudo氏の意図を離れ、私やMDL氏と通りすがり氏の議論に移行しているように思われます。

また、誘導もなしに私のブログの文章にこちらで返事されますと、議論の場が拡散してしまい、後から読むときに大変困難になってしまいます。
私は、こういったインターネットの議論の利点の一つとして、「議論の記録を通じて議論によって得られた知見を後から読んだ人が得られること」だと考えています。

ですから、よろしければコメントを転載する形で結構ですので、こちらのブログのほうにコメントしていただき、以降は当方のブログで議論を行いたいと思います。

もし、当方のブログで議論を続行することに何らかの異論がある場合も、こちらのブログのほうにお願いします。
勝手と思われるかもしれませんが、他人のブログをこれ以上占有するのも忍びないと思ったが故です。ご理解いただければ幸いです。
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-11 09:41:53

 
sokyudoさまは、どちらでも良いというご意見ですので、私としてはこちらに書かせて頂きます。

理由は、これまでの経緯がこちらの方が明白だからですね。



>通りすがり氏(こっちでは管理人として識別用に何か名乗ってもらいたい)の意見を読んで、
>「客観、及び【十分に客観に近いもの】の存在を否定するなら、どうやって主観同士を検討するの?」
>「歴史的検証はそこまで信頼性が高いのか?」
>と、いう疑問を持っています。
>
> についてはすでにMDL氏が同様の質問をおっしゃっておられるのですが、その返事は返事になっていません。
>>等価値でないなら複数の主観の重み付けは何を基準に行うのか教えてください。(MDL氏)
>に対し、
>>「実用性」によって重みづけられるでしょう。
>>「物事の真理を実際の経験の結果により判断し、効果のあるものは真理であるとする。」と言うことです。
>
>と答えられているのですが、その実用性の有無も通りすがり氏の言う通りならば【主観】でしかなく、いつまでたっても真理と呼べるものにたどり着けません。


実用性の有無が単なる主観であるとすれば、飛行機が飛ぶのも、携帯電話が使えるのも【主観】でしかないということになりますね。

当然、EBMが客観的であると信じるのも【主観】ですね。
そもそも、MDL氏の言っておられることがおかしなことだとご理解頂けましたでしょうか?


また、私個人の見解では、科学は真理にたどり着けないと考えております。

つまり、完全なる普遍的な法則を科学は提示することができないということですね。

なぜなら、我々は「すべて」を観察することなど出来ませんから。




>わかりやすい例として、交通安全のお守りに効果があるか否かを調べるケースを考えてみましょう。
>歴史的検証とやらによるならば、長期間お守りを持ってもらって、効果があるか否かを確認してもらう、ということになるでしょう。
>ところが、お守りを複数の人に持ってもらったところ、「効いた」という人と「効かなかった」という人がいたとします。
>(もっと細かく分かれるかもしれませんが、今は簡単にこうだったことにしておきましょう)
>その時、はたしてこの交通安全のお守りは、効果があるのか、ないのかどちらでしょうか?
>通りすがり氏の理論によるなら、確かめるすべがありません。
>「ある人には効果があったが、別の人には効果がなかったんだ」とおっしゃられるかもしれません。
>しかしそれは、「どのような状況で効果があり、どのような状況で効果がないのか?」が分からない限り、何もわかっていないに等しい結論です。


そもそも「交通安全のお守りの効果」と言うものを、どう考えておられるのでしょうか?
「交通安全のお守りをもつことで不思議な力に守られる」という考えであれば、先んじて【不思議な力なるもの】があると言うことを認めていますよね。
そうではなく、【不思議な力なるもの】などあってもなくてもよく、単に「交通安全に効果があるのかどうかだけの見る」と言うことであれば、次のような意味合いになります。


「交通安全のお守りの効果」は、自分の信じている神様などに【自分は気をつけて車を運転するなどの約束した】という証明です。
歴史的検証においては、文化的側面でその神様がどのくらい社会生活に影響力を持っているかということに比例して、お守りの効力は発揮されるでしょう。

効果をはかるためには、その神様に敬虔なる信仰をしている人間とそうでない人間を区分してから効果を確認することが必要ですね。

上記のような素地を無視して、「交通安全のお守りの効果」を統計的に検証しても無意味です。

これで「どのような状況で効果があり、どのような状況で効果がないのか?」ご理解頂けたと存じます。




>また、歴史的検証法が客観に近く、信頼性が高いと考える理由も存在しないでしょう。
>歴史的検証法は通りすがり氏によれば、
>「特定の治療法が、永年継続して社会で存続してきていることによる信頼性の担保」
>とのことです。
>が、この時、永年継続して社会に存在してきているものが、その年月に等しく検証、検討されてきたと言えるかを通りすがり氏はまったく考慮していないようです。
>ただ漫然と時代に存在し続けただけでは、「それが有効なすべであるように見える」物ならば生き残ることができます。
>しかし、それでは「有効な術であるように見えている」だけですから、実際には無益であったり、むしろ被害が出てしまいます。
>そうならないために、「主観に左右されないよう、可能な限り客観的な方法で検討し続ける」ことが必要になります。
>…が、通りすがり氏の言う通りならそんなことは不可能なので、「歴史的検証」の正当性を担保する個々の事例が存在しえないのです。
>結局通りすがり氏の論理の通りならば、私たちは「自明である」という知識に頼ることしかできません。
>それは通りすがり氏が否定したはずの、「過去に正しいとされてきたから、正しいはずだ」と何ら変わらないでしょう。


いつの間にか、言っておられることに矛盾が生じているようですが?

まず、代替医療というものが【職業】であるということに注意して下さい。

無益であったり、被害が出てしまえば、社会から抹殺されるかたちで淘汰されるでしょう。
丁度18~19世紀の西洋医学が「有効なすべであるように見える実害だらけのもの」であり、そう言う手法はみな淘汰されてしまった事実を無視してはいけません。
継続していく間には、今回の「代替医療のトリック」のような否定見解がでてくるのは当然です。
過去にもそう言う経過は何度もあり、そのおかげで進歩している部分も多数あると考えられます。
しかし、それらの否定見解による試練を乗り越えて継続している限り、社会的に有益であるという証明だということです。


また、【「主観に左右されないよう、可能な限り客観的な方法で検討し続ける」と言う主観】があるだけだと私は言っています。
これは丁度科学を宗教のように盲目的に信奉するようなものですね。

いいですか、EBMを盲目的に信じるというのは、「過去に正しいとされてきたから、正しいはずだ」としているのと同じですよ。

>100件のエビデンスのうち23件が2年以内に覆され、そのうち7件は出版された時点で既に覆されていたとの報告があるように、臨床研究による知見は常に覆されうる(科学的な結論は常に暫定的である:反証可能性も参照せよ)ものである・・・ことを念頭において下さい。
註)参考文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/根拠に基づいた医療


あるエビデンスである否定がなされた場合、それを鵜呑みにするのではなく、もう一度疑ってかかるのが科学者の態度でしょう。





>おまけ
>「細工の無いサイコロの目が出る確率はそれぞれ1/6」を常識的に判断した場合、「細工されていない六面体ダイスを一回振ったとき、1~6のそれぞれの目が出る確率はそれぞれについて1/6である」ということになるでしょう。
>それを否定される通りすがり氏は、普段ダイスを振るゲームをよく振るゲームをやる私からしたらよっぽどうらやましいタイプの人間か、それとも「1/6」という事実は存在しない!というような強引な論理を展開される方か、それとも単に質問が理解できていないかのいずれかなのでしょう…(違っていたら申し訳ない)


「細工の無いサイコロの目が出る確率はそれぞれ1/6」を常識的に判断した場合、「細工されていない六面体ダイスを一回振ったとき、1~6のそれぞれの目が出る確率はそれぞれについて1/6である」ということに【なりません】。

サイコロの構造を考えてみて下さい。
それがあり得ないことは、工学をやる人間にとっては常識でしょう。

いかにサイコロを精密に製造しても、その重心をサイコロの中心にもってくることは不可能です。
重心が中心にないということは、重心が偏っている面の反対側が上になる可能性が高くなるのは物理的必然です。

サイコロを見れば出る目の確率は1/6などと、簡単に信じ込めてしまう人間には科学的思考はできないように思われます。



 
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連絡 (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-06-10 22:34:50
sokyudo氏からのお返事をいただきましたので、当方のブログにて以降の議論を行いたいと思います。
そちらに私の所見を書いてあります。
http://doppelp.blog134.fc2.com/blog-entry-4.html
返信する
表現の仕方にご注意ください。 (sokyudo)
2010-06-10 21:10:34
>皆さん

私自身はこれまで書いてきて、トータルとして自分の言いたいこと/今言えることについては述べてしまったような気がしているので、ここから遠ざかっていました(他に、仕事が忙しくなってしまった、ということもありますが)。

この議論については、このままここで続けていただいても、別のところに場を移していただいても、私はかまいません(コメントは誰でもできるようにしていますから)。

ただ、ここは閲覧も制限していませんので、全て外から見えています。ここに書き込みされるなら、例えば個人の人格を攻撃しているかのように取られる表現は控えていただくよう、お願いします。

また、もし議論の場を別に移されるのであれば、そこへのURLをコメントの中にでも載せていただけるとうれしいです。
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-10 17:11:12
>済みませんが、私はとおりすがりさんが
>>我々がわかるのは全宇宙の5~6%くらいのものでしかないということは、科学によって明らかにされております。
>と発言した事に対して
>「わかっていない事の総量」がわからない事には5~6%なんて言えない、と言ったのですが。
>我々が知っていることが5個、宇宙の全ての事象が100個と言う時に初めて5%と言えるはずです。
>5/100の分母にあたる宇宙の事象の総量をどう把握したのか、と言う質問に
>なんで暗黒物質なんて答えが返ってくるのでしょうか。


リンク先を読めば自明でしょうが、念のために引用しておきましょう。
-----------------------------
2003年から、宇宙背景放射を観測するWMAP衛星の観測によって、宇宙全体の物質エネルギーのうち、74%が暗黒エネルギー、22%が暗黒物質で、人類が見知ることが出来る物質の大半を占めていると思われる水素やヘリウムは4%ぐらいしかないことがわかってきている。この観測結果は、宇宙の大規模構造のシミュレーションから予測されているダークマターの値と、ほぼ一致している。このように二つの方法から推測したダークマターの量がほぼ合うということから、この考えの妥当性がはかられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/暗黒物質
-----------------------------
ご理解頂けましたでしょうか?



>しかも、「我々には認知できない物質ですね」認知できないものが何種類あるかなんてそれこそ分からないでしょうに。

これもリンク先を見れば自明です。



>まあ、本筋とは関係ない論なのですが、どうにもとおりすがりさんの意見は一事が万事この調子ですので。

貴方がリンク先をろくに読まずにイチャモンをつける人間であるということが、皆さんによくわかったのではないかと存じます。



>結局のところ、とおりすがりさんの意見は「客観的なものは存在しない」と言うことですよね。
>で、主観は全て等価値であると。
>等価値でないなら複数の主観の重み付けは何を基準に行うのか教えてください。

「実用性」によって重みづけられるでしょう。
「物事の真理を実際の経験の結果により判断し、効果のあるものは真理であるとする。」と言うことです。




>「細工の無いサイコロを振った時、1~5の目が出る確率と6が出る確率は1/2である」と言う説と
>「細工の無いサイコロの目が出る確率はそれぞれ1/6」であると言う説があった場合、
>とおりすがりさんはどちらの説も主観であり客観的な検証は出来ない、
>だから等価値であるとするのでしょうか。

ご指摘に意味がよく分かりませんが、「細工の無いサイコロの目が出る確率はそれぞれ1/6」という現実は存在しておりません。
そんなものを信用しているようでは、「似非科学」に簡単に騙されてしまうことでしょう。

もっと、科学的な視点をもって下さい。

 
返信する
とりあえず (MDL)
2010-06-10 15:49:54
結局ここで続けるんですか?
不毛だなあ。

>>>それが厳密に表されているわけですね。ttp://ja.wikipedia.org/wiki/暗黒物質
> 暗黒物質は、宇宙空間に存在するであろう未知の物質の総称であり、それは科学が今わからないことのごくごく一部でしかありません。他にもわからないことなど山ほどあります。

>単なる未知の物質ではなく、我々には認知できない物質ですね。

済みませんが、私はとおりすがりさんが
>我々がわかるのは全宇宙の5~6%くらいのものでしかないということは、科学によって明らかにされております。
と発言した事に対して
「わかっていない事の総量」がわからない事には5~6%なんて言えない、と言ったのですが。
我々が知っていることが5個、宇宙の全ての事象が100個と言う時に初めて5%と言えるはずです。
5/100の分母にあたる宇宙の事象の総量をどう把握したのか、と言う質問に
なんで暗黒物質なんて答えが返ってくるのでしょうか。

しかも、「我々には認知できない物質ですね」認知できないものが何種類あるかなんてそれこそ分からないでしょうに。

まあ、本筋とは関係ない論なのですが、どうにもとおりすがりさんの意見は一事が万事この調子ですので。

>まず、「客観的」という考え方の定義が不明瞭です。「科学的な検証は客観的であるという主観がある」と指摘しております。

結局のところ、とおりすがりさんの意見は「客観的なものは存在しない」と言うことですよね。
で、主観は全て等価値であると。
等価値でないなら複数の主観の重み付けは何を基準に行うのか教えてください。


「細工の無いサイコロを振った時、1~5の目が出る確率と6が出る確率は1/2である」と言う説と
「細工の無いサイコロの目が出る確率はそれぞれ1/6」であると言う説があった場合、
とおりすがりさんはどちらの説も主観であり客観的な検証は出来ない、
だから等価値であるとするのでしょうか。

等価値である、と言うならこれ以上の議論はおそらく無意味でしょう。
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-09 11:35:17

 
>・「歴史的検証」とはどのようなものか?

特定の治療法が、永年継続して社会で存続してきていることによる信頼性の担保ですね。
物事の真理を実際の経験の結果により判断し、効果のあるものは真理であるとするという「プラグマティズム」の観点によるものです。



>・通りすがり氏の主張は、「科学的検証は客観的でないから信頼性が低いが、歴史的検証は客観的であり信頼できる」と言うものであるという認識でよろしいでしょうか?

違いますね。
まず、「客観的」という考え方の定義が不明瞭です。「科学的な検証は客観的であるという主観がある」と指摘しております。

また、代替医療は科学的検証では有効性を提示できないかもしれないが、歴史的検証の荒波にもまれて継続し続けているものであり、これは科学的検証と比べても客観的であり、その信頼性は低いものでないと考えるということです。



>・通りすがり氏はEBMについてどのような意見を持っていらっしゃるのですか?

前述しております。



>・通りすがり氏は現代医療についてどのような意見を持っているのですか?

救命救急や移植などの分野では抜群の効果を発揮するが、原因の特定できない慢性病や病因のない不定愁訴などの治療は不得手であると認識しております。


 
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貴方の魔法論理を! (科学技術結社 有機創世派)
2010-06-09 10:34:47
通りすがり氏へ
論点が散らかっているように思われます。
論点を整理するため、以下の質問に答えていただければ幸いです。

・「歴史的検証」とはどのようなものか?
・通りすがり氏の主張は、「科学的検証は客観的でないから信頼性が低いが、歴史的検証は客観的であり信頼できる」と言うものであるという認識でよろしいでしょうか?
・通りすがり氏はEBMについてどのような意見を持っていらっしゃるのですか?
・通りすがり氏は現代医療についてどのような意見を持っているのですか?
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-09 09:56:38
>EBM(根拠に基づいた医療)で検証されるのは、「ある治療法の理論や効くメカニズム」ではなく、シンプルに「その治療法に効果はあるか、副作用はないか」です。
>・・・・・
>代替医療側の人の反論がほぼすべて「科学で解明できないこともある、でも現実に効く人がいるんだ」になっていますが、EBMで否定されるということは「理論やメカニズムは知らないけど、とにかく実際にやっても効かないことが実証されちゃったよ」ということですから、それでは反論にならないわけですね。
http://d.hatena.ne.jp/ohira-y/20100301/1267416089


例えば上記の例ですが、>EBMで否定されるということは「理論やメカニズムは知らないけど、とにかく実際にやっても効かないことが実証されちゃったよ」ということ・・・・となっております。

しかしながら、精確には「EBMで否定されるということは「理論やメカニズムは知らないけど、とにかく【特定の条件下では】実際にやっても効かないことが実証されちゃったよ」ということですね。


---------------引用始め-------------------
リンドは環境と食事という変数を変えてみることにより、オレンジとレモンが壊血病を治療するための鍵になることを示した。この試験の対象となった患者の人数はごくわずかだったが、結果はあまりにも鮮明だったので、リンドはこの結果に確信をもった。もちろん彼は、オレンジとレモンにビタミンCが含まれていることも、ビタミンCがコラーゲンを作るために必要な成分であることも知らなかったが、それはここでは重要ではない。なにより重要なのは、彼の治療によって患者が良くなったことだ。医療においては、治療の有効性を示すことが最優先とされる。基礎となるメカニズムの解明は、のちの研究にゆだねればよい。(P32)
代替医療のトリック(サイモン・シン著, エツァート・エルンスト著, 青木薫訳)
---------------引用終り-------------------

上記の事例があっても、壊血病が駆逐されることはありませんでした。

---------------引用始め-------------------
1753年にイギリス海軍省のジェームズ・リンドは、食事環境が比較的良好な高級船員の発症者が少ないことに着目し、新鮮な野菜や果物、特にミカンやレモンを取ることによってこの病気の予防が出来ることを見出した。その成果を受けて、キャプテン・クックの南太平洋探検の第一回航海(1768年 - 1771年)で、ザワークラウトや果物の摂取に努めたことにより、史上初めて壊血病による死者を出さずに世界周航が成し遂げられた逸話は有名である。
しかし、当時の航海では新鮮な柑橘類を常に入手することが困難だったことから、イギリス海軍省の傷病委員会は、抗壊血病薬として麦汁、ポータブルスープ、濃縮オレンジジュースなどをクックに支給していた。これらのほとんどは、今日ではまったく効果がないことが明らかになっている(濃縮オレンジジュースは加熱されていて、ビタミンCは失われていた)。結局、おもにザワークラウトのおかげだったことは当時は不明で、あげく帰還後にクックは麦汁を推薦したりしたもので、長期航海における壊血病の根絶はその後もなかなか進まなかった。
ビタミンCと壊血病の関係が明らかになったのは、1932年のことである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/壊血病
---------------引用終り-------------------

このように「ある療法に効果があるかどうかは、特定の条件下でしか確認できない」と言う事実をきちんと把握してもらいたいものです。


まあ、科学の素人を騙すのはEBMだとか、科学的客観性などと言えば簡単なのでしょうが、結局のところ「科学で解明できないこともある、でも現実に効く人がいるんだ」という反論に対して、その【現実に効いた時の前提条件を再現できない以上】EBMは何の反論にもならない【無責任な一般論】ということになってしまいますね。

この【一般論=個別特定の事例に特化しない、全体に共通する構造などを概括する議論】としてのEBMは、現代医学の有効性を追究するために設計されているものですから、人体概念を異とする「代替医療」の有効性を単純に証明することは不可能です。
なぜなら、「代替医療は個別特定の事例のみを相手にしている」からです。
また、現代医学の手法で有効性を証明されたとしても、代替療法の本質的な有効性の証明にはなりません。
例えば、カイロプラクティックの有効性の証明が急性腰痛症などに限局していることなどをみてもあきらかです。
カイロプラクティックは基本的に腰痛を治療しません。
治療の結果として腰痛が緩解することがあるだけでしょう。
これは鍼灸においても同じです。
特定の病気のために設計された鍼灸治療はないでしょう。
端的にはその時点での患者さんの気の流れを正常化するという事を行うわけで、結果として病気が治るわけです。



また、EBMで判断できることは、ある条件下でその治療法は他の治療法より何%くらいの有効性があるのか・・・と言うことであり、他の条件下では話は変わってくるわけですし、特定の個人における治療効果に対してはまったくの無力です。

医師 「この治療法は、現在80%の確率であなたの病気に有効です。」

患者 「で、先生、その治療で私は治るのでしょうか?」

医師 「ですから、この治療法は、現在80%の確率であなたの病気に有効なわけです。」

患者 「それはわかりました。で、私の病気はその治療で治るのですか?」

医師 「それはやってみないとわかりません。」

・・・・と言うことですよね。


だいたい、科学を名乗るのであれば、まず「二重盲検における問題点」を提示するのは当然のことでしょう。
完全な調査方法などないのですから、自分たちが提示するものの欠点くらいは把握しましょう。


そもそもEBMとは、どの治療を患者が選択するのかというためのガイドラインであって、治療法に優劣を付けるものではありません。
現時点において、治療法Aでその病気が治る確率は非常に高いが、副作用も非常に強く侵襲性も高い。
治療法Bではその病気の治る確率は極めて低いか、ほとんどないが、副作用もなく、痛みを軽減する満足度の高い。
上記の治療法のどちらが最善であり、その患者の目的にあっているのかを見極めることが肝要になるわけです。
最終的な決定は患者によってなされるべき・・・と言うのが、EBMの基本ですよね。


また、100件のエビデンスのうち23件が2年以内に覆され、そのうち7件は出版された時点で既に覆されていたとの報告があるように、臨床研究による知見は常に覆されうる(科学的な結論は常に暫定的である:反証可能性も参照せよ)ものであることを念頭において下さい。
註)参考文献
http://ja.wikipedia.org/wiki/根拠に基づいた医療


>※とても大切なポイント
>EBMに対して反論したいならば、統制実験や疫学的研究といった、EBMの「効くかどうかの検証方法」を論破しなければならないのです。
http://d.hatena.ne.jp/ohira-y/20100301/1267416089

・・・・と言うことでしたが、【統制実験や疫学的研究といった、EBMの「効くかどうかの検証方法」は、何ら確実なものではない】ということは、これで証明できたと思います。
返信する
プラセボの驚くべき効果 (とおりすがり)
2010-06-08 16:17:10
------------------------------------------------------

Henry Knowles Beecher(1904~1976, ハーバード大学麻酔学教授)も痛みの研究のパイオニアの一人であり、鎮痛薬のプラセボ効果を科学的に研究した。
 「強力なプラセボ The powerful placebo. 」(JAMA;159,1602,1955)
BeecheとLasagnaが、術後痛の治療について、プラセボとモルヒネ(10mg/50kg)を比較する研究を行った(162人)。
全ての患者に、モルヒネとプラセボを投与したが、半数は最初にモルヒネを投与し、2度目にプラセボを投与した。残り半数は最初にプラセボ、2度目にモルヒネをを投与した。
最初にモルヒネを投与した患者では、2度目にプラセボを投与しても鎮痛効果があった。
対照的に、最初にプラセボを投与した患者では、2度目にモルヒネを投与しても、効果が充分ではなかった。
ビーチャーは、このデータ-を元にプラセボはモルヒネの50%近い鎮痛効果があるとの結論を導き出した。
しかし、プラセボに鎮痛効果があるということだけではなく、明らかに、患者の期待が最初の注射経験によって作られることがわかる。
第2次世界大戦中に重篤な外傷を受けた兵士たちの4分の3は、モルヒネ投与を受けなくとも疼痛を訴えなかった。
平時外傷患者150名では約8割がモルヒネを要求した。
「人間の主観的痛みというのは、心理的要因によって変わりうる」という臨床的な観察をもとにした。
その後、Beecherは、人を対象とした研究を批判し、患者の権利を訴えた。
 (「Ethics and Clinical Research」The New England Journal of Medicine 274:1354-1360, 1966) →参考http://cellbank.nibio.go.jp/information/ethics/refhoshino/hoshino0055.htm


1978年のJon Levineは、プラセボ効果が単に示唆や暗示効果による不安の減少だけではなく、生化学的変化を伴うことを示した。
抜歯後の患者を対象にプラセボを処置すると、患者の主観的な痛みは軽減された。その2時間後にナロキソンを投与すると、この鎮痛効果が消失した。
つまりプラセボ効果は、単なる「思いこみ」などではなく、オピオイドと同じように作用をしたこととなる。

http://www.shiga-med.ac.jp/~koyama/analgesia/analg-placebo.html

------------------------------------------------------

上記HPではプラセボでもかなりの鎮痛効果を見せていますね。
しかも、生化学的な変化も見せるわけです。
当然、鍼灸等によっても生化学的変化が起きていると考えるのは妥当でしょう。



>薬の判定ではなく、痛みの判定にプラセボを使ってはいけない。
>プラセボにも鎮痛効果が認められるので、心因性疼痛の判定にプラセボを使ってはいけない。

・・・と言うことになっているようですが、多くの代替医療は鎮痛が治療の主体になっているのではないでしょうか。
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-08 10:49:07
MDLさま

>>「その治療による効果を、そもそも真の効果の部分とプラシーボの部分に分離できるものなの?」
>
>一応、その部分も読んでますが…まだ理解されてなかったんですね。
>かなり高い確率で分離できます。そのためのランダム化二重盲検法ですよ。


ランダム化二重盲検法で、披検薬と対象薬において、小麦粉のかたまりで効果が出ていればプラセボ反応とするわけですよね。
つまり、バイアスによる分離です。

「プラセボ効果は、どんな病気に対するどんな薬でも、大体30%くらいはあると言われています。」
http://www.fuanclinic.com/byouki/a_20.htm

無害で30%の有効性というのはかなり効率の良いものだと思えます。

薬理作用とは、この30%+何%を上乗せできるかのよるものですよね。

また、ご存知の通り、プラセボでも副作用は出ます。
ならば、主作用も出る可能性があるわけですよね。


それにですね。
投薬してしばらくすれば、どっちが披検薬でどっちがプラセボかなど、まともな研究者であれば、すぐわかります。
なんら、盲検にならないということですね。

それ以前に「インフォームド・コンセント」でわかってしまうようですけど。
http://wiredvision.jp/archives/200403/2004031608.html

現代医療は代替医療に比べて、それほど大きな口を叩けるものではないと言うことをよくよく理解するべきです。

 
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-08 08:29:38
 
 
一つ気になった点がございますので、申し上げておきます。

資格や教育程度も明確でない海外で行われた鍼灸の調査をもって、国家の認可している治療資格を「詐欺呼ばわり」しているように見受けられましたが、そうであれば重大な信用毀損だと考えられます。

その点はいかがでしょうか?


 
返信する
sokyudo氏へ (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-06-08 07:08:13
このままここを議論の場として使い続けていいものか、今私は疑問に思っています。よろしければ管理人であるsokyudo氏がどう思っているかお聞かせ願えますか?
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-08 06:41:12
>突っ込みどころは沢山ありますが、
>とりあえず場所を移すかどうか確認してにしましょう。

私はsokyudoさまの意思を尊重致します。

しかしながら、突っ込みどころがあるならば、ここで突っ込んでみたらどうでしょう?
私から見てもあなた方の論理は穴だらけですがね。


>それでも一言だけ。
>とおりすがりさんはニューエイジサイエンスの人のようですが、
>通常の科学については「ニューエイジからの視点」でしかご存じないようです。

くだらない印象操作をするのはやめましょう。
貴方が代替医療を誹謗するためだけに「代替医療のトリック」と利用しているようにとられますよ。
ボームの考えがニューエイジに影響を与えたからと言って、量子論が提示する世界観=ニューエイジにはならないんです。

ご理解頂けましたか?
返信する
Unknown (MDL)
2010-06-08 00:10:51
ちょっと間を空けただけのつもりでしたが…
sokyudoさんの居ない所で一気にレスが増えてますね。

突っ込みどころは沢山ありますが、
とりあえず場所を移すかどうか確認してにしましょう。

それでも一言だけ。
とおりすがりさんはニューエイジサイエンスの人のようですが、
通常の科学については「ニューエイジからの視点」でしかご存じないようです。
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-07 14:05:27
ただ、いたずらに冗長なレス交換になるのは不毛ですから、論点をしぼるべきだと思います。

いかがでしょうか?

sokyudoさまも問題提起があれば、して頂ければと存じます。

 
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Unknown (とおりすがり)
2010-06-07 13:51:50
有機創世派さんへ。

今までここで議論してきたわけでしょう。

sokyudoさまがよろしければ、ここで良いのではないでしょうか。
返信する
提案をば (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-06-07 13:03:12
通りすがり様へ。
他人の庭で議論しているのもなんですし、こちらのブログに記事を上げますので以降の議論はそちらで行いませんか?
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-07 10:57:36
sokyudoさま、ご手配、有り難うございます。


追加しておきます。

>取り除かない際に存在するバイアスのほうが観察に悪影響を及ぼすと考えます。

バイアスが存在してたら、悪影響があるという根拠を提示して下さい。

何度も言うようですが、「ランダム化二重盲検法は客観的であり、より正しい」というのも【明白なバイアス】であるいうことは理解されておられるでしょうか?

 
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二重投稿分を削除 (sokyudo)
2010-06-07 09:40:34
有機創世派さんと、とおりすがりさんのコメのうち、二重投稿分を削除しました。一応お知らせまで。
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-07 09:33:43
>後でゆっくり意見を書きたいと思いますが、とりあえず一言だけ。
>
>歴史的検証の実態は、つまるところ個々の主観の連続であり、信頼性の低い調査です。それによって肯定されたものの中に、もちろん本当に効果のある治療も存在しえますが、全く別々の要因で発生することを関連付けていたり、あるいは治療効果が実はない物でもあり得ます。二重検盲法などの統計的調査は、それらの間違いを生むリスクを取り除いて(完全ではなくとも)調査しているわけです。その過程でバイアスが入り込んでいる可能性も完全には否定できないでしょうが、取り除かない際に存在するバイアスのほうが観察に悪影響を及ぼすと考えます。


前述しましたが、「鎮痛効果」に関する調査は、個々の主観の連続であり、個々の主観に依存しているでしょう。


また、その二重盲検などで有効性を認められた治療法のうち、歴史的検証に耐えられた治療法がどのくらいあるのでしょうか?

科学が仮説である以上、反証されて進歩しますよね。

つまり、歴史的検証によって進歩するわけです。


代替医療は人体に対する概念がもともと違う治療法ですよね。

それを現代医学の人体概念で構築されている有効性の検査基準を用いて有効性を確定するのは、そもそもその時点でバイアスがかかっていると考えるべきものですね。
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-07 09:23:56

>>現代医療こそ、自分たちのしていることにもっと深い責任を持つことが必要でしょう。ただでさえ、医療過誤の訴訟が多発していますからね。EBMもそれを逃れるための方便だと多くの患者は見抜いています
> 肝に銘じておきます…と言いたいところですが、EBMに対する根本的な誤解があるようで残念です。医療過誤や、不適切な医療を改善するためにEBMが叫ばれているのです。
>不適切だったり、実は明確な効果がない治療行為を排し、また患者との適切なコミュニケーションを通じて治療目的を定め、その目的と患者の状態や体格、文化的基盤などに合った治療法を選び、それをもとに治療することがEBMの理想です(現実になっていない、と言われたらその通りですが)。医療が目指しているのはそのようなところであり、決して患者をだますつもりでないことはご理解いただけたら幸いです。

その「EBMの理想」とやらが機能していないと言っているわけですが?
EBMをもとに承認された薬剤が、結局効かなかったとか、副作用が強かったとかで、承認取り下げされた例はいくらもありますよね。
その承認と利下げまでの期間の売り上げで、薬剤メーカーは元を取っていたりするわけです。

そう言う悪質な行為に、EBMが利用されることも忘れないで頂きたいものです。



>>>追伸ですが、一言。私は臆病ですので、己の五感など信じません。私は私の信念が客観などとは決して思いません。【世界はこうであるはずだ、こうであってほしい】などといっても、現実は変わりません。(中略)私の歪んだ主観より、ずっとうまくやってくれると信じているから、科学なのです。ゆえに、私は科学の立ち位置に立ちます。
>>客観などと言うものがあると考えるのが幻想です。
>>自分の五感を信じられない医者に身を任すしかない患者は哀れですね。
> ここに関しては、私の表現は不適切でしたことをここに謝罪します。
>発言の趣旨は、
>「私個人の思想や信念はそれ以上のものではなく、勘違いや思い込みもありうる。そのようなものを優先させることなくより客観的なものに従おう」
>ということです。故に、【己の五感を~】のくだりは、【己の主観に満ちた認識を~】としたほうが、正しかったのでしょう。


では、「五感で仕事をする職人の作るもの」と「科学で作られたロボットの作るもの」の違い・・・・職人の方がエラーが出ないということをご理解下さいね。



>>私からすれば、ランダム化二重盲検法が客観的であると考える事自体、【世界はこうであるはずだ、こうであってほしい】と言っているとしか思えません。
> たとえ二重検盲法であっても、神の視座ではないでしょう。しかし、【私の知る限り最も客観に近い手法】なのは確かだ、と考えます。


だから、【私の知る限り最も客観に近い手法なのは確かである】と言うことは、それが【貴方の主観である】と言うことを理解して下さい。

また、【私の知る限り最も客観に近い手法なのは確かである】であると言うことが、【経験に優る優位性を担保するものではない】ということもご理解頂けますでしょうか。



>>未だであったことのない病気を持つ患者を診たと起動するんですか?(原文ママ)貴方の考え方では、患者に何もできず、結果的に患者は死んでしまうのではないでしょうか?
> もし私が医療従事者となって、そのような例に巡り合ったら、思いつく限りあらゆる検査を行い、そののちに近辺の医者に相談するでしょう。当然それでも結論は出ないでしょうから、患者さんの病状を検査して、その未知の病気がどのような原因に基づくのか、調べようとするでしょうね。そのうえで、治療法を模索するでしょう。

それは、代替医療のしていることと同じでしょう。

代替医療は、上記のようなことをすべて行われた上で、見放された患者も治療するわけですよね。



 
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Unknown (とおりすがり)
2010-06-07 09:01:50
>>人体はそもそも論理的ではないし、科学的な根拠を持って存在しているものではないでしょう。
>>ならば、それの治療にたかだか人間の姑息な論理や科学的根拠での説明が必須であるなどと言うのは、自然に対する傲慢以外のなにものでもないでしょう。
> 人体は論理的に動いている、と私は考えます。こうやってキーボードを叩く指は、化学反応と電気信号を通じて脳の反応が腕に伝わっておきたものですしね。
>また、たかだか人間の論理とおっしゃいますが、代替医療もまた人間の論理です。人間の論理や知性を否定するならば、人のあらゆる見地を否定せねばならなくなるでしょう。もっとも代替医療には科学的根拠はありませんが。科学的根拠のない分代替医療のほうが【自然】に近いとお考えならばそれは全く違います。科学は、まず自然への研究から発展したものであり、科学は自然ではない、という認識はそういった事実を無視していると私は考えます。


では、その論理とやらで、人間と同じロボットでも作ったらどうでしょう。

人間が作るロボットを見れば、いかに論理的な科学というものが稚拙であるのかわかりそうなものですが?

少し考えれば、>こうやってキーボードを叩く指は、化学反応と電気信号を通じて脳の反応が腕に伝わっておきたもの・・・と言うのが、いかにおおざっぱな考えなのかご理解頂けると思います。




>>しかも、失敗しても個人の医者のせいではなく、科学としての医学がまだ未熟だったからとか、患者が特殊な礼だったからとかいう話しになるようです。
> 現代医療は治療行為を行った医者に全く責任がない、と言うことはありません。
>少し昔の話ですが、万波医師は医療従事者から大きな非難を受けました。医者としてするべきことを、果たしていないからでした。そのほかにも、医療ミスを認めた例はあるでしょう?
> また、上記のような例は通常医療の性質ではありません。代替医療の世界においても残念なことに治療行為に不誠実で会った挙句、上記のような発言をする【施術者】はいます。これは通常医療がそう、代替医療がそうと言える問題ではないように感じます。それは無論、通常医療の側が気を付けなくともよい、ということではないのですが。

万波医師のものは、医学として主流の考えではないから弾圧されただけでしょう。
本人は信念を持って、その治療をやっていますよ。
例えば、傷に対して消毒することは治癒を送らせる行為である・・・と言うのは、未だに主流になっていませんよね。
現代医療が二重盲検やら、EBMやらを盲信して施術した結果、医療ミスを犯す例などいくらでもあるでしょう。
薬害エイズが良い例ですよね。
貴方の大きな考え違いは、「個々の代替医療の治療家の良心に依存する責任問題を、代替医療そのものの問題にしている点」でしょう。

また、>上記のような例は通常医療の性質ではありません・・・とのことですが、そもそも「通常医療の性質」などと言うものがきちんと提示されていない状態で、そんなことを言っても自己正当化にしかなりませんよ。

万波医師のような特例を出して「通常医療の性質ではない」などと言っても仕方ないでしょう。
一般論で言えば、「西洋医学(医原病)が死亡原因の第一位」という【通常医療の性質】もあるわけですからね。

http://blogs.yahoo.co.jp/realmedicine101/27072267.html

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矛盾に挑むか? (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-06-07 08:56:24
後でゆっくり意見を書きたいと思いますが、とりあえず一言だけ。

歴史的検証の実態は、つまるところ個々の主観の連続であり、信頼性の低い調査です。それによって肯定されたものの中に、もちろん本当に効果のある治療も存在しえますが、全く別々の要因で発生することを関連付けていたり、あるいは治療効果が実はない物でもあり得ます。二重検盲法などの統計的調査は、それらの間違いを生むリスクを取り除いて(完全ではなくとも)調査しているわけです。その過程でバイアスが入り込んでいる可能性も完全には否定できないでしょうが、取り除かない際に存在するバイアスのほうが観察に悪影響を及ぼすと考えます。
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-07 08:47:23

>>更に、抗生剤やら多くの薬物で医原病を作り出しているわけで、アメリカにおいては死因の第一位は医療によるものだという統計が出ていたと思いますが?いかがですか?
>とのお言葉で調べてみたところ、アメリカの死因第一位は心臓病とのことでした。心臓病は医療過でしょうか?
>ttp://gigazine.net/index.php?/news/comments/20070727_real_threat_to_americans/
>また、医原病という問題については医療従事者も副作用防止のための指導など、対策をとってます(ステロイド薬の改良などが代表例でしょうか?)。


心臓病における急性心不全、心室細動などは死亡の結果であって、原因ではありません。
まあ、統計マジックでしょう。二重盲検にもよく使われるものですね。

http://www.sizen-kankyo.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=160648

いくら防止策をとっても、医原病はなくなりません。
二重盲検が無力であるという証明でしょう。




>>>正しくは、「診断結果」と「患者個人の性質」に対して治療法が決まります。
>>>同じ病気でも、男性と女性、大人と子供、病歴、体質によって治療法が変わると言うのは珍しくありません。
>>要するに科学であるから、マニュアル通りにやれば、誰でに同じ再現性を提示できることを目指しているのが現代医療ですね。
>上記の文章は、そのようなものではありません。どうしたらそのように読めるのか理解に苦しみます。マニュアル通りにやればだれでも同じ、とは臨床ではいきません。
>そのため、様々な「効果が確認された治療法」から、最善のものを選び取るのも医師の仕事のうちなのです。


あなた、自分の言っていることの矛盾に気がつかないんですか?

「効果が確認された治療法から、最善のものを選び取るのも医師の仕事」であれば、その選びとり作業に二重盲検をかけるべきでしょう。

そして、二重盲検により、どれが最前のものであるか決定されているのであれば、要するに科学であるから、マニュアル通りにやれば、誰でに同じ再現性を提示できることを目指しているのが現代医療・・・と言うことになりますよ。
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-07 08:33:07
>>それが厳密に表されているわけですね。ttp://ja.wikipedia.org/wiki/暗黒物質
> 暗黒物質は、宇宙空間に存在するであろう未知の物質の総称であり、それは科学が今わからないことのごくごく一部でしかありません。他にもわからないことなど山ほどあります。

単なる未知の物質ではなく、我々には認知できない物質ですね。



>>「上回る精度の試験法はない」というだけのことであり、確実なものではないということですね。しかも、対象も限られるわけです。盲信していることを素直に認めましょう。
> 私個人の判断で恐縮ですが、「完ぺきではないが、現状でこれを上回るものもない」と言う態度は盲信者のものではないように思います。それは、それ以上に確実なものがないからそれを「最も正確である」と認識しているだけで、MDL氏は盲信していないように思われます。

だから・・・・

「完ぺきではないが、現状でこれを上回るものもない」=「最も正確であるとはいえない」

・・・と言うことをきちんと認識して下さい。
それがなければ、「盲信」とか「科学教」だとかと言われても仕方ないでしょう。




>>極端な相対化?言いがかりでしょう。科学の提示する検査方法は、すべてのものを残さず検査できるものではありません。「二重盲検で客観的な有効性が認められたから有効であることは間違いないことだ」・・・などと言うのは、まったく科学的ではないことを理解して下さい。・・・と言うことは、科学者であれば常識です。
> まず、通りすがり氏は科学者だったのか!というベタなボケはおいておきましょう。
>しかし、通りすがり氏はMDL氏の発言の趣旨を御理解していらっしゃらないように思われます。
>MDL氏のこの発言の趣旨は、
>「二重検盲も個人の主観も絶対ではないという点では同じだが、それらは確実性が全く異なる。二重検盲は絶対ではなくとも個人の主観よりはるかに確実だから、二重検盲と個人の主観を同列に扱うことはできない」というものでしょう(もし間違っていたら指摘お願いします)。
>極端な相対化とは、絶対ではないという一点で二重検盲と個人の主観を同列に扱うことをさしているのです。
>通りすがり氏の返答は、これに対する返答にはなっていないように思われます。

言ってもいないことを捏造するのはやめて頂けますでしょうか。

私が今までのレスの中で、「個人的主観は二重盲検よりはるかに確実である」といったことがありますか?

私が二重盲検に対して比較として用いているのは「永年、実際の臨床で使われており、多くの患者に有効であるから存続しているという歴史的検証」ですよね。

それに、貴方がたの主張である「二重検盲は絶対ではなくとも個人の主観よりはるかに確実だから、二重検盲と個人の主観を同列に扱うことはできない」は、「相対化」によって行われているのでしょう。

それから「痛みが除去されたか否かという二重盲検で示されるデータは、個人の主観」でしょう。

論点をすり替えないようにお願いしますね。
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-07 07:42:18
上記は二重投稿になってしまいました。
管理人さま、お手数ですが、削除をお願い致します。


>>>それを言うなら、同時に「代替医療にも同じことが言える」と言う面もありますよ。
>>そうであれば、お互い様でしょうね。
>>EBMに基づいていても、そのEBM自体が明日変わってしまう可能性のあるものであれば、>単なる確信犯による詐欺だというだけのことでしょう。
> えぇ。EBMが用いられなくなる可能性は否定できません。しかし、それは「更なる検討の結果、EBMより適切な方法を発見した」と言うことであり…それは覆るか否かの検証あってのことです。代替医療を肯定したり、通常医療を否定する理由にはなりません。【その時代にできる十分な検証を行ったうえで】正しいだろうと判断したことを非難することはできませんから。
>代替医療は、【その時代にできる十分な検証を行ったうえ】だと言えるのでしょうか?
>「正しいとされてきたから正しいはずだ」という通りすがりさんの態度は、少なくともそうではないでしょう。

「更なる検討の結果、EBMより適切な方法を発見した」と言うことが、より真実に確実に近づいているということを保証していないということはお分かりでしょうか?
いくら、検証していっても、一つの反証ですべて覆されるのが、科学ですから。

念のために言っておきますが、私はむやみに代替医療を肯定したり、通常医療を否定しているわけではありませんよ。

そう言う印象操作はおやめ下さい。

【その時代にできる十分な検証を行ったうえ】などよりも、永年継続しているという歴史的検証の方が有効性が高いと考えております。

それを「正しいとされてきたから正しいはずだ」という論理に置き換えるのは、無理がありますよね。

わかりますか?



>>科学が基本的に仮説でしかないというのは、確率でしか事象を表せないからですよね。そもそも、未科学と科学の線引きなどできないものです。なにしろ、トンデモと言われるものから科学は進歩するわけですから。
> 科学は仮説だ、と言うのはある一面においては正確です。科学理論は、観測された事実から導き出された仮説である、というのはその通りでしょう。しかし、それはそれらを裏打ちする事実の伴う仮説です。現代科学を変えたければ、必要なのは以前の理論を支えていた事実と同程度以上に強力な事実が必要なのです。
> また、トンデモから科学が進歩したという例もあります。しかし、もっと多くのトンデモが科学を進歩させずに終わっており…科学を進歩させたトンデモは、必ず科学に則った検証の末、科学として認められています。代替医療は残念なことにそうではありません。

だから、裏打ちする事実というのは、バイアスによって観測されたものだと言っているのです。
観測や観察には、不確定な部分があるのは当然ですよね。
だから、仮説にしかならないのです。
また、トンデモの多くが今まで科学とならなかったという事実をもとに、すべてのトンデモを否定することはできないということはわかりますか?

さらに、現状の科学がすべてのトンデモを否定できない以上、現在再現性を持って患者に有効な利益を与えている代替医療を科学が検証できないのであれば、事実である代替医療により治癒を否定することは、科学の放棄であることは理解できますか?
事実をいかに説明するのかが科学ですから、事実として、患者に利益を与えているのであれば、それを検証できないのは科学の手法が未熟であるとしか考えられませんね。
少なくとも歴史的検証では淘汰されていないわけですから。
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-07 06:57:50
>通りすがりさんへ。
>まず、こういったところに書き込むときは「通りすがり」とか「名なし」のような個人として認識しにくい名前ではなく、何らかの名前を名乗るべきではないか、と思います。

いきなり難癖ですか?


>本来MDL氏が答えるべきところもありますが、流石におかしいと思ったので書き込みます。
>(読みやすさの都合で、以下引用は改行を改めさせていただきました)
>>プラシーボ自体を明確に定義してない状態でかなり高い確率で分離しているのは、単なるバイアスによる分離ですよね。
> まずプラシーボ効果自体はそれがどのようなものか定義されていますし、それがどの程度の効果を患者に及ぼしているかを測定し、データをとる術はあります。そのデータと比較することで、バイアスではなく、はっきりと比較することができるでしょう。

プラシーボが明確に定義されているというのであれば、まず、プラシーボの定義はこれこれであり、こういうかたちで、他の現象と明確に分離されている・・・と記述して下さい。
データはむやみに取るものでありません。
そこには理論負荷性があります。
そして、それはバイアスです。



>>長期間継続しているという事実はランダム化二重盲検法より、厳密な検討であると思いますね。
>>百年以上継続しているものであるという二重盲検より確実な試験法が既に施行されておりますが?
>これらの発言には二重の過ちがあります。
>まず、通常医療の中にも100年以上継続して行われている治療や、用いられている薬は存在しますし、代替医療にもここ数十年で生まれたものも存在します。通常医療で用いられる一部の医薬は、神農によって書かれたといわれている「神農本草経」に記されているとされる植物が原料になっていたりしますし、全身麻酔を用いた外科手術は江戸時代にすでに行われています。通常医療だって長い歴史を継承しているのです。
> また、よしんば代替医療のほうが歴史が古いとしても、歴史が古い=正しいではありません。我々が長い間間違っていたことを信じていた例は多くあります。歴史が正しさを保証するのではなく、継続的な検証が正しさを保証するのです。

私が言いたいのは、歴史的検証を受けてきた代替医療と、ポッと出のいい加減な代替医療もどきを、糞味噌一緒にするなということです。

歴史が古い=正しいではないのであれば、ランダム化二重盲検法で有効性が認められる=正しいではないと言うことも理解できますか?
返信する
汝破壊の徒となる道に恐れよ (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-06-07 00:30:21
通りすがりさんへ。
まず、こういったところに書き込むときは「通りすがり」とか「名なし」のような個人として認識しにくい名前ではなく、何らかの名前を名乗るべきではないか、と思います。
本来MDL氏が答えるべきところもありますが、流石におかしいと思ったので書き込みます。
(読みやすさの都合で、以下引用は改行を改めさせていただきました)
>プラシーボ自体を明確に定義してない状態でかなり高い確率で分離しているのは、単なるバイアスによる分離ですよね。
 まずプラシーボ効果自体はそれがどのようなものか定義されていますし、それがどの程度の効果を患者に及ぼしているかを測定し、データをとる術はあります。そのデータと比較することで、バイアスではなく、はっきりと比較することができるでしょう。

>長期間継続しているという事実はランダム化二重盲検法より、厳密な検討であると思いますね。
>百年以上継続しているものであるという二重盲検より確実な試験法が既に施行されておりますが?
>百年以上継続している治療法だと言うことです。現代医療は百年も継続していませんよね。
>伝統医療は先人による血と汗の結晶ですよね。たかが、ここ数十年で確立した科学ごときで計れるわけもないでしょう。
これらの発言には二重の過ちがあります。
まず、通常医療の中にも100年以上継続して行われている治療や、用いられている薬は存在しますし、代替医療にもここ数十年で生まれたものも存在します。通常医療で用いられる一部の医薬は、神農によって書かれたといわれている「神農本草経」に記されているとされる植物が原料になっていたりしますし、全身麻酔を用いた外科手術は江戸時代にすでに行われています。通常医療だって長い歴史を継承しているのです。
 また、よしんば代替医療のほうが歴史が古いとしても、歴史が古い=正しいではありません。我々が長い間間違っていたことを信じていた例は多くあります。歴史が正しさを保証するのではなく、継続的な検証が正しさを保証するのです。

>>それを言うなら、同時に「代替医療にも同じことが言える」と言う面もありますよ。
>そうであれば、お互い様でしょうね。
>EBMに基づいていても、そのEBM自体が明日変わってしまう可能性のあるものであれば、>単なる確信犯による詐欺だというだけのことでしょう。
 えぇ。EBMが用いられなくなる可能性は否定できません。しかし、それは「更なる検討の結果、EBMより適切な方法を発見した」と言うことであり…それは覆るか否かの検証あってのことです。代替医療を肯定したり、通常医療を否定する理由にはなりません。【その時代にできる十分な検証を行ったうえで】正しいだろうと判断したことを非難することはできませんから。
代替医療は、【その時代にできる十分な検証を行ったうえ】だと言えるのでしょうか?
「正しいとされてきたから正しいはずだ」という通りすがりさんの態度は、少なくともそうではないでしょう。

>科学が基本的に仮説でしかないというのは、確率でしか事象を表せないからですよね。そもそも、未科学と科学の線引きなどできないものです。なにしろ、トンデモと言われるものから科学は進歩するわけですから。
 科学は仮説だ、と言うのはある一面においては正確です。科学理論は、観測された事実から導き出された仮説である、というのはその通りでしょう。しかし、それはそれらを裏打ちする事実の伴う仮説です。現代科学を変えたければ、必要なのは以前の理論を支えていた事実と同程度以上に強力な事実が必要なのです。
 また、トンデモから科学が進歩したという例もあります。しかし、もっと多くのトンデモが科学を進歩させずに終わっており…科学を進歩させたトンデモは、必ず科学に則った検証の末、科学として認められています。代替医療は残念なことにそうではありません。

>それが厳密に表されているわけですね。ttp://ja.wikipedia.org/wiki/暗黒物質
 暗黒物質は、宇宙空間に存在するであろう未知の物質の総称であり、それは科学が今わからないことのごくごく一部でしかありません。他にもわからないことなど山ほどあります。

>「上回る精度の試験法はない」というだけのことであり、確実なものではないということですね。しかも、対象も限られるわけです。盲信していることを素直に認めましょう。
 私個人の判断で恐縮ですが、「完ぺきではないが、現状でこれを上回るものもない」と言う態度は盲信者のものではないように思います。それは、それ以上に確実なものがないからそれを「最も正確である」と認識しているだけで、MDL氏は盲信していないように思われます。

>極端な相対化?言いがかりでしょう。科学の提示する検査方法は、すべてのものを残さず検査できるものではありません。「二重盲検で客観的な有効性が認められたから有効であることは間違いないことだ」・・・などと言うのは、まったく科学的ではないことを理解して下さい。・・・と言うことは、科学者であれば常識です。
 まず、通りすがり氏は科学者だったのか!というベタなボケはおいておきましょう。
しかし、通りすがり氏はMDL氏の発言の趣旨を御理解していらっしゃらないように思われます。
MDL氏のこの発言の趣旨は、
「二重検盲も個人の主観も絶対ではないという点では同じだが、それらは確実性が全く異なる。二重検盲は絶対ではなくとも個人の主観よりはるかに確実だから、二重検盲と個人の主観を同列に扱うことはできない」というものでしょう(もし間違っていたら指摘お願いします)。
極端な相対化とは、絶対ではないという一点で二重検盲と個人の主観を同列に扱うことをさしているのです。
通りすがり氏の返答は、これに対する返答にはなっていないように思われます。

>更に、抗生剤やら多くの薬物で医原病を作り出しているわけで、アメリカにおいては死因の第一位は医療によるものだという統計が出ていたと思いますが?いかがですか?
とのお言葉で調べてみたところ、アメリカの死因第一位は心臓病とのことでした。心臓病は医療過でしょうか?
ttp://gigazine.net/index.php?/news/comments/20070727_real_threat_to_americans/
また、医原病という問題については医療従事者も副作用防止のための指導など、対策をとってます(ステロイド薬の改良などが代表例でしょうか?)。

>>正しくは、「診断結果」と「患者個人の性質」に対して治療法が決まります。
>>同じ病気でも、男性と女性、大人と子供、病歴、体質によって治療法が変わると言うのは珍しくありません。
>要するに科学であるから、マニュアル通りにやれば、誰でに同じ再現性を提示できることを目指しているのが現代医療ですね。
上記の文章は、そのようなものではありません。どうしたらそのように読めるのか理解に苦しみます。マニュアル通りにやればだれでも同じ、とは臨床ではいきません。
そのため、様々な「効果が確認された治療法」から、最善のものを選び取るのも医師の仕事のうちなのです。

>人体はそもそも論理的ではないし、科学的な根拠を持って存在しているものではないでしょう。
>ならば、それの治療にたかだか人間の姑息な論理や科学的根拠での説明が必須であるなどと言うのは、自然に対する傲慢以外のなにものでもないでしょう。
 人体は論理的に動いている、と私は考えます。こうやってキーボードを叩く指は、化学反応と電気信号を通じて脳の反応が腕に伝わっておきたものですしね。
また、たかだか人間の論理とおっしゃいますが、代替医療もまた人間の論理です。人間の論理や知性を否定するならば、人のあらゆる見地を否定せねばならなくなるでしょう。もっとも代替医療には科学的根拠はありませんが。科学的根拠のない分代替医療のほうが【自然】に近いとお考えならばそれは全く違います。科学は、まず自然への研究から発展したものであり、科学は自然ではない、という認識はそういった事実を無視していると私は考えます。
>しかも、失敗しても個人の医者のせいではなく、科学としての医学がまだ未熟だったからとか、患者が特殊な礼だったからとかいう話しになるようです。
 現代医療は治療行為を行った医者に全く責任がない、と言うことはありません。
少し昔の話ですが、万波医師は医療従事者から大きな非難を受けました。医者としてするべきことを、果たしていないからでした。そのほかにも、医療ミスを認めた例はあるでしょう?
 また、上記のような例は通常医療の性質ではありません。代替医療の世界においても残念なことに治療行為に不誠実で会った挙句、上記のような発言をする【施術者】はいます。これは通常医療がそう、代替医療がそうと言える問題ではないように感じます。それは無論、通常医療の側が気を付けなくともよい、ということではないのですが。

>現代医療こそ、自分たちのしていることにもっと深い責任を持つことが必要でしょう。ただでさえ、医療過誤の訴訟が多発していますからね。EBMもそれを逃れるための方便だと多くの患者は見抜いています
 肝に銘じておきます…と言いたいところですが、EBMに対する根本的な誤解があるようで残念です。医療過誤や、不適切な医療を改善するためにEBMが叫ばれているのです。
不適切だったり、実は明確な効果がない治療行為を排し、また患者との適切なコミュニケーションを通じて治療目的を定め、その目的と患者の状態や体格、文化的基盤などに合った治療法を選び、それをもとに治療することがEBMの理想です(現実になっていない、と言われたらその通りですが)。医療が目指しているのはそのようなところであり、決して患者をだますつもりでないことはご理解いただけたら幸いです。

>>追伸ですが、一言。私は臆病ですので、己の五感など信じません。私は私の信念が客観などとは決して思いません。【世界はこうであるはずだ、こうであってほしい】などといっても、現実は変わりません。(中略)私の歪んだ主観より、ずっとうまくやってくれると信じているから、科学なのです。ゆえに、私は科学の立ち位置に立ちます。
>客観などと言うものがあると考えるのが幻想です。
>自分の五感を信じられない医者に身を任すしかない患者は哀れですね。
 ここに関しては、私の表現は不適切でしたことをここに謝罪します。
発言の趣旨は、
「私個人の思想や信念はそれ以上のものではなく、勘違いや思い込みもありうる。そのようなものを優先させることなくより客観的なものに従おう」
ということです。故に、【己の五感を~】のくだりは、【己の主観に満ちた認識を~】としたほうが、正しかったのでしょう。

>私からすれば、ランダム化二重盲検法が客観的であると考える事自体、【世界はこうであるはずだ、こうであってほしい】と言っているとしか思えません。
 たとえ二重検盲法であっても、神の視座ではないでしょう。しかし、【私の知る限り最も客観に近い手法】なのは確かだ、と考えます。

>未だであったことのない病気を持つ患者を診たと起動するんですか?(原文ママ)貴方の考え方では、患者に何もできず、結果的に患者は死んでしまうのではないでしょうか?
 もし私が医療従事者となって、そのような例に巡り合ったら、思いつく限りあらゆる検査を行い、そののちに近辺の医者に相談するでしょう。当然それでも結論は出ないでしょうから、患者さんの病状を検査して、その未知の病気がどのような原因に基づくのか、調べようとするでしょうね。そのうえで、治療法を模索するでしょう。

…いい加減長くなってしまったのでこれぐらいとします。
残りはもう少し時間のあるときに。
Sokyudo氏、大変申し訳ございませんでした。
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-06 20:43:51
MDLさま

下記の点も誤解があるようですので追加しておきます。

>はい、年齢差、男女差、体格、病歴、体質、そのような個人差を廃して純粋に薬の効果を調べるため、『交絡因子除去』『比較対照群の設定』といった統計手法を用います。
>これにより、個人差をほぼ廃した薬の効果をかなりの精度で判定できるようになっています。


例えば、漢方などはその真逆で、年齢差、男女差、体格、病歴、体質、そのような個人差を重視して薬を調合するわけですよね。

個人差を排した薬の効果というものは、個人においては効かない可能性も高くなるわけでしょう。

そういえば、EBNではなく、NBMという考えもあるようですね。
NBMは、伝統医療的な考え方でしょう。
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Unknown (とおりすがり)
2010-06-06 19:25:49
MDLさま

>物事には定量的な評価と言う者があります。


ここをよく盲信する人がいるので、追加しておきます。

定量化というのは、事物の抽象化です。

数値化する段階で、多くのものを取り落とすわけです。

しかも、その取り落としは単なるバイアスによるものですね。

それを科学哲学では「理論負荷性」といいます。

定量化したから客観的だと言うのは、個体差が極めて大きく、微妙な違いが結果的に大きな違いになる非線形システムである人体においては、かなりおおざっぱなものであるとしか言いようがありません。

だいたい、「心」を定量化できるんですか?
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Unknown (とおりすがり)
2010-06-06 19:18:11
科学技術結社連合 有機創世派さま


>sokyudo氏もご理解していただいていますが、代替医療には論理的な、あるいは科学的な根拠がないものがほとんどです。

人体はそもそも論理的ではないし、科学的な根拠を持って存在しているものではないでしょう。

ならば、それの治療にたかだか人間の姑息な論理や科学的根拠での説明が必須であるなどと言うのは、自然に対する傲慢以外のなにものでもないでしょう。



>それは医者の主観や患者の主観によって肯定され、伝播しており、その過程には「実際に効果があるのか?」という検証は全く行われていません。
>・・・・・・・・・・
>魔術でいいから私はこれをやる!という開き直りは、単に患者の体を弄って遊んでいるに過ぎず、私個人としては危険を感じます。

百年以上継続してその治療を行っているということは、非常に大きな検証ですよね。
我々から見れば、現代医療こそ、科学の名の下に綱渡りをしているものだと思いますね。

しかも、失敗しても個人の医者のせいではなく、科学としての医学がまだ未熟だったからとか、患者が特殊な礼だったからとかいう話しになるようです。

現代医療こそ、自分たちのしていることにもっと深い責任を持つことが必要でしょう。
ただでさえ、医療過誤の訴訟が多発していますからね。
EBMもそれを逃れるための方便だと多くの患者は見抜いています。



>追伸ですが、一言。
>私は臆病ですので、己の五感など信じません。
>私は私の信念が客観などとは決して思いません。
>【世界はこうであるはずだ、こうであってほしい】などといっても、現実は変わりません。
>・・・・・・
>私の歪んだ主観より、ずっとうまくやってくれると信じているから、科学なのです。
>…ゆえに、私は科学の立ち位置に立ちます。

客観などと言うものがあると考えるのが幻想です。
自分の五感を信じられない医者に身を任すしかない患者は哀れですね。

私からすれば、ランダム化二重盲検法が客観的であると考える事自体、【世界はこうであるはずだ、こうであってほしい】と言っているとしか思えません。

医学は基礎科学ではなく、応用科学です。
未だであったことのない病気を持つ患者を診たと起動するんですか?
貴方の考え方では、患者に何もできず、結果的に患者は死んでしまうのではないでしょうか?


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Unknown (とおりすがり)
2010-06-06 19:05:05
MDLさま

>正しくは、「診断結果」と「患者個人の性質」に対して治療法が決まります。
>同じ病気でも、男性と女性、大人と子供、病歴、体質によって治療法が変わると言うのは珍しくありません。


要するに科学であるから、マニュアル通りにやれば、誰でに同じ再現性を提示できることを目指しているのが現代医療ですね。

伝統医療の治療法など、常にオーダーメイドでしょう。

また、現代医療で悪いところがないと診断された患者を診ることが多いのではないですか?

その時点でランダム化二重盲検などは、陳腐化してしまいますよね。



>代替医療では、「○○病であること」は「Aさんの心身の状態」においてどれほど重要だと考えているんでしょうね。

おそらく、そのときその瞬間の証をみて、治療するのでしょう。
これは午前と午後でも変わるでしょうし、常に変化するものでしょう。
丁度、波の上で小さな小舟をあやつるようなものではないでしょうか?
それに比べて現代医療は巨大な豪華客船のようなものでしょう。
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-06 18:59:18
MDLさま

>この部分は誤解されがちなので言及しておきますが、「確立雲」と呼ばれる不確定な状態はあくまで量子レベルに留まる事象です。
>「世界の全てが不確定だ」「人間が観測することにより全てが成立する」と言うのは人間原理と呼ばれ、むしろトンデモの部類となります。
>良く言って未科学になります。

それはどうでしょう?
科学が基本的に仮説でしかないというのは、確率でしか事象を表せないからですよね。
そもそも、未科学と科学の線引きなどできないものです。
なにしろ、トンデモと言われるものから科学は進歩するわけですから。



>>我々がわかるのは全宇宙の5~6%くらいのものでしかないということは、科学によって明らかにされております。
>
>そんなにわかってたんですか?驚きです。
>と言うか、「宇宙に全部でどれだけの物事が存在するか」がわからない事にはパーセンテージなんて出しようがないと思うのですが。

それが厳密に表されているわけですね。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/暗黒物質
我々は釈迦の掌の孫悟空のようなものです。
伝統医療は先人による血と汗の結晶ですよね。
たかが、ここ数十年で確立した科学ごときで計れるわけもないでしょう。


>二重盲検を猛進してる人ってどれくらい居るんでしょうね。
>サイモン・シンも含めて真っ当な通常医療従事者にはほとんど居ないと思いますよ。
>通常医学では、試験法の確実性をさらに高める研究も行っていますが、今のところはランダム化二重盲検(のさらに改良版ですが)を上回る精度の試験法はないようです。

「上回る精度の試験法はない」というだけのことであり、確実なものではないということですね。
しかも、対象も限られるわけです。
盲信していることを素直に認めましょう。



>ですから、「現在知られている検証法の中で最も有効である」二重盲検を重視しているだけですよ。
>それがダメだと言うなら、ぜひとも二重盲検より確実な試験法を提示して見せてください。

百年以上継続しているものであるという二重盲検より確実な試験法が既に施行されておりますが?



>極端な相対化を図ってませんか?
>物事には定量的な評価と言う者があります。
>二重盲検は「絶対確実」ではありませんが「個人の主観」より遥かに確実ですよ。
>個人の主観も二重盲検も「絶対」ではないから等価、という事にはなりません。

極端な相対化?
言いがかりでしょう。
科学の提示する検査方法は、すべてのものを残さず検査できるものではありません。
「二重盲検で客観的な有効性が認められたから有効であることは間違いないことだ」・・・などと言うのは、まったく科学的ではないことを理解して下さい。
・・・と言うことは、科学者であれば常識です。



>「本当に治療できてるんですか?その根拠は?」
>と言うのが問題になってるんですよ。

だから言っているでしょ。
百年以上継続している治療法だと言うことです。
現代医療は百年も継続していませんよね。
更に、抗生剤やら多くの薬物で医原病を作り出しているわけで、アメリカにおいては死因の第一位は医療によるものだという統計が出ていたと思いますが?
いかがですか?



>代替医療者だったエツァート・エルンストはその疑問に真摯に応えようと、厳密な検証をしました。その結果が「代替医療のトリック」です。

私は、単に現代医療の土俵でやったらそうなるという現代医療による治療の有効性の提示の限界を示していると考えております。


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Unknown (とおりすがり)
2010-06-06 18:58:34
MDLさま
>>「その治療による効果を、そもそも真の効果の部分とプラシーボの部分に分離できるものなの?」
>
>一応、その部分も読んでますが…まだ理解されてなかったんですね。
>かなり高い確率で分離できます。そのためのランダム化二重盲検法ですよ。

プラシーボ自体を明確に定義してない状態でかなり高い確率で分離しているのは、単なるバイアスによる分離ですよね。



>覆る可能性と覆らない可能性のどちらが高いか、その検討さえやってませんよね?

長期間継続しているという事実はランダム化二重盲検法より、厳密な検討であると思いますね。


>それを言うなら、同時に「代替医療にも同じことが言える」と言う面もありますよ。

そうであれば、お互い様でしょうね。
EBMに基づいていても、そのEBM自体が明日変わってしまう可能性のあるものであれば、単なる確信犯による詐欺だというだけのことでしょう。
返信する
私の化身の導き (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-06-06 08:29:17
追伸ですが、一言。
私は臆病ですので、己の五感など信じません。
私は私の信念が客観などとは決して思いません。
【世界はこうであるはずだ、こうであってほしい】などといっても、現実は変わりません。

理解しにくいかもしれませんが、ゆえに科学なのです。
科学は「事実の集積」によって支えられており、「今現在最も客観に近い」からです。
…正確に言うと、最も客観に近いものが科学になる、というべきかもしれませんが。
私の歪んだ主観より、ずっとうまくやってくれると信じているから、科学なのです。
…ゆえに、私は科学の立ち位置に立ちます。
sokyudo氏の立ち位置は、私は魔術のものとしか思えません。ゆえに私は、そこには立てそうにありません。…sokyudo氏から頂いた言葉に関しては、それだけです。
返信する
破則魔法を使うなら、矛盾を恐れよ (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-06-06 07:44:11
私以外に個々の議論を読む「通常医療側」の人間がいるとは思っていませんでした…。
まず、私の言いたいことをまっすぐ言っていただいたMBL氏には感謝の意を示したいと思います。
そのうえで、すでにこの場を去ったはずの、しかも一介の学生にすぎない私の言葉が、今ここでどれほど必要なのかは置いておいて、MBL氏との議論の流れを読ませていただいた過程で、私が思ったことをつらつらと語りたいと思います。

私は以前、代替医療最大の問題は、代替医療でしか荒れないことである、と書きました。
sokyudo氏もご理解していただいていますが、代替医療には論理的な、あるいは科学的な根拠がないものがほとんどです。
それは医者の主観や患者の主観によって肯定され、伝播しており、その過程には「実際に効果があるのか?」という検証は全く行われていません。
sokyudo氏は、「薬や通常医療の効果だって、効かない時もある。だから、通常医療は万能じゃないし絶対じゃない。同じように代替医療にも効果があるかも知れないから代替医療があっていいじゃない」という趣旨の意見をおっしゃられている、と認識しています。
その意見は、しかし「では実は代替医療には効果があって、我々がデータを取れていないだけか、それともそうでないのか?」という議論や検証が積み重なって、初めて素晴らしい結果を生みだすと私は考えています。
代替医療の世界に大いに不足しているのは、そのような考え方です。
各々が各々の「魔術論理」に従って治療し、「効果があるように見えた」からそれを次にも行う、という状態が続く限り、それは真に効果があるのか否か、全く検証されていません。
その状態で「効果がある”かもしれない”」と言い続けることが許されるのは、貴方が魔術師であるときだけです。
各々の「個人の体に合わせて」全く異なる治療をするからデータが取れないというのならば、
「総合的なデータをもとに医者が経験から有効な治療法を見出すのが代替医療の在り方ならば、その判断を(数値化はできなくても、大まかでいいので)集積し、どのような時にどのような治療をするのかを導き出すことで、代替医療がどのように人体に作用するかを研究することができる」
という方向性で、科学的検証に踏み出すことができるでしょう。(その判断を取り出す実験や統計のデザインには、非常に興味がわくところです)
あるいは、霊的パワーだから測定できないとおっしゃるのかもしれません。しかし、霊的な側面いえど患者の肉体に影響を与えている以上、その存在を統計などを通じて類推することはできます。科学は「健康に影響を与える未知の因子がある」と考えるでしょうが、そのようなものがあるとわかればすごい成果だと思いませんか?

効果がないかもしれないけど、あるかもしれないという現状で治療を行うことは、sokyudo氏の行っていることは治療ではなく魔術である、とよばざるを得ません。
魔術ではなく治療である、と言いたいならば、己の技が真に患者を救えるものか、検証してください。
魔術でいいから私はこれをやる!という開き直りは、単に患者の体を弄って遊んでいるに過ぎず、私個人としては危険を感じます。
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追記 (MDL)
2010-06-05 19:44:30
>○○病と診断された特定のAさんの現在の心身の(構造的、電気的、エネルギー的、…)の状態に応じて治療法を選択する

代替医療では、「○○病であること」は「Aさんの心身の状態」においてどれほど重要だと考えているんでしょうね。
通常医療では「○○病である」と言う部分は治療の際の核心であると考えますが。

それと、「特定のAさんの現在の心身の(構造的、電気的、エネルギー的、…)の状態」はどのように判断するのでしょうか。
その判断が正しいとする(第三者に検証可能な)根拠は蓄積されているのでしょうか。

どうにも、代替医療には「その判断は妥当なのか?」を客観的に検証する姿勢が見受けられないのですが。
返信する
Unknown (MDL)
2010-06-05 19:07:12
>症状が似ているから、同じ診断名だから、というだけの人を大量に集めて

この時点で物凄い誤解があるようですね。
sokyudoさんは病理学についてどの程度ご存知でしょうか。
病名の診断の基準がどのようになっているかはご存知でしょうか。
「同じ診断名である」という事がどういう意味かご存知でしょうか。

通常医療においても、『同じ病気だが症状の異なるケース』や
『類似の症状を示すが違った病気のケース』は数多くあります。
決して「症状が似ているから同じ病気」とは判断しません。
通常医療はまず「病態の診査」から疫学を用いて検証しています。
疫学を用いて症状を検証し、分析し、そこで初めて「病名」が付きます。決して病名が先にあるわけではありません。
「○×病」と言う個別のものが病名として登録されるのに、「類似の症状を発祥する既存の病気とは違うのか」「何を持って○×病とするのか」等、多くの検証が必要なのです。
そして、無数のデータを積み重ね、検証してようやく診断基準というものになります。
もちろん、判断が難しいケースも沢山あります。誤診だってあります。
そのため「なぜそのように診断したか」と言う記録を個々に残し、間違いがあった際に検証できるようにしているのです。
これは、同時に「なぜ間違ったのか」をデータとして蓄積し、新たに診断基準を修正することにもつながります。


>通常医療は診断名に対して治療法が決まる仕組みになっているんでしたっけ。

それは正確ではありません。
正しくは、「診断結果」と「患者個人の性質」に対して治療法が決まります。
同じ病気でも、男性と女性、大人と子供、病歴、体質によって治療法が変わると言うのは珍しくありません。

>もし大量の人を集めて治療効果を調べようとするなら、症状が同じとか診断名が同じ人じゃなく、「人間そのもの」がよく似た人を集めてくるところから始めなきゃなりませんね。

はい、年齢差、男女差、体格、病歴、体質、そのような個人差を廃して純粋に薬の効果を調べるため、『交絡因子除去』『比較対照群の設定』といった統計手法を用います。
これにより、個人差をほぼ廃した薬の効果をかなりの精度で判定できるようになっています。
返信する
志が低いもので… (sokyudo)
2010-06-05 17:36:57
>MDLさん
>代替医療者だったエツァート・エルンストはその疑問に真摯に応えようと、厳密な検証をしました。

あいにく私はエルンストのような真摯で高い志を持っていないものですから、ご期待?には添えそうもありません。

それから、前のコメを蒸し返すようですが
>>「その治療による効果を、そもそも真の効果の部分とプラシーボの部分に分離できるものなの?」
>一応、その部分も読んでますが…まだ理解されてなかったんですね。

うーん、まだ理解できていません。症状が似ているから、同じ診断名だから、というだけの人を大量に集めて、その人に本当にふさわしいかどうかもわからない治療法を画一的に施して、何人中何人に効いたとか効かなかったとか…それで何がわかるのでしょう? もし言えることがあるとするなら、「○○病の人で、この治療法がふさわしい人は、およそ△%」ということであって、治療法そのものの効果がわかるわけではないと思うのですが。
──あぁそうか! 通常医療は診断名に対して治療法が決まる仕組みになっているんでしたっけ。代替医療の多くは、西洋医学的な診断名と治療法の間には何の関係もありませんから。もし大量の人を集めて治療効果を調べようとするなら、症状が同じとか診断名が同じ人じゃなく、「人間そのもの」がよく似た人を集めてくるところから始めなきゃなりませんね。
返信する
>sokyudoさんへ (MDL)
2010-06-05 16:30:17
>そうですか、私たちのやっているのは詐欺商法でしたか。そいつは悪うございました

多くの代替医療従事者が善意でやっているのは事実だと思っています。
ですが、だからこそ「実は効果がないんじゃないか」「客観的な根拠はあるのか」と言う疑問には真摯に応えるべきだと思います。

代替医療者だったエツァート・エルンストはその疑問に真摯に応えようと、厳密な検証をしました。その結果が「代替医療のトリック」です。
返信する
>とおりすがりさんへ (MDL)
2010-06-05 16:16:57
>挙句に、「観測」と言う行為が物事を決定し、「観測」以前の状態は常に不確定であるということが量子力学によって示されましたね。

この部分は誤解されがちなので言及しておきますが、「確立雲」と呼ばれる不確定な状態はあくまで量子レベルに留まる事象です。
「世界の全てが不確定だ」「人間が観測することにより全てが成立する」と言うのは人間原理と呼ばれ、むしろトンデモの部類となります。
良く言って未科学になります。

>我々がわかるのは全宇宙の5~6%くらいのものでしかないということは、科学によって明らかにされております。

そんなにわかってたんですか?驚きです。
と言うか、「宇宙に全部でどれだけの物事が存在するか」がわからない事にはパーセンテージなんて出しようがないと思うのですが。

>まず、科学であるというのであれば、「二重盲検法を盲信しない」ことが大事でしょう。

二重盲検を猛進してる人ってどれくらい居るんでしょうね。
サイモン・シンも含めて真っ当な通常医療従事者にはほとんど居ないと思いますよ。
通常医学では、試験法の確実性をさらに高める研究も行っていますが、今のところはランダム化二重盲検(のさらに改良版ですが)を上回る精度の試験法はないようです。
ですから、「現在知られている検証法の中で最も有効である」二重盲検を重視しているだけですよ。
それがダメだと言うなら、ぜひとも二重盲検より確実な試験法を提示して見せてください。
>科学の提示する検査方法は、すべてのものを残さず検査できるものではありません。
>「二重盲検で客観的な有効性が認められたから有効であることは間違いないことだ」・・・などと言うのは、まったく科学的ではないことを理解して下さい。

極端な相対化を図ってませんか?
物事には定量的な評価と言う者があります。
二重盲検は「絶対確実」ではありませんが「個人の主観」より遥かに確実ですよ。
個人の主観も二重盲検も「絶対」ではないから等価、という事にはなりません。

>伝統医学は病名などなくてもいくらでも治療ができるものな訳ですね。

「本当に治療できてるんですか?その根拠は?」
と言うのが問題になってるんですよ。
返信する
それは悪うございました。 (sokyudo)
2010-06-05 15:54:50
>MDLさん
>そんな事を「効果がある治療」と称して商売にするのが誠実な人のやることとは思えません。
>ですが、そのネガティブな可能性を無視して「代替医療が有効である」と言うポジティブな可能性「だけ」を主張するとなれば、それは詐欺師の論法であると言われても仕方がないと思いますよ。

そうですか、私たちのやっているのは詐欺商法でしたか。そいつは悪うございました。
返信する
Unknown (MDL)
2010-06-05 15:48:07
>「その治療による効果を、そもそも真の効果の部分とプラシーボの部分に分離できるものなの?」

一応、その部分も読んでますが…まだ理解されてなかったんですね。
かなり高い確率で分離できます。そのためのランダム化二重盲検法ですよ。

>「通常医療は効果や安全性が確かめられたっていうけどさ、それは今現在の一般的な世界観に基づいた認識の中だけのことであって、これから先、新しい発明や発見がなされる中で世界観が変わり、認識が変わると、それまで効果があって安全だと言われていたものの評価が全く逆転してしまうことだってあるんじゃないの」

科学的方法が普及する以前には良くあった事ですね。
今後も、それがまったく有り得ないとは言いません(確率はかなり低いでしょうが)。
ですが、「将来評価が覆るかもしれない」は何の免罪符にもなりません。
実際、「覆らないかもしれない」ですよね?
覆る可能性と覆らない可能性のどちらが高いか、その検討さえやってませんよね?
そんな事を「効果がある治療」と称して商売にするのが誠実な人のやることとは思えません。

>科学に基づく、という通常医療もまた、同じような面が少なからずあるのではないか、と私などは思うわけです

それを言うなら、同時に「代替医療にも同じことが言える」と言う面もありますよ。
「将来に代替医療が有害であると照明される可可能性」だってある、という事ですね。
「将来、代替医療が有害であると証明されるかもしれない、だから代替医療は全て取りやめるべきだ」と言われたらどうするんですか?
まったく見通しの立たない将来の可能性を根拠に出来ると言うなら、当然ネガティブな可能性も根拠に出来るはずです。
ですが、そのネガティブな可能性を無視して「代替医療が有効である」と言うポジティブな可能性「だけ」を主張するとなれば、それは詐欺師の論法であると言われても仕方がないと思いますよ。

通常医療は「ネガティブな可能性」とも常に向き合う事を要求されます。
一度認可された治療法が思いもよらない副作用により認可取り消しになることもあります。
代替医療は、そのような検証を自身に課しているんですか?

そもそも、「代替医療に副作用がない」と言うのも検証されてませんし。
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-05 10:17:43
>現代医療は、そう簡単にあなたを見放しません。・・と言う言があるようですが、現代医療において異常が確認されない慢性痛患者は確実に見放されていますね。

現代医学は病名がつかなければ、根治的な治療ができないものです。

しかし、伝統医学は病名などなくてもいくらでも治療ができるものな訳ですね。

この違いは患者には大きなものです。
返信する
Unknown (とおりすがり)
2010-06-05 09:36:46
>「そんなこと分かる訳がない」と言う物事を、どうやったら客観的に判断できるようになるか、その方法について科学は試行錯誤を繰り返してきたんですよ。

挙句に、「観測」と言う行為が物事を決定し、「観測」以前の状態は常に不確定であるということが量子力学によって示されましたね。
我々がわかるのは全宇宙の5~6%くらいのものでしかないということは、科学によって明らかにされております。



>「代替医療の効果は二重盲検法では判別できない」と言うなら、代替医療は「どうすれば二重盲検法以外の方法で治療効果を客観的に判別できるか」を考える必要があるのではないでしょうか。

そのためには、まず二重盲検で判別できない理由を考えていく必要がありますね。

闇雲に、二重盲検以外の方法を試すなど、まったく科学的ではありません。

まず、科学であるというのであれば、「二重盲検法を盲信しない」ことが大事でしょう。

科学の提示する検査方法は、すべてのものを残さず検査できるものではありません。

「二重盲検で客観的な有効性が認められたから有効であることは間違いないことだ」・・・などと言うのは、まったく科学的ではないことを理解して下さい。



また、プラシーボを現代医療に使うのに、既存の薬を使えばいいなどと言うのは愚かなことだと思いますね。

同じプラシーボが得られるならば、少しでも副作用があると考えられる薬を使うより、小麦粉のかたまりを使った方がより安全に効果が得られるということになります。

個人的には、ストレスで病気になるという科学的な根拠が提示できるのであれば、プラシーボで病気が治るという科学的根拠も提示できるはずだと考えております。
返信する
言葉で表現するってムズカシイ (sokyudo)
2010-06-04 23:03:26
>MDLさん

コメントありがとうございます。
ご指摘の件ですが、これは私の書き方が悪いせいかもしれませんが、真意が伝わっていないようです。

有機創世派さんとは長々とやり取りしてきましたが、私なりに理解していた、その主張は
「通常医学は二重盲検法などを使って、その効果や安全性を科学的に実証してきたけど、代替医療はそういうことができてないじゃん。そんなの患者にやっちゃっていいの?」
ということで、それに対して私は、代替医療は通常医療がやってきたようなレベルでの科学的実証ができていないという点は事実なので反論しようがないから、主に
「その治療による効果を、そもそも真の効果の部分とプラシーボの部分に分離できるものなの?」
という形で応じてきたわけです(先刻ご承知だったらゴメンナサイ)。

で、「今現在の自分の五感で…」で言おうとしたのは、
「通常医療は効果や安全性が確かめられたっていうけどさ、それは今現在の一般的な世界観に基づいた認識の中だけのことであって、これから先、新しい発明や発見がなされる中で世界観が変わり、認識が変わると、それまで効果があって安全だと言われていたものの評価が全く逆転してしまうことだってあるんじゃないの」
ということでした。

例えば、フロンガスは発明された当時は夢の物質ともてはやされました。しかし南極観測隊がオゾンホールを発見し、フロンがその原因物質の1つだと判明したとたん、夢の物質は悪夢の物質に変わってしまったわけです。

科学に基づく、という通常医療もまた、同じような面が少なからずあるのではないか、と私などは思うわけです(病院の治療も受けているという患者さんを診ていて、実感として思うことです)。

で、そういうことを示唆したかった、というのが、あれを入れた真意です。
返信する
え? (MDL)
2010-06-04 17:46:24
ROMだった者ですが…

>今現在の自分の五感で感じられるものが世界の全てだと思わないことです。世界とは自分の認識を遙かに超えて広く深いものだということを、心の隅にでも留めておくことです。それを忘れた時に破局は始まります。

これ、有機創世派さんがsokyudoさんに言うべき台詞ですよね?
なんで(個人の主観≒自分の五感で治療を判断する)sokyudoさんが(個人の主観≒自分の五感だけでなくもっと客観的な判断基準を持つべきと言う)有機創生派さんに向かって言うんですか?
ひょっとして、sokyudoさんは「主観だけど五感以外の感覚(霊感?)で判断している」と言う事ですか。

でなければ、「科学は人間の五感でしか物事を量れない」と誤解しているのでしょうか。
科学が個人の五感にとどまらない世界を(客観的に)見るために、どれだけの物を積み重ねてきたかご存じないのでしょうか。
科学が個人の五感のみを頼っていたなら、人類は原子力も情報工学(コンピューター)も電磁波も実用化出来なかった事でしょう。
「そんなこと分かる訳がない」と言う物事を、どうやったら客観的に判断できるようになるか、その方法について科学は試行錯誤を繰り返してきたんですよ。

そして、世界の広さ深さについても、恐らくsokyudoさんが思う以上に理解していると思いますよ。
だからこそ、「今はここまでしかわかっていない」と言う事を真摯に受け止めて、「まだわかっていない事」を「分かっているかのように振舞う事」の危険を説いているのです。
「主観は真実だ」とする人と、どちらが世界に対して謙虚でしょうね。

「代替医療の効果は二重盲検法では判別できない」と言うなら、代替医療は「どうすれば二重盲検法以外の方法で治療効果を客観的に判別できるか」を考える必要があるのではないでしょうか。
「わかるはずがないから調べる必要はない」と開き直るのはあまりにも無責任です。

余談ですが、『代替医療のトリック』の鍼の項目に関しては、擬似鍼針による盲検が妥当かどうかまだ議論の余地があるかと思います。
返信する
今日は時間があるので、さっそく (sokyudo)
2010-05-29 00:55:14
>有機創世派さん

議論を続けることは別にかまわないので、主張されたいことがあれば、どうぞ。

>おそらく、sokyudo氏は、そのようなことは恐れる必要はないと思っているのでしょう。自分の医術で失敗することはあっても、それは通常医療と同様の、人の限界でしかないのだと。

他の治療家のことは知りませんが、私のことを言えば、私は今でも患者を診ることに怖さを感じています。それはそうでしょう。(仮にそれがシンらが言うようにプラシーボに過ぎないとしても)治療というのは「人の体を変化させる行為」なのですから。臨床では何が起こるかわからない。だからこそ「これで間違いはないか、これで間違いはないか」と様々な角度から確認を繰り返すのです。
しかし、人間である以上100%完璧なチェックなど存在しません。ですから自分の治療によって不測の事態が起こった場合は、その全ての責任を負わなければなりません。患者の前に立つとは、そういうことです。そこに通常医療と代替医療の差はないと思います。

>これからもsokyudo氏は、己の信念に基づいた代替医療を行うのでしょう。その結果は、必ず事実となって現れます。その時に、己の真実と食い違う現実が現れたならば、私の言葉を思い出していただければ幸いです。

せっかくお言葉をいただいたので、私からもお返しを。
今現在の自分の五感で感じられるものが世界の全てだと思わないことです。世界とは自分の認識を遙かに超えて広く深いものだということを、心の隅にでも留めておくことです。それを忘れた時に破局は始まります。

>毎回毎回タイトルにちょっとした冗談をこめてあったのですが、どうやら気づいていただけなかったようで残念です。

それは失礼しました。私には少々高尚すぎたようです。
返信する
World of Darkness (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-05-28 23:13:14
お返事ありがとうございます。
互いの立場を表明し、そして互いに動けない。
ゆえに議論を閉じようとおっしゃられるのならば、この場を借りている身としては否定できません。
ただ、若輩にすぎない私に、一言だけ言わせていただければ幸いです。
…もっとも、一言と言いながらかなり長くなってしまうのですが。

私は、すべての主観的な物を憎んでいるわけではありません。例えば宗教、例えば文化、そういったものには、客観的には奇妙な行動であっても、その【文脈】を共有する者にとっては意味あるものであり、私はそういったものを否定するつもりはありません。
しかし…それは、文化や信仰といった世界で語られるべきものであり、医療においては語られるべきでないと考えます。
医療とは、根本的に言って生死を分かつものです。医療従事者のミスは、患者の死という最悪の結果を生んでしまいます。ゆえに、臆病な私は、己の主観などを医療に持ち込めません。
己の主観のとおり世界が動かなかった瞬間の代償は、自分ではなく患者に帰ってきてしまうのですから。ゆえに、私はsokyudo氏を支持する側には回れそうにありません。
おそらく、sokyudo氏は、そのようなことは恐れる必要はないと思っているのでしょう。自分の医術で失敗することはあっても、それは通常医療と同様の、人の限界でしかないのだと。
しかし、私にはsokyudo氏の行っていることは魔術にしか見えず…ゆえにわたしは、それを認めることができません。
これからもsokyudo氏は、己の信念に基づいた代替医療を行うのでしょう。その結果は、必ず事実となって現れます。その時に、己の真実と食い違う現実が現れたならば、私の言葉を思い出していただければ幸いです。

最後に少々。毎回毎回タイトルにちょっとした冗談をこめてあったのですが、どうやら気づいていただけなかったようで残念です。
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…であるならば (sokyudo)
2010-05-28 21:03:31
>有機創世派さん
>病気の治療という観点でも、患者の生活の質という観点でも、私は通常医療の枠組みで十分可能だと思っています。なぜなら、そのどちらも[効果のあるというエビデンスのとれている多数の治療法から、患者が選択する]という前提があり、そしてそれこそ、通常医療の目指すところなのですから。

…ということであるなら、これ以上この議論を続ける意味とは何でしょう? そういえば、前々回のコメントで
>どのような過程をたどれば、合意に至れるのでしょうか?
と書かれていましたが、ここでの議論は何かを合意するためのものだったのですか?(いや、私自身はそんな気は少しもなかったものだから、ちょっと面食らってしまって…)。

私は通常医療と代替医療とでは、見ているものが違う(ということはつまり、見えるものが違う)のだと思っています。それは(乱暴な書き方をすると)通常医療が「客観」を信条とするのに対して、代替医療は(「客観」をないがしろにするわけではないけれど)「主観」を大切にします。

私には「私にとっての真実」があります。それは例えば、”今の”有機創世派さんに真実であるとは認識されないものであるかもしれません。しかし、それでもそれが“今の”私にとって「真実」であることに変わりはないのです。ここで“今の”を強調しているのには十分な理由があります。そもそも「真実」とは、厳然とした永久不変なものなのでしょうか? 誰が、いつ、どんな立場で、何を、どのように、どんな目的で、見るかによって、様々な真実があるのです。そして(これはあくまで私の個人的見解ととらえてほしいのですが)代替医療と通常医療の本質的な差は、そうした「真実」の揺らぎに対する立脚点の差であるような気がするのです。

こと科学においては、全ては「客観」でなければならず、「主観」は排除すべきものですから、代替医療が科学との親和性が悪いのも当然と言えば当然です。「主観」に走ることは非常に危険な側面を持っていることは否定しません。しかし、では「客観」的であるもの──全て(あるいは大多数)の人が認識するもの──だけが本当に正しいと言えるのだろうか、という疑問が私の中にはあるわけです。

「主観」的な要素の強い代替医療は(一般的な意味での)科学ではありません。しかし科学的であることが絶対的に重要なのでしょうか? もし有機創世派さんが「医療として行う限り、それは科学的でなければならない」というなら、私を告発すればよろしい。「あいつは何の根拠もないことを医療と称して行い、患者を集めている。これは明らかに詐欺行為である」と。

ただ、これだけは言っておきましょう。道理のわからないバカの理屈だと笑っていただいても結構ですが、「私は自分の行っている仕事には、『私の真実』に基づいて一点の曇りもありません」。
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科学技術結社の魔術論理(パラダイム) (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-05-28 18:38:28
前回のコメントに補足するような格好になりますが、所見を表明させていただきたいと思います。

sokyudo氏は、「代替医療は通常医療的な観点から見て治療効果が確認できないと言うが、通常医療もまた代替医療的な観点からは治療効果が確認できない」とおっしゃられましたが、これは非常に偏った見方であるように思われます。
これは、いわゆる「通常医療」の普及が、感染症を初めとする多くの病気の感染者や死者を減らした現実を無視し、sokyudo氏の周辺の、「通常医療に否定的な」データのみを取り出しての意見ではないでしょうか。
前に書いたとおり、通常医療も完ぺきではありません。しかし、その効果の有無は確かに確認されています。しかし、代替医療の効果のほとんどは、整理されたデータでも、環境を整えられた疫学的調査でもなく、施術者あるいは患者のフィーリング程度の根拠しかないものがほとんどです。これを事実とみなすのは、自身の治療への過大評価だと私は思います。
あえてもう一度言います。
「通常医療とは「効果が確認された治療」であり、代替医療とは「効果が確認されていない治療」ということです。科学的に確認できなくても、治療効果は確かにある!とsokyudo氏は信じておられるのでしょう。しかし、治療効果をの存在を証明せずにそういうならば、それは魔術師と何ら変わりません」

ここまで書くと、また科学をドグマとしている、科学的【視点】からの結論にすぎないとおっしゃられるような気がしてなりません。
しかし、それは現実を無視した意見であるように思われます。代替医療的視点であろうと、通常医療的目線であろうと、「どれほどの強さで患者をなおせるのか」を調べているのは変わらないはずです。sokyudo氏のお答えは、「結局どっちのほうが患者をなおせてるの?」という質問の前に無意味でしょう。

…ただし、例外はあります。代替医療と通常医療の目的がそもそも違う場合です。もしそうならば、視点の違いによる効果の違いは成り立つと考えられるでしょう(終末医療において、医療の助けを最大限に受けて一日でも延命を希望する患者さんと、治療にともなう入院などの時間的拘束によって生活の質が下がることを気にする患者では、医者の方針が変わってくるように)。
ただし、病気の治療という観点でも、患者の生活の質という観点でも、私は通常医療の枠組みで十分可能だと思っています。なぜなら、そのどちらも[効果のあるというエビデンスのとれている多数の治療法から、患者が選択する]という前提があり、そしてそれこそ、通常医療の目指すところなのですから。
では、代替医療にできて通常医療にできない何かとは、いったいなんでしょうか?
……今の私には、その答えとなりそうなものはありません。おそらく、sokyudo氏は答えられるのでしょうが。
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アセンション・ウォー (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-05-24 01:55:27
お返事ありがとうございます。
なかなか伝えたいことを伝えられていないように思います。どのような過程をたどれば、合意に至れるのでしょうか?

sokyudo氏のご意見を拝見させていただきました。
…私には、sokyudo氏のお言葉にいくつかの異論があります。
まず、改めて言いますが現代医療は残念なことにすべての患者を治療することはできません。現代の私たちの技術ではそれは成しえませんし、おそらくこれからもそうでしょう。しかし、逆に現代医療の介入なしに病気から快癒する患者もいるわけです。これを否定するつもりも全くありません。人体は非常に複雑な機構であり、それに複雑な要素が絡むため、常に100%
の治療効果を得られるわけではありません。
おおざっぱな仮定ですが現代医療の治療効果が統計の結果50あるとわかっていても、そのうちどの程度が実際に発揮されるかについては120%発揮される例も、80%しか発揮されない例もあるわけです。
一方、代替医療はそもそも調査が行われていないため、治療効果が0なのか、30なのか、50なのか、80なのか、もしかしたら100なのかわかりません。個々の事例を見れば50の効果を持つ例や、70の効果を持つ例があるかもしれません。しかし、それではもともとどの程度の治療効果があるのか確かめることはできていません。
そして、厄介なことにもとの治療効果が0でも、治療効果が50あるように見える例は発生しうるのです。
sokyudo氏は個々の事例のみからしか議論していないように思われますが、それは上記のような錯誤の原因となってしまうでしょう。それは、その場限りでは有効な手法に見えるかもしれません。しかし、その方法の本質を確かめられていないため、破たんをきたすのではないかと私は思います。
おそらく、科学的手法や科学的理論では自分たちの優れた技は図れないのだ、とおっしゃるのでしょう。しかし、科学は教理(ドグマ)ではありません。教理より以前の、観測された事実の集積こそ科学の根源であり、理論は科学の半身にすぎません。
sokyudo氏と私の間の溝は、ここにあるのかもしれません。sokyudo氏は科学と現代医療を数ある【魔術結社の一派】の教義だと考えており、私はそうは思っていない、というわけです。
しかし、先ほど述べたとおり科学の根源は事実です。それ以上でもそれ以下でもありません。もし科学は論理に拘泥し、事実を見失っていると考えるならば、まず事実をとりまとめた統計をとってください。
もしも事実の存在の有無を疑うならば、また別の議論が必要となるでしょう。

蛇足ですが、漢方薬の効果の検証がなされていないというのは過ちです。
葛根湯などの代表的な漢方薬から薬効を持つ成分が発見されるなど、漢方薬の研究は盛んに行われています。私はそれについては好意的にとらえています。古くからおこなわれてきた漢方の、その効果を確かめることは有意義なことです。
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久しぶりにまたレスをば… (sokyudo)
2010-05-24 00:52:44
>有機創世派さん

いざ書こうとすると、述べたいことのホンの表層しか書けないもどかしさを感じつつ、またレスをば…

>(おそらくsokyudo氏は異論があるでしょうが)通常医療とは「効果が確認された治療」であり、代替医療とは「効果が確認されていない治療」ということです。
>…科学的に確認できなくても、治療効果は確かにある!とsokyudo氏は信じておられるのでしょう。しかし、治療効果をの存在を証明せずにそういうならば、それは魔術師と何ら変わりません。

言ってくれますね。でも、おかしいな…。ウチには「科学的に効果が確認されている」はずの通常医療を受けていた/受けている患者さんも来ていますが、それまでの治療効果が全く確認できない人たちばかりです。
もちろん、通常医療による治療を受けてよくなってしまった人は、ウチのようなところにはそもそも来ないので、それも当然と言えば当然なのですが、せっかくなので今回はその点について少し考えてみたいと思います。

さて、通常治療による効果が全く確認できない理由として思いつくことの1つは、担当医の技量の問題。どんな治療も、使う人間の技量が低ければ効果は発揮できないですから。それは治療法の科学性とは何の関係もないこと。しかし、机上の学問のレベルならそれでもいいかもしれないけれど、実際に用いられる臨床のレベルでは、それではすみません。それはつまり「治療効果は単に治療自体の科学性だけでは決まらない」ということを実証しているのです(その点では、代替医療でも同じことが言えるわけですが)。

それとは違う理由として考えられるのは、「そもそも何を持って効果の有無を判断するのか」という問題です。

上で私は「それまでの治療効果が全く確認できない」と書きましたが、それは症状の変化についての問診の他、整形外科的テスト、(キネシオロジー的な筋反射テストを含む)筋力テスト、クラニオセイクラル・リズムの検査、脈診などによる確認の結果です。

これを見て「もともと通常医療で用いられている整形外科テストや(筋反射テストを除く)筋力テストはともかく、筋反射だのクラニオセイクラル・リズムだの脈診だのは医学的な評価としてオーソライズされてないのだから、それで効果をうんぬんするのはナンセンスだ」と思いますか? もしそうだとするなら、こう言うこともできますね。「代替医療は通常医療的な観点から見て治療効果が確認できないと言うが、通常医療もまた代替医療的な観点からは治療効果が確認できない」と。
※実際には、双方とも「他方の効果が全く確認できない」ということはありませんが、話を単純化するため、わざと極端な書き方をしています。

体の状態を評価する基準は、もちろん1つではありません。「効果を確認できてた」と言っても、それはある視点から見た評価結果であって、別の視点から見ると「効果がなかった」ということになってしまうかもしれない。そうしたことを理解せず、科学的というドグマによる視点こそが正しく、それ以外の視点はまやかしに過ぎない、という考え方に染まった人たちの集まった狭量な世界を、私は貧相だと言ったのです。

ただ最近の漢方薬ブームなどを見ると、別の思いも湧いてきます。ネットで見る限り、医師の漢方に対する風当たりの強さは変わっていないように見えるし、漢方の効果が「科学的に」実証できたという話も聞かないですが、漢方を処方する病院は増えてきているようです。多分その裏には、患者側の「西洋医薬に比べて漢方は副作用もなく安全」というような誤った理解に基づく漢方の需要があるのだと思いますが、一方でコケ下ろしておいて、一方ではカネになるから出す、というのは何とも滑稽なものですねー。所詮「理」は「利」には勝てない、ということでしょうか(笑)。
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追記 (科学)
2010-05-13 03:46:59
書きあがった後の連投でなんですが。
「そこにある刀が達人のものか安物かは試し切りをしてみればわかります。彫刻が職人が手で彫ったのか、機械で削りだしたのかは表面を観察すればわかります。科学的手法とは、そのような単純なものの延長です。」
と書きましたが、これは人を物扱いする意図ではありません。ここでいう刀や彫刻は治療法であり、治療法を実際に(正確な測定環境の中で)確かめることで、それが本当に有効か確かめられるはずだ、という趣旨の発言であることを付記させていただきます。
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凡夫の雷はいずこに落ちるや? (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-05-13 03:29:21
お返事ありがとうございます。
こちらもなかなか時間がとれず、すぐに返事を書けなくて申し訳ございません。

sokyudo氏のお考えが、代替医療という分野において特殊であったり、異常なようには私には(私見ですが)見えません。代替医療の従事者の中に、sokyudo氏のご意見に共感する者は大勢いるでしょう。
しかしsokyudo氏には申し訳ないのですが、私は通常医療と代替医療の関係を、そのようにみなすことができません。
現代医療は、工業製品に例えるには広すぎる代物です。統計を通じて効果が確認され、危険な副作用もないと判断されたものならば、現代医療は「たとえ作用理由が不明でも」治療行為として取り込む事を目指しています。(そのような治療行為の作用効果を研究するのは研究者の仕事です)たとえ作用理由が分からなくとも、治療にやくにたつなら、それは良いものです。(代替医療のトリックでも同様の趣旨が述べられていたと思います)。
…すなわち、(おそらくsokyudo氏は異論があるでしょうが)通常医療とは「効果が確認された治療」であり、代替医療とは「効果が確認されていない治療」ということです。
…科学的に確認できなくても、治療効果は確かにある!とsokyudo氏は信じておられるのでしょう。しかし、治療効果をの存在を証明せずにそういうならば、それは魔術師と何ら変わりません。悪いことに、おそらくそれは魔術ですらないのです(魔術が存在するなら、科学的に魔術が存在しなければ説明できない事情を観測できるはずですから)。統計的に確かめられないということは、【科学理論上存在しないはず】ということではありません。【実際に探してみたけど、いなかった】ということなのです。
…おそらく、sokyudo氏はそのようなことを信じないし、言われても意にも介さないのでしょう。目の前にいる患者が証拠だ、と。
しかし、前述の瀉血においても、患者は治ったと信じられていました。ゆえに(限定的な効果しかないにも関わらず)まるで万能の治療のように用いられ続けていたのです。
そこにある刀が達人のものか安物かは試し切りをしてみればわかります。彫刻が職人が手で彫ったのか、機械で削りだしたのかは表面を観察すればわかります。科学的手法とは、そのような単純なものの延長です。
それが正しいか否かは、確かめてみればわかるものであり、ゆえに私は、確かめるべきだと思います。

以下は個人的な感想の部類です。
私は、おそらく【日の当るところ】にいるからかもしれませんが、科学が貧相なものだとは思えません。小惑星探査機はやぶさと、それを応援する人々をみて何回泣いたかわかりませんし、ミリカンの油滴実験、マイケルソン・モーレーの実験などの実験は芸術性すら感じ、ホンダのアシモに心躍らせた私には、科学が貧相だと思うことは単純にできません。同時に、科学でないもの…特に信仰を無知だとか貧相だとかいうこともできません。神社に行ったら真剣に祈り、絵馬を買ってつるすような、そんな人間です。ただし、それは祈りであり、祈るだけで世界は変わらないと知っているだけです。
科学のどのような部分が、sokyudo氏をして【貧困】と言わしめたのでしょうか?個人的に興味があるので、教えたいただければ幸いです。
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ご質問の件について (sokyudo)
2010-05-05 14:46:57
>有機創世派さん

前回は時間が迫っていたため、書き散らしたような文章になってしまい、また以前のコメントに対するレスもできていないような状態で、お詫びしなければならないですが、

>sokyudo氏は代替医療を科学的に検証することについて、いかようにお考えなのでしょうか?

という問いがありましたので、その点について考えを述べようと思います。

書きたいことがたくさんあって混乱していますが、私の考えは第5部の本文で
>代替医療であれ通常医療であれ、治療効果というものは、治療法そのものに帰属するのではなく、それを使う施術者/医師とそれを受ける患者というものの存在、そしてその両者の関係性といったファクターの中にこそある。
と述べ、第6部の本文で
>代替医療の治療は(中略)○○病と診断された特定のAさんの現在の心身の(構造的、電気的、エネルギー的、…)の状態に応じて治療法を選択する、ということなのです。
と述べた通りです。ですから厳密に言えば、××療法というものがあるとして「純粋にその××療法の効果を測る」ことはできない、ということになります。もし効果を測れるとしたら「A治療家のBさんに対する××療法による効果」、あるいはギリギリ譲って「A治療家の××療法による効果」がせいぜいではないでしょうか。

ただ、そうだとすると「××療法を使えるのは、この世でAさんただ一人」になってしまいます(それではいけない理由はない、と私などは思いますが)ので、例えばそのAさんから××療法を伝授された中の一定数以上の人たちが、Aさんほどではないにしても似たような効果を出せるようになるなら、××療法には効果があるものと判断します。もちろん、そうした判断は厳密な数理統計学などに基づくものではありません。

私の理解不足でなければ、通常医療は確か「医療の標準化」を目指しているんじゃなかったでしょうか。標準化、つまり医療の品質を均質化する方向に進んでいる、と。それは(例えが適切かどうかわかりませんが)作業員が誰であれ均質な製品ができるようにするのと同じ考え方です。それに対して、代替医療は基本的に「職人の手仕事」の世界であり、そうした方向へのベクトルは変わらないと見ています。そして、工業製品と職人の仕事は同じ基準では評価できないのです。工業製品なら明確な評価基準があればいいでしょうが、職人の仕事を正当に評価するには「目利き」にならなければならない、ということです。

(なお上の文章は、別に「通常医療の世界には職人芸といったものは存在しない」などと言いたいのでも「職人の仕事なら全てが素晴らしい」などと言いたいのでもありません。あくまで違う方向性を持つものを同じ基準で評価することはできない/意味がない、と言いたいだけです。)

これとは別に「科学性」なるものに対する懐疑もありますが、あまり長くしたくないので今回は省略します。

ところで、代替医療の世界にも通常医療と連携した統合医療を睨んで、「陽の当たる場所」に出るために内外の大学や研究機関に協力を依頼して治効機序を科学的に検証しようとしている人たちはいます(私が思いつく範囲では、キネシオテーピング協会の加瀬建造会長など)。また、全日本鍼灸学会でも小川卓良理事などが10年以上前から「鍼灸もEBMということをきちんとやっていかないと、医療の世界からはじき出されてしまいかねない」といったことを表明しています。

が、私個人の話をすれば、私は「陽の当たる場所」には何の興味も関心もありません。私が自分の居場所と見定めたのは、理と非-理とが渾然一体となった光とも闇ともつかないところ、です。「陽の当たる場所」には「陽の当たる場所」に立たなければ見えない風景があるように、私のいるここにもまた、ここに立たなければ見えない風景があるのです。そして、この混沌とした場所から見える風景はまさに豊穣そのもので、ここに比べたら「科学的」というドグマにがんじがらめにされた「陽の当たる場所」は、残念ながら非常に貧相なものに見えてしまうのです。少なくとも私は、今の豊穣さを捨てて貧相なところに座を移したいとは思いません。有機創世派さんからは

>sokyudo氏の行われている代替医療が、現状の「通常医療」を上回るなら、あるいは通常医療で治らない患者を、治せるならば、通常医療は、あなたを求めているのです。

というお言葉もいただきましたが、それに対する私からの回答はそういうことです。

ですから、有機創世派さんの論争の相手として、本当は私はあまりふさわしくないかもしれません。例えば加瀬先生のような立場を取る人となら、もう少し問題意識を共有できたのではないか、と。それでも、まだ書き足りないことがあるならどうぞ。例によってレスは時間がある時になりますが。
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取り急ぎと、少々のお願い (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-05-03 01:17:29
まず、誤読していたようですので謝罪いたします。大変申し訳ございません。

ですが、ここはとても(少なくとも私にとって)重要なことですので、sokyudo氏のご意見を可能ならば今一度表明していただ帰宅思います
sokyudo氏は代替医療を科学的に検証することについて、いかようにお考えなのでしょうか?

他人の文章を誤読するような文盲としか言いようのない私に、説明していただけたら幸いです
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時間がないので (sokyudo)
2010-05-02 10:37:45
>有機創世派さん

時間がないので、まとまった反論が書けませんが、多少聞き捨て(読み捨て?)ならない箇所がありましたらので、取り急ぎ書かせていただきます。

私は

>治療効果の測定といった行為を「代替医療には無意味」と発言したこと

はありません。確かにこれまで、「いわゆる『科学的検証』で治療自体の効果とプラシーボを純粋に分離できるものだろうか?」という疑問は何度も書いてきましたが、測定そのものが無意味であると述べたことはありません。
また、
>どんなご大層な科学理論を吹聴して見せたところで結果が出なければ何の意味も持たない
と書きましたが、それは代替医療、通常医療に関わらず臨床家なら誰でも同じであろうことを述べただけで、科学理論そのものを否定してるわけでもありません。

以上。
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伝統派メイジVS科学技術結社の啓発者? (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-05-02 09:36:31
ここのところ立て続けに返事が遅れて大変申し訳ございません。
sokyudo氏のおっしゃられる通り、今の議論はかみ合っていないようで、こちらも歯がゆく思っています。何とか、相互理解にたどり着けたらと思うのですが…。

しずくさんへのお返事をしたいと思います。
まず、私が望んでいることは、現状で代替医療の(さまざまな意味で)前線にいらっしゃるsokyudo氏が、今回のように科学的手法ばかりか治療効果の測定といった行為を「代替医療には無意味」と発言したことの危うさ、そしてそれを肯定する代替医療の現状そのものの危うさを(が、あると私は考えています)、ほかならぬ当人に理解していただくことただそれだけです。それはいずれsokyudo氏や、その患者さんに不利益をもたらすと思ったため、ここに書きこんだのです。

 また、しずく氏(こちらも女史なのでしょうか?)は、私の書き込みのうち「代替医療は現状において根拠がなく、故に治療技術と言い難いのです。」という発言を、医療すべての否定につながるのではないかとおっしゃられましたが、私はそうは考えません。
私にとって医療とは、知識や技術を用いて、患者の病気を治すことに他なりません。そして、その知識や技術が、ただの思い込みや勘違い、最悪の場合詐欺でないか否かを確かめることは重要であり、必要だと思います。
ゆえに、代替医療の主張する【治療できる】という知識あるいは技術が、真か否かを確かめる根拠がない現状において、残念なことに医療と呼べないということが、すべての医療を否定することになるとは到底思えません。患者を治すことができるという根拠(この根拠は論理ではなく、むしろ統計や実験でしょう)がある医療は確かに存在するのです。いいえ、そうやって確かめられた医療がが、洋の東西や歴史の云々を問われずに集合したものが【通常医療】なのです。
また、現代医療は完璧でない事、科学によって得られた治療技術に伴う倫理的問題は理解しています。しかし、その「矛盾」とこの【矛盾】はまったく異なるものだと思います。医療でどこまでやっていいのかと、何をもって医療と呼ぶかは全く異なる問題です。

 そして、私は相互理解を不要というつもりはなく、通常医療は絶対にして永世不変の真理だというつもりはありません。ただし、科学は事実を集めたもので、それを否定し、現代のアインシュタインになるならさらに強力な事実が必要だというそれだけの話です。
おそらく、しずく氏から見た私は科学を信仰し
サンタクロースにもいちゃもんをつけるテクノテラシーなのでしょう。しかし、そうではなく、単純に医療は確かであってほしいというそれだけなのです。

sokyudo氏やしずく氏が「代替医療と通常医療は異なる役割を持つ」とおっしゃられている、その【代替医療の役割】がよくわかっていません。だからかもしれませんが、代替医療最大の問題点は、代替医療であり続けることだと思っています。…が、それについては私の考えを正確に表せる言葉を選びたいので、少々お待ちいただければ幸いです。
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コメントありがとうございます。 (sokyudo)
2010-04-28 12:55:19
>nanaさん、しずくさん

コメントありがとうございます。ずいぶん長いやり取りになってしまっていて、当事者以外、誰も読んでないんじゃないかと思ってましたが、案外読んでる人もいるんだ、とちょっと変な安心をしています。

『代替医療のトリック』に対する批判記事を最初に書いた時から、どこかでこうした反論は受けるだろうな、とは思っていました。実際、このブログへの直接のコメントではない形で、私の記事への批判・反論・茶々がなされているのも知っています。
そんな中、有機創世派さんは、このブログへの直接のコメントという形で、悪意や感情論ではなく堂々と自分の考えを述べておられるので、こちらもできる限りそれに応えようとしているわけです。

ある人からここでのやり取りを評して「噛み合わない議論」と言われてしまいましたが、その噛み合わなさが通常医療と代替医療というものの「ありよう」の違いをそのまま表しているのかもしれません。

気が向いたら、またコメントしてください。
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Unknown (しずく)
2010-04-27 07:13:00
いつも楽しくブログを拝見しています。


最近のやりとりを見ていて、議論というよりも
理解して欲しい思い。のほうが伝わって来てしまいました。
だんだんと読んでいて気持ちがモヤモヤしてきましたので
始めてコメントさせてもらいます。



>このような立場は現代医療、いや人類がこれまで研究、発展させてきた医療全体に対する侮辱となってしまうことに気が付いておられるのでしょうか?

全部読み返してみて、結局、貴方は何が訴えたくて、どういう結果を望んでいるのか?と考えてみました。でも今は、始めにおっしゃったご自身のこの言葉とまったく同じ事になっているように感じます。

この議論で、何を得たいのでしょう?
勝ち負け?正しさ?納得した答え?


>期待にこたえるべく頑張っている現代医療の従事者がいるのです。

とても良く解りますし、それは代替医療の治療家も又同じだと思います。
そして、患者にとってその頑張りは時にエゴでしかない場合もあります。

生きるとは何か。結局哲学になっていくのだと思うけれど
そういう想いを胸に抱いてどちらも治療に志を持つ
のだとすれば道が違うということだけです。

でも行き着く先は結局、おなじ場所であるとも思います。


>代替医療は現状において根拠がなく、故に治療技術と言い難いのです。

これは私信だと感じます。想いは解りますが
これを言ってはそれこそ人類がしてきた治療のすべてを無にしてしまう
危険性を感じます。

医療従事者としてよりも、そのまえに
人であること。相手を尊重すること。
テーマが違っても、議論する上で最も必要なことではないか
と思います。


素人の私から見ても、
現代医療も代替医療も役割が違う物であり、
どちらも重要であると思います。

その役割を超えた所で、こっちのほうが効くんだ!正しいんだ!
と言うのは幼稚だと思いますが、
円グラフを占める体積で計るのも同じような気もします。
私達患者側も、使い分ける視野を持つべきだとも思います。


医療を寄りよくする為に最も必要なのは歩み寄りなのでは
(相手を理解する事)ないでしょうか。
私達患者はこういった対立はもう聞き飽きていますし
チーム医療と言われている物が日本で上手く機能しない問題は
まさにこのあたりにあるのではないか。と思います。
(海外でどの位上手く機能しているのかも知りませんが)


現に医療の最先端に居る医師達の中にも、
医療がこのまま進んでいいのか?と感じている人は
居ます。
知人の脳外科医は、自分は脳は手術しない。と言います
病理医の先輩は、DNA検査でいつ病気になるか解り、
クローン技術で臓器を複製する事が出来ても、
そんなに長生きしたいか?と常々言っていました。

みんなそれぞれ選んだ道の矛盾を受け入れて
それでもそれに関わり、責任を果たしているように思えました。

矛盾を排除せず受け入れてみる時、
対立から出て、
対立しているものの懐に飛び込んでみる時、
人は違った視点が見えてくるのだと思います。
そのときになって始めて理解できる事があり、
それは言葉や理論では伝えきれないものでもあります。


ご自分が学ばれている学問を信じたい。守りたい気持ちは
とても大切にして欲しいです。
自分の置かれている立ち位地を知る事は必要でも
不毛な対立になりつつあるときはその真意をご自分の中に
問いただしてみる事が必要ではないでしょうか、、。

人間は力でどうすることも出来ない出来事で謙虚にもなり、
力を持ったように錯覚して奢ってしまうこともありますから。




長々と、失礼しました。
こういった議論に触れて、医療を考える機会を頂いた事は
とても意味のあることでした。有り難うございました。



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結節を持たぬ身であるがゆえに (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-04-27 01:07:37
nana様、率直なご意見に感謝します。
私が他人のブログを間借りしている状態なのは理解しています。
ゆえに、管理人さまから迷惑であるといわれましたら、ここを去るつもりでいます。
しかし、それまでは、目障りであるとは思いますが、このブログでの発言を許していただければ幸いです。
返信する
なんだか観たくない気がすると思ったら (nana)
2010-04-27 00:40:40
変なのが
いっぱい毒吐いとったんやな!

次元が違うのも解らず
理解し合えない相手に
しかも相手のブログに
わざわざ毒吐きに来る奴は
さっさと帰って
自分のブログでもしっかり書きや!

目障りや!

返信する
ガントレットのかなたに届くために (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-04-26 16:00:32
ぷー子さんとの会話を始めてしまい、錯綜した状態の中コメントいただき、誠にありがとうございます。

>どんなご大層な科学理論を吹聴して見せたところで結果が出なければ何の意味も持たない──それが机上の学問とは違う臨床の世界です。理論は結果の後付けで考えればいいのです。理論があって結果があるのではない、結果があって理論ができるのです。前のレスでも述べたように、科学とは現象の解釈学なのですよ。そして医学とはそうして形作られ発展してきたのではないですか。

まず、上の発言を読む限り、sokyudo氏が科学について誤解しているように感じます。
以前の発言で言った通り、「現代科学は、【実験によられた事実】と【合理的な判断】で成り立っています」。合理的な判断も、事実も科学においては重要視されます。
また、現代医療においては特に事実が重んじられます。理論など後付けでよいというsokyudo氏のご意見は、私も同意するところです。
統計学的手法は、その「事実」を確かめるために行われているのであり、決して机上の学問のためではありません。
現代医療は、科学的手法を通じてより確実に「事実である」手法をとろうとしているのです。
科学も現代医療も、事実を重んじており、理論のために事実を曲げることはありません。もしそう読めるような発言をしていたならば、謝罪いたします。

…と、ここまで書いて、sokyudo氏と私の文章の中の「事実」が違う物なのではないかと思いました。
わたしは一貫して、「その治療法が効果があるという事実」の話をしており、それは「患者が回復したという事実」とは微妙に異なるものであると理解しています。
何度も言っていますが、その治療法が間違っていても、患者が回復することはあるのです。
人間の自然治癒力をなめてはいけませんし、それ以外にも多くの要因が考えられます(プラシーボ効果・平均性への回帰、etc…)。
sokyudo氏は、
>「私は臨床家なので、結果が全てです」
>私にとっては、「自分が治療家として人や本から学んできたことに基づいて臨床で出した『結果』」です。それはよい結果ばかりではなく、不十分な結果や悪い結果を含みます。セミナーで教わったこと、文献に書かれていることを盲信しているわけではありません。時にはその通りに、時には自分なりに改良しながら、臨床で使って得てきたその「結果」です。
とおっしゃられているので、もしかしたら、「実際に私が治してきた患者さんがいるのに、統計だとか検盲法だとかなんとか理論をこねて「治ったという事実」を否定するのに一生懸命だ」とお考えなのかもしれません。
(間違っていたらただの邪推です、申し訳ございません)
しかし…「私の目の前の、治った人々」から、さらに前に進むことを、現代医療は求めています。
それは、あなたをバカにしたり、合理的でないと切って捨てるため、ではありません。
もし、sokyudo氏の行われている代替医療が、現状の「通常医療」を上回るなら、あるいは通常医療で治らない患者を、治せるならば、通常医療は、あなたを求めているのです。
「これこれこういったものが効果があった」という、かつて代替医療だったものの報告を、通常医療は検証し、取り込んで…より患者への治療の手段を増やしてきました。
通常医療とは、極論すると客観的に多くの人を治せる手法の集合なのです(それを集めるために科学を用いているのです)。

…しかし、sokyudo氏がおっしゃられる通りなら代替医療は少なくともそうではありません。
私には、残念なことにsokyudo氏のおっしゃる
>科学法則や合理性から逸脱した形で動いている部分
が、要するに過程はわからないが結果は効いているんだ!という態度以上のものには感じません。
そして、私はそれはsokyudo氏が代替医療を信念なく行っているのではないかという不安を生むのです。
私たちは世界のすべてを理解しているわけではありませんが、せめて自分が行っている治療がなぜ効くのかぐらい理解しておきたいものです。
…さもなくば、治療が失敗したときに施術者の責任か、患者の責任か、それとも避けえぬ結果だったのか、だれも判断できなくなってしまうからです。
「患者が治ったという事実」に安穏とし、「治療効果があったという事実」を確認しないならば、いずれその時は来るでしょう。
そして、代替医療が本質的に後者の事実の有無を確認できない と言うならば…それは、私には不安すぎてとても医療とは呼べないでしょう。
何でもかんでも合理的判断と念仏のように言うつもりはありません。しかし、人命がかかっている医療において、「患者が治った、治らなかったという事実」以上のものを積み上げられないなら…それはいずれ破たんする、と思います。


以下は有機創世派の啓発者候補でもなく、科学技術結社のメンバーでもない、あくまで私個人の戯言です。聞き流してくださって構いません。

私の化身が目覚め、私が魔法を使えたら、どんなにいいでしょう!矛盾や合理性を気にすることなく、世界の綴れ織りを操って、真なる魔法を行使できたらどれほどの人を救えるでしょう!
しかし、霊性復興は科学へのアンチテーゼにすらなれず、憧れたヴァーチャルアデプトも、エーテルの寵児も私の前にはいません。
願えばかなうといったニューエイジは行動を怠った虚無の輩となり、多くの妄想を生んだだけに終わりました。
ならば、世界を担えるのは、科学技術結社において他ありません。そして幸運なことに、世界から夢は失われていないのです。
だから、わたしは科学を選びます。願うだけでなく、祈るだけでなく、…叶えるために。
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ゆるゆるとお答えします。 (sokyudo)
2010-04-26 11:32:38
>有機創世派さん

相変わらずレスが遅くて申し訳ないです。
もう何だか、誰の何にレスしたらいいのか、よくわからなくなりつつありますが、特に緊急を要するような話でもないので、ゆるゆると参りましょう。

> sokyudo氏はその文章の中で、以下のようにおっしゃられました。
>>「物理学的・化学的機序だけで語ることのできない生体を「科学的」という切り口だけで検証しようとしても限界があるのは、自ずから明らかというのが私の見解です」
>では、逆に、科学―すなわち【事実】と【合理的な判断】で検証できないならば、あとは何が残っているのでしょう?

生体に限らず、世の中の全ての機構(システム)について同じことが言えると思いますが、あらゆるシステムは物理・化学といった自然科学的な機序や合理性だけで動いているわけではありませんよ。ブー子さんが「医学と医療は違う」という形で書かれていたことと重なると思いますが、

・システムには、科学法則や合理性に基づいて動いている大きな部分があります。例えば、科学法則や合理性に基づいて設計・製作されたさまざまな機器の多くが、世の中で日々おおよそ大きな不具合もなく動いているのもそのためです。そして近代以降の西洋医学とは人体のこの部分を研究し、さまざまな治療法を編み出してきたわけです。その成果は私も十分すぎるほど認識しているつもりです。

しかし
・システムには、科学法則や合理性から逸脱した形で動いている部分もまた小さくないのです。それは医療というシステムも人間というシステムも例外ではありません。治療法として科学的に十分な検証がなされた、というのは「科学法則や合理性に基づいて動いている大きな部分」に対してだけの話であって、それは人間というシステム、医療というシステムの無視できない大きな部分でありながあ、同時に一部に過ぎないのです。

失礼ながら私には、有機創世派さんがそういったことを理解できていない、あるいは「理解できていないことすら理解できていない」ように見えてなりません。

私は通常医療が心のない冷たいものだとは少しも思っていませんし、実際に本文を含めてそのようなことは書いていないつもりです(もし、そのように誤読されてしまうような記述をしているなら、深くお詫びします)。また、代替医療についても、それを信仰のように盲目的に信じているわけでもありません。代替医療で全てまかなえるなどとも考えていません。ここで何度も書いてきたように、通常医療的なものの見方が絶対ではない、二重盲検のような検証だけで治療効果を判断することはできない、と考えているだけです(もちろん、そうした考えを誰に強要したこともありませんし、するつもりもありません)。

有機創世派さんは

>では、代替医療には自信を持って患者に薦められるような、「何」があるのですか?

と問われていますので、お答えします。私にとっては、「自分が治療家として人や本から学んできたことに基づいて臨床で出した『結果』」です。それはよい結果ばかりではなく、不十分な結果や悪い結果を含みます。セミナーで教わったこと、文献に書かれていることを盲信しているわけではありません。時にはその通りに、時には自分なりに改良しながら、臨床で使って得てきたその「結果」です。

有機創世派さんなら「そんなものに何の科学的根拠がある? プラシーボとそうでない部分をどう区別するのか?」と突っ込んできそうなので、あらかじめ述べておきましょう。

「私は臨床家なので、結果が全てです

どんなご大層な科学理論を吹聴して見せたところで結果が出なければ何の意味も持たない──それが机上の学問とは違う臨床の世界です。理論は結果の後付けで考えればいいのです。理論があって結果があるのではない、結果があって理論ができるのです。前のレスでも述べたように、科学とは現象の解釈学なのですよ。そして医学とはそうして形作られ発展してきたのではないですか。

安全性ですか? 安全性は十分考慮し、常に細心の中を払っているつもりです。もちろん絶対はありません。しかし、絶対安全がないのは通常医療も同様でしょう(実際、医療ミスは大きな社会問題になっています)。

…というわけで、これでもずいぶん短くしたつもりですが、かなり長くなってしまいました。いつもながら「書ききった」というのとはほど遠い感じですが、疲れたのでこの辺でアップします。気が向いたらコメを下さい。気が向いた時にレスしたいと思います。
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Unknown (プー子)
2010-04-24 07:35:45
代替医療だろうが、魔法だろうが、代替療法、民間療法、自然療法・・・、そういう呼称について関心ありません。どうも私たちの争点は「医療」の定義の違いのようです。頭の中がスッキリしました。ありがとうございました。長々とお邪魔しました。
返信する
化身よ、この手に魔法を (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-04-24 02:49:57
連投申し訳ございません。
前回投稿の後、ぷー子氏(女史でしょうか?)の言葉の意図がわかったような気がしたので、書き込ませていただきます。

ぷ―子氏には、ぜひわかっていただきたいことがあります。
たとえ現代の通常医療で治せなかったり、完治困難な病気があったとしても、通常医療は患者の幸福を諦めないということです。
通常医療は世界中の医者や研究者の手によって常に進歩を重ねています。その結果、新しい治療法が見つかったり、今まで直せなかった病気が治せるようになることは稀ではありません。
たとえばAIDSがいい例でしょうか。AIDSは医者や研究者の努力の結果、感染者の寿命を飛躍的に伸ばしています。
通常医療は、また自らが完治させることのできない患者を放置するようなこともしません。
末期ガンの患者の生活の質を高めるための方法論は完成していますし、少しでも体への負担の少ない薬の開発も行われています。

…通常医療で根本的な解決がみれない状態は、不安かもしれません。せめて何か出来ることがほしい、その気持ちも理解できます。
しかし……それは医療とは異なります。
医療とは、「治療技術を用いて患者を治療すること」と手元の辞書にありました。
しかし、代替医療は現状において根拠がなく、故に治療技術と言い難いのです。
ぷー子氏が希望を求めているのはわかります。しかし、代替医療はそれに答えられない可能性のほうがずっと高いのです。そして、ぷー子氏の期待にこたえるべく頑張っている現代医療の従事者がいるのです。
それでは納得できないかもしれません。現代医療に見放されたら、あきらめるしかないのか?と。
しかし、約束します。
現代医療は、そう簡単にあなたを見放しません。
最後の最後まで、あなたを救うために最善を尽くせるよう努力する、その方法論として通常医療があるのです。
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それでもMagickを使わねばならぬときは (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-04-24 00:27:39
申し訳ございません。
以下の返答は、ぷー子さんのおっしゃられていることを正確に理解しての返事である自身がありません。
…あるいは、私の言葉がよく伝わっていないのかもしれません。

最先端医療や、実験的医療の存在を否定するつもりはありません。しかしそれは、それなりの知見と、研究施設の管理のもとおこなわれるべき行為だと思います。(新薬実験のアルバイトなんかが私たちにも知られた実験的医療でしょうか)。
私はただ、根拠に基づいた医療が必要だと考えているだけです。
「医療は確実なものでなければありません」と言ったのは、決して現在一般的な治療法がダメなら死ね、というニュアンスではありません。
先端医療や実験的医療は、確かに十分な実験データ、統計データがないかもしれません。それをやるなと言っているのではなく、それをやるなら十分な根拠(たとえば科学理論とか)が必要である、というだけの話です。

また、偶然で治ることは悪いことではありません。偶然で【治らないかもしれない】こと、そしてそれに労力や時間が支払われることが問題なのです。
これで治るはずだと信じて苦労した揚句、実はあなたには【偶然】効き目がなかったという話になっては、患者が不都合をこうむってしまうためです。
もし宝くじを買ったり、おみくじを引くような感覚で代替医療をやる、とおっしゃられるならば、私は否定するつもりはありません。
ただ、それは医療ではないので、代替医療という呼称も適切ではないという、それだけの話です。
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Unknown (プー子)
2010-04-23 22:51:55
「医療」という言葉の定義からコンセンサスをとらないと、話はかみ合いませんね。「医療とはもっと確実なものでなければなりません。」と私は思わないのです。医学は確実なものであってほしいですけど。医療が確実なものであったら、その確実なものに見放された人は、確実に絶望なわけですよね。それでも「今」生きているという現実。アウシュビッツのようじゃないですか。ところが医学が確実(医療ではなく)なら、確実な医学に見放されても、人が為す医療が残されていることは、もうそのこと自体救いです。あるいは迷い、誘惑、魔が差すものかもしれませんが。だからそこを商売のネタにしている物もゴマンとあることも事実です。人間社会ですから。でもそのマージナルなところに可能性を求めて情熱的に研究する人もいてもいいでしょう。むしろ全く新しい知見、パラダイム、発見、発明は、そういうところから生まれて来るものです。「確実なもの」も時代とともに変わります。偶然治ってどこが悪いのでしょう?現代の我々には「偶然」という大雑把なレベルでしか捉えられない必然かもしれません。でも残念なことに(?)「かもしれない」だけなのです。だから「代替」医療なのです。あくまでも『代替』なのです。ですから私個人としては、これ以上、それを「魔法」と呼ぼうが、「もっと別の何か」と呼ぼうが関心ありません。
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私たちがメイジならば、こんな議論はいらない (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-04-23 20:38:16
まず、あやまらなければならないことがあります。先のコメントの文章では、正確に私の意図が伝わらないのではないかと考えましたので、お侘びとともに補足をくわえさせていただきます。
科学とは、何かに対する理論や説明、のみではありません。統計的手法や、実験によって集められたデータもまた科学です。前のコメントで、通常医療の根拠として【科学】があるとしましたが、それはむしろ統計的手法や、実験によって集められたデータであることを伝えきれていませんでした。申し訳ございません。
そのうえで、sokyudo氏には失礼かもしれませんが、、ぷー子さんからの意見をいただいたので、ここで返答させていただきます。
ぷー子さんへ
真摯なお言葉をありがとうございます。
ぷー子さんは、「医学と医療は違う。代替医療に科学的根拠がなくたって、患者の心理へのいい影響はきっとある。すべてがすべて科学じゃないだろう。効く人が少なくても、治っているという事実は確かにある」
と、おっしゃられているのだと思います。
(間違っていたら申し訳ありません)

しかし残念なことに、その【治っている人】が確認できないのです。
いや、そんなこと言われたって納得できないでしょう。しかし、事実です。
統計学的に確かなレベルで治療効果を発揮した代替医療は残念なことにありません。それは、偶然治った、以上の効果がないことを意味しています。
おそらく、納得いかないでしょう。ゆえに、「けれど私たちは一人一人違った体(自然)を持っていますから、科学的なもの、厚生省が認可したものが効果がなかったからと言って、その人のこの世の終わりとも限らないわけで」
とおっしゃられたのだと思います。しかし、そのような立場をとられるならば、それは医療ではあり得ません。医療とはもっと確実なものでなければなりません。何らかの効果を得ようとする際に、偶然程度の確立しかない何かを、信念のもと行うというのならば、それは魔法でしょう。そして悪いことに、私たちはメイジではないのです。

私個人としては、きちんとした(ここでいう通常医療を指しています)医療を受けながら、代替医療を受けるというのならば否定しようとは考えません。しかし、それは治療行為ではなく、もっと別の何かと呼ばれるべきだと思います。
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私の書きたかったこと (sokyudo)
2010-04-23 15:55:01
>ブー子さん

コメントありがとうございます。私がグズグズしている間に、書きたかったことの多くを書かれてしまったような気がします。

>現代医療は科学という根拠に頼り過ぎて、医療という側面を忘れつつあり、代替医療はそこにつけ入り、エビデンスがないのに過信している側面が、一部の治療家、あるいは治療家の心の一部にあると思います。

この一文が『代替医療のトリック』という本、そして私と有機創世派さんが長々と続けているここでの議論の、まさに核心を突いていると(私は)思いました。
よかったら、また書き込みしてください。

それから、私のレスについては、もう少し時間をください。>有機創世派さん
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Unknown (プー子)
2010-04-23 13:51:03
私、よくわかりませんが、医学と医療は違うんじゃないでしょうかね。現代医学にも限界があり、なす術のなくなった人が、根拠がなかろうが、科学的な裏付けがなかろうが、本人がしてみたいと思う治療を受けてみることは、仮に治療自体の効果が全くないものでも、前向きになるとか、明るくなるとか、その結果免疫力が向上するとか、悪いことはないような気がしますけどね。悪徳治療家はまた別の問題です。だって医師にも金儲けしか考えていない人はいますから、その点はどっちもどっちです。科学の常識(根拠)も時代とともに変わることもありますしね。実験や治験で効果があっても、それは平均値のようなもの、あるいは最大公約数的なものですよね。害の方が少なく、多くの人に効果があるという・・・。科学とか、厚生省が認可するって、そういうものだと思います。けれど私たちは一人一人違った体(自然)を持っていますから、科学的なもの、厚生省が認可したものが効果がなかったからと言って、その人のこの世の終わりとも限らないわけで・・・。現代医療は科学という根拠に頼り過ぎて、医療という側面を忘れつつあり、代替医療はそこにつけ入り、エビデンスがないのに過信している側面が、一部の治療家、あるいは治療家の心の一部にあると思います。エビデンスがないのですから、謙虚でなくてはならないと思います。だからそもそも「代替」「補完」なのですから。にもかかわらず、効果のあった人がいる、よくなった人がいる、という、これもまた「事実」なのです。すみません。お二人のやりとりを拝見させていただいているうちに、頭がゴチャゴチャして来たので、この場をお借りして整理させていただいたまでです。
返信する
Mage: The Ascension (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-04-22 10:45:28
 文才がないため、お返事に時間がかかってしまい、大変申し訳ございません。
sokyudo氏に伝えたいことは多くあるのですが、私の文章力ではそのすべてを伝え切れている自身がありません。
 sokyudo氏が理解している通り、科学は事実に対する解釈という性質を持っています。
言い換えれば、科学は、事実に対する「もっとも合理的で確からしい説明」です。
それは、sokyudo氏の目は現代科学の不完全性として映るのでしょう。事実、科学は常に進歩している知見で、完全なものではありません。
しかし、私はsokyudo氏とは異なった立場をとります。それは
【現代科学は現在最も合理的で、納得できる解釈だからこそ、現代科学に従った判断をすべきだ】
という立場です。
現代科学は、【実験によられた事実】と【合理的な判断】で成り立っています。無論、その知見は無限でも完全でもありません。
しかし、その不完全な知見は、現在最も効果のある方法の集合であり、否定するならばそれを上回る根拠を持ってこなければならない、と思います。

 sokyudo氏はその文章の中で、以下のようにおっしゃられました。
>「物理学的・化学的機序だけで語ることのできない生体を「科学的」という切り口だけで検証しようとしても限界があるのは、自ずから明らかというのが私の見解です」
では、逆に、科学―すなわち【事実】と【合理的な判断】で検証できないならば、あとは何が残っているのでしょう?
心?いいえ。現代科学は心を無視しません。患者と良好な関係を作り上げることが重要であることはすでにわかっています。
心理学的な立場からいかに患者とむきあい、良好な関係を作り上げるか、というのはすでに重要な医療のテーマです。
自然の力?いいえ。現代科学はそれをむしろ熱心に取り入れてきました。
抗生物質を始めとした多くの薬品は、まず自然界で発見された薬草などから見つかったものです。
患者に対する真摯な態度?いいえ。真摯な態度をとるために、根拠に基づく医療が必要なのです。
病気ではなく、個々の患者に対応する姿勢?いいえ。医療の研究が進めば進むほど、多くの治療法が発見されています。
そして患者には、その中から選ぶ権利が生まれるのです。一部の病気などは、すでにオーダーメイド医療と言っても差し支えのない治療ができるほどです。
……それとも、霊的な何か?
もしこれを選ばれるならば、これについての回答は長すぎて、次に回さなければなりません。

ともかく、科学は確かに100%ではありませんが、科学以上に患者に自信を持って薦められるものは私には思いつきません。
現代医療には科学という根拠があります。……では、代替医療には自信を持って患者に薦められるような、「何」があるのですか?
お答えいただけたら、幸いです。
返信する
科学的検証を巡って (sokyudo)
2010-04-16 13:25:31
>有機創世派さん

文才に乏しく、ずいぶん時間をかけないとまとまった文章が書けないもので、いただいたコメへのレスに時間がかかってしまい、申し訳ないです。

>正しくなかったがために結果的に被害者を出してしまった[誤った医療]は、数多くあるのです。私たちは、その失敗から学ばなければなりません。歴史、あるいは治療の結果が審判を下す頃には、被害者が出ている可能性はあるのです。

確かにそれは事実であり、だから医療はその検証に不断の努力をしなければならない、という点は、全く同感です。また

>sokyudo氏のおっしゃる通りならば、代替医療は常に十分な裏付けなしに行われています。

と言われるなら、そういう面もあることは事実だと認めなければならないでしょう。ただ、それでは通常医療であれ代替医療であれ、「科学的検証」によって本当に医療の効果や確実性が十分に担保されると言えるのでしょうか。受診した人に全く被害者が出ないような「十分な裏付け」がなされるのでしょうか(これは「結果として被害者は出なかった」というのとは全く別のことです)。

今は何かと科学、科学、と科学的なことがもてはやされ、科学的でないと世間から指弾を受ける風潮がありますが、科学をもてはやす人がどれだけ科学というものをわかっているのか(これは後に述べるように、「難しい科学理論を理解している」という意味ではありません)、私はいつも疑問なのです。

これは以前、別の記事でも書いたことですが、科学とはすなわち解釈学のことです。さまざまな現象に対して多くの人が納得するような合理的な解釈を作る──それが科学です。要するに「現象の後付け」ということですね。決して科学的であることが、真理であることを保証しているわけではない。ただ「確かにそう考えれば納得できるね」というだけのことです。新たな現象、新たな事実が見つかって、それが今までの解釈で説明できなくなれば、その解釈は覆り、その現象・事実を含めて説明できる新たな解釈が作られ、それが新たな(当座の)真理(もどき)として語られるわけです。

そして、医学的常識といったものも、新たな事実の出現によって日々変わっています。昨日まで「医学的常識」だったことが今日には「医学的非常識」になっているかもしれない。昨日までの「医学的常識」によって「間違いない医療」だと思われていたものが、今日は「誤った医療」になってしまうかもしれないし、その逆も当然あり得るわけです。

また、私は大学では理学部で数学を専攻していましたが、純粋論理だけで構築された数学でさえ、「一定レベル以上の複雑さを持った完全な数学体系(数学体系の完全さとは、1:正しいと証明されたものは正しい、2:正しいものは正しいと証明できる、を備えたもの)を作ることはできない」ということが「数学的に」証明されています(ゲーデルの不完全性定理)。

数学でさえそうなのだから、ましてや物理学的・化学的機序だけで語ることのできない生体を「科学的」という切り口だけで検証しようとしても限界があるのは、自ずから明らかというのが私の見解です(数学書なら、「証明は自明」とだけ書かれて終わりでしょう)。

これをもって私は、「医療を科学的に検証することが無意味だ」などと言うつもりはありません。不完全性定理が、数学の世界は終わりだと示したのではなく「数学者の仕事には終わりがない」ことを示すように、「医療を科学的に検証することには終わりがない」と言いたいだけです。しかし、それは同時にどんな形の医療であれ「十分な検証がなされることは永久にあり得ない」ということでもあります。

通常医療がそうであるように、代替医療も代替医療としての検証の努力がなされていますし、それは今後も継続されるでしょう。ただ、そうした側面だけで医療の効果や確実性が担保されるものではない、ということは理解すべきだと思います。
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昇華戦争の勝利者の矜持 (科学技術結社連合 有機創世派)
2010-04-13 23:05:28
 失礼な発言をした私に対し、真摯な返事をいただき、またこういった場を用意していただいたことを感謝します。

今回のお返事も長文となること、お許しください。

いくつか言わねばならないことはありますが、まず効果があるかどうかはは歴史が判断する、という考えを私は容認できません。
 瀉血という治療法をご存知でしょうか?欧州をはじめ、沖縄や中国大陸でも行われてきた歴史ある治療行為の一つです。これは患者の体を傷つけ、出血させることで治療を行う治療を一般的にいうもので、通常医療においてもごく限定された病状にならば効果があるだろう、と考えられています。
しかし、中世の欧州においてこの治療法はあらゆる病気に(作用理由が明確でないままに)行われました。霊的な思想と結びついて、魔術として行われていた側面もあったようです。
その結果、当時は衛生的に不十分であったために感染症などの原因となり、また弱った患者の体に傷をつけた結果かえって寿命を縮めてしまった側面もあったようです。そういったことから、今では瀉血はごく一部を除いてほとんど行われていません。
これは、歴史としてみたなら一つの失敗にすぎません。しかし、その結果病気の治りが遅くなった人や、あるいは死んでしまった人にとっては一つの失敗とは思えないでしょう。
歴史的にみれば、これと同様のものはいくらでも存在します。すなわち、正しくなかったがために結果的に被害者を出してしまった[誤った医療]は、数多くあるのです。私たちは、その失敗から学ばなければなりません。歴史、あるいは治療の結果が審判を下す頃には、被害者が出ている可能性はあるのです。むろん、あらゆる医療は不老不死を実現できていません。よって治療の結果治らなかった人は、すべてこの被害者だとはいえないでしょう。しかし、治療効果を発揮させるための努力を怠ったならば、被害と言われても仕方がないでしょう。
(通常医療でも、万波医師の病腎移植問題の被害者はこれに相当します。万波医師は病腎移植によって発生するリスクを回避する努力を怠ったのです)
しかし、sokyudo氏のおっしゃるやり方では全くそれが作用しません。なぜならば、良い評価ならば治ったからよいのですが、悪い評価をする頃には患者の病状が悪化しており、被害を受けているためです。さらに厄介なことに代替医療はsokyudo氏のおっしゃる通りならば治療失敗という結果が本人に合わなかったためか、代替医療そのものの欠陥なのか判断するのが困難であるためです。
通常医療ではそうではありません。ある治療が効果があるかどうかは理論の段階でその可能性を評価され、それが十分であると判断されたならば、動物実験などで確かめられたのちに、初めて最先端医療として世に出すことで、可能な限り効果がある医療を提供するよう努力を重ねています。それは確実ではなくとも、科学によって支えられた、堅実な方法なのです。

 sokyudo氏のおっしゃる通りならば、代替医療は常に十分な裏付けなしに行われています。sokyudo氏は間違っているなら経験則によって淘汰されているはずだと主張しておられていますが、人の知覚できる範囲は限られ、人の判断には思い込みも混じります。経験則によって積み重ねられた常識に反する現象など、いくらでも起こりうるのです。また、現在そうでないからといって未来にその過ちが認められ、淘汰されないとは誰にも言いきれません。(ここは通常医療もそうですが)。そのような状態を回避し、患者を確実に救うために科学的検証が必要なのです。
 
 とはいえ、科学的検証の手段が思いつかないだけなのかもしれません。が、sokyudo氏のおっしゃられる通りならば、代替医療を科学的に検証することは可能であると考えます。
今回の返信でsokyudo氏は、以下のようにおっしゃられました。
>それに対して、代替医療の治療はそうではあ
>りません。単に、疾患名に対応して治療法を
>選択する、ということではありません。○○
>病である特定のAさんに対応して治療法を選
>択する、といったことでもありません。○○
>病と診断された特定のAさんの現在の心身の
>(構造的、電気的、エネルギー的、…)の状
>態に応じて治療法を選択する、ということな
>のです。だから極端な話、Aさんを診るのが
>1時間早かったら、あるいは遅かったら、治
>療の流れは全く違うものになっていたかもし
>れない。つまり代替医療では、治療法の選択
>そのものが患者の内的・外的な要因と不可分
>なのであり、だから治療効果から治療行為そ
>のものの結果だけを分離することなど最初か
>ら不可能なのです。

私個人としては、そういった総合的なデータをもとに医者が経験から有効な治療法を見出すのが代替医療の在り方ならば、その判断を(数値化はできなくても、大まかでいいので)集積し、どのような時にどのような治療をするのかを導き出すことで、代替医療がどのように人体に作用するかを研究することができるような気がするのです。むろん、これは一例であり、これをやれと命令するつもりは毛頭ありません。しかし、こういったアプローチも存在するかもしれない、とは提案させていただきます。
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