諸星大二郎が30年以上に渡って書き継いできた『妖怪ハンター』全話が、JUMP REMIXで「地の巻」「天の巻」「水の巻」の3巻として相次いでコンビニで発売されたのは、去年の10月頃のこと。不覚にも、「地の巻」は近所のローソンで見ていたのだが、「後で買おう」と思っていたらなくなってしまい、長らく手元には「天の巻」「水の巻」しかなかった。それが、つい最近、Nさんから譲ってもらえることになり、これで晴れて「地」「天」「水」の3巻を揃えることができた。Nさん、ありがとうございます。
私が諸星大二郎の『妖怪ハンター』に出合ったのは、小学5年生の時のこと。初めて読んだのは、当時『週刊少年ジャンプ』に連載されていた『妖怪ハンター』の第2話『赤い唇』だった。その異様な物語は当時の私の心をとらえて離さず、その後、前の号を探し出し、第1話『黒い探求者』を読むに至って、それは決定的なものとなった。『少年ジャンプ』の連載自体は『死人(しびと)帰り』で一旦終了したが、物語はその後も『ジャンプ』系列の雑誌を転々としながら書き継がれ、それを見つけるたびに、むさぼるようにして読んだものだ。それが今回、コンビニ仕様のコミック本とはいえ、(以前、単行本化された時、作者自身が失敗作として外した『死人帰り』を含め)全話が単行本としてまとめられたのである。
『妖怪ハンター』は、異端の考古学者、稗田(ひえだ)礼二郎(注1)が、遺跡の調査などを通じて怪異な現象に遭遇する物語である。稗田はあくまで考古学の知識をベースに読者を、そうした怪異な現象へと誘(いざな)い、それを解釈する、言わば狂言回し的な役回りで、「ヴァンパイア・ハンター」のように妖怪を相手に大立ち回りを演じたり、特殊能力でそれらを倒す、という存在ではない(注2)。何しろ、彼が相対するものは、神代から、この日の本の地に息づく、まさに“神”たちなのだから、人である彼がどうにかできるシロモノではないのだ。ある意味、『妖怪ハンター』で展開される世界は、かのラヴクラフトの「クトゥルー神話体系」にも比肩し得るものと言える
そして物語の多くのクライマックスでは、“あちら”──それは時に“異界”、時に“彼岸”、時に“約束の地”──へと通じる入り口が開く。それは、読んでいて本当に心震える瞬間である。
(注1)この名前は『古事記』の編纂者の1人である稗田阿礼(ひえだのあれ)から取られている。ちなみに、ヴィジュアルは岸田森(“きし たもり”じゃなく、“きしだ しん”。私たちの世代には『怪奇大作戦』の牧史郎キャップ。ムーミンの声の岸田今日子とは従兄弟同士)がモデルではないかと思う。
(注2)だから本当は、『妖怪ハンター』というタイトルは物語の実態にそぐわない。実は、このタイトルは当時の『少年ジャンプ』編集部が勝手に決めてしまったもので、諸星大二郎自身もそのことがずっと不満で、『ヤング・ジャンプ』に連載して時は、一時『稗田礼二郎のフィールド・ノート』というタイトルに変えていたことがある。
ところで最近、唐十郎(から じゅうろう)のテント芝居と『妖怪ハンター』が、非常に似ていることに思い至った。唐の芝居は最後に舞台奥が開いて、舞台が現実の風景とつながり、登場人物たちが、その現実の風景の中に歩み出していく。現実の中では唐の妄想が紡ぎ出した世界こそ異界だが、唐の妄想の中では現実こそが異界である。舞台が開いて外とつながるのは、まさに異界と異界とが出合う瞬間でもあるのだ。
そしてもう1つ。『妖怪ハンター』も唐十郎の芝居も、“あちら”への口が開くことのインパクトに、つい目を奪われてしまうが、両方とも実は最後までほとんど何も解決されないまま物語は終わりを迎えてしまう。それは奇しくも、異界とつながることと、現実的な問題の解決とは、また別であることを象徴しているようにも見える。
それでも、『妖怪ハンター』シリーズ中最高傑作の呼び名も高い『生命の木』(注3)の中で、キリストではない、もう1人の救世主が叫ぶ
「みんなぱらいそ(=天国)さいくだ! おらといっしょにぱらいそさいくだ!!」
という言葉は、初めて読んで以来ずっと頭の中に残っている。たとえ現実的には何も解決されなくても人は、いつか“あちら”への口が開いて、何かが自分を連れて行ってくれることを夢見ているのかもしれない。
(注3)これは、キリスト教の言う「神による救済」なるものの本質をえぐり出した、ある意味「反キリスト」の物語で、その衝撃度は永井豪の『デビルマン』に匹敵すると思う。少なくとも、キリスト教思想に染まった西洋では決して描くことのできない物語だろう。
私が諸星大二郎の『妖怪ハンター』に出合ったのは、小学5年生の時のこと。初めて読んだのは、当時『週刊少年ジャンプ』に連載されていた『妖怪ハンター』の第2話『赤い唇』だった。その異様な物語は当時の私の心をとらえて離さず、その後、前の号を探し出し、第1話『黒い探求者』を読むに至って、それは決定的なものとなった。『少年ジャンプ』の連載自体は『死人(しびと)帰り』で一旦終了したが、物語はその後も『ジャンプ』系列の雑誌を転々としながら書き継がれ、それを見つけるたびに、むさぼるようにして読んだものだ。それが今回、コンビニ仕様のコミック本とはいえ、(以前、単行本化された時、作者自身が失敗作として外した『死人帰り』を含め)全話が単行本としてまとめられたのである。
『妖怪ハンター』は、異端の考古学者、稗田(ひえだ)礼二郎(注1)が、遺跡の調査などを通じて怪異な現象に遭遇する物語である。稗田はあくまで考古学の知識をベースに読者を、そうした怪異な現象へと誘(いざな)い、それを解釈する、言わば狂言回し的な役回りで、「ヴァンパイア・ハンター」のように妖怪を相手に大立ち回りを演じたり、特殊能力でそれらを倒す、という存在ではない(注2)。何しろ、彼が相対するものは、神代から、この日の本の地に息づく、まさに“神”たちなのだから、人である彼がどうにかできるシロモノではないのだ。ある意味、『妖怪ハンター』で展開される世界は、かのラヴクラフトの「クトゥルー神話体系」にも比肩し得るものと言える
そして物語の多くのクライマックスでは、“あちら”──それは時に“異界”、時に“彼岸”、時に“約束の地”──へと通じる入り口が開く。それは、読んでいて本当に心震える瞬間である。
(注1)この名前は『古事記』の編纂者の1人である稗田阿礼(ひえだのあれ)から取られている。ちなみに、ヴィジュアルは岸田森(“きし たもり”じゃなく、“きしだ しん”。私たちの世代には『怪奇大作戦』の牧史郎キャップ。ムーミンの声の岸田今日子とは従兄弟同士)がモデルではないかと思う。
(注2)だから本当は、『妖怪ハンター』というタイトルは物語の実態にそぐわない。実は、このタイトルは当時の『少年ジャンプ』編集部が勝手に決めてしまったもので、諸星大二郎自身もそのことがずっと不満で、『ヤング・ジャンプ』に連載して時は、一時『稗田礼二郎のフィールド・ノート』というタイトルに変えていたことがある。
ところで最近、唐十郎(から じゅうろう)のテント芝居と『妖怪ハンター』が、非常に似ていることに思い至った。唐の芝居は最後に舞台奥が開いて、舞台が現実の風景とつながり、登場人物たちが、その現実の風景の中に歩み出していく。現実の中では唐の妄想が紡ぎ出した世界こそ異界だが、唐の妄想の中では現実こそが異界である。舞台が開いて外とつながるのは、まさに異界と異界とが出合う瞬間でもあるのだ。
そしてもう1つ。『妖怪ハンター』も唐十郎の芝居も、“あちら”への口が開くことのインパクトに、つい目を奪われてしまうが、両方とも実は最後までほとんど何も解決されないまま物語は終わりを迎えてしまう。それは奇しくも、異界とつながることと、現実的な問題の解決とは、また別であることを象徴しているようにも見える。
それでも、『妖怪ハンター』シリーズ中最高傑作の呼び名も高い『生命の木』(注3)の中で、キリストではない、もう1人の救世主が叫ぶ
「みんなぱらいそ(=天国)さいくだ! おらといっしょにぱらいそさいくだ!!」
という言葉は、初めて読んで以来ずっと頭の中に残っている。たとえ現実的には何も解決されなくても人は、いつか“あちら”への口が開いて、何かが自分を連れて行ってくれることを夢見ているのかもしれない。
(注3)これは、キリスト教の言う「神による救済」なるものの本質をえぐり出した、ある意味「反キリスト」の物語で、その衝撃度は永井豪の『デビルマン』に匹敵すると思う。少なくとも、キリスト教思想に染まった西洋では決して描くことのできない物語だろう。
この先が楽しみです。
最近、諸星大二郎は『モーニング』系に『私家版鳥類図譜』シリーズなどを描いていて、相変わらず作品のレベルは高いです。でも、『妖怪ハンター』シリーズも書き継いでいってほしいですね。