思いつくまま

みどりごを殺す「正義」はありや?
パレスチナ占領に反対します--住民を犠牲にして強盗の安全を守る道理がどこにあろう

08憲章第10次集計612人、累計7200人を超える

2009-01-08 14:00:56 | Weblog

《零八宪章》第十批签名人正式名单(共612人)
[日期:2009-01-08] 来源:参与  作者:《零八宪章》签名汇总小组

 

(宪章签名整理小组:首先需要说明的是,近日,有人盗用我们的名义开通所谓10个新的签名信箱,对此我们郑重声明,我们没有开启任何新的信箱,依然是最初公布的两个以及后来公布的三个共五个信箱,希望想参与签名的朋友特别注意,不要上当。尤其是那个宣布开启十个新信箱的消息的附件就带有病毒。

 

其次,我们信箱中前些日子收到大量乱码垃圾信件,加了我们许多工作量,不过这些垃圾信件近几日忽然被大批带有“胡锦涛在改革开放30周年大会上时用到了“不折腾”这个词,你怎么看?”这句话以及附有国务院新闻办主任王晨的几句讲话的信件所代替,这实在令我们哭笑不得——这种宣传党的总书记“不折腾”的指示的信件至少达到折腾了我们这些名单整理工作人员的目的。希望发送这样信件的人能真正“不折腾”,少送些类似信息,我们将不胜感激,尽管我们有不怕折腾的心里准备。

 

此外,上批发布的名单中本有一位签名者李冰(广东, 律师) 用的是化名,我们原定将其列出要与其联系询问其是否愿意以我们要求的真名签署,但一时疏忽,混在其他名单中发布,在此特表歉意和略作说明,在过去的签名名单中也出现过类似的纰漏,如第四批中的iStone (重庆 助理设计师)  Stickwith (深圳 学生) 等。我们在今后的整理过程中尽量避免类似的疏失。我们的原则依然是希望签名者以真实姓名签署。

 

需要说明的一个问题是,在过去一段的签名过程中,海内外都有一些朋友对“零八宪章”中第十八条有关联邦制的问题有不同的看法,我们认为这完全正常。须知“零八宪章”只是一些公民发出的有关中国未来的建言的文本,并不具有法律效率,也不是组党的政治宣言,更不是有关国家未来制度模式的最后定论。它更多地是希望引起公共讨论,为推动形成新的变革共识提供一个理念基础,我们欢迎各界在不存恶意的前提下来理性地加以探讨,指出“零八宪章”的不足,将其完善。如对其中某些条款有不同的看法,应不妨碍在对此条款保持意见的情况下,象有些签名者所做的那样,对“零八宪章”整体表示支持。我们也将尽快开启专门网站,为朋友们进一步展开讨论提供空间。

 

最后,我们知道,虽然“零八宪章”理性平和,完全符合宪法,各地区却都有一些签名者受到警方的骚扰,我们对此表示遗憾和抗议。尽管如此,而且在签名受到许多技术性干扰的情况,来自各地、涵盖各个阶层的签名依旧不断,到此批发布的名单,签名者已经突破7200人。我们向这些体现着伟大的公民精神的签名者表示衷心的敬意,为他们的勇气感到鼓舞。值此新年之际,我们向所有参与签署的朋友致以节日问候,也希望在告别这个与宪章名字相联、因发生过许多事件而注定要被将来的历史学家们不断提及的年份之后,2009新的一年能够给中国人带来更多的幸福和希望。)

 

签名规则:

 

1,本宪章为开放签名。

2,请用真名或常用笔名签名,并注明所在地和职业。

3、签名格式:姓名、当前所在省份、职业。如:张XX(北京,作家)

4,签名信箱为:

2008xianzhang@gmail.com; 2008xianzhang2008@gmail.com;

xianzhang2008xianzhang@inbox.com; xianzhang2008@aol.com

xianzhang2008xianzhang@gmail.com


出典:http://www.canyu.org/n4917c6.aspx

 


ガザに光を!即時停戦を求めるデモと集会

2009-01-07 09:52:28 | Weblog
緊急 NGO共同行動のご案内
=================================
★ガザに光を!即時停戦を求めるピースパレード&シンポジウム
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1月10日(土)
15:30集合「芝公園23号地」
       地下鉄:御成門駅3分、神谷町駅5分、大門浜松町駅10分
       東京プリンスホテル・芝高校・正則高校に囲まれた空間

16:00ピースパレード出発
17:30パレード終了(解散地は六本木三河台公園)

  ※パレードには、ペンライトなど光るものを持参して下さい。

18:30―20:30 シンポジウム
      会場 聖アンデレ教会(最寄り駅神谷町、芝公園そば)

  ※パレード解散地近くの日比谷線の六本木駅から1駅で
   シンポジウムの会場の最寄り駅である神谷町まで行けます。

※呼びかけ:
  ピースボート
  日本国際ボランティアセンター
  パレスチナ子どものキャンペーン
  アーユス仏教国際協力ネットワーク
  日本YWCA
  日本聖公会東京教区エルサレム教区協働委員会
  パレスチナの子どもの里親運動
  1コマサポーター   ほか

王力雄:駐チベット大臣(アンバン)――チベットと中国の歴史的関係(6)

2009-01-06 22:52:14 | 中国異論派選訳
王力雄:駐チベット大臣(アンバン)――チベットと中国の歴史的関係(6)


のちの人が過去の歴史について記述するとき、しばしば「要するに」と言って全体を概括するが、それはあたかも歴史は熟慮の結果だったり明確な計画があったりしたように思わせる。しかし、清朝が最初の駐チベット大臣を派遣したのは、当時の雍正皇帝が一言「内閣学士の僧格と副都統の馬喇をダライラマのところに派遣し、それぞれに銀一千両を与える」(注1)と言ったからにすぎない。雍正はほかになにも具体的な指示はしておらず、一千両の「へき地手当」以外、僧格と馬喇の職位と職権すら明確でなかった。大国の君主として、政務が多忙であるから、チベットに振り向けられる考慮はたぶん断片的な思いつきか、上奏文に対する一言の指示に過ぎないのだろう。しかし、それが行動の発端となり、統治装置は行動の中で整備された法令制度と運営メカニズムを作り出してゆく。以下に述べる駐チベット大臣の状況は、すなわち僧格と馬喇の最初のチベット派遣から半世紀余り後の最終的に確定した状態である。

駐チベット大臣は正大臣一人、副大臣一人である。正大臣は「弁事大臣」ともいい、副大臣は「幇弁大臣」ともいう。清国政府は185年間にわたって駐チベット大臣を派遣し続けた。正副大臣として135人を173回任命した(2回以上任命された者もいた)。そのうち23名は任命はされたが様々な理由で赴任はしなかった(注2)。この135人中、大多数が満洲人であり、その次がモンゴル人であった。中国人は後期に数人が副大臣に任命されたにすぎない。

駐チベット大臣は任期3年と定められていたが、実際は異なることもあった。最も長かったのは連続7年間(乾隆年間の莽古賚)最も短かったのは40日で呼び戻された(嘉慶年間の豊紳)。また2回3回と派遣される者もいた。

駐チベット大臣がチベットに入るには当時はみな成都から出発し、約3か月かけてラサについた。チベット高原は昔から「七八九が一番歩きやすい」と言われており、新任の駐チベット大臣はその多くが7月に出発した。正副両大臣はどちらもラサの駐チベット大臣役所に駐在した。役所の場所は何回も変わった。今のラサでは当時の遺跡を見ることはできない。

清時代のあるチベット画家が「ラサ図」という絵を描いている(現在北京の歴史博物館に所蔵)。そこに描かれた駐チベット大臣役所はジョカン寺の西南方向にあり、いくつかの四合院でできている。その中の二つの四合院の中庭にはチベット様式の屋根の二階建ての建物がある。たぶん歴史書に載っている当時の正副大臣が住んでいた建物だろう。役所は緑の木で囲まれ、周囲には6本の旗竿がそびえたち、黄色い旗が掛けられている。

チベット学者の(曾?)国慶は清朝の駐チベット大臣を卓越した者、凡庸な者、愚昧な者に分類している。彼が推挙する卓越した者の典型は乾隆15年の駐チベット大臣傅清と副大臣拉布敦である。当時新たに王位に就いたばかりのギュルメーはダライラマ7世をトップとする宗教勢力と支配権を奪いあい、モンゴルのジュンガル部を誘ってダライラマに対する謀反を企てていた。傅清と拉布敦はそれを察知すると清国朝廷に報告した。そのころは清朝の軍隊はチベットに駐留していなかったので、乾隆は軍隊が到着するのを待ってギュルメーを討伐するよう指示した。しかし、ギュルメーの勢力が大きくなり、ダライラマはその支配下に入ってしまった。駐チベット大臣は監視されるようになったが、朝廷が派遣した兵隊は遠いのでいつ到着するかわからない。

『衛蔵通史』によると、ギュルメーの反乱が差し迫ってきたので、二人の駐チベット大臣は「先に制圧しなければ、殺しても生きているように後に続く者が功を遂げ易くなるであろう」(注3)と判断した。二人は策略を弄して、ギュルメーに皇帝の命令を聞きに来るよう駐チベット大臣役所へ招いた。ギュルメーは手勢の少ない駐チベット大臣は何もできないだろうと疑わず、部下を連れて役所に向かった。拉布敦が聖旨を読み上げるふりをして、ギュルメーがひざまずいて聖旨を聞こうとしたとき、傅清が刀で背後から切りつけると、事前に隠れていた人が飛び出してきて一斉に切りつけ、ギュルメーはその場で息絶えた。すると、ギュルメーの部下が駐チベット大臣役所を攻撃した。傅清と拉布敦は長い間固く守ったので、ついに包囲陣は役所に薪を積んで火を放った。傅清は満身創痍になりながら、反乱兵を何人か殺した後、刀で自害した。拉布敦は刀をもって下に飛び降り、腸が傷口から出て地面に一面に広がるまで闘って(古文書の文言では「蛇が地を這う」と形容されている)、ついに戦死した。

『衛蔵通史』は次のように彼らの行動の意義を評価している。

「それ衛蔵は北京から万里以上離れており、公(二人の大臣)がその地を鎮めるには、武器も兵士も少なく、外に制圧するに足りず、内に権力を奪うに足りない。もしギュルメーが兵をあげて反乱すれば、チベット人は臆病だから、みなそれに従い、戸籍の土地(朝廷の支配地域)に向かってきて、一旦敵に陥れられたら、たとえ我が身を犠牲にしたとしても、ことはもう取り返しがつかない。軍隊を疲弊させ、軍糧を浪費し、皇帝に西に注意を向けさせ、田畑や租税、領土を憂いさせたら、死んでその責任を逃れられようか? 公は身を顧みず孤軍奮闘し、毅然として大計を定め、反乱がまだ起きないうちに、誘い出して誅殺した。残党がまだ騒いでいるとはいえ、首領はすでに殺したので、氷が解けるように瓦解し、騒ぎを広げられず、踵を返す前に捕まえ、その罪を償わせた。公は死んだとはいえ、全チベットが安定し、国威が振興したことは、霍光の楼蘭での騙し打ちと同日に語りえるものではない。」(注4)

当時の状況は確かにそのとおりだった。反乱者は駐チベット大臣とその随員百名あまりを殺したが、ギュルメーが死んで、龍の首がないので、駐チベット大臣役所の銀庫を略奪したら蜘蛛の子を散らすように散り散りになった。ギュルメーの支配下にあったダライラマ7世はこれで権力を回復し、ギュルメーの一味を捕まえ、陵遅したり、斬首したり、絞首して、チベットは速やかに秩序が回復した。四川総督策楞がチベットに兵を進めた時には、チベットの情勢はすでに安定していた。乾隆は「これはタングート(清のチベットに対する呼称)処理の良い機会である。もしうまく処理すれば、永遠に安定する」と指示した。策楞は一連のチベット政策を制定し、中国のチベットに対する支配がそれによっていっそう強化された。

清朝前期、その臣下はまだ開国初代の天下統一の血気を残しており、二品官(現在の省長・部長級)もなお刀を振るって戦うことができた。国慶の評価によると、清朝前期に卓越した者に分類される駐チベット大臣は9人いたが、清朝後期にはわずか3人である(注5)。百数十人の駐チベット大臣の中で、卓越した者はわずか12人、残りは凡庸か愚昧の輩であった。

この点は乾隆自身も認めている。彼はいう「以前から大臣の中でよく仕事のできる者は、多くを北京に残し……チベットに行って仕事をするのは、多くが並みで謹直な者である。」「以前から駐チベット大臣はチベット駐在をつらい仕事とみなし、何事も前例を踏襲し、大過なく任期を満了して北京に帰ることだけを考えている」(注6)。今日でも、飛行機で数時間で北京からラサにつくのに、チベットでの仕事はみなつらい仕事と思っているのだから、それは驚くに当たらない。役人は昔から才能があって活動能力があるほど、大変な場所に行かされることはない。だからチベット駐在のつらい仕事は凡庸無能の輩に押し付けられるか、降格や免職の対象者に回ってくる。または、任命されたのを幸いに、身分も名誉も惜しまず、ほしいままにチベット人を食い物にし、公金を横領する。

駐チベット大臣とその部下は朝廷の目を遠く離れて、まとまっているので、統制し難い。もし自覚的な個人的人徳がなければ、簡単に腐敗する。彼らはチベットの各級官吏を任命する権力を本当に行使することはできなかった(ランバの故事のように)。しかし制度は任命した官吏はすべて駐チベット大臣とダライラマが共同で清朝皇帝に上奏して初めて承認されると定めていた。駐チベット大臣はしばしばこの指名権を金銭と交換した。清朝末期にチベット事務を粛正した欽差大臣張蔭棠は上奏文の中で、この種の交換はすでに相場ができあがっていたと暴露している。ガロン(ガシャの最高位の行政官、6名で構成される)候補指名は銀一万二千両、ダイボン(武官:500人の部隊の司令官)、ジャボン(武官:125人の部隊の司令官)などは銀二三千から数百両であったが、相場を超える要求をすることもあった(注7)。駐チベット大臣とその配下はまた各種の立て替え費用の精算を利用して汚職を行った。たとえば張蔭棠の調べた駐チベット大臣の有泰は、ラサを占領したイギリス軍の「慰労」に千五六百両しか使わなかったのに、朝廷に請求した金額は四万両だった。彼がインドに行ってイギリスと交渉した時の費用は六七百両だったのに、請求額は二万両になっていた。その他、身内登用や、グルになって分け前をはねたり、権力かさにわいろを迫ったり、兵糧をピンはねしたりなど、枚挙にいとまがない(注8)。

駐チベット大使がチベットを鋭意経営するか、それとも向上を求めないかは、当時の皇帝のチベットに対する態度も大きく関係していた。清朝前期はモンゴルをけん制し、国内を安定させるために、皇帝はチベット問題を重視したので、駐チベット大臣もあまりいい加減なことはできなかった。例えば上述のギュルメー事件の後、乾隆皇帝は傅清と拉布敦の前任の駐チベット大臣紀山を怯懦で無能だったから、チベット駐在期間中ギュルメーに迎合し、ほしいままに増長させ、事件の原因をつくったと厳しく叱った。ただ紀山の父が戦没者だったことに免じて、公開斬首は免除し、自尽を賜った(注9)。嘉慶年間の駐チベット大臣文弼は、チベットの地方の首領が朝廷に対して褒賞と肩書きを授与するよう申請したのを、却下しただけで朝廷には報告しなかったので、調べられた後で免職になっている(注10)。

史料を見ると、当時の清朝皇帝は現在の中国の指導者よりもより具体的にチベットに注意を払っており、しばしば駐チベット大臣の上奏文に何百字も指示を書きつけている。ダライラマの父が原籍に帰るのに一品(最高官位)の飾り帽子を使わせるかどうかという伺いに対してまで、「原籍ではかぶるべきではないが、休暇が終わってチベットに戻ったらまたかぶるように」と指示している(注11)。

しかし、清朝後期になると、モンゴルとチベットはどちらも国家にとって主な問題ではなくなったし、また皇帝は国についてそれほど気を配らなくなった。1904年、イギリス軍がまさに武力でチベットに進入しようという深刻な局面で、駐チベット大臣が状況を報告した上奏文に当時の清朝皇帝はわずかに「閲」の一字を書いたのみだった(注12)。

国土は皇帝のものだ。皇帝が関心を失ったら、駐チベット大臣も自然に緩んでしまう。これもまた清朝後期の駐チベット大臣が前期と比べてより凡庸だったり愚昧だったりした原因の一つである。

原文:http://www.observechina.net/info/artshow.asp?ID=49002
(注は原文参照)

以前の文章:

皇女神話――チベットと中国の歴史的関係(1)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/3496cd11ef6e1cd0d47a87eb86f5731d

モンゴルは中国ではない――チベットと中国の歴史的関係(2)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/2ac8dfc98e938c0e7c329d1edd01aca5

収縮内向した明朝――チベットと中国の歴史的関係(3)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/77f46d8d85cf7f21c50238361f95f63c

清朝の対チベット経営--チベットと中国の歴史的関係(4)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/52e7dde21cc5561a919c555d0c09542a

主権かそれとも宗主権か――チベットと中国の歴史的関係(5)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/62ece96b90b264d17ffce53ec61af385

以後の文章:

骨抜き――チベットと中国の歴史的関係(7)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/458be72eb12dfb3e581aa933e0f078e4

徐友漁:私が08憲章に署名した理由

2009-01-03 22:02:25 | Weblog

我为什么在零八宪章上签名? 
 
作者:徐友渔

12月29日下午,我接到单位领导的电话,谈零八宪章的事。他首先问我是在什么时候,以什么方式在零八宪章上签名的,然后问我为什么要在上面签名,我回答说,我看了宪章的内容,觉得不错,符合现行宪法精神,与中国已经签署的联合国宣言、公约一致,我签名是在履行得到宪法保障的权利。他说,零八宪章违反了现行宪法和法律,我直截了当地呵斥:“胡说八道!我可以在任何时候,和任何人辩论这个问题。”我问他看过这个宪章没有,他说没有,我说,那你应该先看看再作自己的判断,不要跟着上面瞎说。他要求,不能在宪章上签名,如果已经签了,要声明退出,我说绝无可能退出。 

过了两天,有朋友告诉我,上面已经对零八宪章作出定性,说是国内敌对势力勾结海外民运的活动,图谋颠覆政权。这些天来,不断有消息称,全国各地都有签名者被警方以涉嫌颠覆国家政权的罪名被传唤。

这样的定性和罪名是荒谬的,但在中国并不新鲜。虽然这种指控在法理上完全站不住脚,不值一驳,但考虑到当局已经用这种口实对签名者施压,极有可能用这样的罪名对刘晓波定罪,我还是要从法理的角度说明我为什么在零八宪章上签名,为什么签名是合法的,而威胁、阻止和镇压是非法的。 

当我面临一份零八宪章的草案并被请求签名支持时,我做的第一件事是阅读文本,我以下列标准衡量、判断:一、它是否符合我的价值观,即符合中国人民的利益,符合人类文明的公认准则;二、它是否与中国现行宪法的精神和条文一致,与中国已经签署的联合国宣言、公约一致,与中国已经承诺的国际义务一致;三、它是否有即刻提倡的当下必要性。

我在零八宪章上签了名,这是一个公民理性的、负责的决定,这个决定一旦作出,任何威胁、警告、惩罚都不能改变,不论它们表现为赤裸裸的暴力,还是以国家和法律的名义。 

在零八宪章上签名的合法性无可质疑地有宪法和法律依据。中华人民共和国宪法第二章第三十五条规定:“中华人民共和国公民有言论、出版、集会、结社、游行、示威的自由。”公民以“零八宪章”这样的言说形式表达自己的价值立场、对国家政治生活的建言、对未来的期盼,正是在运用宪法保障的正当权利。 

在中国,历来有一种违宪地剥夺公民言论自由的借口,“欲加之罪、何患无辞”的手法,如果在言论、文本中挑不出毛病,就说背后另有图谋和用心,毛泽东“反右”时“天下大乱、取而代之”的说法就是典型例证,但这在法理上是站不住脚的,因为这种主观臆想或蓄意诬陷缺乏法律上有效的证据。

显而易见,判断人们在宪章、宣言、呼吁、公开信等等文件上签名是否合法的唯一根据是文本的内容,签名者必须,也只需要对文本负责。从言论自由的原则出发可知,这类签名天然就是合法的,言论涉嫌犯罪只发生在极少数例外情况,即言论涉及煽动以暴力推翻现存的政府或社会制度,危及国家或公共安全等,必须注意,这样的危害必须是直接的、清晰可见的,而不是七弯八拐、间接又见接地“分析”和“推论”出来的。 

只对文本负责,意味着签名是否合法与签名组织者和其他签名者的身份、背景无关,与他们在其他场合表明的观点、活动无关,也与掌权者是否喜欢无关。而我们历来熟悉的做法是,先把签名活动的组织者或其他一些签名者抹,从而把整个签名活动抹,达到吓退其他人的目的。通常的口实是“有组织”、“有预谋”、“有海外背景”,但拿不出证据。其实,从法理上严格说来,“有组织”、“有预谋”、“有海外背景”等等只是政治宣传的说辞,它们并不等同于非法,需要其他过硬的证据,才能证实“有组织”、“有预谋”、“有海外背景”的活动也是非法活动。法治社会中,不能靠虚声恫吓定罪。 

很长时间以来,一种吓唬人的方法是,任何事情只要弄得和国内或海外“民运份子”沾边,似乎其非法性就不证自明。从宪法和法律的角度看,这种靠名称或标签定罪的手法极其可笑。我们不必说海外呼应零八宪章的人士以余英时先生领衔,而余先生是享誉全球的华人学者。我们需要辨析的是,不论“民运份子”是带褒义还是贬义的称谓,他们是不是合法公民,他们有没有权利与其他公民一道表达共同的观点?在我的心目中,刘晓波是文学博士、学者,如果他本人不反对,称他为“民运份子”也可以,但是,“民运份子”并不天然就是“敌对势力”。再说了,把格外关注中国民主前途的人说成是敌对势力,除了说明自己的立场是反民主的以外,不说明任何问题。

在一个法治国家,判断合法还是非法,唯一的根据是宪法和法律,以及该国认可的国际公约,撇开这些标准,另行发明一个“民运份子”的标签作为是否合法的根据,这本身就是一种违宪行为。

最后,聚焦到核心问题,称零八宪章的签名者“涉嫌颠覆国家政权”,有什么法理上的根据?零八宪章的哪一条、哪一款,哪一段文字包含有图谋“颠覆国家政权”的内容?零八宪章的哪一条、哪一款,哪一段文字的内容超出了言论自由的范围,可以等同于“颠覆国家政权”的行动?

零八宪章在表达了自己的价值立场和政治诉求之后,在结语中总结自己的意图和要求时说,“政治民主化变革不能再拖延下去”,请问,这是非法的吗,这是在煽动在“颠覆国家政权”吗?这是在和执政党不时许诺的“推进政治体制改革”对着干吗? 

我要问那些滥加罪名的人:重申宪法、《世界人权宣言》和《公民权利和政治权利国际公约》中载明的人权和公民权,就是“涉嫌颠覆国家政权”,你们把这个国家政权的性质看成是什么,这就是你们的价值观和政治立场吗? 

因为零八宪章而拘押刘晓波是非法的,传讯和恐吓众多签名者是非法的,一经比对中华人民共和国宪法第二章第三十五条,其非法性显而易见。而诬称或定性零八宪章非法,则找不到任何法理依据。目前严重的、大规模的非法行为不会因为行动由穿着警察制服的人员实施,不会由于使用了国家的名义而改变性质。

这是一场合法与非法的较量,有人在明目张胆地侵犯、践踏公民的言论自由权,从而违反宪法。

这是一场真正的爱国者与反对国家的人的较量,有人想把中国的合法公民变成唯唯诺诺、俯首帖耳的臣民,妄图强加给他们可怕的、莫须有的罪名,有人要把祖国忠诚的儿女打成国家的敌人。 

零八宪章的合法性不言而喻,其遭遇雄辩地证明了它的必要性和意义。 
 
——《纵览中国》首发 —— 转载请注明出处
本站刊登日期: Friday, January 02, 2009

出典:http://chinainperspective.net/ArtShow.aspx?AID=267

 


呉祚来:東方紅と西方紅

2009-01-03 17:08:35 | Weblog

胡温时代了不起 (2009-01-02 18:02:42)


旗帜上的颜色是东方红还是西方红?当然是西方的红,因为旗帜来自前苏联,它是一种暴力主义的产物,主张旗帜必须用血来染成。

东方红或中国红,是民间红,是灯笼红,是女儿红,是胭脂红,是门联红,是鞭炮红,是桃花红,而不是血色红与暴力红。

所以红色政权,也是西方红色的政权,而不是东方红色政权,一个名字叫苏维埃,这个名字是东方的名字还是西方的名字?当然是西方的名字。西方红讲讲暴力讲斗争,如果按照东方红的精神,1945年国与共通过和的方式,中华民族不会如此万劫不复,从秋收起义到国共内战,都是西方红的暴力精神在中华大地上作崇,使中华民族互相仇恨,为西方人创造的主义而战而不为中华民族的和平而和解。

直到胡温时代,中华民族的“和”的精神才重新回来,通过和的精神,来解决两岸纷争,来化解历史遗留问题,来抚平中华民族带血的伤口。两岸重倡的是东方红而非西方红,是中华民族民间红和平红,而非西方暴力主义的血色红。

驱逐暴力、和谐中华,就是要分清两种不同的红色,暴力红与和平红,中华红与马列红,这是完全不同的两种颜色,不同的价值指向,不同的路线策略。

西方红的决策者们对着台湾同胞开炮,对着台湾发射导弹,而中华红的决策者却对着台湾讲亲情,对着台湾送熊猫,对着台湾送爱心,我们看到,中国人回到了自己的颜色,回到人性的立场,回到和谐的精神境界中来了。

东方红是一种温暖,是一种民间爱意,而那些以东方红名义出现,其实质是西方暴力红在中国的代理人,是披着中国人人皮的西方殖民主义者(汉奸),他们用西方暴力主义精神来破坏中华民族亲情,使中华民族百年动荡,生灵涂炭。

我们感到幸慰的是,中华民族进入和化时代,告别了赤化时代,通过和谈来解决问题而不是通过斗争来制造分裂。我们不仅要对海外讲平等对话,讲和谈,对国内异见者更要讲对话、讲和解,千万不要再去同室操戈相煎何急了。

不折腾,就是中国人不折腾中国人,就是不人为制造斗争,不用暴力方式对付公民人权,就是让中华和平红取代西方暴力红。

2009-1-2


评论   

新浪网友:
老吴偏颇了,胡总还说过,不改旗,不易帜,不要在这里以捧胡总为名,行自己的方便。
(2009-01-03 09:32:14)

博主回复:
有人在讲话里添了三聚类物质
(2009-01-03 10:38:06)

出典:http://blog.sina.com.cn/s/blog_412f59890100bq6q.html

 


凌滄洲:言論の自由、報道の自由のための公開状

2009-01-02 10:46:42 | Weblog

凌沧洲致中国朝野的公开信

为言论自由、新闻自由请命

公民们、网民们:

言论自由、新闻自由在当代中国的命运如何?

请看这个"人"——言论自由、新闻自由——"命"悬一线,"命"若游丝,面黄肌瘦,被强权和金钱捏住喉管的惨像:


1,迄今为止,从满清行将崩溃到现在的100年间,只在满清末年和民国年间,中国大陆得以有民间创办报刊的自由;1949年后,中国的报刊、电视台、电台全部沦为官营官控的"喉舌"。

2,在互联网上,防火墙森然耸立,屏蔽与蒸发的手悄然出击,偷偷摸摸见不得阳光,阵亡的帖子尸横遍地。甚至个人化的博客文章也遭到网络编辑审查,一些博客被屏蔽,一些博文被蒸发。与此同时,"五毛党"出没互联网,一面拿着纳税人的钱,一面为强权美容,甚至为地方利益集团唱颂歌,美其名曰:引导舆论,实则在合围与猎杀言论自由。

3,尽管民间活跃许多出版公司,但均无出版书籍的最终审稿权,民营出版公司若想出本书,须到官营出版社购买或"合作"书号;学者或作家若要出版一本著作,除了面临市场困难,更面临严格的意识形态审查,官营出版社编辑充当言论审查官的角色。

4,08奥运会时被外媒欢呼进步的一些海外中文网站的开放,如昙花一现,到12月份,开放不久的一些海外中文网经常无法显示,连香港一些报纸的新闻网页也不能幸免,再次印证决策层管理层一些人停留在满清"宁与洋人,不与家奴"的思维方式上。

 
在这种钳口噤声的大背景下,我们可以看到苦难的人民如何承受言论自由、新闻自由缺失之痛:

1,汶川地震7个月过去了,失去孩子的家庭悲痛尚未平复,豆腐渣教学楼的责任人查出了哪一个?谁被推上了法庭?报刊电视台,有哪一家在公开讨论这一问题?

2,被央视吹嘘过的有1100道检测关的三鹿奶粉祸及全国,加之其他品牌的毒奶粉,据官方数字称有29万结石儿童,中华儿女无不痛心疾首;而据一家财经媒体称:牛奶掺假已经30年了。30年间,中国媒体是干什么吃的?

3,辽宁西丰警察进京抓记者事件中的主角县令,年初为千夫所指,年底居然暧昧复出,"个别领导"蹂躏民意,媒体居然没有报道出此"个别领导"的名姓,不了了之,是为言论践踏史上的奇观之一。

4,涉嫌猥亵门、狂斥草民如屁的"交通部高官",经警方调查宣布无刑责,网络上频见留言评论板关闭,至今也未见到咸猪手先生被开除公务员队伍和中共党籍。深圳猥亵门风波未息,浙江猥亵门又起,猥亵女童的干部也依然立在公务员的行列。

5, 08年秋冬,各地民变或群体事件不断,也开始有"负面新闻"大篇幅报道乃至登上报纸头版,这是自"纸包子事件"后很长一段时间严控负面新闻以来中国新闻界出现的新迹象;但这些报道多是单向输出,对事件的来龙去脉、对当事各方并未见客观、均衡的采访报道,有的甚至是群体事件爆发的城市当事官方新闻办公室提供的稿件。那么请问报道的编辑、记者先生:你们这么做,民众的声音在哪里?你们不觉得这违背起码的新闻良知和新闻伦理吗?同时选择性报道的失明、失语策略依然持续,我们城市的一些群体事件从本地报缝中都看不到。正如诺贝尔文学奖得主同时也做过新闻人的马尔克斯在《没有人给他写信的上校》中嘲讽的:"自从实行新闻检查以来,报纸上除了谈论欧洲外,别的什么都不谈论了。最好是欧洲人都到这里来,我们到欧洲去,这样,大家都可以知道本国发生的事情了。"


鉴于以上种种叙及但并未全部罗列的"惨像"与"乱像",鉴于国民缺乏言论自由、新闻自由就没有安全可言,公民人格无法生成,人的尊严和权利无法保障,社会无法长治久安,文明无法阔步向前,中国无法赢得世界的尊重,我强烈呼吁朝野各方一起推动中国的言论自由和新闻自由:


1,吁请当局立即开放报禁,落实人民自由创办报刊、出版社、电视台、电台的权利;如当局从转型社会的风险震荡的角度考虑仍有摇摆不定,觉得立即实行仍有一定困难,当局至少给国民信心,从速制定并公布《开放报禁时间表》。因为实际上不开放报禁刊禁台禁,人民亦在想法获知各种信息;而媒体的自由创办,有利于社会意见的沟通,有利于各级领导人更快捷全面地了解民意。我们已经看到,瓮安、陇南民变、杨佳事件并非言论自由和新闻自由导致的;换言之,没有言论自由和新闻自由,社会也会以它的运作惯性而产生动荡与风险。是鸵鸟政策装作视而不见,还是把动荡风险的罪名按在言论自由、新闻自由的头上,是继续让整个社会承受缺失言论自由和新闻自由带来的灾难与痛苦,还是毅然不惧短暂的阵痛,争取人民以及我们的子孙后代享有言论自由、新闻自由的幸福与尊严,望朝野各方有识之士深思。

2,吁请当局立即开放网禁;关闭阻碍信息自由流通的防火墙;开放外网的屏蔽,即使外网有不合乎我国民的思想与观点的,也请相信人民自己的判断力和批判能力。通过网络的信息自由流通和公开讨论,促进人民的总体智力的提升和社会思潮的进步。让我们的互联网少一些"无法显示网页"或"此主题已被删除或屏蔽"的耻辱。充分尊重和保障人民的知情权、表达权、参与权、监督权,也是朝野的共识;在实践操作层面,尚需言必行,行必果,不要开空头支票,让普通公民望梅止渴,开放网禁就是兑现官方承诺、考验官方诚信的试金石。

3, 吁请当局允许民营出版公司有独立出书的权利,我就不相信一个官员他在对一本著作的判断上能超过编辑、作家、学者、专家;充分的出版自由是文明进步的前提。作为一位作家和媒体人,我痛心地看到:多少反映时代真相、有深刻思想内涵的文章和著作,多少也许不尽成熟但有一家之见、能激发公众思考、讨论的著作,因为不符合所谓的主旋律,而被束之高阁,同时也有多少老学者、老教授皓首穷经著述却要为一本著作的出版而付"书号钱"。出版领域的官方垄断,高度的计划与集中,书号也能作为控制思想和产生经济效益的手段,是文明世界的耻辱,也是中华几千年文明史上控制言路空前绝后的壮举。让我温柔地问一声朝野各方:你们觉得这种出版管理体制合理吗?合情吗?合乎中国的宪法原则吗?30年来,中国大陆出版社的数目仍停留在600余家左右,比之台湾地区几千余家、美国几万余家,我们中国人的平均享有出版社的数量不觉得低点吗?让我们中国人也像勇夺奥运金牌数目第一一样,勇夺下报刊、出版社、电视台、电台数目世界第一,好不好?

 4,吁请当局下令制止一些部门或地方用纳税人的钱资助"五毛党"网评员,我不反对网评员们发表各种主旋律言论的权利,甚至因为有各种不同声音才能构成智力碰撞,但用纳税人的钱来给这些人的帖子予以补助,明显是公器私用,明显是漠视人民的权利与滥用人民的税款。

5,吁请当局审查《出版管理条例》是否违宪。如果非得弄个管理条例,立意也应该是来保障言论自由、新闻自由,而非处处设置门槛。

6, 吁请当局制定《言论自由保障法》、《新闻自由保障法》、《出版自由保障法》。

7,吁请当局对践踏言论自由、新闻自由的官员予以严惩;纵容此类钳制言论自由、新闻自由的官员,实质上等于放纵了对言论自由、新闻自由的恫吓与威胁;吁请当局在频发的抓记者事件后注意到:一些地方官员用未经公正程序的国家暴力手段来对付记者,正在成为我们这个时代的流行病症,成为一种践踏言论自由和新闻自由的权力恐怖主义,形成了对言论自由和新闻自由实质意义上的的暴力恫吓与威胁。

8,吁请当局有鉴于一年来的天灾人祸频仍,当效法汉唐盛世明君宽和政治,大赦天下,尤其是释放"因言入罪"的人士。

9,吁请当局听取民意,善待民意,学习西方文明的先进成果,顺应时代大势与世界潮流,和平秩序地将国家建设成为有高度言论自由、新闻自由的国家。

去年此时,我曾经发表致中国领导人的公开信《推进新闻出版自由,开放报禁刊禁网禁》,对中国启动新闻自由的破冰进程提出许多建言。"自由今夜思千里,霜鬓明朝又一年。"一年来,言论自由、新闻自由、民主政治的改革进程有何实质性的寸进?在瓮安、陇南的火光映照下,在孟连、吉首的骚动声中,有识之士不难看到:体制性的顽疾导致无法解决当前日益突出的社会矛盾与冲突;言路的堵塞和新闻自由的缺席,既使社会的怨气和戾气无法舒缓,也使温和理性的声音与诉求无法正常表达,无法在朝野之中形成共识与互动;和平转型、朝野对话的机会正在从时间的指缝中一点点流失。当局如果再不就政治改革、新闻自由、民选票选、宪政民主提出时间进程表,恐怕即将来临的岁月中社会风险和社会成本将会更高。这是所有理性的中国人都不愿意看到的。

让我呼吁朝野各方一起推动中国历史性的时刻。从汉唐文明衰亡后,言论自由离我们太遥远,我们中国人如果还想赢得国际尊重,我们的文明如果还想保持活力,那么言论自由、新闻自由就是必不可少的基石。缺少这一基石,无论有人如何吹嘘是"人权最好的时刻","比美国的人权好五倍",都是纸糊的房子,连野兽都不会相信。而言论自由、新闻自由最重要的标志就是:媒体的自由创办权;能不能有传媒公开表达对社会事务的不同甚至是反对性的意见,在表达这些意见后有没有免于恐惧的自由,有没有不受迫害与打压的自由。

请允许我借用电影《宾虚》中主人公的一句台词:"我对我们民族的过去有信心,对我们民族的未来也有信心,"此刻,你我都处于历史传送带上的一环,我们该如何为言论自由、新闻自由奔走呼号?我们该如何藉此建设中国人的基本人权尊严?如何为国民安全、幸福提供最起码的屏障?

我请你们面对同胞、面对子孙未来、面对自己的灵魂,作出自己的思索和选择!
                         

 凌沧洲

 2009年1月1日于北京


出典:http://www.rfa.org/mandarin/yataibaodao/openletter-01012009100307.html