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王力雄:駐チベット大臣(アンバン)――チベットと中国の歴史的関係(6)

2009-01-06 22:52:14 | 中国異論派選訳
王力雄:駐チベット大臣(アンバン)――チベットと中国の歴史的関係(6)


のちの人が過去の歴史について記述するとき、しばしば「要するに」と言って全体を概括するが、それはあたかも歴史は熟慮の結果だったり明確な計画があったりしたように思わせる。しかし、清朝が最初の駐チベット大臣を派遣したのは、当時の雍正皇帝が一言「内閣学士の僧格と副都統の馬喇をダライラマのところに派遣し、それぞれに銀一千両を与える」(注1)と言ったからにすぎない。雍正はほかになにも具体的な指示はしておらず、一千両の「へき地手当」以外、僧格と馬喇の職位と職権すら明確でなかった。大国の君主として、政務が多忙であるから、チベットに振り向けられる考慮はたぶん断片的な思いつきか、上奏文に対する一言の指示に過ぎないのだろう。しかし、それが行動の発端となり、統治装置は行動の中で整備された法令制度と運営メカニズムを作り出してゆく。以下に述べる駐チベット大臣の状況は、すなわち僧格と馬喇の最初のチベット派遣から半世紀余り後の最終的に確定した状態である。

駐チベット大臣は正大臣一人、副大臣一人である。正大臣は「弁事大臣」ともいい、副大臣は「幇弁大臣」ともいう。清国政府は185年間にわたって駐チベット大臣を派遣し続けた。正副大臣として135人を173回任命した(2回以上任命された者もいた)。そのうち23名は任命はされたが様々な理由で赴任はしなかった(注2)。この135人中、大多数が満洲人であり、その次がモンゴル人であった。中国人は後期に数人が副大臣に任命されたにすぎない。

駐チベット大臣は任期3年と定められていたが、実際は異なることもあった。最も長かったのは連続7年間(乾隆年間の莽古賚)最も短かったのは40日で呼び戻された(嘉慶年間の豊紳)。また2回3回と派遣される者もいた。

駐チベット大臣がチベットに入るには当時はみな成都から出発し、約3か月かけてラサについた。チベット高原は昔から「七八九が一番歩きやすい」と言われており、新任の駐チベット大臣はその多くが7月に出発した。正副両大臣はどちらもラサの駐チベット大臣役所に駐在した。役所の場所は何回も変わった。今のラサでは当時の遺跡を見ることはできない。

清時代のあるチベット画家が「ラサ図」という絵を描いている(現在北京の歴史博物館に所蔵)。そこに描かれた駐チベット大臣役所はジョカン寺の西南方向にあり、いくつかの四合院でできている。その中の二つの四合院の中庭にはチベット様式の屋根の二階建ての建物がある。たぶん歴史書に載っている当時の正副大臣が住んでいた建物だろう。役所は緑の木で囲まれ、周囲には6本の旗竿がそびえたち、黄色い旗が掛けられている。

チベット学者の(曾?)国慶は清朝の駐チベット大臣を卓越した者、凡庸な者、愚昧な者に分類している。彼が推挙する卓越した者の典型は乾隆15年の駐チベット大臣傅清と副大臣拉布敦である。当時新たに王位に就いたばかりのギュルメーはダライラマ7世をトップとする宗教勢力と支配権を奪いあい、モンゴルのジュンガル部を誘ってダライラマに対する謀反を企てていた。傅清と拉布敦はそれを察知すると清国朝廷に報告した。そのころは清朝の軍隊はチベットに駐留していなかったので、乾隆は軍隊が到着するのを待ってギュルメーを討伐するよう指示した。しかし、ギュルメーの勢力が大きくなり、ダライラマはその支配下に入ってしまった。駐チベット大臣は監視されるようになったが、朝廷が派遣した兵隊は遠いのでいつ到着するかわからない。

『衛蔵通史』によると、ギュルメーの反乱が差し迫ってきたので、二人の駐チベット大臣は「先に制圧しなければ、殺しても生きているように後に続く者が功を遂げ易くなるであろう」(注3)と判断した。二人は策略を弄して、ギュルメーに皇帝の命令を聞きに来るよう駐チベット大臣役所へ招いた。ギュルメーは手勢の少ない駐チベット大臣は何もできないだろうと疑わず、部下を連れて役所に向かった。拉布敦が聖旨を読み上げるふりをして、ギュルメーがひざまずいて聖旨を聞こうとしたとき、傅清が刀で背後から切りつけると、事前に隠れていた人が飛び出してきて一斉に切りつけ、ギュルメーはその場で息絶えた。すると、ギュルメーの部下が駐チベット大臣役所を攻撃した。傅清と拉布敦は長い間固く守ったので、ついに包囲陣は役所に薪を積んで火を放った。傅清は満身創痍になりながら、反乱兵を何人か殺した後、刀で自害した。拉布敦は刀をもって下に飛び降り、腸が傷口から出て地面に一面に広がるまで闘って(古文書の文言では「蛇が地を這う」と形容されている)、ついに戦死した。

『衛蔵通史』は次のように彼らの行動の意義を評価している。

「それ衛蔵は北京から万里以上離れており、公(二人の大臣)がその地を鎮めるには、武器も兵士も少なく、外に制圧するに足りず、内に権力を奪うに足りない。もしギュルメーが兵をあげて反乱すれば、チベット人は臆病だから、みなそれに従い、戸籍の土地(朝廷の支配地域)に向かってきて、一旦敵に陥れられたら、たとえ我が身を犠牲にしたとしても、ことはもう取り返しがつかない。軍隊を疲弊させ、軍糧を浪費し、皇帝に西に注意を向けさせ、田畑や租税、領土を憂いさせたら、死んでその責任を逃れられようか? 公は身を顧みず孤軍奮闘し、毅然として大計を定め、反乱がまだ起きないうちに、誘い出して誅殺した。残党がまだ騒いでいるとはいえ、首領はすでに殺したので、氷が解けるように瓦解し、騒ぎを広げられず、踵を返す前に捕まえ、その罪を償わせた。公は死んだとはいえ、全チベットが安定し、国威が振興したことは、霍光の楼蘭での騙し打ちと同日に語りえるものではない。」(注4)

当時の状況は確かにそのとおりだった。反乱者は駐チベット大臣とその随員百名あまりを殺したが、ギュルメーが死んで、龍の首がないので、駐チベット大臣役所の銀庫を略奪したら蜘蛛の子を散らすように散り散りになった。ギュルメーの支配下にあったダライラマ7世はこれで権力を回復し、ギュルメーの一味を捕まえ、陵遅したり、斬首したり、絞首して、チベットは速やかに秩序が回復した。四川総督策楞がチベットに兵を進めた時には、チベットの情勢はすでに安定していた。乾隆は「これはタングート(清のチベットに対する呼称)処理の良い機会である。もしうまく処理すれば、永遠に安定する」と指示した。策楞は一連のチベット政策を制定し、中国のチベットに対する支配がそれによっていっそう強化された。

清朝前期、その臣下はまだ開国初代の天下統一の血気を残しており、二品官(現在の省長・部長級)もなお刀を振るって戦うことができた。国慶の評価によると、清朝前期に卓越した者に分類される駐チベット大臣は9人いたが、清朝後期にはわずか3人である(注5)。百数十人の駐チベット大臣の中で、卓越した者はわずか12人、残りは凡庸か愚昧の輩であった。

この点は乾隆自身も認めている。彼はいう「以前から大臣の中でよく仕事のできる者は、多くを北京に残し……チベットに行って仕事をするのは、多くが並みで謹直な者である。」「以前から駐チベット大臣はチベット駐在をつらい仕事とみなし、何事も前例を踏襲し、大過なく任期を満了して北京に帰ることだけを考えている」(注6)。今日でも、飛行機で数時間で北京からラサにつくのに、チベットでの仕事はみなつらい仕事と思っているのだから、それは驚くに当たらない。役人は昔から才能があって活動能力があるほど、大変な場所に行かされることはない。だからチベット駐在のつらい仕事は凡庸無能の輩に押し付けられるか、降格や免職の対象者に回ってくる。または、任命されたのを幸いに、身分も名誉も惜しまず、ほしいままにチベット人を食い物にし、公金を横領する。

駐チベット大臣とその部下は朝廷の目を遠く離れて、まとまっているので、統制し難い。もし自覚的な個人的人徳がなければ、簡単に腐敗する。彼らはチベットの各級官吏を任命する権力を本当に行使することはできなかった(ランバの故事のように)。しかし制度は任命した官吏はすべて駐チベット大臣とダライラマが共同で清朝皇帝に上奏して初めて承認されると定めていた。駐チベット大臣はしばしばこの指名権を金銭と交換した。清朝末期にチベット事務を粛正した欽差大臣張蔭棠は上奏文の中で、この種の交換はすでに相場ができあがっていたと暴露している。ガロン(ガシャの最高位の行政官、6名で構成される)候補指名は銀一万二千両、ダイボン(武官:500人の部隊の司令官)、ジャボン(武官:125人の部隊の司令官)などは銀二三千から数百両であったが、相場を超える要求をすることもあった(注7)。駐チベット大臣とその配下はまた各種の立て替え費用の精算を利用して汚職を行った。たとえば張蔭棠の調べた駐チベット大臣の有泰は、ラサを占領したイギリス軍の「慰労」に千五六百両しか使わなかったのに、朝廷に請求した金額は四万両だった。彼がインドに行ってイギリスと交渉した時の費用は六七百両だったのに、請求額は二万両になっていた。その他、身内登用や、グルになって分け前をはねたり、権力かさにわいろを迫ったり、兵糧をピンはねしたりなど、枚挙にいとまがない(注8)。

駐チベット大使がチベットを鋭意経営するか、それとも向上を求めないかは、当時の皇帝のチベットに対する態度も大きく関係していた。清朝前期はモンゴルをけん制し、国内を安定させるために、皇帝はチベット問題を重視したので、駐チベット大臣もあまりいい加減なことはできなかった。例えば上述のギュルメー事件の後、乾隆皇帝は傅清と拉布敦の前任の駐チベット大臣紀山を怯懦で無能だったから、チベット駐在期間中ギュルメーに迎合し、ほしいままに増長させ、事件の原因をつくったと厳しく叱った。ただ紀山の父が戦没者だったことに免じて、公開斬首は免除し、自尽を賜った(注9)。嘉慶年間の駐チベット大臣文弼は、チベットの地方の首領が朝廷に対して褒賞と肩書きを授与するよう申請したのを、却下しただけで朝廷には報告しなかったので、調べられた後で免職になっている(注10)。

史料を見ると、当時の清朝皇帝は現在の中国の指導者よりもより具体的にチベットに注意を払っており、しばしば駐チベット大臣の上奏文に何百字も指示を書きつけている。ダライラマの父が原籍に帰るのに一品(最高官位)の飾り帽子を使わせるかどうかという伺いに対してまで、「原籍ではかぶるべきではないが、休暇が終わってチベットに戻ったらまたかぶるように」と指示している(注11)。

しかし、清朝後期になると、モンゴルとチベットはどちらも国家にとって主な問題ではなくなったし、また皇帝は国についてそれほど気を配らなくなった。1904年、イギリス軍がまさに武力でチベットに進入しようという深刻な局面で、駐チベット大臣が状況を報告した上奏文に当時の清朝皇帝はわずかに「閲」の一字を書いたのみだった(注12)。

国土は皇帝のものだ。皇帝が関心を失ったら、駐チベット大臣も自然に緩んでしまう。これもまた清朝後期の駐チベット大臣が前期と比べてより凡庸だったり愚昧だったりした原因の一つである。

原文:http://www.observechina.net/info/artshow.asp?ID=49002
(注は原文参照)

以前の文章:

皇女神話――チベットと中国の歴史的関係(1)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/3496cd11ef6e1cd0d47a87eb86f5731d

モンゴルは中国ではない――チベットと中国の歴史的関係(2)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/2ac8dfc98e938c0e7c329d1edd01aca5

収縮内向した明朝――チベットと中国の歴史的関係(3)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/77f46d8d85cf7f21c50238361f95f63c

清朝の対チベット経営--チベットと中国の歴史的関係(4)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/52e7dde21cc5561a919c555d0c09542a

主権かそれとも宗主権か――チベットと中国の歴史的関係(5)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/62ece96b90b264d17ffce53ec61af385

以後の文章:

骨抜き――チベットと中国の歴史的関係(7)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/458be72eb12dfb3e581aa933e0f078e4