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RFA:胡佳の妻曾金燕に警察が逮捕の威嚇

2008-01-23 13:04:24 | Weblog
曾金燕反抗软禁遭警告抓捕 警称善待胡佳有待证实

北京人权活动人士胡佳被当局以涉嫌煽动国家政权罪刑事拘留至今超过三周,他的妻子曾金燕和刚出生不久的女儿也一直处在严密的软禁隔离之中,虽然处境艰难,这位异议人士的妻子仍然寻求各种途径发出声音,除了站在窗边接受海外媒体的采访,也不断对警方的非法软禁采取不合作态度。星期天,她拒绝警察进入她的家时,被警告随时会被以胡佳同案犯的名义抓捕。胡佳夫妇的朋友法学博士滕彪对情况表示担忧,他引述不便公开的消息来源称:“曾金燕的理由是对他和孩子的软禁是非法的,不让警察进家。这个警察就威胁她,说‘你自己也有问题,很多事情是你和胡佳一起做的,可以随时抓。’虽然曾金燕还在哺乳期,但警察说可以三个小时让她回家喂一次奶。就是说对曾金燕也有明显的威胁。”

本身也是艾滋病活动人士的曾金燕一直支持丈夫的人权工作,去年十二月和胡佳共同获得记者无国界颁发的人权奖之外,她本人此前还因写博客营救丈夫被美国时代杂志选为年度影响世界的百人之一。

据悉当天威胁曾金燕的警察同时带了一封胡佳写的便条的复印件,给曾金燕看完便立刻收走,滕彪转述消息称,上面除了表示挂念家人和请母亲保重身体之外,并没有透露自己在看守所中的任何细节。但据警察对胡佳家人说,拘押中的胡佳有独立厕所,并在伙食方面受到素食者的特别安排。

胡佳被捕后两次有消息都是由警方单方面传出,而他的律师会面申请则被当局以案件涉秘密拒绝。这种有箱作业之嫌的扣押模式与前年当局处理人权律师高智晟案件时的手法有异曲同工之处,高智晟缓刑出狱后身上留下了大量遭刑讯逼供的伤痕,加上当局对异议人士使用酷刑的众多先例,令外界对胡佳在看守所内的安全给予关注。

与此同时各方也担心身患肝硬化的胡佳得不到相应的医疗,他平时服用的处方药物也不准送入看守所。律师上周已经提交了取保候审的申请,暂时未有回复。

滕彪对警察的单方面叙述抱有质疑,他认为只有律师会面才能确认胡佳在看守所内的健康状况和待遇:“ 因为外界对胡佳身体情况非常担心,所以可能警察想通过这种举动告诉外界胡佳的情况还算正常,但是现在最关键的还是让律师去会见胡佳,才能够证实他在里面的情况。”

胡佳的被捕以及曾金燕被软禁引发了海内外此起彼伏的谴责,有国际人权组织、各民主国家政府官员、国内民间人士、以及胡佳被捕前不断声援关注的全国各地访民,上海的张翠屏星期三特别请本台转达他们这个群体就胡佳事件的呼吁:“我们希望国际社会让中国政府把胡佳放出来,因为中国的老百姓太需要胡佳这样的人了。我们是为了自己的利益和权益上访受迫害,但胡佳是为了我们老百姓。所以希望国际能够多关注这些民主人士,推动我们社会的发展。”

以上是自由亚洲电台特约记者丁小的采访报道。 
出典:http://www.rfa.org/mandarin/shenrubaodao/2008/01/22/hujia/


王力雄:チベットの直面する二つの帝国主義――唯色事件透視(1)

2008-01-22 19:11:09 | 中国異論派選訳
王力雄:チベットの直面する二つの帝国主義――唯色事件透視(1)

原文:
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/2ee0508bb3fd152dc37ea15e99c94f31

政治的帝国主義の文化圧制

 その悪名と文明社会による拒否に対応して、今日では単純な領土拡張と資源の略奪は帝国主義の主要形態ではなくなっている。たとえ占領と殖民を続けていても、経済援助など現地の民族に役立つという外套をまとい、文明上の優越と物質的恩恵授与者を自ら任ずる。この時代には、帝国主義は文化の面でより具体的に表現される。

 現在のチベット問題に関する論争において、文化が一つの焦点である。外部の批判に対して、中国政府の列挙する多くの実例が説明するのはそのチベット文化保護――寺院の修復、文化財保護、チベット語教育推進、二言語使用の規定、途絶えた芸術の救済などである。しかし、国際社会とチベット人亡命者はこの面で中国を批判し、同様に多くの実例を挙げる。双方の結論はまったく正反対である。私は、この視点から文化を議論するのは一種の逸脱であると思う。なぜなら、民族文化は他でもなく、民族の自己表現だからである。この表現とは単なる歴史の再話や伝統表現だけでなく、より重要なのは自民族の現実の境遇の体験、思考と訴えである。たとえ歴史と伝統の表現であっても、自民族自体から発せられ、かつ民族の現実の意識と結合していて、はじめて生きた文化となる。でなければ、民族の自我を失い、現実とのつながりを断たれ、文化は抜け殻や操り人形となり、形式は具えていても生命は失われる。

 例を挙げれば、たとえ民族の文字を非常によく保存していたとしても、民族の文字で民族の真実の体験を訴えられず、帝国統治者の声の再話しかできないとすれば、その文字にどれだけの文化的意義が残っているだろうか? よって、民族文化が保護されているかどうかの判断の主要基準は、伝統の保留ではなく、まして投資額の多寡でもない。

 この観点から見ると、中国当局のチベット文化の破壊と圧制ははっきりとわかる――それが他にどれほどのことをやったとしても、それはチベット民族の自己表現を許さない。すべての表現が中国当局の統制のもとに行われ、いかなる逸脱も処罰される。チベットの女性作家唯色の境遇がまさにその例証である。唯色は漢語で著述するチベット人女性作家である。1966年にラサで生まれ、四川省のチベット地区で成長し、1988年西南民族学院漢語学部を卒業した。甘孜州報の記者になり、1990年にラサの雑誌「チベット文学」編集部に異動した。『チベットは上る(西蔵在上)』、『真紅色の地図(絳紅色的地図)』、『チベットノート(西蔵筆記)』などの著作がある。唯色に厄介をもたらしたのは『チベットノート』である。『チベットノート』は随筆で、2003年に広州の花城出版社から出版された。一方で好評でたちまち重版されたが、一方では当局の注意を引いた。まず、中国共産党統一戦線部がこの本を「深刻な政治的誤りがある」と判断した。すると、チベットのイデオロギー担当者がすぐに『チベットノート』を審査するよう命じ、同時にチベットで『チベットノート』を販売することを禁じた。その後、広東省新聞出版局に『チベットノート』を全面的に販売禁止にするよう要求した。唯色の所属職場のチベット文学芸術界連合会(文連)は『チベットノート』に対して次のような結論を下した。「宗教の社会生活における積極的な役割を誇張、美化し、一部の文章の中でダライラマに対する崇拝と敬慕の念を表明し、一部の内容は狭隘な民族主義思想を表現し国家の統一、民族の団結の観点と言論にとって不利である。一部の内容はチベットの改革開放数十年の間に勝ち取った巨大な成果を無視し、道徳的流言の旧チベットに対する懐旧の情に浸りすぎて、間違った価値判断をし、正しい政治原則にそむき、現代作家が担うべき社会的責任と先進文化建設のために担うべき政治的責任を失っている」。中国新聞出版総署の副署長石峰はつづけて出版工作会議の席で『チベットノート』を重点的に叱責し、この本を「十四世ダライラマ、十七世カルマパを賞賛し、宗教を崇拝、宣揚するなどの深刻な政治的立場と観点の誤りがある。一部の文章は政治的誤りに踏み込んでいる。たとえば、『ニマツレン』、『タンツォンと彼の息子』などの随筆である。前者は著名な宗教家ニマツレンが国際会議の席でダライラマの支持者と会ったときの困惑を描き、ダライラマの祖国の分裂とチベットの独立を煽るという本質に対する作者の認識があいまいである。後者はチベット反乱鎮圧に対する誤解を吐露している」(2004年2月23日、中国発行英才網の『図書出版ニュース』第22号参照)。上述の『チベットノート』に対する叱責は、全面的に帝国意識によってチベット民族の自己認識を否定するものである。「宗教の崇拝と宣揚」を「深刻な政治的立場と観点の誤り」と規定することは、いかなる社会においても不可思議である。唯色自身はチベット仏教の信者であるから、その宗教指導者のダライラマとカルマパを賛美するのは本来理にかなったことである。植民者だけが民族抑圧のためにそのような罪状を持ち出しえる。また、「数十年の間に勝ち取った巨大な成果」を称賛せず、「道徳的流言の旧チベットに対する懐旧の情に浸」ることが、「間違った価値判断をし、正しい政治原則にそむ」くことであり、作家としての「社会的責任」と「政治的責任」の喪失だという主張は、帝国主義的な横暴と屁理屈そのものである。『チベットノート』が中国の検閲制度の下で出版できたというのはある意味で奇跡である。広東が中国で一番の商業化した環境であり、比較的ゆるく自由な土地であったからかもしれない。新聞出版総署に名指しされた「ニマツレン」という随筆は、被圧迫民族の重苦しさと無力感を深く表現している。あるウイグル人の読者が不正確な漢語で唯色に送った電子メールの中にこの文章が呼び起こした共感を知ることができる。

 私は今あなたの本を読んでいます。ニマツレンがノルウエーにいたとき少女が彼に話し終わった後、私はとてもつらくなりました。自分がひどく泣くのを抑えることができませんでした。何回も読み直しました。彼が少女の質問に答えるときのことを考えたら大声で泣くのをこらえられません。私は一人で長いこと泣いていました。まるで何かが私の心に押し込まれたようで、私の弱い心臓はとても耐えられません。私は大声で叫びたい。でも、私にはその勇気がありません。私はニマツレンよりもずっと惨めです。

『チベットノート』が販売禁止になったとき、唯色は北京魯迅文学院で雑誌編集長高級研修班に参加していた。チベット文連は彼女を『チベット文学』の副編集長にしようとしていたようだ。しかし、問題が起きてからチベット側はすぐに彼女の学習を中止させラサに召還した。専門の「教育支援グループ」を組織し、彼女に対して「思想教育」を行い、彼女に「自己批判(原文:検討)」し「関門を通過する(原文:過関)」よう迫った。括弧の中の言葉は中共の専用語彙である。それは精神を統制する方法と手段であり、イメージ的には「いじめ(原文:整人)」である。その核心は人を強権の前に跪かせ、人格の独立と尊厳を放棄させることである。自己否定が絶え間なく繰り返され記録されて、それが十分に共産党の要求を満足させてはじめて「再び真人間になる(原文:重新做人)」ことが許可される。それ以降は脱線する勇気がなくなるだけでなく、共産党の「思想教育」に感謝しなければならない。このやり方を中共は数十年続けてきて、すでに組織の本能となっており、必要とあれば自動的に発動される。多くの人は「思想教育」の対象になると屈服し、関門通過を請い願う。これはすでに中国で長年行われてきたことなので、人々は慣れきってしまって、恥ずかしいこととは思わない。唯色がそうしたとしても、もう編集長にはなれず、あるいは農村に送られて思想改造を迫られるかもしれないが、すくなくとも毎月の給料は保証される。このことは体制外の空間が狭いチベットでは非常に重視される。チベット語で言えば、給料があれば家に乳牛がいるようなもので、毎日牛乳が飲めるのだ。

 しかし、唯色はそのように「関門を通過する」ことはできなかった。なぜなら彼女はまず自分の信仰を守らなければならなかったからだ。「十四世ダライラマを賛美した」と叱責されたからには、十四世ダライラマを攻撃して始めて「関門を通過する」ことができる。少なくとも民族工作を主管する中共政治局常務委員李瑞環が言った「ダライラマはチベット独立を図る分裂主義政治集団のもとじめであり、国際反中国勢力の忠実な道具であり、チベットに社会混乱をもたらす根源であり、チベット仏教正常化の最大の障害である」という言葉を反復しなければならない。だが、唯色がどうして自分の宗教リーダーに対してこのような言葉を吐けようか? ダライラマがチベットで社会混乱を起こし、チベット仏教の正常化を妨害していると言うのは、白を黒と言いくるめることではないか? 宗教によっても良心によっても、彼女はそのようなことはいえなかった。仏教において、上師を攻撃するのは最大の罪である。また、いったい誰がダライラマを追い出し、数十万人のチベット人を殺し、チベットのすべての寺を破壊したのか? 彼らこそチベットに社会混乱をもたらし、チベット仏教の正常化を妨害する張本人ではないか。チベットの前中国共産党書記の陳奎元が「寺院整頓」をしていたとき、すべてのチベット僧侶に李瑞環のダライラマに対する批判を直筆で書くように強制し、書かなかった僧を寺院から追放した。しかし、チベット語の「である」と「ではない」はほんの少しの違いで、一部の僧は目立たないように「である」の上に点をつけて「ではない」にし、「関門を通過」しようとした。しかし、唯色はそうはできなかった。彼女は漢語で著述する作家であり、漢語は点一つで「ではない」に変えられず、字が一つ多くなり、ごまかして「関門を通過」することはできない。当局は毎日の波状攻撃により、彼女と彼女の家族に「思想工作」(実質は人に対する精神的虐待)を加えた。巨大な精神的圧力と朝から晩までの威嚇に耐えられなくなったころ、彼女に彼女が反対していた青海チベット鉄道工事現場で「教育を受ける」よう命令が出た。彼女はこの体制に対抗したりうまくあしらったりする力が自分にないことを知っていたので、出奔を選択しチベットを離れた。去る前に彼女はチベット文連の最高意思決定機関である中共党グループに一通の手紙を残した。手紙は、「私は永遠に仏教を信仰するチベット作家である」と題されていた。

つづく
(2)http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/36717e1833957b1a2c68912ff4ce4059
(3)http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/97469cf64e2357ea094a0ecc690306a9
(4)http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/9bd9ea8708b8baf49d17f3f30df8b758
 

王力雄:唯色事件(4)

2008-01-21 18:45:28 | Weblog

   弥补民族语言的缺失

   藏族的汉语知识份子有一个普遍问题--本民族语言掌握得不好。他们中间的多数不能读写藏文,有的甚至藏话都说不流利。这一方面是殖民主义教育造成。唯色一代是在中国“文化大革命”期间接受的教育,那时四省藏区很多学校几乎完全不教藏语。另一方面也由此才导致他们汉语好到能成为作家的程度--汉语已经是他们的母语。一般而言,人只可能掌握一种足以成为作家的语言。但是当西藏作家协会的主席扎西达娃在国外和流亡藏人见面,双方只能用对藏人而言具有殖民主义象徵的汉语进行交流时,足以让海外藏人提出这种质疑:既然语言是民族文化的载体,不掌握本民族语言,如何能掌握本民族的文化和精神?又何以能代表藏民族进行表述呢?的确,民族不是种族,其更重要的内涵是文化而非血缘。如果不能和本民族文化沟通,汉语能力再好也和本民族无关,只相当於给汉族加了皈依者,成为文化上的汉人。藏语不好确实是唯色一代的重大缺陷,但需要看到那是历史产物,责任不在他们本人。我之所以认为藏语不好的藏族作家仍然可以承担对藏民族意志的表述,是因为有两个因素--民族主义和宗教信仰--可以作为缺失民族语言的弥补,使他们保持和本民族文化的联系,以及表述本民族的意志。民族主义是当今最主要的民族意识表述,那种表述不需要建立于文化传承的基础,只需要对自己的民族具有认同,也不一定非用本民族语言,反而用汉语表达本民族诉求,更容易被中国当局和汉人社会听到。藏族的“汉语作家群”中普遍存在民族主义意识,虽然一般不敢在政治层面公开表达,但在他们各种以文化面目出现的作品中却是处处都可感受。在美学领域用文化形式表现民族主义可能是出於不得已,但是效果可能比纯粹政治面目的民族主义要好。因为政治的民族主义虽然可以表达诉求和抗争,但其主要内容只能是争取权利,往往具有清算、对抗和排外的性质,缺乏宽容、妥协与和平,因此往往不利於民族之间的关系,还可能加强敌对与冲突。而文化上的民族主义却主要体现为对本民族文化的热爱、继承和坚守,不需要与其他民族对抗,因此可以形成百花齐放的局面。从这个角度说,藏族的“汉语作家群”目前以文化形式表达民族主义,综合效果可能更好。不过既然文化是历史积累的,很大程度依靠语言传承,不掌握本民族语言的藏族作家惟一能让自己和民族文化联系在一起的就是民族宗教信仰。藏民族文化大部分都汇集於宗教,民族意识也主要是围绕宗教形成。宗教在现实存在和发展,不像风俗传统正在过去,变成形式,因此只要具有本民族的宗教信仰,即使不直接通过语言也能和民族意识相连,以及深入到民族文化的深层。在这层意义上,藏族的汉语知识份子信仰藏传佛教就特别重要。这不是从宗教本身说的重要,而是因为没有宗教信仰,他们就会失去与民族文化之间的惟一纽带。唯色能够成为藏民族意识的表述者和民族文化的捍卫者,关键就在於她是一个虔诚的藏传佛教信徒。

   需要说明的是,以上讨论只针对特定人群,他们以汉语为母语,能够成功地为藏民族进行表述,因此以失掉本民族语言为代价换得的汉语能力可以被视为一种能变成好事的坏事。然而这种逻辑对民族的普通民众是不成立的。普通民众不担负表述任务,失掉本民族语言对他们只能是坏事。作为民族群体,这方面应该向维吾尔人学习,通过日常生活的每一个细枝末节,时刻捍卫和传承包括语言在内的本民族文化。

   超越“民族内部的私语”有人会说即使藏族没有汉语知识份子,民族意识的表述也从来都有。哪怕在镇压最烈之时,藏人也没有停止过在私下场合以抱怨、调侃、传播“小道消息”等方式表达自己的不满。然而那类表述多为亲朋好友之间的悄悄话,或者顶多是在藏人场合中“民族内部的私语”。汉人是无从听到的,甚至当局也可以从表面的无声以为“前所未有的稳定”。那类表述的作用相当有限。重要的不是在民族内部私语,而是要有面对汉人民众、中国当局和国际社会的公共化表述。否则汉人民众对西藏的了解就只有当局的宣传,当局也只能透过情治系统和“政策研究”的有色眼镜把握西藏。西藏因此被扭曲,甚至因为没有声音而被忽视。举一个例子,着名的汉人游泳家张健曾经横渡青海湖。青海湖是藏人的圣湖,征服性的横渡对藏人而言是一种亵渎。类似的亵渎神山圣湖的行为过去多有发生,藏族虽有广泛不满,但多数只是内部抱怨。张健横渡青海湖时完全没有藏人圣湖的概念,随後又宣布要横渡另一个藏人圣湖纳木措。这时藏人的汉语网站“藏人文化网”发表了一封给有关部门的公开信;唯色同时起草了一封签名书,呼吁张健放弃横渡纳木措。公开信和签名书立刻在中文互联网上流传开来,被广大中国线民所知。在唯色签名书上签名的数百人中汉族占了近一半。国外中文媒体对此也进行报导,成了一个瞩目事件。面对舆论的谴责,张健取消了横渡纳木措的计画,唯色签名书中提到的歌手韩红也放弃了“空降布达拉宫”的演唱会。这个例子显示出,公开化的表述和民族内部的私语,效果完全不同。达赖喇嘛和西藏流亡者一直在为藏民族进行公开化的表述。西藏问题被国际瞩目和他们的表述分不开。但是对中国的汉人而言,一是因为新闻封锁,二是因为语言不通,影响很有限。况且汉人往往认为海外藏人不能代表境内藏人,其表述是宣传而非真实,因此针对汉人,需要西藏境内的藏人自己出面,用汉语进行表述。

   唯色的遭遇无疑说明西藏境内的表述可能付出的代价。但是没有代价就奇怪了。这是必须面对的牺牲,是与帝国主义抗争中不能回避的。民族意识的表述在目前中国只能是一种异议。世界有过很多反抗帝国主义的民族异议运动。虽然在西藏形成那种异议运动还很遥远,但至少不能一直沈默,而需要发出公开与可持续的民族声音。

   “公开”和“可持续”是两个重要原则。“公开”除了指场合,还需要使用汉语。前几年在拉萨举行的全国民族运动会上,一个藏人混入开幕式舞蹈表演的伫列,在场内持续喊西藏独立的口号,但因为没有扩音设备,多数人不知道他在干什麽。即使听到,各地来宾也因为不懂藏语,只当作是节目的组成部分。那位藏人足够英勇,却几乎没产生任何影响。他的结局和下落从此杳无音讯,人间蒸发,只有藏人口头相传。另一事件是在乌鲁木齐举行的新年晚会上,一个维吾尔人在演出中间径直走上舞台,用维吾尔语朗诵一首政治性诗歌。他也利用了公开场合,但结果和上述藏人一样,多数在场的人听不懂维吾尔语,不知道怎麽回事。这种事即使最终辗转传到海外,因为不再是“新闻”,媒体也不再有谈论的兴趣。类似的抗议行为一直有发生,但都不可持续,只能是一次性的孤立事件,当事者随後就会窒息於铁牢,再也发不出声音。而且那种表达顶多是几句口号,可以表达勇气,却不能产生说服、感化和文化上的互动,可以作为事件给人留下印象,却不能当作道理进入人的思想。

   最可能担负公开和可持续的民族意识表述的,应该就是掌握汉语的民族公共知识份子。这一是因为他们的表达可以直接面对汉人民众和中国当局;二是因为他们有能力利用媒体,即使在被封杀的情况下,也可以通过中文互联网传播声音;叁是因为他们能够融入中国社会主流,从而进入关注中国的国际社会视野。国际社会对中国政府的牵制可以使他们在一定程度上受到保护,他们因此能比普通人更多地触碰专制底线。

   所谓公共知识份子就在於其所作所为能被公众看到,因此他们对底线的触碰可以给民众加勇气。虽然民众的勇气只能一点一滴地加,但时间积累的结果滴水穿石,会使社会发生很大变化。相比二十年前,今天中国人的恐惧程度减轻了很多,并不是因为当局镇压的能力减弱和专制性质改变,而是专制的最大难题在“法不治众”。只要众人保持在一条平齐线上,暴政往往就无可奈何。由具有较高安全性的公共知识份子渐进地碰触专制底线,成为能够提升大众勇气的榜样,而大众保持平齐--只要不超越集体的平齐线就有安全--跟进,这是在专制制度中拓展自由空间、克服民族失语和启动异议运动的一条有效途径。西藏以往没有产生这种公共知识份子,是因为知识份子都被囊括在体制之内,而异议和体制是不能共存的。西藏的文化空间几乎全被体制把持,并且西藏没有形成文化市场--这能看出西藏汉语知识份子另一重意义:公共知识份子必须能靠市场谋生,才可以摆脱体制控制,获得表达异议的自由。藏语知识份子的空间只能局限于缺乏文化市场的藏区,离开体制就不能养家活口,而中国内地已经形成广大的文化市场,藏族汉语知识份子可以利用汉语空间解决生存,从而也就可以得到摆脱体制的能力。唯色事件不应该作为一个单纯的人权案例看待,那只是在众多案例中加一例。这一事件可以同时启发很多思考--西藏如何与两种帝国主义抗争?如何产生表述民族意志的公共知识份子?藏族汉语知识份子的作用是什麽?作为帝国政策的组成部分,中国长期通过汉化教育培养帝国在藏族内部的同盟者,虽有成功之处,但也产生出不少和唯色相似的人物。他们的民族意识没有因为汉化教育减弱,反而更为强烈,同时他们又掌握了用汉语表述民族意识的能力。这一代人目前逐步成为西藏社会中坚,未来可能成为藏族各方面的领导者和领头人。西藏会不会出现一个具有理性精神又通晓汉语的异议知识份子集团,乃至出现藏族的萨哈罗夫或哈威尔?汉族人士则应该思考这种前景对西藏和对中国,对解决西藏问题将会带来什麽样的影响?应该如何迎接和回应这样的前景?以及如何清理可能深藏我们每个人内心深处的文化帝国主义。

   2004年8月-10月 於拉萨、北京
--------------------------原载《议报》第172期 


王力雄:唯色事件(3)

2008-01-21 18:44:33 | Weblog

   如萨伊的精辟分析,当前世界的民主社会依然存在广泛的文化帝国主义现象,那种帝国主义不需要政治压制和暴力手段,只靠以自由民主方式形成的“主流”,就足以把异己文化挤压在边缘,使其枯萎直至消亡。很多人反对全球化其实就是反对这样一种“主流”。在这种情况下,弱势民族的文化抗争需要民族主义的支援。民族主义在文化抗争的意义上是积极的,只要不转变为政治上的民族主义,尤其不能成为诉诸暴力和冲突的民族主义。一个公允的社会应该给这种文化上的民族主义留出合理位置。

 消解文化帝国主义取决民族表述

   对民族文化最好的保护当然是建立独立民族国家。但是独立难度和代价过高,尤其是民族实力相差悬殊时甚至没有可能。不过若把独立看作保护民族文化的手段,只要能达到保护民族文化的目的,是否独立并不重要。而在同一国家内实现对少数民族文化的保护,除了需要政治制度提供相应机制,还取决主体民族的帝国主义心态消解,因为一个国家的政治机制只有在主体民族的支持下才是真正可行的。

   不能单纯指望主体民族自我觉悟消解文化帝国主义,那即使是可能的,也需要太长过程。少数民族一方需要以自身的文化感染、意志表达和耐心说服去主动消解主体民族的文化帝国主义。这就对少数民族的自我表述能力提出较高要求。

   表述能力包括很多方面,我想着重强调的方面是掌握主体民族的语言。对此肯定会有质疑:为什麽要藏人学汉人的语言,而汉人不学藏人的语言?这的确不公平。主体民族出於文化傲慢和必要性较弱,往往不学少数民族语言。但少数民族如果为了追求平等而拒绝掌握主体民族语言,也就失去了自我表述的能力。因为在帝国体系中,表述空间和载体都被主体民族语言占据。要求主体民族学习少数民族语言,并且主动了解和理解少数民族,固然是有尊严的要求,可能性却不大。坚持这种要求的结果是少数民族吃亏。而如果换一种思维,把掌握对方语言当作一种主动进攻,就像学习和使用对方发明的飞机军舰一样,就不会过分缠绕於尊严问题。

   因为表述不是自己思考,而是说给外人听。沈默地自我坚守本民族文化只是一种被动抵抗,最终阻挡不住强势文化扩张,避免不了被吞噬的命运;暴力对文化帝国主义也没作用,即便像满洲人那样征服了中国,照样会被中华文化帝国灭种灭族。反对文化帝国主义只能用文化本身,通过对本民族文化的展示,感染和吸引对方,才能促使对方放弃帝国主义心态,产生尊重和回归平等。这种主动进攻是对本民族文化最好的保护,同时也能促使本民族文化发展。从这个角度,民族的表述更为重要,要求的表述能力也更高。而这种表述能力在很大程度上取决於能在美学层次使用对方的语言。

   历史因素的组合恰好为藏族造就了众多这种人才,其中用汉语写作的藏族作家和诗人就达数百之多--被称为藏族的“汉语作家群”。其中的佼佼者如唯色、梅卓、色波、阿来、扎西达娃等,对汉语的掌握超过很多汉族作家。藏族内部对这种现象评价不同。一些人认为是殖民主义的结果。的确,分析这些作家的情况,殖民主义色彩相当鲜明。首先“汉语作家群”的多数人都是在“四省藏区”长大。四省藏区是中国有意对西藏进行分治的结果,把西藏毗邻中国的区域划入青海、甘肃、四川和云南四省。四省藏区汉化程度高,藏文教育差。上述几位作家都不会藏文,有的甚至不会讲藏话。除梅卓之外,其他几位都不是纯粹藏族--唯色和色波各有四分之一汉族血统,扎西达娃是二分之一汉族,阿来是半回半藏。他们都有汉族名字并长期使用,配偶也都是汉人(包括梅卓)。还有一个特点是,除了阿来出身普通农民,其他几位的父母都是中共干部,其中唯色、色波、扎西达娃的父(母)亲是共产党最初进军西藏时从康巴藏区招纳的先头部队成员。问题是简单地把这些作家当作耻辱,还是把他们当作民族的财富与武器?如果承认民族表述对反抗和消解文化帝国主义的作用,这个问题就不难回答。事实上,藏民族拥有的表述能力已经得到相当成果,尤其和维吾尔族对比可以看得更清楚。

   仅仅二叁十年前,汉人对藏族文化的了解还是剥人皮、挖人眼,是“最暗、最野蛮”的社会。而现在,千千万万汉人把西藏当作圣地心向往之,为西藏的文化和宗教所倾倒。这种转变很大程度上是藏民族的自我表述推动的。一方面是流亡藏人在国际上几十年不断努力的结果,再通过西方桥梁进入开放後的中国;另一方面西藏本土使用汉语的文化、宗教界人士也功不可没。而这两方面的表述维吾尔族都没有。其实维族在日常生活中对汉语需要更多,因为新疆是多民族共存地域,更需要使用共同语言。现实中也的确能见到不少汉语不错的维吾尔人,但是我却从未见过用汉语写作的维吾尔作家,也不知道有用汉语传教的维吾尔宗教人士。这和藏族相比是一个很大的差别。解释这种现象,可能与维吾尔族在文化上的坚守有关。维吾尔知识份子有一种集体的不约而同,在媒体和公共场合排除汉语。六、七十年代改革的新维语今天不但文字上被废弃,口语中吸收的大量汉语辞汇也逐步被英语辞汇替代。这种替代过程不是串联形成的,而是靠民族主义的社会氛围自发推动。即使是在监狱 ,维吾尔犯人谁使用汉语辞汇都会受其他犯人嘲笑。我的一位维族朋友从小在北京长大,当年父母特地把他送回新疆,希望他能学会维语。但因为他的维语不好,被其他维族人认为丧失了民族性,不但没人帮助他学维语,反而处处对他蔑视和排斥。那位朋友到底也没有学会维语。可以想像在那种社会氛围中,当然不会有人愿意成为用汉语写作的作家。

   虽然新疆比西藏汉人多得多,从保持民族语言、避免语言同化的角度维族却比藏族做得成功,民族内聚性也更高。但是从民族表述的角度看,成功却又是在藏族一边。维吾尔人一是不屑于向汉人进行表述,即使是在不必担心政治迫害的国外社会,流亡维族人也拒绝与汉人对话,不参加与汉人有关的活动;二是缺乏能够提升到美学层面的表述能力,其有限的汉语表述大都是政治诉求和口号,对汉族不但缺乏感染和说服,反而容易引起抵触。

   一个典型现象是,中国内地的高档书店跟藏族有关的书堆满书架,长期热销,而跟维族有关的书却寥寥无几,无人问津。维吾尔族人口比藏族多,同样有悠久灿烂的文化,为什麽会有这种反差?上世纪八十年代中国汉地的出版社也曾有涉足新疆民族和伊斯兰文化的兴趣,但因为几本汉人写的书存在让穆斯林不满的内容,导致了包括维吾尔族在内的穆斯林激烈抗议和街头示威,甚至出现模仿霍梅尼对拉什迪发出的追杀令,威胁作者和编辑的生命,从此导致内地作者和媒体尽量远离跟穆斯林有关的内容。而维族又没有自己的汉语作家。由此形成一种回圈,越缺乏有关维族的汉文出版物,汉族对维族了解越少,越不容易形成兴趣和市场,汉文媒体也就越缺乏关注维族的动力。目前局面正是这样--汉人对维族完全陌生,对维族历史和文化几乎一无所知,对新疆问题的认识也局限於当局宣传。大多数汉人对维族不了解也不想了解,只有害怕和敌对。而这种局面对维族自身其实最为不利。藏族却因为宗教的包容性(也因为与汉族宗教相通),达赖喇嘛积极与汉人和解的路线,加上拥有众多用汉语写作的藏人文化人,与汉族之间文化交流密切,不断把西藏文化介绍给汉人,使其成为文化热点,甚至成为时尚象徵,产生众多“西藏发烧友”。美学层面的文化表述也把西藏政治问题带入汉人视野,使汉人逐步理解和同情西藏的立场。这种以柔克刚的力量可以给其他少数民族一些启发。当年成吉思汗的大军世界无敌,西藏不但没亡,反而蒙古族从此归依藏传佛教,不靠别的,正是靠文化的力量。  


王力雄:唯色事件(2)

2008-01-21 18:43:29 | Weblog

   文联党组:

   对《西藏笔记》的指责,主要集中於对宗教以及对西藏现实的看法。要我“过关”,则是要我承认信仰佛教是错误,承认我以自己眼光观察西藏现实不应该,必须在未来的写作中放弃宗教,以及对西藏现实的描述必须遵照官方口径,等等。对此我只能表示,这个“关”我过不了,也不愿过。而且在我看,这种“过关”有悖作家的天职和良心。目前,留在拉萨接受我不会接受的“教育”,既不会有结果,也给大家加不必要的麻烦,文联亦难以交差,因此我认为最好的选择是我暂时离开拉萨,在外地等候有关部门的最後处理。我愿意为我所做的选择承担一切後果。唯 色

   2003-9-14 到目前为止,唯色已经得到了如下惩罚:1、以“自动离职”的名义剥夺工作职位,使她丧失收入;2、没收住房,她目前只能在母亲家栖身;3、中止医疗保险和养老保险,使她失去全部社会保障;4、不批准她办理出国护照。可以说,除了关进监狱,能被剥夺的都剥夺了。在自由社会生活的人,甚至今天在中国内地生活的人都不会很清晰地理解上述惩罚对西藏人意味什麽。中国内地社会目前已分化出多种成分,在官方体制外拓展出相当空间,很多人因此可以不依赖体制生存和发展。西藏社会却因为现代化一元全部靠北京财政供养,无法真正分化,因此僧侣以外的文化人和知识份子几乎全被网罗在体制内。或者说,只有置身体制内才可能成为文化人,否则连生存都没有保证。

   我曾经感到不解,过去的苏联、东欧及今天的中国大陆都存在异议公共知识份子,以藏民族所经受的苦难,在国际上所受的支援和拥有的精神领袖,却除了民间底层和僧侣界一些默默无闻的反抗,始终未出现本地的异议公共知识份子。一个重要原因就是西藏知识份子没有离开体制而能生存的空间,体制因此具有生杀予夺的威力。把所有文化人都养起来的体制也就是把所有文化人都管起来的体制。不敢脱离体制也就不能反抗体制。目前对西藏的文化压制主要是通过体制控制来实行的。当局对唯色的惩罚就是一种杀一儆百。 

   文化帝国主义的惟我独尊

   当代的帝国主义不再仅仅是军事和政治的,也不再是一小撮帝国当权者的行为,必然同时也是文化的,而且是由帝国民众共同参与,从政治帝国主义扩大到文化帝国主义。如果说政治的帝国有一天可能分崩离析,或者被制度变革结束,文化帝国主义却不会有这样的“剧变”,因为文化帝国主义存在於每个统治民族成员的内心,已经化为集体潜意识,注定难以改变。文化帝国主义的表现首先是一种惟我独尊的傲慢。那种傲慢以群体和个体、自觉与不自觉的方式渗透在方方面面。从贡嘎机场去拉萨所经过的曲水县城,有一个具有典型文化帝国主义特色的“援藏项目”--“泰州广场”。广场占地极其巨大,吞噬无数良田,除了财大气粗的耀,很难解释必要性在哪里;整个广场完全是汉地风格,布置着亭阁、石桥、流水,与周围环境极不协调;广场中央一组金属架构顶着一个硕大的不 钢球,作为主流意识形态之科学与进步的象徵;一圈牌廊喷涂着中共领袖的画像和中共意识形态所制造的标语口号;广场耗资必然十分可观,却跟当地人没有关系,甚至根本不是为人所建。我在那广场上走了一遭。地面白色水泥砖反射的阳光刺人眼痛,脚下如同一个烤锅。草坪被铁栏围住,写着禁止入内的警告牌。人工河是在立陡深陷的水泥槽中,隔绝了人和水的接触。偌大广场只有两条石凳,遥遥对称,只是一种形式需要而不是供人休息之用,无遮无拦地暴露在大太阳下。我去的那天是星期天,照理休 的人该最多,广场上却不见人的踪影,周边宽阔的大街也如鬼街一样空空荡荡。这样的广场体现着帝国的居高临下、文化傲慢和财富耀,当地民族和文化完全不被放在眼中,既不发生联系,也不值得考虑和顾忌。或者仅仅是为了引起当地的 慕和自惭形秽,充当着文化帝国主义的楷模与方向标。它所象徵的是一种赤裸裸的文化暴力与占领。

   在统治西藏的中国官员中,文化上的傲慢处处体现。最常听到他们指责当地人懒惰、保守、没文化、素质低、不懂科学,缺乏商品意识和市场头脑等,夸耀的则是自己如何迫使当地人改变观念,整顿作风,奖勤罚懒等。一位在西藏自治区政府主管农业的“援藏”干部曾以他拍的照片向我证实西藏农民之“懒惰”。农田 有很多巴掌大的石块,就是不捡出去,不是懒是什麽?其实夏季西藏农区雨大且猛,雨水容易把泥土冲跑,平时阳光又格外强烈,田 水分蒸发过快。把石块留在田 ,下雨可压住泥土,防止水土流失,烈日时石块下又可保存水分,因此是西藏一种传统的保墒方法。然而汉人官员的头脑 ,从来不存在藏人可能比自己更聪明的意识。现任西藏自治区中共政法委书记、公安厅长杨松曾这样声称:“达赖几十年没见过西藏什麽样,有什麽资格谈西藏?我跑遍了西藏每一个县,我比他更有发言权。”先不说这种话良心如何,因为达赖喇嘛几十年不能见西藏正是帝国主义的结果。这种说法首先是缺乏常识。跑遍西藏所掌握的只是资讯,资讯不等於就是“了解”。真正的了解是出於文化,而帝国官员恰恰对当地民族的文化相隔鸿沟,充满偏见。杨松的言论突出地表现了他对文化的视而不见,这种浅陋甚至解答不了最简单的现象:许多殖民者终老在殖民地也不了解殖民地人民,而曼拉在监狱 闭塞了27年,难道就没有资格领导南非?这种傲慢不仅存在于官员,西藏的各种汉人都会认为自己高当地人一等。即使是叁轮车夫、水果小贩或包工队的力工,说起藏民都口气轻蔑,把他们视为愚昧落後。一位在西藏旅行考察的女作家对我说,她几乎放弃了正业,精力都用於指导各地的经济发展。她苦口婆心给当地官员上课,告诉他们如何发展市场经济,为他们设想应该搞的项目,细致到如何推动的细节。她气愤当地官员的冷漠,归结为他们的保守和懒惰。而在我来看,一个写诗歌散文的文人到了西藏就觉得自己无所不能,这种不自量力除了出於帝国主义式的文化优越感和惟我独尊,还能有什麽解释?我相信她是出於善意,但这种善意足以让我感到羞愧。

   1980年代自愿进藏的大学毕业生中有我不少朋友,他们不同於以前把“一生交给党安排”的进藏者,也不同于後来追逐功利的进藏者。作为空前绝後的一代,他们在现代西藏的历史上留下了不可磨灭的一笔。然而从文化帝国主义角度分析,他们同样也是帝国的成员和文化入侵的合谋者。虽然他们不再是政权机器的螺丝钉,而是个人主义者,但他们把自己视为充当星期五之主宰和启蒙者的鲁滨逊,西藏只是证实他们文化优越的道具和布景。他们身在西藏却始终与藏人隔绝,牢守着同类汉人的小圈子。他们不少人跑遍西藏的农村牧场和神山圣湖,却仍然只是外来的猎奇者或以胶卷文字进行占有的掘宝人。一幅名叫《乾杯,西藏》的油画,用23个人物表现了这个小圈子。其中除了叁个不会藏语、用汉语写作的汉藏混血作家,其馀都是内地进藏者。那幅画以一种殉难式的宗教画风格自我渲染了他们“进藏”的崇高与牺牲。然而不妨从画作者于小冬的一个例子来看他们如何对待当地的宗教与文化--“於小冬住在由教室改成的宿舍,房子非常高大,用巨幅的经幡做了几个不同功能的隔断……小冬说那种白相间的巨幅经幡只有在有神性的河边或者山顶才被藏民们树立。他费了好大的功夫和心思,在藏历年藏民们插新经幡的时候‘顺’来了这些经幡。”(张子阳,《西藏人文地理》创刊号,86页)过年时分挂到神山圣水祈求保佑的经幡带着藏人莫大的虔诚和期许,竟被偷来装饰和分隔自己的房间,这中间难道有任何文化上的理解与尊重吗?只有在完全不相通和无尊重的心态下才可能做出这种事。那不是於小东一个人的行为,而是那个小圈子集体的日常习惯。如果有机会看那些人的西藏收藏,几乎每人都有成堆的盗窃品。我不想把自己排除在文化帝国主义的影响之外,有时这并不取决於个人愿望。居住英国的藏族学者次仁夏加在批评我的文章时有这样一段话:“要让中国的知识份子客观地、通情达理地考虑西藏问题,无异於要让蚂蚁举起一头大象,那不是他们的能力和视野所能及的--无论这些人是中共官员、信奉自由主义的民运分子或者持不同政见的作家,情况都一样。他们的观念不能不受制於他们的民族偏见,他们的想像也无法摆脱所有殖民者都会自以为是的那些东西的束缚。”(《血染的雪域--对王力雄的回应》,林猛译)我能理解这种看似激愤过度的话。即使在中国最重视民族问题的民主派人士中,也一样存在文化帝国主义的意识。其典型便是大一统的思维。即使在推行民主理念时,他们也会自觉不自觉地采取惟我独尊、居高临下的姿态,自认可以对少数民族的诉求进行裁决,划定只许追求民主、不许追求独立的底线,而不愿意在受压迫民族的立场上进行思考与理解。

   汉人民主派一般都不承认中国存在民族压迫,而是归结为专制压迫,并以汉族人民受同样压迫为理由,要求少数民族与汉族一道为中国民主化奋斗,而不该单独追求本民族目标。但事实并非如此,一方面专制压迫对不同民族有很大的区别,如汉族学者写出《讨伐中宣部》的檄文,汉族记者发表训斥团中央书记的公开信,都未波及其在体制内的地位,唯色仅仅在书中说了一句对达赖喇嘛的崇敬,描述了一下尼玛次仁的困惑,就被剥夺掉一切,怎麽能说是受同样压迫?到过汉地的少数民族人士有共同感慨,汉人敢於发表的言论如果出自少数民族,早就会关进监狱。另一方面即使在汉族民主人士心 ,也存在一个不说出口的共识--未来的民主中国将不惜对坚持独立的少数民族发动战争,也要保持国家统一。这就不是专制政权对各民族的共同压迫,而成了汉民族对少数民族的压迫。处於专制压迫下的汉族普通百姓也往往在民族问题上自觉追随帝国,尤其是民族混居地区的汉族百姓--如新疆生产建设兵团从内地招来的民工--不仅在帝国指挥下参加对当地民族的镇压,不少人还表现得十分踊跃。一种貌似公允的观点是:应该强调共同的人性,不要强调不同的民族性,按客观标准、法律和民主程序平等对待一切,不能因为民族不同而区别对待,以免人为地激发民族冲突。但是任何标准、法律和程式都不是纯粹客观的,都与文化密不可分。文化帝国主义既然不会随政治民主化同时消失,还会在主体民族的多数成员意识中长期存在下去,那种情况下的不分民族,结果就只能是被主体民族主导,成为对弱小民族的实际不公。尤其是在主体民族和少数民族人口相差巨大的情况下,代议制民主更可能忽略少数民族的权利。那时没有民族主义的坚守,少数民族的文化就会被多数民族的文化窒息,同时又在民主旗帜和现代化话语面前失去反抗权利。  


王力雄:唯色事件(1)

2008-01-21 18:40:36 | Weblog
西藏面对的两种帝国主义——透视唯色事件王力雄(北京)
出典:http://www.boxun.com/hero/wanglx/132_1.shtml

   政治帝国主义的文化压制

   由於帝国主义的坏名声和文明社会对其的否定,简单的领土扩张和财富掠夺已非当今帝国主义的主要形态,即使仍然保持着占领和殖民,也要披上有利於当地民族的外衣,包括进行经济援助,以文明上的优越姿态和物质上的恩赐者自居。在这个时代,帝国主义更多地体现于文化方面。

   目前关於西藏问题的争论,文化是一个焦点。针对外界批评,中国政府列举诸多实例说明其对西藏文化的保护--维修寺庙、保护文物、推行藏文教育、规定使用双语、挽救失传艺术等。而国际社会与西藏流亡者在这些方面指责中国,同样可以举出很多实例。双方的结论却截然相反。在我看来,从这个角度争论文化是一种偏离。因为民族文化首先不是别的,而是民族的自我表述。这种表述并非只是复述历史和表演传统,更重要的是对本民族现实处境的感受、思考和诉求。既便是对历史与传统的表述,也只有发自民族本体,并与民族现实意识结合在一起,才是活的文化。否则失去民族的自我,割断了与现实的联系,文化就成为空壳和傀儡,徒具形式而不再具有生命。

   举例说,即使把民族文字保留得再好,但是不允许用民族文字诉说民族的真实感受,只能复述帝国统治者的声音,那种文字还有多少真实的文化意义?因此判断民族文化是否得到保护,主要的衡量不是对传统的保留,更不是投资数量的多少。

   从这个角度看,中国当局对西藏文化的破坏和压制就变得清晰--不管它做了多少其他事情,它恰恰不允许藏民族进行自我表述。一切表述都在它的控制之下,任何突破都要受到惩罚。西藏女作家唯色的遭遇就是一个例证。唯色是一个用汉语写作的西藏女作家,1966年生於拉萨,在四川藏区长大,1988年毕业於西南民族学院汉语文系,当过甘孜州报记者,1990年调拉萨任《西藏文学》杂志编辑,个人着作有《西藏在上》、《绛红色的地图》、《西藏笔记》等。给唯色惹来麻烦的是《西藏笔记》一书。《西藏笔记》是唯色的一本散文集,2003年由广州花城出版社出版。一方面受到读者欢迎,很快再版,一方面引起了当局注意。首先是中共统战部认为该书有“严重的政治错误”。西藏的意识形态负责人随即要求就《西藏笔记》一书进行审查,同时禁止在西藏销售《西藏笔记》一书,随後又要求广东省新闻出版局全面查禁《西藏笔记》。唯色所在单位西藏文联对《西藏笔记》做了这样的结论:“夸大和美化宗教在社会生活中的积极作用,在个别文章中流露出对达赖的崇信和敬仰,甚至有的内容表现出狭隘的民族主义思想和不利於国家统一、民族团结的观点和言论;有的内容对西藏改革开放几十年所取得的巨大成就视而不见,过多沉湎於对道聼涂説的旧西藏的怀恋,出现了错误的价值判断,背离了正确的政治原则,丧失了一名当代作家所应承担的社会责任和建设先进文化所应承担的政治责任。”中国新闻出版总署的副署长石峰继而在出版工作会议上对《西藏笔记》进行了重点指责,称该书“存在赞美十四世达赖喇嘛、十七世噶玛巴,崇信和宣扬宗教等严重的政治立场、观点错误。有些篇什已经在某种程度上进入某种政治误区。例如,《尼玛次仁》《丹和他的儿子》等篇什,前者描写着名的宗教人士尼玛次仁在国际会议上与达赖支持者相遇的那种困惑,反映出作者对达赖分裂祖国、鼓吹西藏独立的本质认识模糊的观念;後者则流露出对当年平叛斗争有某种误解”(2004年2月23日,见中国发行英才网《图书出版通讯》总第22期)。上述对《西藏笔记》一书的指责,全盘是用帝国意识否定藏民族的自我意识。把“崇信和宣扬宗教”定性为“严重的政治立场、观点错误”,这在任何社会都是不可思议的。唯色本人是一个藏传佛教信徒,赞美其宗教领袖达赖喇嘛与噶玛巴本是天经地义,只有殖民者才会因为民族压迫的需要将其列为罪状;而因为没有歌颂“几十年所取得的巨大成就”,“沉缅於对道聼涂説的旧西藏的怀恋”,就是“错误的价值判断,背离了正确的政治原则”,丧失了作家的“社会责任”和“政治责任”,则充满了帝国主义的霸道与强词夺理。《西藏笔记》在中国的审查制度下得以出版某种程度上可算奇迹。也许因为广东在中国首屈一指的商业化环境,成为相对宽松自由之地,才使《西藏笔记》能够面世。其中被新闻出版总署点名的《尼玛次仁》一文,深刻地表达出了被压迫民族的压抑和无奈。从一位维吾尔族读者用不准确的汉语写给唯色的电子邮件中,可以看出所引起的共鸣:

   我正在看您的书,尼玛次仁在挪威的时候小姑娘跟他说完话以後我很难受,难以控制自己自然的很很的哭了一囤。反复念了几回。谁知道他回答姑娘的提问哪一段的时候我无法控制自己大声的哭开了,我一个人哭了很长时间。好象有个东西很很的挤我的心,我这个微弱心脏难以承受。我很想大声的喊……可惜我没有哪个勇气,我比尼玛次仁可怜的多。《西藏笔记》被封杀时,唯色正在北京鲁迅文学院参加期刊主编高级研讨班,西藏文联此前考虑让她担任《西藏文学》副主编。但事情一出,西藏方面马上中止她的学习,将她召回拉萨,成立专门的“帮教小组”对她进行“思想教育”,要求她“检讨”和“过关”。上面引号中的词是中共的专用辞汇。那是一整套精神控制的方法和手段,被形象地称作“整人”。其核心在於迫使人在强权面前屈膝,放弃独立与尊严,经过不断反复和记录在案的自我否定,在充分满足中共的要求後,再被批准“重新做人”,从此不敢越轨,还要感恩戴。这套手法中共用了几十年,已经化作其各级组织的本能,一有需要就会自动启动。多数人遇到这种情况都会屈服,以求过关,这在中国已是多年通行的方式,人们也久已习惯了这种政治文化,并不为耻。唯色如果这样做,固然不可能再提升主编,还可能下放农村改造思想,但至少可以保住每月工资。这在体制外空间相当狭窄的西藏是非常被人看重的。用藏族语言形容,有工资就像家 养了奶牛,每天都有奶喝。

   但唯色不能那样“过关”,因为她首先过不了自己的信仰关。既然她被指责“赞美十四世达赖喇嘛”,就只有反过来抨击十四世达赖喇嘛才可能“过关”,至少也得重复当年主管民族工作的中共政治局常委李瑞环所说--“达赖是图谋西藏独立的分裂主义政治集团的总头子,是国际反华势力的忠实工具,是在西藏制造社会动乱的总根源,是阻挠藏传佛教建立正常秩序的最大障碍”。可唯色怎麽能够对自己的宗教领袖说出这种话呢?说达赖喇嘛在西藏制造社会动乱,阻挠藏传佛教建立正常秩序,难道不是颠倒白?她不能这样说,无论是出於宗教还是良心。在佛教中,攻击上师是重大的罪孽;而究竟是谁走了达赖,屠杀了几十万藏人,毁灭了西藏所有寺庙呢?他们才是在西藏制造社会动乱、阻挠藏传佛教建立正常秩序的罪魁祸首呀。西藏前中共书记陈奎元“整顿寺庙”的时候,曾要求每一个西藏僧侣都得亲笔写下李瑞环对达赖的定性,谁不写就会被驱离寺庙。不过藏文中的“是”和“不是”只差一个点,一些僧人用难以察觉的笔触在那四个“是”上加一点,以求既能过关,又不攻击上师。然而唯色是无法这样做的,她是一个用汉语写作的作家,汉语中的“不是”并非多一个点,而是多一个字,没有蒙混过关的可能。面对当局每天的车轮战--各种角色轮流找她和她的家人“做思想工作”(实质是一种对人精神的虐待和摧毁),极大的精神压力和整日骚扰使她不堪重负,这时又指派她去青藏铁路工地“接受教育”,而她一直对修建青藏铁路持反对态度。她知道自己缺乏和那个体系对抗与周旋下去的力量,於是选择了出走,离开西藏。走前她给西藏文联最高决策核心--中共党组留下一封信,题为《我永远是一个信仰佛教的西藏作家》。全文如下:


武宜三:2007年炭鉱事故の部分記録(6)

2008-01-21 17:49:19 | Weblog

154、2007年10月25日,重庆南川县南平镇跃进煤矿发生瓦斯爆炸事故,10人死亡、1人失踪。华龙网2007-10-18 11:06讯(日报记者郭晓静)记者昨日从重庆市经委获悉,自2005年4月以来到目前,全市已连续29个月未发生10人以上特大煤矿安全事故,为历史最长周期。今年以来,全市进一步建立健全煤矿安全生产责任制,并大力实施煤矿整顿关闭和瓦斯集中整治两个“攻坚战”,在推进质量标准化、煤矿水害防治、安全基础管理等方面取得明显成效。据悉,全市煤矿在2006年创造安全生产历史新水平的基础上,今年1—9月份,累计发生死亡事故198起、死亡242人,同比事故次数减少21次、死亡人数减少34人,分别下降9.59%、12.32%;百万吨死亡率8.14,与去年同期相比下降19.8%。截至9月底,全市创造安全生产1000天以上的小煤矿达到369个。死亡242人,却被重庆市当作“29个月无特大煤矿安全事故”的政绩来吹嘘。

155、2007年10月27日,陕西安康地区安康市大竹园煤矿发生顶板事故,造成5人死亡。

156、2007年10月28日,江西抚州市乐安县零线煤矿井下发生一起透水事故,10人被困。

157、2007年11月02日,山西忻州市金乐煤业有限公司井下发生坍塌事故。4名遇难,5人失踪。

158、2007年11月3日,广东省韶关乐昌市梅花镇温伟华煤矿,3名矿工下井挖煤时窒息身亡,遇难者为王新木、王平锋、张春发。梅花镇政府最初提出每个死者补偿1.8万元丧葬费,遭家属拒绝后,经过讨价还价,最后提高到了4万元,但家属仍没同意。2005年8月7日,兴宁大兴煤矿发生特大透水事故,123名矿工遇难。随后,广东省政府决定全面退出煤矿行业,封停关闭全省所有煤矿。梅花镇党委副书记傅仙宝否认当地存在小煤窑。但记者在邝家岭和象公岭(音)却目睹了多家正在开采的煤窑。多名煤矿老板和矿工都向记者提到,也曾有梅花镇政府工作人员前去这些煤矿检查,但煤矿老板给了他们钱后,他们就会睁一只眼、闭一只眼,煤矿就可以继续开采。

159、2007年11月07日,龙江省七台河市长城煤炭有限责任公司二井发生瓦斯爆炸,6人死亡。

160、2007年11月7日,重庆开县三汇口乡分水村碳厂湾煤矿发生安全事故,3名矿工死亡。按照国家规定,煤矿发生安全事故,应在1小时内逐级上报。而开县一煤矿发生一次死亡3人的较大事故后,竟隐瞒不报长达一个多月。矿主已被刑拘。

161、2007年11月08日,下午2时10分,贵州毕节地区纳雍县群力煤矿发生煤与瓦斯突出事故,35人死亡,七人受伤。
   
162、2007年11月12日,河南平顶山煤矿集团公司十矿发生一起煤与瓦斯突出事故,当班下井24人,其中12人安全升井,11人被困井下,1人遇难。13日,发现3名遇难者。14日,遇难者至4人。18日宣布说:“12名矿工的遗体全部找到,抢险救援工作宣布结束。”平煤集团原煤年产量超过3千万吨,2006年销售总收入220亿元,是国家规划建设的十三家大型煤炭基地之一。平煤集团十矿年核定生产能力为290万吨。可是,这要用多少矿工的生命来换取,一条矿工的生命又值多少钱呢?

163、2007年11月13日,山西吕梁地区孝义市兑镇郝家寨一关闭煤矿发生坠罐事故,造成7人死亡。
 
164、2007年11月20日,甘肃张掖地区九条岭煤业集团水磨沟煤矿发生局部瓦斯爆炸,8人死亡。
 
165、2007年11月22日,贵州毕节地区织金县后寨乡永发煤矿发生顶板事故,造成3人死亡。
 
166、2007年11月29日,山西吕梁地区文水县靛头煤矿井下发生瓦斯爆炸事故,死亡5人。
 
167、2007年12月2日,23时40分,河南新安县石寺镇寺沟煤矿发生透水事故,当时井下48人作业,6人获救,42名矿工下落不明,该矿为无证煤矿。

168、2007年12月2日,早6时50分,贵州六盘水市水城县阿嘎乡仲河煤矿发生瓦斯爆炸事故,事故发生时井下有31人,其中15人安全撤离,16人遇难。六盘水近期连续发生三起特大事故。

169、2007年12月2日,早9点,云南省昭通地区镇雄县乌峰镇陈贝屯村狮子山煤矿发生气体爆炸,造成18人死亡、43人下落不明。镇雄县副县长李春香表示,按照云南省政府相关规定,赔偿标准为事故发生区域年人均工资的11倍,按此计算,对事故每名死者应赔偿16.68万元。镇雄县在以往矿难实际赔偿中,最高赔偿额20万元,最低赔偿额17万元,赔偿标准不分本地人和外地人,不分职务大小。这是云南省继去年曲靖市富源县昌源煤矿“11.25”特别重大瓦斯爆炸后,又一造成重大伤亡的矿难。

170、2007年12月3日,山西忻州市鑫旺煤业有限公司果树沟煤矿发生一氧化碳中毒。7人死亡。

171、2007年12月5日,23时15分,山西省临汾市洪洞县瑞之源煤业有限公司新窑煤矿发生特大瓦斯爆炸事故,造成105人遇难。据初步调查,该矿管理混乱,严重违法超层越界开采,没有安装瓦斯监控系统,超定员、超能力组织生产,甚至在井下违规使用三轮车作业。可谓“五毒俱全”。但又是六证齐全。从山西省委获悉,临汾市市长李天太因洪洞“12.5”特大煤矿事故被免职。山西省委常委会议研究决定,免去李天太同志临汾市市委副书记、常委、委员职务,提名免去其临汾市市长职务。洪洞县相关领导透露,目前的补偿标准为每位遇难矿工家属可得21.5万元。已有72名遇难矿工家属与政府达成补偿协议。然而,11日,部分家属反映,“达成协议的并没有那么多,很多家属对补偿标准不满,谈判陷入僵持。”

172、2007年12月5日17时30分,陕西榆林市神木县中鸡镇瓜地湾煤矿(乡镇有证)井下发生一起瓦斯中毒事故,造成3人死亡。

173、2007年12月8日,8时30分,陕西渭南市韩城市桑树平镇野鸡岭煤电联办煤矿(乡镇有证)发生一起燃烧事故,当班9人下井作业,其中6人升井(1人受伤)、3人死亡。

174、2007年12月10日21时,贵州安顺市关岭县桐木煤矿(乡镇新建煤矿,持有采矿许可证、工商营业证、矿长资格证、矿长安合资格证),设计能力15万吨/年,发生一起瓦斯窒息事故,死亡3人。

175、2007年12月10日,6时40分,河南焦作市焦作煤业集团公司韩王庄煤矿21回风探巷,在回棚作业时,发生一起冒顶事故,造成4人遇险。

176、2007年12月11日,4时,陕西渭南韩城市兴隆煤矿(在建乡镇煤矿),设计年生产能力30万吨/年,发生瓦斯突出事故,5人被困。

177、2007年12月12日,16时16分,江西上饶市上饶县黄沙岭乡大桥煤矿(证照齐全)发生透水事故,4人被困。

178、2007年12月20日,15时30分,贵州贵阳市清镇市同春煤矿井下603风巷距工作面8米处发生一起顶板事故,5人被困。经抢救,2人生还,还有3人被困。

179、2007年12月23日,14时0分,辽宁南票煤电公司大窑沟煤矿(国有重点)-800水平一区八石门采煤工作面采空区发生大面积冒顶,造成5人下落不明。

180、2007年12月24日,21时10分,内蒙古自治区阿拉善盟太西煤集团陡崖沟煤矿发生溃水事故,4人被困井下,全部遇难。

181、2007年12月29日,18时33分,龙江省牡丹江市穆棱市顺发煤矿井下发生瓦斯爆炸事故,19人遇难。事故矿井是在停产整改期间私自开工生产导致了事故的发生。目前,包括矿主、法定代表人、安全矿长等煤矿主要负责人已被当地警方监控。警方同时封存了顺发煤矿的井下资料,冻结了企业的账号。国家安全生产监督管理总局、国家煤矿安全监察局在北京召开2008年首次全国安全生产视频调度会,国家安全监管总局局长李毅中传达了国务院温家宝总理12月30日就对牡丹江市顺发煤矿“12.29”事故作出重要批示,提醒务必认清重特大事故多发、事故总量仍然较大的严峻形势,防止和克服松懈情绪,吸取教训、举一反三,采取针对性措施,落实整改治理,切实抓好岁末年初的安全生产工作,有效防范重特大事故,确保今年的工作有一个好的开端;指出近来煤矿事故较多,要求我们加强安全监管工作。华建敏批示,要求全力施救,避免次生事故,查明原因,严肃追究责任。在中央经济工作会议总结讲话中,温家宝总理强调要做好岁末年初的安全生产工作,抓住重点行业,全面排查治理重大隐患,防范重特大事故。周永康、华建敏一个时期来也反复告诫我们,必须充分认识安全生产的长期性、艰巨性和复杂性,持续不懈地抓好工作,进一步加大力度,严防事故反弹,巩固发展已经取得的成果。


武宜三:2007年炭鉱事故の部分記録(5)

2008-01-21 17:48:37 | Weblog

109、2007年08月07日,贵州毕节地区垄华煤矿发生透水事故,12人遇难。

110、2007年08月10日,云南昭通地区绥江县板栗乡一煤矿探矿点发生窒息事故,3人死亡。

111、2007年08月11日,新疆昌吉州昌吉市晋煤煤矿公司采空区有毒气体溢出,造成7死亡。

112、2007年08月14日,江西宜春市吴山联营煤矿井下发生瓦斯爆炸事故,死亡5人,1人轻伤。

113、2007年08月14日,江西赣州市于都县工农煤矿井下发生透水事故,7人下落不明。

114、2007年08月16日,云南昭通地区张家院煤矿发生一起顶板事故,3人失踪。

115、2007年8月17日,14时30分,山东新汶因连日突降暴雨,山洪暴发,导致柴汶河东都河堤被冲垮。洪水涌入山东华源矿业公司发生溃水淹井事故,有172名矿工被困井下。9月7日,事故抢险救援指挥部生命科学专家组分析,被困矿工已无生还可能。即172名矿工全部死亡。

116、2007年8月18日,晚10时许,北京市房山区史家营乡金鸡台村采煤点发生塌冒事故,有几名矿工被困,事故发生的第三天即20日中午,该市国土局、市安监局、房山区政府办、区安监局、区国土局及市矿山应急救援抢险队等部门开会讨论决定停止救援,理由是“事发地属于采空区”,被困人员已不具备生存条件,继续救援极易造成次生事故危及救援人员安全。8月24日上午10点左右,被困在地下矿井5天半的煤矿工人孟宪臣和孟宪有兄弟在有关部门停止救援之后,挖掘五天半,靠喝彼此的尿液止渴,从矿井里逃了出来。他们的死里逃生,“让当地政府尴尬”,对此,哥哥说,“我俩就不该出来,不出来就是英明决策。也就是说我俩太无聊了。”因为“调查的人审问我们,一问就是很久。问题过来过去就是在说,我们是非法矿工。”当时作出决定的“市国土局、市安监局、房山区政府办、区安监局、区国土局及市矿山应急救援抢险队等部门”该承担什么样的责任?

117、2007年08月21日,龙江鹤岗矿务局富力煤矿发生“汽崩”,3人死亡、5人重伤、5人轻伤。

118、2007年08月23日,湖南衡阳市公平三矿发生瓦斯爆炸事故,造成6人死亡。

119、2007年08月24日,贵州贵阳市站街煤矿发生一起顶板事故,造成2人死亡,1人失踪。

120、2007年08月25日,内蒙哲里木盟霍林郭勒市利源煤矿发生瓦斯爆炸事故,7人死亡。

121、2007年08月27日,重庆巫山县笃坪乡梅家湾煤矿发生透水事故,6人下落不明。

122、2007年08月28日,湖南怀化市芘芭湾探矿井(煤矿)发生瓦斯爆炸事故,9人下落不明。

123、2007年08月28日,山西阳泉市河底镇康裕煤矿井下发生顶板事故,死亡5人。

124、2007年08月30日,广西百色地区百色市一非法煤矿发生一起窒息事故,造成3人死亡。

125、2007年08月30日,湖南邵阳市振兴煤矿发生一起煤与瓦斯突出事故,3人死亡。

126、2007年08月30日,贵州贵阳市福星煤矿井下发生透水事故,死亡3人。

127、2007年08月31日,贵州遵义市雷家山煤矿发生煤与瓦斯突出事故,1人死亡、5人失踪。

128、2007年8月31日,8时50分左右,河南省平顶山市宝丰县大营镇顺利煤矿井下发生爆炸事故,“初步统计”有12人下落不明,但是被困矿工生还的希望渺茫。中国官方统计显示,中国去年共发生2,845起煤矿事故,造成4,746人死亡,平均每天有13人死亡。(新华社8月31日报道)

129、2007年09月05日,13时20分左右,山西省大同煤矿集团轩岗煤电公司刘家梁煤矿发生顶板事故,先是“7名矿工被困”,后是“3人死亡、5人重伤、2人轻伤;6日晚间,又证实“造成5人死亡,另有3名重伤矿工在轩岗医院进行抢救”。

130、2007年09月09日,江西景镇市五一煤矿井下发生一起顶板事故,死亡4人。

131、2007年09月10日,湖南郴州市大岭煤矿发生一起跑车事故,造成3人死亡。

132、2007年09月19日,山西大同市左云县胡泉沟煤矿发生火灾事故,3人死亡、15人下落不明。

133、2007年09月20日,贵州六盘水市兴隆煤矿(关闭矿)发生垮塌事故,6人死亡,1人受伤。

134、2007年09月25日,四川宜宾市高县凉风煤矿发生顶板事故,造成3人死亡。

135、2007年09月25日,西藏昌都地区马查拉煤矿(无证)发生透水事故,死亡3人,3人被困。

136、2007年09月27日,湖南郴州市复和乡高一煤矿,发生跑车事故,6人死亡,2人重伤,5人轻伤。

137、2007年10月06日,云南红河州弥勒县小平坎二工区煤矿发生一起顶板事故,造成4人死亡。

138、2007年10月06日,云南曲靖市富源县顺兴煤矿发生瓦斯爆炸,9人死亡,1人被困,3人轻伤。

139、2007年10月07日,福建龙岩市永定县抚市镇铲坑煤矿井下发生透水事故,造成5人死亡。

140、2007年10月08日,湖北恩施州建始县红星煤矿发生顶板事故,造成3人死亡。

141、2007年10月08日,重庆黔江县黔欣煤矿井下发生透水事故,1人死亡,2人失踪。

142、2007年10月10日,新疆伊犁州伊宁县凯悦煤矿(乡镇有证)井下发生运输事故,死亡3人。

143、2007年10月10日,贵州遵义市赤水市岔角煤矿(地方国有)井下发生顶板事故,死亡3人。

144、2007年10月12日,贵州黔南布州荔波县高容煤矿井下发生透水事故,4人死亡。

145、2007年10月13日,江西丰城矿务局建新煤矿发生瓦斯突出事故,16人死亡3人被困,2人受伤。

146、2007年10月14日,贵州黔东南州丹寨县南皋乡太平煤矿发生断绳跑车事故,造成3人死亡。

147、2007年10月16日,贵州六盘水市盘县罗家田煤矿井下发生煤与瓦斯突出事故,4人死亡。

148、2007年10月16日,贵州黔西南州普安县楼下镇雨中贵全煤矿井下发生透水事故,5人被困。

149、2007年10月19日,甘肃白银市靖远县王家山第二煤矿发生透水事故,5人被困。

150、2007年10月22日,江西上饶市横峰县银英煤矿发生一起瓦斯爆炸事故,3人死亡、6人受伤。

151、2007年10月22日,山西阳泉荫营煤矿矿区发生塌陷事故,2人受伤,13人死亡。

152、2007年10月22日,湖南娄底市冷水江市青松煤矿发生瓦斯窒息事故,死亡3人,1人受伤。

153、2007年10月24日,青海海西州开源煤矿矿上有3人在废弃的盲巷里死亡。


武宜三:2007年炭鉱事故の部分記録(4)

2008-01-21 17:47:26 | Weblog

63、2007年5月6日,上午11时左右,五台县白家庄镇窑头煤矿瓦窑坪坑口发生一起矿难,造成1名矿工遇难。

64、2007年05月07日,湖南邵阳市邵阳县蔡桥乡算盘村煤矿发生一起顶板事故,3人死亡。

65、2007年05月07日,四川广安市华蓥市溪口煤矿发生煤与瓦斯突出事故,3名工人下落不明。

66、2007年05月08日,新疆昌吉州米泉市向阳煤矿下罐时发生坠罐事故,造成3人死亡。

67、2007年05月08日,四川宜宾市南溪县木冲煤矿井下发生瓦斯爆炸事故,6人下落不明。

68、2007年05月10日,贵州毕节地区金沙县贵源煤矿发生瓦斯突出事故,3人下落不明。

69、2007年05月14日,四川眉山市洪雅县花溪煤矿施工放炮后,4名工人被煤炭掩埋致死。

70、2007年05月14日,龙江鸡西市鸡东县宏源煤矿发生瓦斯爆炸事故,7人下落不明。

71、2007年05月15日,新疆巴音郭楞轮台县轮台宝山煤矿发生瓦斯爆炸,4人死亡,3人失踪。

72、2007年05月16日,河南郑州市马岭山煤矿(非法矿)发生煤与瓦斯突出事故,5人死亡。

73、2007年05月19日,龙江鸡西市城子河区振兴煤矿发生瓦斯爆炸事故,8人死亡。

74、2007年05月20日,四川达州市达县狮儿沟煤矿发生瓦斯爆炸事故,2人死亡,5人失踪。

75、2007年5月22日,河南渑池矿难,瓦斯爆炸8名矿工遇难。

76、2007年05月23日,四川泸州市泸县兴隆煤矿发生瓦斯爆炸事故,13人死亡,7人受伤。

77、2007年05月24日,云南昭通地区镇雄县雨河镇路家沟煤矿,发生透水事故,4人死亡。

78、2007年05月24日,湖南郴州市临武县金江镇凤凰岭煤矿发生瓦斯突出事故,7人死亡。

79、2007年05月30日,湖南娄底市新万三煤矿发生煤与瓦斯突出事故,2人死亡,4人失踪。

80、2007年06月03日,山西忻州地区静乐县泥河岭煤矿发生瓦斯爆炸事故,13人死亡。

81、2007年06月05日,辽宁本溪市本溪县永盛煤矿发生一起瓦斯事故,4人死亡、1人受伤。

82、2007年06月07日,内蒙赤峰市林西县鲁金矿业公司(煤矿)发生土层塌方,3人死亡。

83、2007年06月07日,贵州盘江煤电(集团)公司金佳煤矿发生煤与瓦斯突出,4人死亡。

84、2007年06月09日,重庆合川县三汇镇小湾煤矿榆钱井发生瓦斯事故,造成3人死亡。

85、2007年06月13日,内蒙阿拉善盟宗别立柴沟煤矿民工私自下井发生坍塌,3人死亡。

86、2007年06月14日,贵州遵义市习水县仙源万金煤矿发生瓦斯爆炸,4人受伤,9人死亡。

87、2007年06月20日,云南楚雄市罗家箐(非法矿)发生瓦斯爆炸,5人死亡、1人受伤。

88、2007年06月24日,21时许,山西运城地区河津市原子沟煤矿发生透水事故,9人死亡。事故发生后,李建康、杨雨龙、毛军强和矿方负责人开会商议,隐瞒事故造成人员伤亡的真实情况,延误了事故的抢救和调查工作。 

89、2007年06月24日,辽宁阜新市隆兴煤矿发生火灾事故,4人死亡。

90、2007年06月24日,广西百色地区憧舍屯一非法煤矿发生一起透水事故,7人被困井下。

91、2007年07月05日,山西临汾地区乡宁县凡水渠煤矿井下发生透水事故,9人死亡。

92、2007年07月06日,四川芙蓉集团珙泉煤矿井下发生顶板事故,5人下落不明。

93、2007年07月07日,贵州毕节地区黔西县太来乡大水涧煤矿发生顶板事故,3人被困。

94、2007年07月10日,辽宁抚顺市章党煤矿发生瓦斯事故,1人死亡、2人失踪、2人受伤。

95、2007年07月12日,湖南郴州市石碧下煤矿发生瓦斯突出事故,3人死亡。

96、2007年07月13日,重庆合川县三汇镇磨子沟煤矿, 发生瓦斯事故, 死亡4人。

97、2007年07月14日,山西运城地区原子沟煤矿发生瓦斯爆炸事故,3人死亡,2人被困。

98、2007年07月17日,云南大理旭晶煤矿发生煤与瓦斯突出事故,2人死亡,4人下落不明。

99、2007年07月18日,湖南郴州市庙背冲煤矿井下发生一起透水事故,5人下落不明。

100、2007年07月20日,重庆南桐矿业集团鱼田堡煤矿发生煤与瓦斯突出,4人下落不明。

101、2007年07月21日,辽宁阜新市太平区鑫发煤矿发生瓦斯爆炸,造成7人死亡。

102、2007年07月22日,山西吕梁地区马圐圙煤矿发生塌陷,洪水进井,2人死亡,9人被困。

103、2007年07月23日,云南曲靖市兴源煤矿发生垮塌,3人死亡。

104、2007年07月25日,四川宜宾市兴文县大坪煤矿发生煤与瓦斯突出,3人死亡、1人受伤。

105、2007年07月26日,甘肃武威地区天祝县建园公司东拉煤矿发生顶板事故,死亡3人。

106、2007年07月26日山西吕梁地区庆平煤矿有限公司发生透水事故,造成8人被困。

107、2007年7月29日,8时30分许,河南省陕县支建矿业有限公司支建煤矿东风井发生透水事故,造成70人被困井下。8月1日,被困矿工全部获救。【东北煤炭网说“被困69人”,但中央政府门户网站www.gov.cn说“被困70人”;到底被困多少人?】

108、2007年08月03日,陕西渭南市黄河公司盘龙煤矿发生瓦斯突出,4人死亡、4人失踪。


武宜三:2007年炭鉱事故の部分記録(3)

2008-01-21 17:44:48 | Weblog

18、2007年02月27日,山西运城地区平陆县高家底一无证煤矿井下发生坍塌事故,4人被困。

19、2007年03月01日,江西赣州市宁都县黄贯煤矿井下发生瓦斯窒息事故,造成3人死亡。

20、2007年03月06日,湖南邵阳市邵东县宏发煤矿在维修巷道时发生瓦斯爆炸,15人死亡。

21、2007年03月10日,重庆永川县红炉镇金源煤矿发生透水事故,4人死亡,1人下落不明。

22、2007年03月10日,贵州六盘水市六枝特区新窑乡播雨煤矿井下发生顶板事故,3人死亡。

23、2007年03月10日,辽宁抚顺矿业集团公司老虎台矿发生透水事故,27人死亡,2人失踪。

24、2007年03月12日,云南昭通地区盐津县孙志忠非法煤矿发生瓦斯燃烧,3人死亡、2人重伤。

25、2007年03月14日,河南郑州市贾峪煤矿发生煤与瓦斯突出事故,3人死亡,5人失踪。

26、2007年03月15日,山西临汾地区硬家沟煤矿,在拆除设备时巷道发生冒顶,3人被困。

27、2007年3月18日,18时30分,山西省晋城市城区西上庄办事处苗匠煤矿发生瓦斯爆炸,21名矿工全部遇难。

28、2007年03月21日,湖南郴州市嘉禾县钟水乡门头窝煤矿发生瓦斯突出事故,4人下落不明。

29、2007年03月21日,湖南邵阳市新邵县雀塘镇联群煤矿发生跑车事故,5人死亡、1人轻伤。

30、2007年03月22日,河南平顶山市汝州市半坡阳商酒务煤矿发生透水,1人受伤、15人死亡。

31、2007年03月25日,贵州六盘水市盘县特区乐民镇刘家田煤矿发生瓦斯爆炸事故,6人死亡。

32、2007年03月26日,山西吕梁地区汾阳市杨家庄镇南偏城煤矿发生炸药燃烧事故,14人死亡。

33、2007年3月27日,2时38分,贵州省水城矿业(集团)公司汪家寨煤矿发生煤与瓦斯突出事故,造成10人死亡。
 
34、2007年3月28日,11时30分左右,山西省临汾市尧都区一平垣乡余家岭煤矿发生瓦斯爆炸事故,造成26名矿工遇难。中国官方数据显示,3月份全国共发生煤矿事故99起,造成297人死亡或失踪,比2月上升了超过1.5倍。

35、2007年03月31日,陕西榆林市神木县庙湾煤矿发生一氧化碳中毒事故,4人死亡、5人受伤。

36、2007年04月01日,湖北黄石大治市还地桥镇三井煤矿发生透水事故,1人死亡、2人被困。

37、2007年4月1日,湖南省湘西自治州花垣县矿难。2006年垣县龙潭镇糯米冲矿区角弄地段“5?1 7” 矿洞塌陷矿难死亡数十人,地方两级政府上下配合默契,对外统称:“事故当天停电,没有人员伤亡!”上级检查人员不查电力部门的《供电日志》,加上挖开矿洞工作量大,和少数民族地区语言障碍,不熟悉民情,故2006年花垣县矿难以“除1人在地表受伤外,未发现死亡、失踪人员”而不了了之;http://search.hunan.gov.cn/inforadarpub/hnww_search_wzqsearch_xl.jsp?record=72597&back=-8&channelid=75142
今次出矿难,死亡数十余人,由于地方政府有了一整套处理矿难经验:快速消灭矿难迹、重金安抚家属、严格封锁消息、层层落实封锁责任制、不惜用各种方式贿赂上级检查人员、编造合情合理的理由向上汇报。http://bbs.news.mop.com/viewthread.php?fid=2&tid=54487
 
38、2007年4月1日,8时许,内蒙古呼伦贝尔市莫力达瓦达斡尔族自治旗圣火煤矿发生瓦斯爆炸事故,造成6人死亡、3人受伤。

39、2007年4月1日,23时26分,四川省芙蓉集团白皎煤矿发生煤与瓦斯突出事故,造成4人死亡、9人受伤。

40、2007年04月04日,贵州黔南布州瓮安县建中镇银水坝煤矿发生顶板事故,3人死亡。

41、2007年04月05日,贵州毕节地区金沙县吉盛煤矿井下发生顶板事故,3人下落不明。

42、2007年04月06日,湖南街洞矿业公司茶塘煤矿发生顶板事故,3人死亡、1人受伤。

43、2007年04月06日,湖南省金竹山矿业公司一平峒煤矿发生煤与瓦斯突出事故,4人失踪。

44、2007年4月6日, 23时05分,甘肃窑街煤电公司金河煤矿发生瓦斯突泄事故,造成9名矿工死亡。

45、2007年4月11日,云南泸西县跃进煤矿发生瓦斯爆炸,造成5人死亡、1人受伤。

46、2007年04月14日,重庆綦江县石壕镇杉树湾煤矿发生瓦斯窒息事故,造成5人死亡。
 
47、2007年4月16日,6时许,内蒙古自治区巴彦淖尔市乌拉特前旗大畲太镇拴马桩沟的一个小煤矿发生塌方事故,4名矿工被困井下。经过11天的抢险救援,救援指挥部决定放弃救援。

48、2007年4月16日,15时40分,湖南省攸县长城煤矿一暗斜井透水,9人遇难身亡。

49、2007年4月16日,19时40分,河南省平顶山市宝丰县周庄镇王庄煤矿发生爆炸,造成33名矿工被困井下。4月17日,由于井下火势失控,救援人员决定封井灭火,这意味着被困矿工基本没有生还的可能,即死亡33人。
 
50、2007年4月19日,凌晨2时23分河北省邯郸峰峰集团大淑村煤矿发生气体爆炸,造成11人死亡,6人失踪。
 
51、2007年4月19日,晚,重庆市彭水苗族土家族自治县杉木沟煤矿发生坍塌事故,八名被困工人获救。5月22日重庆市表彰了彭水县人民政府等四先进单位,彭水县长周伟、重庆煤监局副局长田洪、重庆市经委煤炭安全处副处长罗云等21名先进个人。

52、2007年04月19日,河北峰峰矿业集团大淑村矿发生煤与瓦斯突出事故,17人死亡。

53、2007年04月20日,湖南郴州市永兴县一非法煤矿发生瓦斯爆炸事故,3人受伤,8人失踪。

54、2007年04月20日,湖南衡阳市耒阳市龙塘镇张为爱煤矿发生火灾,2人死亡,1人失踪。

55、2007年04月20日,河北邯郸矿业集团陶二煤矿2211综掘工作面发生瓦斯突出事故,11名人死亡。

56、2007年04月22日,湖南娄底市冷水江市石下里煤矿发生顶板事故,3人死亡,1人受伤。

57、2007年04月23日,贵州毕节地区国豪煤矿矿车插销未插好掉落,3人死亡、2人重伤。

58、2007年4月23日,山西乡宁目凹沟煤矿发生透水事故!死亡8名。

59、2007年04月24日,四川达州市宣汉县晚霞煤矿井下发生运输事故,死亡3人。

60、2007年04月30日,山西阳泉市盂县路家村镇刘家村一非法煤矿发生瓦斯爆炸,14人死亡。

61、2007年05月03日,四川宜宾市兴文县周家镇范家沟煤矿掘进头发生瓦斯爆炸,3人死亡。

62、2007年5月5日,下午1点50分,山西蒲县克城镇蒲邓煤矿发生局部瓦斯爆炸 28人遇难、2人下落不明。


武宜三:2007年炭鉱事故の部分記録(2)

2008-01-21 17:42:45 | Weblog

仅从以上三例可以看“封井”、“放弃救援”是何等随意。山东新汶的救援行动达20天,内蒙古拴马桩沟的救援行动坚持11天,但辽宁省夕阳红煤矿只应付两天便放弃,7个活生生的生命就此被谋杀了。

其实被困下井下多日而存活的例子,不管是中国还是外国,都不少见。北京市房山区史家营煤矿便发生过让共产党当局尴尬的事情。2007年8月18日晚10时许,北京市房山区金鸡台煤矿发生塌冒事故后第三天,即20日中午,该市国土局、市安监局、房山区政府办、区安监局、区国土局及市矿山应急救援抢险队等部门就匆匆决定“停止救援”,理由是“事发地属于采空区,被困人员已不具备生存条件,继续救援极易造成次生事故危及救援人员安全”云。结果,8月24日上午10点左右,被困地下的矿工孟宪臣和孟宪有兄弟在当局放弃救援之后,经五天半艰苦挖掘,靠喝彼此的尿液止渴,终于从矿井里逃了出来。他们的死里逃生,很是“让当地政府尴尬”。对此,哥哥说,“我俩就不该出来,不出来就是英明决策。也就是说我俩太无聊了。”因为“调查的人审问我们,一问就是很久。问题过来过去就是在说,我们是非法矿工。”难道“非法矿工”就该死吗?而且是谁制造了这无数的“非法矿工”呢?作出如此“英明决定”的、视人命如儿戏的“市国土局、市安监局、房山区政府办、区安监局、区国土局及市矿山应急救援抢险队等部门”和官员,就可以因孟宪臣和孟宪有兄弟是非法矿工而可以不承担责任、不受谴责了?

这冷血残忍、无仁无义的中国共产党!这班丧尽天良、断子绝孙的共产党匪徒!

六、含糊其词、文过饰非

2007年7月29日,河南省陕县支建矿业有限公司支建煤矿东风井发生透水事故,造成70人被困井下。8月1日,被困矿工全部获救。东北煤炭网说“被困69人”,但中央政府门户网站www.gov.cn说“被困70人”;到底被困多少人?在共产党人眼中人不是人,一个人更不是人!

2007年02月27日,山西运城地区平陆县高家底煤矿井下发生坍塌事故,4人被困。

2007年03月10日,重庆永川县红炉镇金源煤矿发生透水事故,4人死亡,1人下落不明。

2007年03月10日,辽宁抚顺矿业集团公司老虎台矿发生透水事故,27人死亡,2人失踪。

2007年06月24日,广西百色地区憧舍屯一非法煤矿发生一起透水事故,7人被困井下。

2007年10月27日,陕西安康地区安康市大竹园煤矿发生顶板事故,造成5人死亡。

2007年10月28日,江西抚州市乐安县零线煤矿井下发生一起透水事故,10人被困。

2007年11月02日,山西忻州市金乐煤业有限公司井下发生坍塌事故。4名遇难,5人失踪。

这被困、这下落不明、这失踪、这被困井下之后,又有什么下文呢?下文一定不是解困、查明下落、跟纵救援,而只能是绝望、是死亡。然而,党文化偏要含糊其词,以被困、下落不明、失踪、被困井下这类词来搪塞、欺骗民众,以逃避罪责!

七、一党专政不死、矿难不止

2007年11月3日,广东省韶关乐昌市梅花镇温伟华煤矿,3名矿工下井挖煤时窒息身亡,遇难者为王新木、王平锋、张春发。广东省政府曾因2005年8月7日之兴宁大兴煤矿特大透水事故造成123名矿工遇难,而决定全面退出煤矿行业,封停关闭全省所有煤矿。然而,有记者在邝家岭和象公岭(音)却目睹了多家正在开采的煤窑。多名煤矿老板和矿工都向记者提到,也曾有梅花镇政府工作人员前去这些煤矿检查,但煤矿老板给了他们钱后,他们就会睁一只眼、闭一只眼,煤矿就可以继续开采。中共梅花镇党委副书记傅仙宝却极力否认。

这样的例子,可谓俯拾皆是、不胜枚举。它无非证明:这个党确实反动透顶,这个政权确实彻底腐朽了。

2007年12月29日,龙江省牡丹江市顺发煤矿井下瓦斯爆炸事故,又死了19人。黔驴技穷的温家宝、周永康、华建敏之流又只有“作出重要批示”的劣招,什么“认清重特大事故多发、事故总量仍然较大的严峻形势,防止和克服松懈情绪,吸取教训、举一反三,采取针对性措施,落实整改治理,切实抓好岁末年初的安全生产工作,有效防范重特大事故,确保今年的工作有一个好的开端” 云云;屁话、套话、空话一大堆,“要求全力施救,避免次生事故”,固然说说而已,“查明原因,严肃追究责任”,仍是老生常谈;中共山西省委书记张宝顺,可是矿难大王、矿工灾星、窑祸首,2007年12月5日山西省临汾市新窑煤矿发生特大瓦斯爆炸事故,造成105人遇难。他仍然稳坐钓鱼船,只地临汾市第二把手市长李天太免职;而独揽大权的中共省市委书记却偏偏毫无责任。“严肃追究责任”云乎哉?欺人之谈。“反复告诫”、“持续不懈”早成文字游戏,腾笑世间。中共的本质是由它的反人性、反人民性所决定的。所以,它决不会解决矿难问题:一党专政不死、矿难不止。

与中国人民为敌的中国共产党反动派,它的结果也只能是遭中国人民的最后唾弃。这就是历史的结论。

2008年1月18日于香港


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附:2007年中国煤矿矿难不完整记录

1、2007年1月3日,11时8分, 湖南郴州市嘉禾县肖家镇月头岭煤矿(乡镇有证)井下发生瓦斯突出事故,造成6人死亡。

2、2007年1月4日,23时左右,河南省登封市送表矿区一矿井发生瓦斯爆炸,造成8人死亡。矿井内是否还有矿工,有多少人受伤,准确情况尚不清楚。(新华网郑州1月5日电,记者陆欢、魏莘)

3、2007年1月8日,11时30分, 广西河池地区都安县白旺乡龙燕村一非法煤矿(煤井垂深约50米,地处偏僻,井口非常隐蔽),4人擅自进入井下,在盗采过程中,修理电铃信号线时产生火化引发瓦斯爆炸事故,造成1人死亡,2人失踪,1人自行走出井口。
 
4、2007年1月9日,19时4分,辽宁省本溪满族自治县田师傅镇崔井柱煤矿和高嗣海煤矿发生透水事故,共造成7名矿工被困井下。经过11天的营救,由于事发煤矿井下水量过大、继续排水存在极大困难和危险、被困矿工不可能存活等原因,救援组被迫放弃救援。获悉,事故矿主已与遇难矿工家属达成赔偿协议,每名矿工获得不低于20万元的赔偿。

5、2007年1月10日,20时,湖南省耒阳市大市乡陆伟煤矿发生一起导致4人死亡的瓦斯窒息事故。

6、2007年1月11日,上午,湖南省宜章县骑田林场斋婆冲煤矿发生冒顶事故导致4人死亡。

7、2007年1月12日,江西宜春市袁州区寨下乡台上煤矿井下发生顶板事故,造成3人死亡。

8、2007年1月12日,14时左右,山西省忻州市宁武县化北屯乡牛心会煤矿发生瓦斯爆炸,死亡13人。
 
9、2007年1月17日,零时左右,内蒙古包头市超越矿业有限公司壕赖沟铁矿发生透水事故,29名矿工遇难。29名遇难矿工的家属陆续达成协议并履行了赔偿协议,均获得了20万元以上的赔偿金。

10、2007年1月18日,8时30分,内蒙古自治区呼伦贝尔市莫力达瓦达斡尔族自治旗巴彦奎勒河办事处109煤矿发生局部冒顶事故,4名矿工被埋,2名矿工获救,另外2名矿工遇难。

11、2007年1月19日,8时30分,辽宁省灯塔市铧子镇夕阳红煤矿发生井下火灾事故,4人死亡,3人被困井下。由于被困矿工已不具备生还可能,加上井下条件恶劣,救援人员于21日对事发矿井作封闭处理。最后确定死亡人数7人。

12、2007年01月25日,青海海西州格尔木市大柴旦行委鱼卡煤矿发生一起顶板事故,3人死亡。

13、2007年1月28日,零时20分,贵州省盘县水塘镇迤勒煤矿发生特大瓦斯爆炸,16名矿工遇难。

14、2007年01月29日,贵州毕节地区大方县干龙煤矿(关闭井)发生瓦斯爆炸,7人死亡。

15、2007年2月2日,7时40分左右,河南省三门峡渑池县天池镇坡头村的兴安煤矿发生失火事故,起先当地政府公布7名矿工遇难;实际死亡17人。兴安煤矿矿主、生产矿长等5名责任人涉嫌故意隐瞒死亡人数,已经被公安机关批捕。渑池县主管安全生产的副县长,天池镇党委书记、镇长,县煤炭局长对隐瞒事故人数有失职、失察之责,均被撤职。

16、2007年02月14日,陕西榆林市中能榆阳煤矿井下发生顶板事故,死亡4人。

17、2007年02月15日,辽宁南票矿务局邱皮沟煤矿发生瓦斯爆炸,7人死亡,4人受伤。


武宜三:2007年炭鉱事故の部分記録(1)

2008-01-21 17:39:57 | Weblog
武宜三:2007年中国煤矿矿难不完整记录
作者:武宜三
文章来源:民主中国
更新时间:1/21/2008 5:37:47 AM
出典:http://crd-net.org/Article/Class1/200801/20080121053747_7223.html

一、暴政与暴利

前两年我都做过每年煤矿矿难统计,今年又循例在网上搜索一次。据北京发改委消息,2007年1至11月,仅瓦斯事故就发生236起。但截至2007年12月29日为止,我从《国家安全生产监督管理总局》等网站搜到的所有煤矿灾难只有181起。可见即使在互联网时代,人们仍无法享受充分的知情权。

1999年,中国煤矿企业死亡6,343人;2000年,死亡5,798人;2002年,死亡5,791人;2004年死亡6,027人;2005年元旦,温家宝突萌恻隐之心,“专程”来到陕西省铜川矿务局,“代表中共中央、国务院看望2004年11月28日矿难职工家属,悼念遇难职工”,面对“11?28”矿难死亡166人职工家属,温家宝还假惺惺地流了几滴所谓“悲痛的泪水”。好心人曾盼“总理的泪水不白流!”然而,这个卑微的愿望又一次落了空。结果2005年煤矿事故总死亡人数仍高达5,986人;2006年仅瓦斯事故死亡,就有1,319人。

所以,2007年的矿难死亡人数到底是多少?在中共当局眼中已经毫无意义,只是一个冷冰冰的数目字而已;在我的眼里,也没有了什么新意。因为我认为:剥夺或谋杀一个人的生命和剥夺或谋杀千万人生命,都是罪恶。一个人、哪怕是一个奴隶,他的生命在他自己、在他家人的心中,都是最珍贵的。况且,毁尸灭迹,少报、不报、分次呈报的传闻,不绝如缕。

人命——即使同志、战友、妻子、儿女的生命,在冷血的共产党人字典里,是找不到位置的。几十年来,共产党干了那么多伤天害理、灭绝人性的勾当,打死、杀死、饿死、逼死、关死、斗死了近一亿中国人。直至今天,他们仍无悔改之心,仍在草菅人命,仍视老百姓如猪狗。今天中国人,特别是煤矿工人只不过是中共一小撮“人肉盛宴”上的牺牲。

中共反动派对生命的篾视,是几十年一贯制。在毛泽东叫花子土匪社会主义时代如此,在邓小平——江泽民——胡锦涛权贵分赃社会主义时代更是如此。

有材料显示:2000年,20万元包了20年的一座乡村煤窑,2004年底可以9000万元的价格转包;不过4年,殖了4,500倍。国家安全生产监督管理总局局长李毅中估算煤炭行业的暴利:以每吨煤卖210元计,人工成本只有5元,其它开支也不过几元,除去各项费用,开采1吨煤可获利约200元,利润超过了百分之一千。暴利是红色王朝权贵们的追逐目标,每年矿难事故死亡人数总在六千人上下徘徊,暴利就是杀手。

二、拒绝下半旗、彻底与民为敌

而暴利的根源却是一党独裁的专政。这一点还可以从以下事实得到证明:中国煤矿事故死亡人数是美国的100多倍,是印度的13倍,是全世界煤矿死亡事故的3倍。暴利维持了暴政,暴政必然也必然需要暴利。

也正因为这个国家是一党独裁,所以它只属少数权贵所有,所以它一直拒绝为死难矿工下半旗志哀。《中华人民共和国国旗法》同“中华人民共和国”及其它一切法律是用羊头伪装了的狗肉。

2007年4月16日,河南省平顶山市王庄煤矿发生爆炸,造成33名矿工死亡33人。

2007年11月08日,贵州毕节地区纳雍县群力煤矿发生事故,35人死亡。2007年12月2日,云南省昭通地区镇雄县乌峰镇发生气体爆炸,造成18人死亡、43人下落不明。实际死亡61人。

2007年12月5日,山西省临汾市洪洞县新窑煤矿发生事故,死亡105人。

2007年8月17日,山东华源矿业公司发生溃水淹井事故,172名矿工全部死亡。

但心肠歹毒的胡锦涛、温家宝仍旧无动于衷,坚持不肯下半旗为死难者志哀。我不得不再次对这班法西斯头子和这个法西斯政权表示最后的绝望!

三、蓄意欺骗、瞒报少报

在中央政府“死人指标”暗示下,各地官员为保政续、各矿主为节省赔偿费用,瞒报、少报、分批报死亡人数的例子,仍屡见不鲜。

2007年2月2日,河南省三门峡兴安煤矿发生失火事故,起先当地政府公布7名矿工遇难;实际死亡17人。

2006年5月1 7日, 湖南省湘西自治州垣县龙潭镇糯米冲矿区矿洞塌陷矿难死亡数十人,地方两级政府上下配合默契,对外统称:“事故当天停电,没有人员伤亡!”上级检查人员不查电力部门的《供电日志》,加上挖开矿洞工作量大,和少数民族地区语言障碍,不熟悉民情,故花垣县当局便以“除1人在地表受伤外,未发现死亡、失踪人员”而不了了之;故2007年4月1日,再次发生矿难,死亡过数十余人时,由于地方政府有了一整套处理矿难经验:快速消灭矿难迹、重金安抚家属、严格封锁消息、层层落实封锁责任制、不惜用各种方式贿赂上级检查人员、编造合情合理的理由向上汇报。虽舆论大哗,但事件至今仍未受到追究。

重庆市所谓“自2005年4月以来到目前,全市已连续29个月未发生10人以上特大煤矿安全事故,为历史最长周期”的自我表扬,在假大空盛行、假冒伪劣充斥的中国,在吹牛成性、毫无诚信中国共产党话语中,只能理解为许多死亡事故被隐瞒、数字被缩小。

四、无功而赏、有罪不罚

2007年4月19日,重庆市彭水苗族土家族自治县杉木沟煤矿发生坍塌事故,八名被困工人获救。5月22日重庆市立即表彰了彭水县人民政府等四先进单位,彭水县长周伟、重庆煤监局副局长田洪、重庆市经委煤炭安全处副处长罗云等21名先进个人。

因为没有死人,各级有关官员就迫不及待受到表扬。但是死了人受不受处分呢?还看这个重庆市:

2007年04月14日,重庆綦江县石壕镇杉树湾煤矿发生瓦斯窒息事故,造成5人死亡。

2007年06月09日,重庆合川县三汇镇小湾煤矿榆钱井,发生瓦斯事故,造成3人死亡。

2007年07月13日,重庆合川县三汇镇磨子沟煤矿发生瓦斯事故, 死亡4人。

2007年07月20日,重庆南桐矿业集团鱼田堡煤矿发生煤与瓦斯突出,4人下落不明。

2007年10月08日,重庆黔江县黔欣煤矿井下发生透水事故,1人死亡,2人失踪。

2007年10月25日,重庆南川县南平镇跃进煤矿发生瓦斯爆炸事故,10人死亡、1人失踪。

以上多宗事故,居然没有一个官员受处分。尤其恶劣者,2007年11月7日,重庆开县三汇口乡分水村碳厂湾煤矿发生安全事故,3名矿工死亡。按照国家规定,煤矿发生安全事故,应在1小时内逐级上报。而开县竟隐瞒不报长达一个多月。最后只有矿主“被刑拘”,所有官员都平安无事。中国共产党的无耻,而且无耻到这种程度,你能不诅咒它早日灭亡吗?

其实,惯于把丧事当喜事办的共产党,死人也是政绩。再看这个重庆市:

华龙网记者昨日从重庆市经委获悉(实际上重庆市经委告诉记者):自2005年4月以来到目前,全市已连续29个月未发生10人以上特大煤矿安全事故,为历史最长周期。2007年以来,全市进一步建立健全煤矿安全生产责任制,并大力实施煤矿整顿关闭和瓦斯集中整治两个“攻坚战”, “在推进质量标准化、煤矿水害防治、安全基础管理等方面取得明显成效。据悉,全市煤矿在2006年创造安全生产历史新水平的基础上,今年1—9月份,累计发生死亡事故198起、死亡242人,同比事故次数减少21次、死亡人数减少34人,分别下降9.59%、12.32%;百万吨死亡率8.14,与去年同期相比下降19.8%。截至9月底,全市创造安全生产一千天以上的小煤矿达到369个”。

虽然死了242人,只不过少死几个,也被重庆市当局当作“29个月无特大煤矿安全事故”的政绩来吹嘘。皆大欢喜!

善于做死人文章的冷血党棍汪洋,终于在矿工的尸骸上又爬上了新台阶,当上了天下第一总督,主宰中国最肥的省份——广东省了。

五、冷血残暴、随意封井

2007年1月19日,辽宁省灯塔市铧子镇夕阳红煤矿发生井下火灾事故,4人死亡,3人被困井下。当局认为“被困矿工已不具备生还可能、井下条件恶劣”,于21日下令对事发矿井作封闭处理。最后确定死亡人数7人。

2007年4月16日,内蒙古自治区巴彦淖尔市乌拉特前旗大畲太镇拴马桩沟煤矿发生塌方事故,4名矿工被困井下。经过11天的抢救后,救援指挥部决定放弃救援。

2007年8月17日,山东新汶华源矿业公司发生溃水淹井事故,有172名矿工被困井下。9月7日,事故抢险救援指挥部“生命科学专家组”认为被困矿工已无生还可能。于是,172名矿工全部被判死亡。


徐文立+黄+楊憲宏:中国における民主と人権の発展展望(3)

2008-01-21 16:25:39 | 中国異論派選訳
原文:
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/42f68065810345e5801c6c7795351245

未来は共産党にとっても公平である

楊憲宏:私も黄さんのおはなしに同感です。中国共産党の中にも、志士仁人はいますから、彼らを覚醒させるべきでしょう? 中国民主党の徐文立さんはどう思いますか?
徐文立:中国共産党は初期には、救国救民の理想主義でした。その当時の社会は腐敗して暗黒でした。ですからそのような伝統も中国共産党の中にまだ完全になくなってはいないと思います。また、今の共産党もこのままでは汚職腐敗の問題は解決できないとわかっています。中国共産党の中にも、清廉な人がいて、現状を憂えています。また、汚職腐敗がこのままひどくなっていけば、革命によって解決することになるでしょう。ですから、中にはこのままではいけないと思っている人がいます。その点では、民間に批判勢力があることは、彼らにとっても好いことです。もちろんそれはまだ共産党の主流ではありません。まだ、健康な勢力が主流を占めてはいません。まだ、結社の解禁や、言論の自由の保障を主張する勢力は共産党内に現れていません。それが心配なところです。私たちは中国の政治制度が変わることを望んでいますが、平和的・理性的な転換を望んでいます。民主政治は人民に幸福をもたらすべきで、人々の嫌うことが生じてほしくありません。しかし、それは私たちの願いだけではどうしようもありません。中国共産党、とりわけ毛沢東が建国してからの数十年にわたる政治闘争が、人々に与えた心理的影響は、闘争が最も重要と見る考え方です。私は台湾に来て、多くの点で台湾の人と比べて劣っていることを知りました。現在の共産党の一部の雑誌は台湾のあらさがしをし、大げさに言い立てていますが、実際に会うと、台湾の政治家、台湾の学者は非常に謙虚で穏やかです。彼らがよく言う言葉は、「我々は自分の意見を曲げないけれども、必ず違う意見の人も守る」です。中国共産党内の健康な勢力も、中国民主党は共産党を消滅させる意図はないことを知るべきです。我々は、平和的なやり方で、投票箱の中からどの政党が政権を担うかを決めるべきです。政権交代を王朝の転換にしてはなりません。その意味では、未来は共産党にとっても公平です。私は共産党の中で健康な勢力、あるいは理性的な勢力が優勢になってほしいと望んでいます。その点で、黄さんが大陸にいて、活動を続けられることは、指標としての重要な意味を持っていると思います。

私たちは文革式の闘争を望まない

楊憲宏:指標としての意味について、黄さんはどうお考えですか? この奇妙な雰囲気の下で、この特殊な時代背景の下で、共産党は自己変革することができると思いますか?
黄:彼らも自己変革に努力しています。しかし、末端の各利益集団の利害関係、また商業利益が巨大なので、そのプロセスを早めようとすると、政権の安定を揺るがす、というのが彼らの考えです。我々はみなこの国が平和的に転換することを望んでいます。敵対する党派や個人を焼き払い油攻めにするといった文革のようなスローガンを望みません。フランス大革命のように、闘争の後に多くの人を殺し、最後は集権的専制政治になる。ですから、我々はみな台湾のモデルをクローニングすることを望んでいます。国民党は累々たる血債を背負った独裁党でありながら、誰も裁かれることなく、民進党や他の政党と平等に競争するようになった。徐文立さんが今言われたように、未来は共産党にとっても公平だと思います。
楊憲宏:我々は答案が何かは知りませんが、みんな問題は知っている。経済発展は政治改革がなければ限界が来る。徐さんはどう思われますか。今日の局面において、どうやって共産党に民主改革の決心を促すか?
徐文立:私はこの機会に、共産党のリーダーに呼びかけたい。中国共産党の国際舞台での幸運な日々は過ぎ去った。過ぎ去った原因はいろいろあるが、最大の原因は共産党の経済発展が民衆にとって不公平だったことです。

中共の幸運な日々は過ぎ去った

楊憲宏:資源分配の過程では、搾取されたのですかそれとも忘れられたのですか?
徐文立:この経済発展は、基本的には都市に出稼ぎにでた労働者の血と汗で得たものです。それは科学技術の発展や技術革新の能力によって得た高度成長ではなく、民衆の血と汗で得られた発展です。また、中国共産党は自らの経済力だけを偏重し、誰も中国を侵犯しようとしていないのに、軍事力の強化に力を入れ、大量の資金を投入している。旧ソ連はそれで倒れました。しかも、ロシアと準軍事同盟を結んで、世界の不信を高めている。また現在のアラブ世界で内部矛盾が激化していることが、米国をアラブの泥沼から抜け出させて重心が移ることも中国にとって好くない。米国では民主党が次の選挙で勝つでしょう。北朝鮮の問題はほぼ解決した。反テロの面で中国共産党の力を借りる必要はますます少なくなる。ロシアのような国に中国であまり得をさせるのはまずい。本当に中国を助けてくれたのは、義和団事件賠償金でも、抗日戦争でも、それから今回の改革開放後の中国経済への支援でも、一番大きいのは米国です。ですから、公平に見なければいけない。
楊憲宏:徐文立さん、今日はどうも台湾においでくださりありがとうございました。四川省にいる我々の友人黄さんとの3人対談でした。

冉雲飛:成都の民間土壌と精神の記憶

2008-01-19 17:52:57 | Weblog
成都的民间土壤与精神记忆
作者:冉云飞 提交日期:2008-1-16 9:35:00
出典:http://tufeiwangshanmao.tianyablog.com/blogger/post_show.asp?BlogID=185021&PostID=12423597&idWriter=0&Key=0

  很多人都知道成都是个休闲的城市,其实成都这座城市有一定的多样性。比如休闲打麻将,人们嘲笑飞临成都上空都能听到;如饭馆比警察还多,三步一饭五步一厅十步一楼;出地方搞笑人物如李伯清等,可以让你“曲曲都在跳”(用邛崃话念是“雀雀都在跳”);可以出李宇春、张靓颖、何洁、谭维维这样符合新时尚要求的异样歌星。当然拜官家所赐,这座城市还有些糟糕的恶,不劳遍举。我在这座城市生活了二十余年,花了十多年才认可它。一般都知道成都好玩的一面,但这个城市里面有一些人也有他人不曾拥有的认真。从这座城市出去的、坚定的为自由民主而努力的人,概举有徐友渔、胡平、余杰、蔡楚、蔡咏梅等,而坚守在这座城市,表达着自己民主自由理念的人,亦复不少,流沙河、王怡、廖亦武、萧雪慧、周钰樵、汪建辉、何三畏等。换言之,这座城市的温柔休闲,并不妨碍他们这里面为一些更为高远的理念而努力。这是一个刚柔相济的城市,今天趁机说一说成都的民间都有些什么样的坚持,希望朋友们可以把自己所在城市的民间土壤说一说,以彰显大家持续而韧性的努力。以后得便我不曾要写一写成都过去的风云人物,而且还要挖掘出成都颇值得纪念的精神历史。
  一:民间书籍的自发买卖。大家都知道,成都算某种意义上的全国第三大旧书(货)交易市场,现在书籍虽然比原来少了很多,但只要你努力去淘,还是能得到一些有意思的东西的。当然,前提是你必须要有一双有意思的眼睛。我与明兄等都淘了二十多年,大家在其间的乐趣不说了,其间的收获非言语可以形容。从猛追湾到草堂北大门以及今之罗马广场,无不有我们快乐搜书的足迹。现在这样的买卖当然不足奇,但文革初期孙中山铜山下面,当时的古籍书店旁边的书籍买卖,稍微上一点年纪的人,都应该有所记忆,不少的人在这里找到了自己的心爱的书籍,并得到自己此生最早的启蒙与乐趣。我曾写过一篇《传说中的书香》提及此事,大家可以在网上查到。
  二:川西小说促进会。这小说促成会是八十年代末和九十年代初,成都民间一大景观。主事者要主是已故的小说家、随笔作家贺星寒。贺兄早颖异,就读于成都九中,但1958年的社会主义教育运动他被划为四类学生,从此坎坷颠踬。七十年代末写诗,八十年代写随笔写小说,逐渐有自由民主理念。遂倡一民间的读书会,提倡众声喧哗。他所写的文章在八十年代末期至他去世的1994年,笔锋凌厉,力倡自由民主理念,弄得他们这个促进会颇受有司注意。当时我才毕业,去参加过数次,记得那阵常在梓潼街区图书馆,其间流沙河先生也曾去过。八九过后,小说促进会渐次不复振作。然贺星寒兄的创作却未有稍减,尤其是他彼时所写的两篇随笔,一是写沙河先生的《从Y先生到庄子现代版》,二是他写八九的随笔(名字我搞忘了),真是精彩无比。星寒兄的作品有《贺星寒随笔》、《方老壳外传》,我认为值得人们阅读。据我会记忆,这个促进会的骨干应是贺星寒、林文询、江沙、李书崇、周钰樵、段天等。
  三:二十六(1978至2004)年之《野草》杂志。《野草》杂志是一群爱好文学的朋友一起创办的民间刊物,打印、油印、铅印等各种方式都曾用过。据我的记忆其间的主力是邓恳、陈墨、蔡楚、谢庄、黄维才等(我这不算写正式的历史,是临时急就,所以很多名字没能记起,请大家谅解)。将来写成都的精神记忆,《野草》是绝对不可少,其间发表的文学作品可观或许并不多,但其中的民间精神却可谓之成都的标杆。21世纪之初,拜网络之赐,主编陈墨兄编发了许多厉害的文学或时政作品,后来终因一期“纪念张献忠屠蜀360周年”而被有司查封,陈墨兄家庭也由此遭受无妄之灾祸。我是此期的参与者之一,真是有愧于陈兄和存在了26年的《野草》诸君。
  四:《成都工人报》的半民间化。八十年代末期思想解放,一时间诸多想法出笼,彼时《成都工人报》由周钰樵、段天二先生主政,发表了不少好看且有深度的文章,在上面写文章的有高尔泰、流沙河、贺星寒、曾伯炎等。尤其是高先生几篇文章给我印象极其深刻,我记得有一篇叫《陈迹飘零读故宫》,真是读之使人不胜唏嘘叹惋。
  五:《锦江》与《大时代》。七十年代末诞生于川大的《锦江》似乎只出了三期(我家中有,但一时没查出来),在高校中有一定影响。七七、七八两级川大中文系也出了不少人才,尤以后来在西藏去世的龚巧明影响甚大。西藏文学在八十年代的繁荣,与她是有密切关系的。八十年代民间社团开始兴起,四川有个叫智力开发工作者协会。其时有许多青年学者如冯川、陈维钢参加,创办了《大时代》,影响了当时许多大学生。我记得上面写文章似乎还有周伦左、周伦右两弟兄。
  六:《走向未来丛书》。这当然是官方出版社所出的,但这套书在全国的影响,是无论怎么估计都不可过份的。对于近水楼台的成都当然亦有很大影响,我记得我们那个时候的大学生,无论学什么,都以读走向未来丛书为荣。这间接培养了成都的读书风气与文化底蕴。四九年后整个四川的出版记忆里恐怕只有这套丛书的影响,可谓遍及全国。
  七:诗歌之城的民间活动。成都是当之无愧的诗歌之城,至今如此。前不久我与上海的朋友到白夜酒吧喝酒,就碰着四川各高校的学生在著名诗人翟永明的酒吧里朗诵诗,真是让我感到亲切。成都的诗会很多,连官方都要组织不少诗会,如人日草堂游的诗会等。八十年代至今,成都民间出的内部诗刊,不可胜数。大略数来,计有《非非》、《汉诗》、《幸福剧团》、《启明星》、《象罔》、《终结者》等。诗人是是孕育自由的土壤,所以成都空气里的一份自由是诗人创造与给予的。至于说与成都有瓜葛的全国性诗人就更多人,无暇遍举。
  八:酒吧的民间摇滚。以小酒吧为中心,在成都流行着一些民间摇滚。小酒吧的老板唐蕾可谓成都摇滚之母,至今仍在组织摇滚的一些演出,尤以她的酒吧常年都有摇滚演出。去年十一月份以写《中国孩子》著称的周云蓬就曾在他处演出,受到乐迷的欢迎。
  九:成都草堂读书会。大约是2003年,周钰樵先生与王怡兄组织了一个民间的读书会。我也侧身其间参加过几期。2006年王怡退出,我亦未去参加,但至今仍在办,这值得佩服的勇毅与坚持。草堂书读会涉及的议题大多为宪政、民主、自由、维权、历史探讨(沙河先生关于抗战的演讲、我曾做过一个关于张献忠和反右的演讲)、文化传承(如杨雨谈中国摇滚乐)等。演讲者大约有流沙河、王怡、余杰、陈永苗、萧雪慧、周钰樵、杨远宏、杨雨等。其间有司常来参听,也难免请主政者去喝茶,但至今仍在进行着,这是我衷心佩服的。
  十:大慈寺茶馆开讲。这是朋友间闲聊的地方,其间主要参加者为一帮老朋友,后来加入一些年轻人。参加者流沙河、曾伯炎、袁永庆、黄维才、彭雄等。这里所谈者多为读书、民间文化以及我们所经历过的生活,没有谁是主讲,但鉴于沙河老之博学,问学者亦多。于是彭雄兄记有《茶馆问学记》已达近七十期,大家可以在网上查到。
  十一:《文化人》被查封。《文化人》的创办者谢庄等人基本原是《野草》的作者,后来他们退出来另起炉灶。这杂志发表了一些有份量的文章,最近被有司查封。主事者有谢庄、谭作人等。
  十二:家庭教会。据我所知的几个家庭教会,不仅学习圣经,就是探讨基督教文化,也是非常不错的。如秋雨之福等。因为不是基督徒,所以不能深入谈下去,但这一切绝对是成都民间土壤及精神记忆不可或缺的组成部分。
  十三:老人们的聚会与努力。成都社教运动的受害者与反右运动中的受害老人们有些不定期的聚会与交流。他们很多人都写有回忆录,自印有书,尤以王建军先生主编的《五八劫》最为值得注意,这书内容之丰富,资料之翔实,堪称四九年后中国灾难学的活化石。我曾写过不少文章来介绍他们,其中《介绍一群可敬的“右派”老人》,大家也可以在敝博看到。
  十四:沙河先生家中开讲。这是朋友间的小型聚会,完全是谈天说地,谈诗论学的好地方,可谓无所不谈。参加者主要是沙河先生的老朋友及我这样的小字辈。参加者曾伯炎、黄一龙、李书崇、黄家刚以及我。我在这里所得到的收获,可以胜过读多少个博士,真是感谢这样的闲谈。2008年1月16日9:31分成都

评论人:冉云飞 评论日期:2008-1-16 12:49
  谢谢各位。东方兄补充得非常好。
  
  把黄他们搞忘了,非常不应该。不过,这是急就章,以后像这种是可以写成重头文章的。我建议各城市都把这样的事写出来,我觉得各网络期刊或者其他杂志,完全可以出一整期,甚至出成一本书。
  
  到成晚发六四广告的不是陈鹏,是陈云飞。另外,印发89体恤的,我都还不知道。

徐文立+黄+楊憲宏:中国における民主と人権の発展展望(2)

2008-01-19 17:32:18 | 中国異論派選訳
原文:
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/5592e5c4b3ed49d1de8dc95f8b7b1a5e

未来の中国の最大野党

黄:私は王森さんに「私は今後人権活動だけをやります。中国民主党は未来の中国の最大野党になると信じます。現在もそうだし、将来も変わらないでしょう。こんなに大勢の人が勇敢にも投獄され、その持つ道徳と勇気は、はるかに他の組織を上回っています。」と言いました。私は民主党員ではありませんが、私は民主党が未来の中国の最大野党になると信じています。徐文立さんや多くの友人が海外で、獄中者の救援活動をしていますが、これは大陸の民主化運動が続いていく上で非常に重要です。パレスチナのように、みんなが獄中に入って誰も関心を向けず、誰も救援をしなかったら、どれだけの人が闘争を続けることができるでしょう? 徐文立さんたちの大陸の被弾圧者と政治犯支援の活動は非常に重要であり、多くの人たちがひそかに称賛しています。この点滴の恩をみんな心に刻んでいます。この活動はますますよくなっていくでしょう。
楊憲宏:私も時局についての感想を述べたいと思います。一つ一つ山を越えていると感じています。私は2003年の徐文立さんの救援依頼の手紙を今見たばかりです。それが今はあなた方とこうやって電話で当時のことを話している。以前の劣悪な環境と比べて、やはり一つ一つ山を越えていると思います。この万山は一渓の奔(はし)るを許さないでしょうか?(南宋の楊万里の詩「桂源鋪」「萬山不許一溪奔,攔得溪水日夜喧;到得前頭山腳盡,堂堂溪水出前村」にちなむ) しかし、堂々たる渓水はやはり前村を出てゆきます。たとえ現在の成果は少なくとも、将来は大きく発展していくでしょう。お二人が話を聞いていて、1970年代の台湾を思い出しました。当時の台湾はまだ戒厳令下で、国民党の一党独裁で、黄さんのような文章を書き、黄さんの天網のような活動をしようとしたら捕まって、絶対にできません。蔣経国と蒋介石の二人の総統は手加減しませんでした。彼らはあの時代なら捕まえていました。あのころは、国民党が嫌うと思う話は、ひそひそばなしです。今のようにラジオでなんて考えられません。しかし、1979年以降、台湾では「党外」が現れました。国民党は結党を許さず、一党独裁で、他の(反対)党は認めません。あるのは、お飾り政党だけです。結党できないのであれば、「党外」と、国民党以外と言うことです。
徐文立:党外という名称は、基礎を広く取れますね。

黄を容認する中国政府を評価する

楊憲宏:今黄さんは自分は中国民主党員ではないけれども、あなた方と多くの点で一致するといいました。当時のわれわれは党外運動で、みんなが同じ方向に努力しました。あのころは民進党はなく、結党の自由もありませんでした。
徐文立:あなた方のやり方は、ある意味で結党以上に国際的な支援と同情、関心を引くことができます。私が今知っている限り、今中国大陸に本当に入っている国際人権NGOは、国境なき記者団です。国境なき記者団は何人かの代表を派遣して四川省の黄さんに会っています。これは黄さんの激励と保護に大きな効果を発揮しました。私たちの分担は違いますが、目標は同じです。つまり、中国を民主的な国に転換していくことです。私は中国政府が黄さんの活動を容認していることを評価します。
楊憲宏:私も評価します。「党外」という名詞は当時非常に神聖に響きました。当時、「タイム」が台湾のいわゆる政治運動を紹介しましたが、ローマ字で「DANGWAI」を使いました。その記事で、国民党が反対党の結党を認めなかったために、活動家は政党組織でない、一種の政治組織を作ったと説明しています。その後外国から人が来ると、青い目の人がみな「党外」を知っているのを面白く思いました。

民主化運動の先達の闘いは環境を改善した

楊憲宏:もちろんこのラジオ局は中国に向けて放送していますから、中国共産党も我々を妨害します。しかし、以前より遠慮するようになりました。このラジオ局は中国共産党が認めたものではありませんから、「地下放送」です。台湾の国立ラジオ局ですが、中国大陸では地下放送です。おもしろいですね。この形式、この場所、この歴史の交差点で、非常に面白い役割を発揮しています。スティーブン・スピルバーグのトワイライトゾーンのようです。この境界から内側は自由で、共産党も、国民党も、民進党も誰も手を出せない。この場所では自由に話ができる。このような形式の未来に向けて持つ意味について徐文立さんはどうお考えですか? このような形式が未来の中国の民主化過程においてどのような意味を持つかということです。
徐文立:私は中国の政治が平和的に民主化する一つの前兆だと思います。昔は誰が共産党を批判できたでしょうか。
楊憲宏:台湾では、現在の陳水扁総統はむちゃくちゃに批判されています。
徐文立:国民党を批判できるようになってから、国民党は共産党に敗れて台湾に来ました。この点では、黄さんは今大陸にいますから、私よりももっと身にしみて感じていると思います。
楊憲宏:そうですね、私も黄さんの意見を聞きたいと思います。
黄:私は中国大陸の民主政治を推進するのは中国民主党だけではなく、我々のような民間組織や異論派、さらに共産党も含まれると思います。共産党の中の健康な勢力だけでなく、頑固な勢力も含めて。それぞれの足並みが違うだけです。彼らは、まず自分たちの権力を守り、安定を維持するという前提の下で社会の進歩を推進します。一方我々は社会的弱者の側に立って民主化を推進するので、厳格に言えば道は違うが帰着するところは同じと言えるかもしれません。しかし、歩む速度が違い、たびたび軋轢、衝突、時には殺戮を生じます。もちろん、時代の進歩に伴い、民主化運動の先達の非常に多くの人が入獄し、非常に多くの人が犠牲となりながら開いてきた道の上に、今の私たちの状況があります。

サツマイモは腐った土でも大丈夫

黄:私は今日のようなゆったりした環境の獲得について、まずこれら先達の努力に感謝したいと思います。
楊憲宏:党外時代に、台湾語で「サツマイモは腐った土でも大丈夫」とよく言われていました。つまり、サツマイモは地面に落ちて腐っても大丈夫だと、そうやって腐ってはじめて枝葉を伸ばし、子孫を作ることができるというのです。当時多くの人が党外活動家に聞きました。あんなに強大な権力を持つ国民党に対抗しても、倒すこともできなければ、主張も聞き入れられなかったらどうするんだと。そうすると「サツマイモは腐った土でも大丈夫」と答えるのです。何度も監獄を往復したり、死刑判決を受けて免除されたりした人たちがそのように話していた。施明徳さんをご存知でしょうか。一度彼が獄中にいるときに話したことがありますが、そのときは彼は非常に悲観していました。自殺でもしそうな感じでしたが、あるいは策略だったのかもしれません。あのころ、蔣経国さんのほうが施明徳さんより彼の死を恐れていました。彼が国民党の監獄で死んだら、世界中の人が蔣経国の責任を追及する。アメリカも含めて絶対に殺害は許さない。当時の政府はアメリカから、ヨーロッパから、日本の各地からの声を聞いていた。施明徳に関心を払っていると。そうすると蔣経国も彼を殺せない。そうやって変化が起きてきました。