民間における権利意識の目覚め(上)
原文:http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/c6da683c70cad9ad9aa6853de161ec49
12月18日、著名な作家の劉暁波が「参与」のインタビューに答え、中国の(共産党運営に対置しての)独立民間社会(運動)の現在の発展について見解を述べた。
劉暁波は、現在民間の権利意識が目覚めつつあり、自立意識も強まっており、権力者の温情にすがらず、公然と自らの権利を主張するようになってきたと見る。彼は最近の汪兆鈞、鄭存柱、郭泉らが相次いで発表した胡錦涛・温家宝への公開質問状を例に挙げて、当局はこのような遠慮ない直言を許さないが、近年は毎年このような民間から政治体制改革を求める事件が起きている。また黒龍江省の富錦市の農民、陝西省三門峡ダムの移民、江蘇省宜興市の農民が自らの土地を守るために宣言を発表したことは、非常に感動的な事件だった。これは、毛沢東時代から続く不合理な土地制度をはじめて告発したものであり、中国の民間の権利意識の目覚めと自立意識の強まりを証明している。しかも、土地権利擁護の背後には基本的な言論の自由と政治的権利実現の努力がある。現在、民衆は自らの権益の大きさと個人の自由の大きさが直接関係していること、自由の制度的保障が得られてはじめてパンも確実に保障されるに気づきつつある。
中国共産党の弾圧により、中国大陸の民間組織は比較的ばらばらであり、固定した組織がなく、要求も統一に欠けている。草の根階層の権利擁護はおもに経済的利益をめぐってであり、経済的権利運動が政治権益のボトルネックに触れてはじめて政治的権益の獲得に向かう。これは政治的権限が極端に不平等なことがもたらす必然的現象である。中国では、当局の権限が大きすぎ、強すぎるので、民衆の権限は小さすぎ、弱すぎる。いわんや、現在の中国には共産党から独立した報道の自由も司法権の独立もない。世論の救済も司法救済も現行体制の下では整っていない。民衆が頼れる唯一の合法的ルートは陳情などの行政的救済である。しかし、官僚の庇いあいや厳しい請願妨害によりあまり大きな効果は発揮できない。
劉暁波は、90年代と比べて、当局の民間反対運動に対する弾圧の残虐性、強度と範囲がいずれもある程度低下しているという。主に六四天安門事件後18年間の民間の積極的な運動と、犠牲と、絶え間ない蓄積の結果である。また、六四が中共の道義的合法性をほとんど失わせしめたため、中共は経済の高度成長という業績で政権を支えている。その結果、権力者たちも成金になる近道を見つけ、大小さまざまな権力者グループが形成され、中共が革命党から利益党に変質した。そのため、その統治方式も実用主義と機会主義になってきている。利益党はなにごとも利益計算がもとなり、民間反対運動に対しても政治的コストと利益のバランスを計算するようになった。機会主義は臨機応変に対応し、政権の利益の最大化の原則により統治方式を絶え間なく調整する。このことも民間反対派に対する対応に現れている。たとえば、著名な人物に対しては、「制限しつつ捕まえない」策略をより多く採用し、捕まえてもあまり重い刑にはしない。たとえ重刑にしても、「人質外交」の切り札として使う。しかし、あまり名前の知られていない異論派や人権活動家は、捕まえて重刑に処する。もちろん、独裁政権の野蛮な本姓からして、たとえ機会主義であっても、特殊な時期には極端な手段に訴えることもある。
同時に、鎮圧の政治的コストを下げるために、近年中共は政治案件の司法的処理をできるだけ非政治的な方式で処理している。非政治的な理由が探せれば、当局は政治的な罪名は決して選ばない。たとえば、孫大午事件で使ったのは違法融資、南方都市報事件は経済犯罪、陳光誠事件は器物損壊と交通秩序撹乱、郭飛雄事件は違法出版、孑木事件は銃器不法所持と社会秩序撹乱……などなど。
国際社会の外交圧力に対する対応の面では、中国経済の世界経済への融合と実力の強化にもない、中共政権はますます臨機応変になっている。西側諸国も徐々にその中国戦略を「ステークホルダー」であるという現実の上に組み立てるようになってきており、国際問題の処理の上で中国に一定の期待を寄せている。一方で、中共は独裁権力の維持を主要利益としており、国内では金銭で安定を買い、国際的には金銭で外交的成果を買っている。経済貿易カードはすでに政治的利益のための最大の切り札になっており、大規模買い付けを利用して西側大国の支持と柔らかい論調を得ている。最近では、中共のドイツの首相メルケルに対する報復と、フランス大統領サルコジへの激励が、独裁政治の経済貿易カードの実例である。また一方で、中共政権は小平の韜晦を捨て去り、大国外交に向かっている。中共は国際的地位を早く高めようとして、責任ある大国の役割を演じようとしている。だから、中共政権は頻繁の国際社会で開明的なふりを演じて、ますます多くの国際政治ゲームに介入している。西側大国が中国はより多くの国際的責任を負うべきだと呼びかけると、中共高官はそれにつなげて「中国は責任ある大国である」と叫んでいる。中共の頭目たちは得意になっている。なぜなら、西側の要人の呼びかけは彼らの虚栄心を満足させ、国際的な重大問題の解決には彼らが欠かせないと思わせるからだ。
中国の民間の反対運動は、中共現政権のこれらの変化を直視しなければならない。また西側大国の中共に対する態度の変化を直視しなければならない。これらの変化は、一方で民間に一定の活動空間を提供し、民間の力を広げる隙間をつくる。また一方では中共政権が短期間に崩壊するという予測が裏切られ続け、過激な気炎を青ざめさせる。このような国内外の環境と背景は、中国の政治転換を長期にわたる曲折したプロセスにさせる。だから、感情に流されてはならないし、まして「一晩で世界が変わる」ことを期待してはならない。
劉暁波は、民間反対派あるいは人権活動家は道義と勇気だけでなく、責任と倫理がより必要だと考える。道義と勇気は独裁化の危険の多い事業に加わる前提である。責任と倫理は民間事業を成し遂げるために必須である。現在の民間の反対運動にとって、責任と倫理は道義と勇気より重要である。なぜなら、中国の反対運動の中では、道義の気炎が多すぎ、責任を持って事を成し遂げることが少なすぎる。道義の気炎はその多くがスローガンと憂さ晴らしである。そして、スローガンを叫ぶだけの「民主八股」は中共の「革命八股」と思考方式と表現方式の点で実質的な違いがないのだ。
原文:http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/c6da683c70cad9ad9aa6853de161ec49
12月18日、著名な作家の劉暁波が「参与」のインタビューに答え、中国の(共産党運営に対置しての)独立民間社会(運動)の現在の発展について見解を述べた。
劉暁波は、現在民間の権利意識が目覚めつつあり、自立意識も強まっており、権力者の温情にすがらず、公然と自らの権利を主張するようになってきたと見る。彼は最近の汪兆鈞、鄭存柱、郭泉らが相次いで発表した胡錦涛・温家宝への公開質問状を例に挙げて、当局はこのような遠慮ない直言を許さないが、近年は毎年このような民間から政治体制改革を求める事件が起きている。また黒龍江省の富錦市の農民、陝西省三門峡ダムの移民、江蘇省宜興市の農民が自らの土地を守るために宣言を発表したことは、非常に感動的な事件だった。これは、毛沢東時代から続く不合理な土地制度をはじめて告発したものであり、中国の民間の権利意識の目覚めと自立意識の強まりを証明している。しかも、土地権利擁護の背後には基本的な言論の自由と政治的権利実現の努力がある。現在、民衆は自らの権益の大きさと個人の自由の大きさが直接関係していること、自由の制度的保障が得られてはじめてパンも確実に保障されるに気づきつつある。
中国共産党の弾圧により、中国大陸の民間組織は比較的ばらばらであり、固定した組織がなく、要求も統一に欠けている。草の根階層の権利擁護はおもに経済的利益をめぐってであり、経済的権利運動が政治権益のボトルネックに触れてはじめて政治的権益の獲得に向かう。これは政治的権限が極端に不平等なことがもたらす必然的現象である。中国では、当局の権限が大きすぎ、強すぎるので、民衆の権限は小さすぎ、弱すぎる。いわんや、現在の中国には共産党から独立した報道の自由も司法権の独立もない。世論の救済も司法救済も現行体制の下では整っていない。民衆が頼れる唯一の合法的ルートは陳情などの行政的救済である。しかし、官僚の庇いあいや厳しい請願妨害によりあまり大きな効果は発揮できない。
劉暁波は、90年代と比べて、当局の民間反対運動に対する弾圧の残虐性、強度と範囲がいずれもある程度低下しているという。主に六四天安門事件後18年間の民間の積極的な運動と、犠牲と、絶え間ない蓄積の結果である。また、六四が中共の道義的合法性をほとんど失わせしめたため、中共は経済の高度成長という業績で政権を支えている。その結果、権力者たちも成金になる近道を見つけ、大小さまざまな権力者グループが形成され、中共が革命党から利益党に変質した。そのため、その統治方式も実用主義と機会主義になってきている。利益党はなにごとも利益計算がもとなり、民間反対運動に対しても政治的コストと利益のバランスを計算するようになった。機会主義は臨機応変に対応し、政権の利益の最大化の原則により統治方式を絶え間なく調整する。このことも民間反対派に対する対応に現れている。たとえば、著名な人物に対しては、「制限しつつ捕まえない」策略をより多く採用し、捕まえてもあまり重い刑にはしない。たとえ重刑にしても、「人質外交」の切り札として使う。しかし、あまり名前の知られていない異論派や人権活動家は、捕まえて重刑に処する。もちろん、独裁政権の野蛮な本姓からして、たとえ機会主義であっても、特殊な時期には極端な手段に訴えることもある。
同時に、鎮圧の政治的コストを下げるために、近年中共は政治案件の司法的処理をできるだけ非政治的な方式で処理している。非政治的な理由が探せれば、当局は政治的な罪名は決して選ばない。たとえば、孫大午事件で使ったのは違法融資、南方都市報事件は経済犯罪、陳光誠事件は器物損壊と交通秩序撹乱、郭飛雄事件は違法出版、孑木事件は銃器不法所持と社会秩序撹乱……などなど。
国際社会の外交圧力に対する対応の面では、中国経済の世界経済への融合と実力の強化にもない、中共政権はますます臨機応変になっている。西側諸国も徐々にその中国戦略を「ステークホルダー」であるという現実の上に組み立てるようになってきており、国際問題の処理の上で中国に一定の期待を寄せている。一方で、中共は独裁権力の維持を主要利益としており、国内では金銭で安定を買い、国際的には金銭で外交的成果を買っている。経済貿易カードはすでに政治的利益のための最大の切り札になっており、大規模買い付けを利用して西側大国の支持と柔らかい論調を得ている。最近では、中共のドイツの首相メルケルに対する報復と、フランス大統領サルコジへの激励が、独裁政治の経済貿易カードの実例である。また一方で、中共政権は小平の韜晦を捨て去り、大国外交に向かっている。中共は国際的地位を早く高めようとして、責任ある大国の役割を演じようとしている。だから、中共政権は頻繁の国際社会で開明的なふりを演じて、ますます多くの国際政治ゲームに介入している。西側大国が中国はより多くの国際的責任を負うべきだと呼びかけると、中共高官はそれにつなげて「中国は責任ある大国である」と叫んでいる。中共の頭目たちは得意になっている。なぜなら、西側の要人の呼びかけは彼らの虚栄心を満足させ、国際的な重大問題の解決には彼らが欠かせないと思わせるからだ。
中国の民間の反対運動は、中共現政権のこれらの変化を直視しなければならない。また西側大国の中共に対する態度の変化を直視しなければならない。これらの変化は、一方で民間に一定の活動空間を提供し、民間の力を広げる隙間をつくる。また一方では中共政権が短期間に崩壊するという予測が裏切られ続け、過激な気炎を青ざめさせる。このような国内外の環境と背景は、中国の政治転換を長期にわたる曲折したプロセスにさせる。だから、感情に流されてはならないし、まして「一晩で世界が変わる」ことを期待してはならない。
劉暁波は、民間反対派あるいは人権活動家は道義と勇気だけでなく、責任と倫理がより必要だと考える。道義と勇気は独裁化の危険の多い事業に加わる前提である。責任と倫理は民間事業を成し遂げるために必須である。現在の民間の反対運動にとって、責任と倫理は道義と勇気より重要である。なぜなら、中国の反対運動の中では、道義の気炎が多すぎ、責任を持って事を成し遂げることが少なすぎる。道義の気炎はその多くがスローガンと憂さ晴らしである。そして、スローガンを叫ぶだけの「民主八股」は中共の「革命八股」と思考方式と表現方式の点で実質的な違いがないのだ。