思いつくまま

みどりごを殺す「正義」はありや?
パレスチナ占領に反対します--住民を犠牲にして強盗の安全を守る道理がどこにあろう

横澤泰夫:中国-発禁と抵抗

2007-12-08 12:33:57 | Weblog
今年1月の章詒和の『伶人往事』など8冊の本の共産党による発禁処分後の経緯を詳しく解説している。

出典:http://www.21ccs.jp/china_watching/ChinaPublish_YOKOSAWA/China_Publish_03.html

抜書き:
この点に関しては邢小群の次の発言29は注目してよいだろう。「私が中国現代文学を学んでいたころ、常に文化に対する包囲討伐という言葉が使われていた。教科書では魯迅を30年代に国民党の文化に対する包囲討伐を打ち破った英雄と言っていた。当時の政権が信奉していたのは文化専制主義と言われるものだったが、それでも魯迅の文章は相変わらず発表できたし、魯迅の著作もやはり出版できた。文化に対する包囲討伐はあったが、中国文学の発展を根本的に窒息させることはなかった。その包囲討伐の程度は現在と比べれば全く比べものにならない(ほど小さい)と言える。・・・我々がここ数年遭遇した情況を見ると、中国の最も優れた文学作品、最も生き生きとした報道はみな当局が真っ先に破壊しようとする対象になっている。中国文学と文化の前途、運命を考えればどうして悲しまないでおられようか。・・・この何年間か、我々は、憲法が公民に賦与した言論、出版、集会、結社などの自由が剥奪され、侵されるという現実に慣れっこになってしまった。役人たちは作品を封殺しても、手続きすら踏む必要がなく、理由も話す必要がないといったありさまである。作家、学者、編集者は批判されても弁明の機会すらない。この意味から言えば、文化人の尊厳は刑事犯にも及ばない。・・・このような情況に対して、もし中国の知識人たちが無関心であり続けるなら、我々は世界に対して合わせる顔がないし、歴史に対して合わせる顔がない。後世の人は中国の知識分子の背中を指して“見よ、これがすなわち奴隷というものだ”と言うに決まっている。」

山田正行:大阪教育大学紀要論文の廖亦武関連部分

2007-12-08 10:23:37 | Weblog
出典:http://ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp:8080/dspace/bitstream/123456789/612/1/4_56(1)_12.pdf

廖亦武(筆名老威)は体制の問題に鋭く迫り『中国低層訪談録』(長江文芸出版社,武漢,2001年)を出版したが,その直後に発売禁止とされた。ただし,その後海賊版が氾濫し,02年には増補版が台北の麦田出版社から刊行された。05年には続編の『中国冤案録』の地下出版が進められたが,公刊直前の3月に没収された(わずかに見本だけが逃れる)。その内容は,03年に仏訳が出版され,現在では英訳も進められ(日本では一部が『藍・BLUE』第15・16号,04年10月,第17号,05年1月に訳載),1995年と2003年に米国のヘルマン/ハメット賞を二度も受賞し,The Paris Review誌で05年夏と06年12月に取りあげられるなど,内外で高い評価を得ている(同じ人物がThe Paris Reviewで二度も取りあげられたのはヘミングウェイ以来)。このように優れた知識人が抑圧されるのは,2000年にノーベル文学賞を受賞した亡命作家の高行健がタブーとされているのと同様である。さらに,05年末に『新京報』誌の幹部が更迭され,06年1月に中国共産主義共青団機関紙『中国青年報』の付属週刊紙『氷点』の停刊と関係者の更迭がなされ,07年1月11日に章詒和たち8名の著書が発売禁止とされたように,言論統制は常態となっている(詳しくは横澤泰夫「中国:発禁と抵抗」『熊本学園大学文学・言語学論集』第14巻第1号,2007年6月を参照)。以上は活字の領域だが,言論統制は電子情報にまで及び,しかも強化されている。06年1月24日,グーグル(本社カリフォルニア州)は,中国大陸に拠点を置くため当局の検閲に協力することを受け入れ,「台湾独立」や「天安門事件」は検索しても結果が示されないようになった(1月25日,読売新聞)。実際に06年9月までの間,筆者は「台湾独立」や「天安門事件」だけでなく,「高行健」,「鄭義」,「黄翔」など亡命者の名前を含むメールを中国大陸に送信しても,届かないことを確認した(表題ではなく本文に書いただけ)。また,電話で大陸の知識人と話すと,日常会話でもこれらの人名を数字に置き換えており,その電話でも本名を使わないようにと言われた。さらに,公安当局は06年9月6日から8日にかけて,320以上の「違法サイトとネットコラムを閉鎖し,1万5千の有害情報を削除した」(9月15日,新華社,読売新聞)。「閉鎖されたサイトには,賭博や銃器,爆発物,盗品売買などの内容が含まれている」と説明されているが,これを利用して民主化運動なども取り締まられている。さらに,同月10日から全ての海外のジャーナリストは新華社を通して活動しなければならなく,新華社は報道の審査や削除の権利を持つなど,統制は海外にまで及んだ(9月21日,中文導報)。そして,07年1月23日,胡錦濤共産党総書記(国家主席)は党政治局の会議で「インターネットの管理を一層強化する」ように指示した(1月25日,読売新聞)。さらに共産党大会を前に,ラジオ局まで取り締まられ,南京では17局のうち12局が放送停止処分になり,全国では100局以上が処分される見通しである(8月21日,読売新聞)。06年は文革発動40周年,終息30周年だが,そして07年は反右派闘争50周年だが,いずれもメディアは取りあげることができない。このように言論統制が強化される中で,日本で出版された日中複数言語の『藍・BLUE』誌にさえ圧力が加えられ,一時休刊せざるを得なくなった35)。まず,中国側の編集者に対して警告という形で繰り返し停刊を勧められた。そして,これについて話しあうために日本側の編集者が北京に行った時,日本側編集者まで警告された。06年9月2日夜,清華大学甲所ゲストハウスで話しあっていた時,国家社会科学院外国文学研究所研究員(教授)で『世界文学』誌副編集長の許金竜(or許金龍)が,電話で「私は党を代表していない。……一人の友人として話したい。彼女(中国側編集者で,安全のため名を伏せている)が今トラブルにあることは知っているだろう。彼女は,今『藍・BLUE』を続けるか,社会科学院に残るかの瀬戸際に立たされている。実は,彼女は最後の決断を迫られている。彼女の様子を見てるととても大変だ。身体も悪くなる。身体が悪くなれば何もできない。『藍・BLUE』を止めなさい。……会いたいけれど,大江健三郎さんの接待で都合がつかない」と告げた(電話が切られた直後にメモ。その主旨は中国側編集者に繰り返された警告と同じ。これは一部で全文は『社会教育研究』第12号,大阪教育大学社会教育研究室,2007年3月に掲載)。許金竜(or許金龍)は大江健三郎,加藤周一,小森陽一など日本で自由や民主を守るべく発言する知識人を招いてシンポジウムを開催するなど,日本との文化交流の担当者である。この時も大江を接待し,9月12日に大江が南京大虐殺記念館を訪問する時も随行していた。そして,2006年10月11日付『中華読書報』の5面全体は許金竜の「秋天里留在北京的故事:大江健三郎第五次訪華側記」であり,そこでは「他動情地対我表示,“我是一個没有信仰的人,不信任何宗教。但我心里有一尊神,那就是毛沢東主席,他是我永遠的神(彼=大江は感情を込めて私に“私は信仰のない人間で,いかなる宗教も信じていません。それでも,私の心には尊ぶ神がいて,それはまさに毛沢東主席です。彼は私の永遠の神です)」と書かれている。しかし,大江が毛沢東を「永遠の神」としていることは考えられない。中国大陸で言論統制を批判し,抵抗している知識人は,毛沢東の偶像化とそれによるイデオロギー統制を重大な問題と見ており,これを大江は承知しているはずである。ところが,このような文章を許金竜(or許金龍)は発表している。これは矛盾だが,前記の電話での発言とこれを組み合わせれば,中国社会科学院教授で『世界文学』副編集長という「文化資本」である彼が体制から与えられた役割が析出でき,そこに彼の「政治的存在論」が鮮明に現象していることが分かる。

註:許金竜(or許金龍)「秋天里留在北京的故事」原文は以下参照:
http://www.gmw.cn/01ds/2006-10/11/content_490874.htm